8、日常
今のラディージャには侍女がいない。
侍女はカラッティ侯爵家に勤めている為、カラッティ侯爵家から必要ないと言われれば従うしかない。ラディージャに給料を支払う能力はない。それに薬学部には侍女が控える間もない為、連れてくるわけにもいかなかった。
夜遅くまで本を読んでいるラディージャは朝起きるのがかなり辛かった。
喧しく鳴く鳥の囀りに、数羽がダンスでもしているのか突いたり足で叩く音で漸く意識を浮上させる。
「あー、もう朝か…、ぬぁぁぁぁぁ眠い!」
ラディージャはベッドから起き上がると髪を一つに結び顔を洗いに行った。
部屋についている洗面所はお湯が出ないので、共同の洗面所で顔を洗い肩にかけたタオルで顔を拭う。
「おはようラディージャ」
「ああ、おはようタミール」
本来侯爵令嬢はこんな気安く呼び捨てなどさせてはくれないだろうが、ラディージャは気にしなかった。『ねえ、たった3人きりのクラスメイトなんだから仲良くやりましょう』その提案にタミールとゼノンは最初 疑心暗鬼だった。彼らは少しずつ距離を詰めていったがラディージャは違った。侯爵令嬢とは思えない変わった女性だった。汚い格好で土いじりなどしている令嬢など見たこともない。高位貴族の令嬢は日焼けを嫌い、基本的には侍女が日傘をさす、それが畑で汗を流し帽子1つで日焼けしまくっている、自分で土を耕す!?まさに規格外の変人だった。今となると最初気にしていた自分たちが馬鹿らしくなるほど、身分などで人を区別したりしない優しい女性だった。
「その顔は昨日も遅かったみたいね」
「そうなの、夢中になると周りが見えなくなっちゃって…。悪いんだけど朝食の時間にいなかったら声をかけてくれる?」
「オッケー。勉強家なのねラディージャって」
「んー、そういう訳じゃ無いんだけど、私ここ卒業する時に家を出なくちゃいけないから、今のうちにやっておきたい事が沢山あって時間がないの」
「侯爵令嬢様も大変なのね。いけない! まだレポートが1つ終わってないんだった! お先!」
「んー、頑張って!」
部屋に戻ると、ベッドメイキングをして、部屋の掃除をした。
それから今日の準備をして、朝食の時間まで自分の畑を見に行った。
「あーーー! 枯れてる!!」
ラディージャが育てているのは特級ポーションに使われる薬草。
カランビラ、パラフィネ、クモラ、ブーサン、ビグマ この5種類が世には出回らない貴重な薬草。
どうして出回らない貴重な野草となったかと言えば、人の手で育てられた事がないから。つまり今回のように育てようとしても枯れてしまう為、現状は自然に生えているものを採取しなければならず、安定供給ができないのだ。
先人たちもその栽培には並々ならぬ努力をしてきたが、まだ成功例がない。
では何で自然では育つんだろう?
っていうか、誰も育てられた事がないのに、どうして種だけはあるんだろう……?
あれ? もしかしてこの種…摑まされた? 何となく葉も違うかも…。
はぁーーー、今度採取に今度同行したいな。落胆はしたが想像通りの結果に次はどうするか考えながら戻った。
朝食にはゼノンもいる。人数が少ないので食堂は共有スペースとなっている。
「おはようゼノン」
「おはようラディージャ。あれ? タミールは?」
「さっき会った時、レポートがまだ1つ終わってないって言ってたからそれやってるのかも」
「あー、仕方ない奴だな…。ラディージャは薬草の種類 何個覚えた?」
「んー、範囲は覚えたつもりなんだけど…本番になると慌てちゃうかも。ゼノンは?」
「んー、何個かごっちゃになっちゃって、今は脳みそ迷走中」
「あははは、分かる、混乱しちゃうよね!」
「ひゃーーーー! 間に合った!」
「「お疲れ様〜、急いで食べて」」
遅れてやってきたタミールにラディージャとゼノンは食事や水を出して世話を焼いてやる。
急いで食べると、授業の準備して学舎に向かった。
今日の午前中の授業は薬草のテスト。
初級編で薬草の種類を150種類覚えなければならない。ただ次回は中級編で230種類、上級編では560種類となる。過去に全問正解を出した人間はいないらしい。7割覚えられれば優秀と言われる。まあ、薬屋を営むとしてもきっといつも作る薬以外は薬草辞典で都度調べる人間が殆どだろう。これは生徒を虐めるために設けられた公認の嫌がらせ、と皆思っている。
因みに実際に薬草を用意されて名前と効能と注意点と何の薬に使われるかもテストがある。イラストより実物でのテストは難易度が上がる。特徴を捉え分かりやすく描いてないからだ。それに乾燥された物になると…考えただけでウップ。何だかんだ薬学部は地味に難しく忙しい。
今日は初級編から50問テストだ。やるだけの事はやった。
午後からは薬草園でよく使う薬草などを実際に見て、手に取り、匂いを嗅ぎ、採取方法や保管方法を勉強する。それから少し薬局でポーションを作る現場を見学できる。
3人しかいない同級生、ほぼ家庭教師による指導のようなものだ、ある意味有難い。
放課後になると燃え尽きた。
『ああ、こんな日はディーンシュトにたっぷり甘やかして貰いたいな』
無理だと分かっていてもクセはなかなか抜けないものだ。
忘れられなくてたくさん泣いて、忘れたくてまた泣いて、だけど全然忘れられなくて泣いて、寂しくて苦しくて悲しくて…辛くて、また泣いた。
距離をとって会わないようにしても思い出さないように他のことを考えても、忘れられなくて…苦しい。細胞レベルで刻まれたディーンシュトをそこここで感じてしまう。自分の人生の多くを共にして生きてきたのだ、自分のことより相手のことを理解していると言っても過言ではない、それにいつだって思い出は鮮明で優しかった。だからもう忘れることを諦めた。
ラディージャはディーンシュトと違って魔法刻印が現れない限り番はいない。そこで、無理に忘れることを諦め心の中のディーンシュトに話しかけた、誰にも気づかれないように愛することにした。
今日は本当に疲れてしまったので『天竜樹』様の所に行くことにした。
「こんにちは『天竜樹』様、今日はちょっと疲れちゃって…少し充電させてください。
今日薬学部は薬草のテストがあったんです。結構出来てると思うんですよ。それから薬草園に行ったり、ポーションを作る現場を見せて貰ったり、とっても忙しかったんです。それから…えっと… スースースー」
ラディージャはうっかり『天竜樹』の側で眠ってしまった。
気づくと辺りはスッカリ暗くなっていた。
急いで帰らないと寮の門限を過ぎてしまう、慌ててラディージャは帰る。
『天竜樹』は王宮の一角にある保護区画だ、当然エリアの周りには警備兵がいる。入って出てこない事には気づいていたが、警備兵といえども許可なく立ち入れないのだ。気にしていると中からラディージャが出てきた。
「カラッティ嬢、随分遅いから心配したよ!」
「ごめんなさいおじさん! つい疲れて眠ってしまったの、すぐに帰ります!」
「あーそうかい、無理してんじゃないのかい? 体は大丈夫かい?」
「うん大丈夫、今日はテストだったから…帰ったらゆっくり寝るわ。おじさん遅くまでごめんなさい、また来るわね!」
「ああ、気をつけてお帰り」
「はーい、おじさんも気をつけてね! さようなら」
警備兵ともすっかり顔見知りで互いを心配する中になっていた。
「ビーバーさん、前回までの火魔法の魔法訓練は行ってきましたか?」
「勿論です!」
「…そうですか、では早速見せてください」
「はーい! えい! むくむくむく てい!」
シーーーーーーン
「ありゃりゃ、おかしいなぁ〜? んーーーーほい! じゃあ、ビビビビーム!
あ〜〜〜〜ん、難しくてマリリン失敗しちゃったぁ〜!」
シーーーーーーン
「ふぅーーーーー。ビーバーさん、あなた本当に訓練なさってきたの?」
「勿論ですー! いっぱい、いーっぱい練習してきました!」
クラスの全員が白けた目で見ている。
と言うのも、彼女の魔法訓練は初めの一歩で躓き一向に進んでいない。最初こそ彼女の進行に合わせるよう気を遣っていたが、大抵数時間、苦戦しても3日程度でマスターする事を3カ月経っても未だに出来ない。他のクラスに比べて進みが遅くなったので、現在は彼女以外で先に進み、彼女は個人レッスンとなっている、それでも一向に進展していない。
「魔法省の方とは話が出来ましたか?」
「それがー、まだ何ですぅ〜。何回か約束はしたんですけど、タイミングが合わないんですよねぇ〜」
「そうなの、困ったわね。折角の金色が…。兎に角、早急に確認して頂きなさい」
「はい、わかりました!」
金色の特別な能力を持つ彼女がまさかの劣等生、正直この程度は魔法刻印が現れて理論を知っていれば特別に習わずとも扱う事が出来るものが未だに出来ない。
皆は久しぶりに現れた金色の刻印に歓喜し、その圧倒的な才能を間近に見ることができる幸運に期待していた。ところがいつまで経っても魔法が使える様子がない。授業は火魔法の他に水魔法や風魔法にも入っていて、そのどれもマリリンは扱う事が出来なかった。こうなると、マリリンは光魔法など特別な魔法の属性がある事になる。であるならば、魔法省で適切な職員を派遣して貰い正しく指導して貰う必要があった。
学院でも扱いに困り、魔法省にこちらに来て頂くように依頼をしているが、多忙の為なかなか予定が組めないでいた。
「ディーンシュト・ヴォーグは今日も休んでいるのか?」
ガロが教室に見に来た。
ガロは元々ラディージャの迷路仲間だ、有名人の2人を見守っていた1人。
2人は番ではないと知った時、本人たちも衝撃を受けただろうが周りにいた親しい者たちもかなりの衝撃だった。何故ならば誰が見ても似合いの理想的な2人だったから。
互いが互いを慈しみ切磋琢磨して良い影響を与え合っていた。
自分にも番ができた時、こう言う相手と巡り逢いたい、そう思っていた。
あの2人が番ではないと知り、ラディージャはあんなにも愛する男をディーンシュトの幸せの為に身をひき、姿を消した。2人はそれぞれ体調を崩し、まるで半身を引きちぎられるかのようで、それがより強い絆に思えた。
部外者である自分たちは察することはできても真実理解することは出来ない。
ただ、側にいて1人にさせないようにしか出来なかった。だけどラディージャはそれも拒んでいなくなってしまった。全ては愛する男の幸せのため。
後でヒルマンにラディージャの話を聞いた時、衝撃で涙が溢れた。
名家のカラッティ侯爵家は、魔法が使えなければ家を出て行かなければならない。今は1人で生きていくためにスキルを磨いていると言う。何もかもを失った彼女があまりに哀れで慟哭をあげた。
誰よりも正しく優しく愛らしい彼女の運命が過酷で運命を恨んだ、呪った。
だが、相変わらず僕たちは部外者で何も出来なかった。見守り陰で心配することしかできなかった。優しい友人の代わりにディーンシュトを見守った。
ラディージャの愛する男、ディーンシュトは運命の番に出逢えたはずが日々弱っていく。
疑問しかなかった。
しかもディーンシュトはマリリンがベタベタと近づくと決まって体調を崩した。
『運命の番であっても、感情が優先される…? やはりそこまで2人は愛し合っていたのだ』
友人であるラディージャもディーンシュトも幸せになって欲しかった、何もできないけどずっと友人として心配していた。