プロローグ 『百年後の未来から』
一九八六年四月十六日、イギリスが誇る偉大な作家エリザベス・メイ・カーレッド女史が老衰により自宅で亡くなった。九十七歳であった。
彼女はイギリス貴族院議員の娘であり、二十代の間は国交に係る通訳として各国を巡った。三十一歳で怪我を理由に一線を退くと、以後は自身の経験をもとにした文筆業で名を残した。
カーレッドは近年まで邦訳が出ておらず、日本での知名度はなかったが、彼女本人は比較的に日本への親しみがあったようである。
彼女は第二次世界大戦後から晩年にかけて、『チヨコ・スギヤマ』という日本人女性に宛てた数通の手紙を書いている。心配、謝罪、感謝などが主であり、かねてより親交があったことが伺われる内容だ。
しかしながら、それらの手紙は宛先不明のためすべて返送されており、『チヨコ・スギヤマ』とは誰なのか、彼女らがどういった関係にあったのか今となっては分からない。
カーレッドが遺した執筆テーブルには、彼女が最後の公務で撮ったと思われる、褪せた集合写真が今も額縁に入れて飾られているという。
(『E・M・カーレッド短篇集』三浦智編、二〇二〇年、空想社、編者あとがきより抜粋)
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『未知なる島を発見す』
事の発端は一九一九年の秋──前年に終結した大戦の余韻も醒めやらぬ頃──アメリカ大統領ウッドロウ・ウィルソンの元に届けられた一通の書簡にあった。
差出人はハワイ準州知事チャールズ・マッカーシー。書簡自体は然程変わったものでもなく、極めて丁寧な報告書であったが、目立つことには『至急のご判断を頂きたく』と冒頭に書き加えられていた。
経緯はこうである。
ひと月ほど前、ハワイ最西端に位置するニイハウ島(当時はすでにロビンソン家の所有だったが)の漁師だった若者が、大魚を深追いして小船に乗ったまま行方不明になってしまった。
そして数日前、奇跡的に彼は海流に乗って近隣の島まで帰ってくることが出来たが、病院で治療を受けている間に奇妙な証言をしたという。
曰く、大海を彷徨い、いよいよ死を覚悟したとき、大きな蛸を見た。
後を追って北に行くと大きな島があった。
その島で果物を食って生き延び、船を修理した。
あれはカナロア(ハワイに伝わる海と冥界の神)に違いない。
自分は偉大なカナロアに守られ、帰ってくることができたのだ、と。
とはいえ、ジェームズ・クック船長の第三回航海以降、ハワイから真っ直ぐに北上したところでまともな島がないことはよく知られていた。
初めこそ、それは彼が海の魔物に惑わされた────酷い脱水症状に陥っていたがための幻覚、もしくは蜃気楼であると周囲は考えていた。
しかし若者は、島は本当にあったのだと言い張って引かず、信じられないなら小船の中を見ればいい、と叫んで鎮静剤を打たれた。
そこで彼の言う通りに船を検めたところ、そこには確かに、ハワイ近辺の植生にないはずの果実がたっぷりと積み込まれていたのである。
彼が島に降り立ったのは事実だった。瑞々しい果実で喉を潤し、晴れた空に星を見て、再び故郷へ向けて船を漕ぎ出したのだ。
アメリカが把握していない、資源豊富な島が存在する可能性がある。
ロビンソン家とハワイ準州知事はこれについて深く話し合い、本国へ判断を仰ぐことを決めた。
その後、アメリカ政府は調査のため、内密にハワイ準州へ三隻の軍艦を先遣隊として派遣した。
若者が星辰をよく覚えていたので、距離はともかく方角ははっきりとしていた。ひたすら真北に進めばよかった。
間もなくして、アメリカは島の発見報告と引き換えに、二隻の艦を原因不明に失った。
幸運にも帰還が叶った一隻の報告によると、沈んだ二隻は先行して島に向かっていたが「悪魔がいる」という通信を最後にほぼ同時に海へ引き摺り込まれたそうである。
同年の冬、アメリカ政府はこの恐ろしき島の存在を世界に公表することにした。
そして、奇妙な島の正体を暴くため、また国際連携の先駆けとして、人種国籍を問わない調査団の編成を呼びかけた。
まず、これに応えたのは、国際連盟の運営が始まったばかりの戦勝国たちであった。
イギリス、フランス政府が参加を即時表明し、遅れて日本政府も好意的な反応を見せた。
これは「我々こそが世界の盟主である」という義務感であったり、戦争に注ぎ込んだ費用を回収したいという目論見であったり、既に不足を感じ始めていた天然資源への渇望であったりした。
程なくして、世界の潮流を感じ取ったイタリア、スペイン、ポルトガルが協力を決定。
異常な賠償金に苦しむドイツ、内戦が続くロシアからも個人的な参加希望者が現れ始める。
かくして、国際調査計画『新たなるアルゴノーツ』が始動した。
調査団の隊長には、壊滅した先遣隊から引き継ぐ形でアメリカ海軍大佐アレキサンダー・J・アダムスを任命。
隊長補佐として多言語話者であるイングランド人のエリザベス・М・カーレッドを置いた。
調査団の選定が順調に進む一方、船と設備に関しては、イギリスが買い取った廃棄寸前の小さな古い輸送帆船が限界だった。
先遣隊の失敗により各国海軍は軍艦の使用に消極的であったこと、また民間の貨物船や旅客船も大戦の影響で数を減らしており、ほとんどの大企業が売却を拒否したことが原因である。
イギリスは輸送船を改装して『サンダル号』と命名。ポーツマス港からハワイまでの移送と、調査団を乗せた航海を指揮する船長を募集した。
しかし、型落ちの木造船による未知に溢れた航海は、著名な船長たちには敬遠された。
唯一、ウェールズ出身の若き女性船長ベリル・V・ウィリアムズが手を挙げたきりである。彼女はまだ二十八歳だったが、すでに人生の半分以上を有能な船乗りとして過ごしていた。
サンダル号の命運は彼女の腕に賭けられた。
以降は主導する英米仏日の四カ国が船員の募集と選定を行い、ハワイに置かれた調査本部には世界各国からあらゆる方面の専門家が集まることになる。
すべての手配が済んだのは一九二〇年四月のことであった。
ここに、総勢五十人の船員たちが集結したのである。