光に包まれて
【第一章 光と闇】
「ねぇ、ノア。この子が生まれたら、わたしたちの生活はどんな風に変わるのかしら」
わたしは丸太を転がしただけの腰掛けに座り、蔓で編んだバスケットから木のコップとパンを取り出して彼を迎え入れた。そして、大きくなったお腹を、まるで今にもパリンと軽い音を立てて割れてしまいそうに感じながら、何度もやさしくなで、彼を見てそう尋ねた。
「そうだなぁ。きっとたいへんなことになるぞ」
ひと仕事終えて目の前の畑から戻ってきた彼は、手や顔に付いた土を軽く払い、わたしの隣に座りながらそう言った。
「たいへんなことって?」
わたしはその言葉が不安になって聞き返した。
「そうだなぁ、たとえば……」
彼はコップに注いだ水をひとくち飲み、ふうと息を吐いてから言った。
「たとえば、毎日飛ぶように遊んでケガをして帰ってくるとか、病気になって俺達は一睡もできない日が続くとか」
「それはとても心配になるわね」
「それから、夜になっても家に帰ってこなくて、心配になって探し回ったら実は部屋の隅で子猫のように寝ていたとか」
「それは困るわね」
わたしはちょっと苦笑いをして応えた。
「お、このパンはいつ食ってもうまいなぁ!」
太陽は高く昇っているが、わたしたちの頭上に覆いかぶさるように生い茂った大木の葉が影を作り、心地よい風が通り抜けていった。
「あとは、そうだなあ……。ある日突然ボーイフレンドを家に連れてきて、こう言うんだ。『パパ、ママ、わたしこの人と結婚します』って」
彼は女の声を真似ておどけてみせた。
「あはは。結婚なんてまだまだ早すぎるわよ、それに女の子って決まったわけじゃないわ。男の子かもよ?」
「いや、たぶん女の子だね。リタに似て美人になるぞ」
「そうね、こんなに美人になったら、男の子がたくさん寄ってきて、パパは気が気でないでしょうね」
わたしは精一杯の冗談を言ってみた。
「……ん、それは困るな。じゃあ、適度な美人で」
「適度な美人ってなによ、もう」
ノアは以前は口数が多い方ではなかったが、子供ができたとわかってからはよく喋るようになった。
「わたし、ちゃんとした母親になれるかしら」
「もちろんさ! 俺の方こそ、本当のことを言うと何か身体を動かしていないと不安でたまらなくなる時があるんだ。もうすぐ父親になるなんて信じられない気分さ」
「あなただって大丈夫よ。きっと立派な父親になるわ」
「だといいけどな」
そう言ってふたりはちょっと困ったようなお互いの表情を見て笑い合った。
「あ、また動いたわ。最近よく動くのよね」
「どれどれ……? あ、動いた。リタ、動いたぞ! おーい、もうすぐパパとママに会えるからなー」
ノアはわたしのお腹を両手で包み込み、これまで聞いたこともないような優しい声で語りかけた。
*
それからほどなくして彼女は産まれた。しわくちゃの手足にしわくちゃの顔。長く待ち望んでいたふたりの新たな生命。
その日は朝からわたしたちの家に太陽のまぶしい光が燦々《さんさん》と降り注ぎ、まるで彼女は祝福されているようだった。
わたしたちは彼女を、光を意味するエレナと名付けた。
エレナは名前の通りいつもまわりを明るく照らしてくれた。それはわたしたちだけではなく、やせた土地で細々とその日暮らしをしている村の人達の、ともすると暗くなりがちな気持ちも明るくした。
彼女の存在は貧しい暮らしを続けるわたしたちにとって、この世で生きる意味、そのすべてだった。
彼女はわたしたちの心配をよそに、すくすくと育ったが、たまには病気や怪我もした。
エレナがひどい熱を出したある日、ノアが森の奥深くまで薬草を取りに行ってくれた。彼は夜になっても帰ってこなかったので、わたしはひどく心配したけれど、連日の看病で疲れ切っていていつの間にか眠ってしまったようだった。
薄明かりに目を覚ますと、わたしは自分のベッドに横になっていて、穏やかに眠るエレナの横には、椅子に座ったまま彼女のベッドに寄り掛かるように眠るノアの姿があった。わたしは彼に毛布をかけてあげた。暖炉の明かりに照らされたふたりの安らかな寝顔を見ていると、わたしはあらためて心の底から幸せを実感したのだった。
ふたりを起こさないように部屋を出て、静かに玄関の扉を開けると、太陽の光がすーっと家の中まで入ってきた。
外に出ると小鳥のさえずりがそこかしこから聞こえてきた。草花の朝露は透明な朝日に照らされてキラキラと光り、こんなに美しい景色があるのかと、わたしはしばらくのあいだ目を奪われた。
気が付くと隣にノアが立っていた。
「きれいな景色だな」
「ええ」
「エレナには夜中に薬を飲ませたから、もう大丈夫だと思う」
「ありがとう。あなたも無事に帰ってきてよかったわ」
わたしは振り返り彼を見ると、右の額に大きな傷があった。
「ノア、その傷大丈夫? ひどい傷じゃない」
「これくらい、たいしたことないさ」
「あとでちゃんと手当てしないとね」
「ああ、ありがとう。それと、心配させて悪かったな」
「ううん、無事に帰ってきてくれればそれでいいの」
その時、家の中からエレナの声が聞こえてきた。
「さて、と。お嬢さまのご飯の時間かな?」
「そうね。薬のおかげで元気になったみたいね」
朝日に照らされたふたりの頬は、赤く染まっていた。