元悪役令嬢、今日もなんとか生きてます
──なぜ、こんなことに。
揺れる馬車の中で、アクヤ・カルディスは窓の外を見つめていた。
広がる草原はまぶしいほどに鮮やかで、あまりにも穏やかだった。
けれど、その風景を「美しい」と思う心の余裕は、まだなかった。
身にまとっているのは、平民の衣服。
以前の自分なら決して手に取らなかった、質素で地味な布地だ。
その袖口を、気づけばぎゅっと握っていた。
かつて誇りにしていた巻き髪も、今は乱れてほどけたまま。
膝の上の小さな鞄には、わずかな所持金しか入っていない。
(せめて、誇りだけは失わないように)
それが、いまの自分に残された、たったひとつの意地だった。
♢♢♢
「お嬢様、到着しました」
御者の声に、アクヤはそっとうなずいた。
馬車の扉が開き、彼女はゆっくりと地面に足を下ろす。
目の前に広がっていたのは、舗装もされていない土の道と、遠くから漂う海の気配。
人の背丈ほどの草が風に揺れる、素朴で静かな風景だった。
「私の役目は、ここまでです」
御者は懐から一通の手紙を取り出し、差し出してくる。
「旦那様からのお手紙です」
その言葉だけで、胸が締めつけられる。
けれど、手は自然とその手紙に伸びていた。
「……ありがとう」
それだけ言って、アクヤは手紙を受け取る。
ほんの一言を発するだけでも、喉がつまるほど苦しかった。
御者は無言で一礼し、表情を変えぬまま馬車を走らせる。
蹄の音が遠ざかるにつれて、周囲の静けさがじわりと広がっていく。
潮風の匂い。鳥のさえずり。
──そして、ひとりきりの孤独。
「……」
「……」
「……一体、何なのよーーっ!」
叫び声は風に紛れて、誰の耳にも届かなかった。
アクヤは拳を握り締め、唇を強く噛みしめる。
「まあ、いいわ……追放されたくらいで済んだのなら、まだ優しい方よね」
どこか空っぽな笑いが、ひとりでにこぼれる。
けれど、心の奥底では、消えない疑問が渦を巻いていた。
(どうして私は……あんなことを?)
確かに、男爵令嬢リリィをいびった記憶はある。
傲慢にふるまい、王太子エリオットへの執着も見せた。
──でも、あれは本当に「自分」だったのだろうか。
霞がかったような記憶。
まるで誰かに操られていたかのような、違和感ばかりが残っている。
(わからない……でも、変えられない)
今さら真実がどうであれ、罪を問われ、追放された事実は消えない。
だったら、前を向くしかない。
アクヤは小さく息を吐き、胸の前で両手をぎゅっと握りしめた。
(私は、生きる。ここから、また──)
♢♢♢
港町リヴェール。
そこが、彼女の追放先として指定された町だった。
地図でしか知らなかったその場所は、想像していたよりもずっと活気に満ちていた。
小さな石畳の道に、家々が整然と並んでいる。
潮の香りが漂い、漁師と思しき男たちの声が飛び交う。
市場では果物の香りと焼きたてのパンの香ばしさが入り混じっていた。
(王都より……ずっと、息ができる気がする)
そう思ってしまった自分に、ふと驚く。
公爵家の令嬢として過ごしていたあの頃は、常に周囲の視線と期待に囲まれていた。
それが「窮屈」だったなんて、今になって初めて気づく。
(……でも、この町でも、私は余所者)
そう思うと、自然と足取りが控えめになった。
そんな彼女の目の前に、ひときわ雰囲気のいい宿屋が現れる。
『錆猫のしっぽ亭』
木彫りの看板には、ふさふさした猫の尾が描かれている。
建物は古めながらも丁寧に手入れされ、窓辺には色とりどりの花が咲いていた。
──ここなら、泊まってもいいかもしれない。
決して安くはないが、どうしても譲れない条件があった。
(……お風呂)
長旅の疲れと心の澱を洗い流すには、きちんとした浴場が必要だった。
覚悟を決めて扉を開ける。
「いらっしゃい!」
明るく、よく通る声が店内に響き渡った。
現れたのは、ころんと丸い体型の女将さん。
目尻に笑い皺を浮かべ、優しくこちらを見ている。
「一人? 旅の方かい?」
「……はい、泊まれますか?」
「もちろん! 今日はお風呂もちゃんと沸いてるよ。タイミングばっちりだねぇ」
その一言に、アクヤは小さく息をついた。
♢♢♢
案内された部屋は、二階の端にある小さな部屋だった。
木の床に、丁寧に整えられたベッドと清潔なシーツ。
窓からは港町の屋根と、その向こうにきらめく海が見えた。
「食事は一階の食堂で出すからね。わからないことがあったら、なんでも聞いておくれ」
女将さんはにこやかに説明を終えると、軽やかな足取りで部屋を後にした。
アクヤは鞄をそっとベッドの端に置き、しばらく天井を見つめていた。
(……本当に、来てしまったんだ)
王都から遠く離れた、誰も自分を知らない場所。
名前も過去も隠して、ただ「アクヤ」として生きる。
不安がなかったわけではない。
それでもどこか、肩の力がすっと抜けていくのを感じていた。
(今度こそ……やり直せるかもしれない)
そんな思いが浮かんだ、そのとき──
窓辺に、一匹の猫がふらりと現れた。
錆色の毛並みと、ふさふさとした大きな尻尾。
気ままな様子でこちらを見つめたあと、くるりと背を向けて去っていく。
「……看板猫、かな」
ぽつりとつぶやき、アクヤは微笑んだ。
ようやく心の底から、ほんの少しだけ「ほっとした」と思えた瞬間だった。
♢♢♢
「……やっぱり、そう簡単にはいかないのね」
商業ギルドの前で、アクヤは肩を落としてうなだれた。
繊細な刺繍の技術には、それなりに自信があった。
けれど──
「実績のある職人でなければ、紹介は難しいですね」
そう言われて、あっさり門前払いされた。
確かに、王都では貴族のたしなみとして学んだだけで、実務経験はない。
信用も実績も、名前の価値も──この町では何ひとつ通じなかった。
「次は……冒険者ギルド、か」
針仕事が無理なら、別の道を探すしかない。
だが、掲示板に並んでいた求人票は──
「荷運び手、ドブさらい、海岸清掃係……」
どれも体力勝負の仕事ばかり。
どう考えても、自分に務まるとは思えなかった。
「……はあ……」
ひとつため息をつく。
潮風が頬をなでていった。
港町リヴェール。空は青く、美しい。
けれど、その青さが、いまはほんの少し怖かった。
(早くなんとかしないと……泊まれるのは、あと数日)
どれだけ節約しても、いまの宿泊費では長くはもたない。
次に泊まる宿は、風呂どころか鍵すら怪しい安宿になるかもしれない。
(でも……あきらめるわけにはいかない)
──そのときだった。
「アクヤちゃん、どうしたんだい?」
声をかけてきたのは、『錆猫のしっぽ亭』の女将だった。
「……ちょっと、仕事を探しに行ってたんです」
「ふーん、真面目だねぇ。で、成果は?」
「全然だめでした……。できそうな仕事も、見つからなくて……」
ぽつりと打ち明けると、女将はうーんと顎に手を当てて考え込む。
「じゃあ、うちで働かないかい?」
「……え?」
あまりにもあっさりしたその提案に、アクヤはぽかんと口を開けた。
「住み込みで三食つき。お給金も、少しだけど出すよ」
「で、でも……いいんですか? 私、あんまり経験とか……」
「若いんだからさ、失敗したっていいの。覚えりゃ済む話さ。部屋はちょっと狭いけどね、屋根裏が空いてるよ」
まるで子供にお菓子でも勧めるような軽い口調だった。
けれど、その言葉は、今のアクヤには何よりの救いだった。
(ここでなら……私でも、やれるかもしれない)
胸の奥がじんわりと温かくなる。
「……お願いします!」
アクヤは深く頭を下げた。
♢♢♢
屋根裏部屋は、本当にこぢんまりとした空間だった。
天井が低く、背を伸ばせばすぐにぶつかってしまうほど。
けれど、小窓からは海がちらりと見え、小さなベッドと机がきちんと置かれていた。
「……十分すぎるわ」
アクヤは鞄をそっと机に置き、静かに息を吐いた。
まるで──生まれて初めて、「自分の居場所」と呼べる場所を見つけたような気がした。
♢♢♢
働き始めて、数日が過ぎた。
朝の厨房は、まるで戦場のような忙しさだ。
皿洗いに配膳、掃除に買い出し──やることは山ほどある。
「アクヤちゃん、テーブル三番にパン追加ね!」
「はいっ!」
女将さんの声に反応して駆け出すも、まだ盆の持ち方はぎこちない。
「嬢ちゃん、顔がこわばってるぞー!」
常連客のひとことに、思わず笑いがこぼれた。
(大丈夫。昨日より、少しはマシなはず)
そんなふうに思いながら、毎日を乗り切っていく。
体はくたくた。でも、心はほんの少しずつ軽くなっていた。
それが、アクヤにとっての「生きる」ということだった。
♢♢♢
ある夕暮れのこと。
雑巾を繕っていたアクヤのもとに、ひょっこり顔を出したのはミレーヌだった。
「おねえちゃん、なにそれ?」
「破れた雑巾を直してるのよ」
「ミレーヌもお手伝いするー!」
小さな手に安全針を持たせて、一緒にちくちくと縫っていく。
ふとアクヤは思い立ち、新しい布切れに刺繍を始めた。
くるんとしたしっぽ、まあるい背中──看板猫の姿。
「……よし、完成」
それをミレーヌに渡すと、彼女は目をきらきらさせて喜んだ。
「すっごくかわいいー! これ、しっぽでしょ!」
「そうよ。似てるかしら?」
「うんっ! ミレーヌ、おねえちゃんだいすき!」
いきなり抱きつかれて、アクヤは思わず笑ってしまった。
誰かに必要とされること。
誰かの役に立てること。
ただ、それだけが──今のアクヤにとって、何よりの救いだった。
♢♢♢
──しっぽが窓辺に姿を見せたのは、その夜のことだった。
ふさふさの毛を揺らしながら、気ままに屋根裏部屋へ入ってきたその猫は、布団の上にちょこんと座り、くるんと丸くなる。
「来てくれたの?」
アクヤがそっと声をかけると、しっぽは一度だけ「にゃあ」と鳴いた。
その柔らかな温もりに、アクヤは目を細める。
(私は、ここでちゃんと……生きている)
かつての誇りや虚栄がなくても、誰にも褒められなくても──
今日という一日をやりきったと思えることが、今の自分には何よりも嬉しかった。
♢♢♢
日々は静かに、しかし確かに流れていった。
朝は早く、昼は慌ただしく、夜は静かで穏やか。
港町リヴェールの風は、いつも潮の香りを運び、空はどこまでも広く青い。
『錆猫のしっぽ亭』での暮らしにも、すっかり慣れてきた。
アクヤは失敗しながらも仕事を覚え、常連客にも自然な笑顔を返せるようになった。
「嬢ちゃん、今日のシチュー、具が多くてうまいな」
「それ、わたしが切りました!」
そんな何気ないやりとりが、少しずつ心をあたためていく。
(あの頃は……誰かと、こんなふうに話すことすら、なかったのに)
公爵令嬢として過ごしていた日々。
誰かに頭を下げることも、心を通わせることも必要なかった。
でも、今は違う。
名前を呼ばれ、笑いかけられ、小さな「ありがとう」をもらう。
それが、いまのアクヤにとって何よりのご褒美だった。
♢♢♢
刺繍も、少しずつ評価され始めていた。
女将さんに頼まれて、食堂用のランチョンマットに小さな魚やパンの図柄を刺す。
それを見た常連のひとりが、「うちの娘にも作ってくれないか」と声をかけてきた。
「もちろんです。少し時間はかかりますけど」
「いいのいいの。のんびり待つよ」
「へえ、アクヤちゃん、器用だったんだねえ」
「この町の子には敵わないけどね」
そんな軽口も、今ではもう気にならなかった。
(私にも、できることがある)
そう思えるようになったことが、なにより大きな変化だった。
♢♢♢
ある日の夕方。
港の市場をひとり歩いていたアクヤは、小さな騒ぎに足を止めた。
「こら、しっぽ! また魚くわえて逃げたな!」
「待てーっ!」
漁師たちが追いかけている先には、見慣れた錆猫の姿があった。
尻尾をぴんと立てて、魚をくわえたまま全速力で駆け抜けていく。
「ま、またやってる……」
笑いをこらえきれず、アクヤは思わず声を漏らした。
やがて、しっぽは角を曲がり、いつもの屋根の上にするりと飛び乗る。
追っていた漁師のひとりが苦笑しながら手を振った。
「ったく、あの猫、何年たっても変わらん!」
「でも憎めないのよねー」
「アイツがいると、町が平和な気がするんだよな」
(しっぽは、この町の象徴みたいな存在なんだ)
そう、静かに思った。
そして、自分も──
ほんの少しだけ、この町の風景の中に溶け込めているような気がした。
♢♢♢
夜。
アクヤはいつものように屋根裏部屋へ戻り、小さな日記帳を開いた。
ページの端には、かつて刺繍で描いたしっぽの絵が挟まれている。
今日あったこと、感じたこと、明日やりたいこと。
どれも、小さくてささやかなことばかり。けれど、そのひとつひとつが、自分にとっては大切な一部だった。
──ふと、筆が止まる。
そして、思いつくままに、一行だけ書き足す。
「元悪役令嬢、今日もなんとか生きてます」
書いたあと、思わず小さく笑ってしまった。
それは強がりでも嘘でもない。
いまの自分が確かに感じている、まぎれもない実感だった。
♢♢♢
窓を開けると、夜の港町にそよ風が吹き込んだ。
潮の香りとともに、夜空には星が静かに瞬いている。
その窓辺に、ふわりと現れたのは──錆猫のしっぽ。
「しっぽ、また来たの?」
猫は鳴きもせず、静かにベッドへ上がり、アクヤの膝の横にくるんと丸くなった。
そのぬくもりに、アクヤはそっと手を伸ばす。
大きなことはできない。
もう、昔のような地位も名誉もない。
それでも──ここには、自分の手で築いた居場所がある。
やさしさと、ぬくもりと、小さな幸せが、たしかにここにある。
(明日も、きっと──なんとかなる)
小さく息を吐いて、アクヤはそっと目を閉じた。
静かで、穏やかな夜。
猫の寝息と波の音だけが、やさしく部屋を包んでいた。
──了
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