文化破壊
東京国立博物館の館長が、予算が足りなくて、国宝を守るのが難しいと訴えているというニュースを見ました。光熱費2.5億円分足りないらしいです。
国の予算規模からすれば2.5億は少ない額のはずですが、それすらケチるんだなと妙に感心しました。その割には、どうでもいい事に使っている気もしますが…。
まあ、この国の劣化ぶりには心底うんざりしているし、言っても虚しくなるので、あまり言いません。ただ、国や政治だけでなく、大衆の方もひどいと私は繰り返し書いています。
私のまわりを見渡しても、人々は自分達の私事に閉じこもっています。大きな事に関しては目を瞑り、小さな世界に自分を投入する事で、自足しようという感じです。推しがどうとか、限定品がどうとか、そんな風です。
政治家の方は党派性で腐っていて、選挙で勝つためなら何でもするという風になっています。自民党が統一教会との癒着を批判されていましたが、「選挙で勝つ為ならどんなグループとも付き合う」という、ある意味で合理的な考え方とも言えます。合理的とか功利的とかいうものを突き詰めると、道徳は崩壊します。道徳というのは合理的でも、効率的でもないからです。
なので、この国、この社会は道徳の崩壊した馬鹿の集団じゃないかと本気でうんざりしています。まあ、こんな事を言っても、私も別に道徳的に大した人物でもないので人の事は言えませんが…。
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麻生太郎が漫画・アニメ・特撮などの資料を保存する国立施設を作ろうとしているという、ニュースを見ました。麻生太郎の好きな漫画は「ゴルゴ13」らしいです。
「ゴルゴ13」が愛読書という時点で、麻生太郎のレベルが察されますが、今の世の中的にはそういう事を言ってはまずいのでしょう。私のように「サブカルは駄目、読むなら古典を」と言う人間は古臭い人間で、今は「そういう時代」じゃないし、「間違っている」のでしょう。
何故間違っているかと言うと、「全部フラット」で「それぞれの好き嫌いでいい」というのが基本だからです。そうなると読むのも見るのも簡単で、面白おかしいサブカル作品が大きく評価されるのは自明の事です。
私は自分の間違いが正しいのを信じていますが、言っても伝わらないだろうな、とも思います。しかし、歴史の大きな流れで勝つのは俺の方だよ、と言いたい気持ちもあります。
何故、「歴史の流れで勝つのは俺の方だ」と思えるかと言うと、古典の深さを感じているからです。私はアニメもゲームも好きで、漫画はそれほどですが、少しは読んでいます。その上で、サブカル作品にはない深さが、例えばシェイクスピアやセルバンテスにはあるから、そういうものを読む人の方が上等だと言っています。
古典に根ざした価値観は深さというのを持っています。しかし、表面的に見れば全てはフラットに見えます。言ってみれば、川の浅い部分と深い部分の違いは、川の表面だけ眺めていてはわからないというようなものです。ところで、現実は時間と共に変化していきます。多様な側面をあらわにしていきます。
左翼は今は批判される一方ですが、昔は左翼が人気で、プロレタリア文学なんてのも流行りました。プロレタリア文学で今、残っているものはほとんどありません。あるいは残っていたとしても、左翼に奉仕するイデオロギーの部分とは違う部分で、文学として残っているのでしょう。残っている部分はどういう部分かと言えば、一言で言えば人間を描き得ているかどうかという事です。
どれだけ多くの人が称賛しようと、浅いものは、時と共に押し流されています。そうして浅いものは、別の浅いものに取り替えられます。しかし、深いものは根っこのように残っていきます。そこに違いがあります。
私は古典の深さを感じているので、そういうものは、これから先も残るだろうと思います。現実とか人間の多様性、複雑性に対して対抗できるのは、それら様々な方向への歩みに対して貫通する、強烈な本質力とでも言うべきものだからです。
真実は多面的だと言う事もできるでしょう。更に言えば、真実は矛盾的です。
真実は矛盾的だと言うと、今の、合理的な答えを欲しい人にはちんぷんかんぷんでしょう。例を使って説明します。
一人の人間の顔があります。彼の顔の右半分と左半分が合わさって、一つの顔として統一されています。当たり前の話です。
しかし、今の、効率的に、合理的に答えを欲しがる人は全体像が見えません。「答えは右半分と左半分を合わせたもの」と言っても、通じません。「右の顔にはほくろがあるのに、左の顔にはそれがない。矛盾している。お前の言っているのは間違いだ!」と本気で食って掛かってきます。顔の全体像がいつまで経っても、見えてきません。
古典作品を読んでみると、大抵はわかりにくい文章がくねくねと続いていきます。私は先日、キルケゴールを読んでかなり苦労しました。ニーチェなども面倒くさく、カントは理路整然としているようで、これはまたこれで面倒くさいです。要するにみんな面倒くさいです。
一方で、ベストセラー本を読むと、驚くほど読みやすい。意味が整理されていて、非常にわかりやすい。しかし、わかりやすいからこそ、取りこぼしているものが多くあるのです。
ニーチェの思想などは、細かい片言隻句にむしろ本質があるのではないかとも思えるほどです。私はニーチェの思想に全面的には賛成しないんですが、ニーチェの短文の中には独立して価値を放っている文章があり、そういうものはそれ自体、独立して読んで、考える事ができます。
思想というのは、概念の定立ですが、実際には哲学者も著作家なので、彼らは言いたい事をその文体によって表現していきます。簡単に言うと、文体の在り方に「深さ」が現れるのです。
そして文体はその人、一人で作り上げられるものではありません。西欧の哲学は、西欧の神学論争など、宗教的、歴史的な根深さの上に作られています。近代の啓蒙主義は過去の宗教を否定しましたが、そういう主義も、それ自体の価値の在り方はあくまでも、歴史的な価値観の上に成り立っているのです。
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深さというものは、そのようにわかりにくい文章によって作られていきます。わかりやすい文章で作られる場合もありますが、その場合はわかりやすい文章そのものがわかりにくいものに化けます。
例えば、芭蕉の俳句など、平明に理解できそうなものもありますが、その背後について考えていくと深いものがあるとわかります。わかりやすい文章で複雑な事柄を表現しようとすると、わかりやすい文章そのものが、その表面的な意味だけはわかりやすくても、奥行きのある、含蓄のある言語に化けてしまうのです。
だから、古典は全てわかりにくいと言ってもいいでしょう。わかりにくい文章が長く続いていると、人は辟易とするでしょうが、しかし長い分、理解する手がかりが多いとも言えます。短く、わかりやすいような文章で書かれている場合の方が注意が必要です。そういうものを理解しようとすると、誤解しやすく、奥行がわからないままに終わる可能性が高いからです。
そういうわけで、深い根っこを持ったカルチャーの方が大切だと私は思っています。私の知っている人で、昔、恐竜がいた事を信じない人がいました。「いや、恐竜はいたんだよ。いたという事にしないと、人間が積み上げてきた知識の体系が否定される事になるんだよ」と言っても、通じません。その人は「でも、それも好き嫌いでいいんじゃないですか」と言いました。
ここで「好き嫌い」「人それぞれ」の論理が出てきたのに驚きました。時代の病根はここまでひどいのかと感じました。まあ、こういう時代なので、色々な文化破壊・文明破壊が起こるのは残念ながら普通の事だと思います。少数の人は、ある種の物事の深さを感じて、その場所に留まり続けてくれるだろうと、勝手に期待したいですが。