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 夏の鬱陶しい暑さは、五月の蠅とさほど変わりなかった。春も夏も鬱陶しいなんて、とんだ季節の切り分け方だ。世界を創造した神様は、春秋、夏冬という順序にする手立てを講じようとは考えなかったのだろうか。すべて世界が出来上がった後で出てくる不具合。何度も試行錯誤して、上質なものを創ろうとしている技術者や哲学者は多くいる。神様は創ったらほったらかしで、後はそこで生きる人間たちのやりたいようにやれ、と任せているのだろうか。


 日和にはそうは思えなかった。


 次第に肌寒くなり、街中では、露出の多い服装をした人がだんだんと姿を消していった。半袖が長袖へと変わり、厚みを増していって、ニットになる。コートになる。ダウンジャケットになる。そんな過去の季節の変遷を日和も感じていて、この世で一番強(したた)かな出来事なのではないかとすら思えた。


 四季のある国で生きる以上、服装の変化は利便性に影響してくる。うだる暑さの中でニットなど着ていれば、他人がどうこう思う以前に、自分の動きが制限されてくるのだ。暑い、と思うのは当然の心理で、背中は汗ばみ、身体は怠く、足を一歩前に進ませることすら億劫になる。


 それを強いられることが、きついということは明らかである。逆も然りだ。真冬にシャツ一枚で街中をうろつく少年を見かけたら声を掛けてあげるといい。「手袋片方あげようか?」片方だけだしそれだけのことだが、少年の心は温まってしまうのだ。


 今でも偽善者だとは思えない。いつかの制服を着た女のティーンネイジャーは、今どこで何をしているのだろうかとふと思う。あのとき日和に手渡された、真っ黒な手袋。日和にとっては、黄色に見えた。


 季節は秋。冬にかかろうとしているが、真冬にはまだ遠い。薄着の人々も見受けられる。


この三か月と幾分かは、日和にとっても「生きている」と実感できるような出来事ばかりだった。ゲバラに、「お前はどのくらい生きるための生き方だ?」と問われれば、「今日だ」と即答してしまう自信があった。それくらい充実していたのだ。


 だが、本当は充実感があってはいけないことなのかもしれない。彼女の顔を浮かべると、正義感も、充実感も、すべて吹っ飛んで行ってしまいそうだった。何かを手に入れるための犠牲は当たり前のことで、未だにその、自分の充実感のために犠牲にした対象への「申し訳ない」という感情が、消しきれていなかった。


 雪。白く揺れるこの物体はさぞかし楽しいだろうな。池袋駅の東口をすぐ出て横。壁に寄っかかりながら、その揺れる白い物体に目を細めた。秋だし煙草の灰がどこからか飛んできたのだろうな、そう思っていただけに目を疑う。小さな点が、無数に降り続く。視線をあげれば一目瞭然だった。


 雪がちらついていた。


 まだ九月の中旬で、日和にとってはうだる暑さだというのに、珍しいこともあるようだ。


 その白い物体は、暗くなったビルの隙間から自分の元へと近づいてきてくれているように見える。右手と左手の側面をそっと合わせて、落ちてきた雪を止めてみる。日和の手に触れた雪は、すぐに消えた。自分の体温のせいだろうか。でも溶けたようには見えない。水分が感じられない。ホログラムのように、ぱっ、と消えていく。


 俺は温かい人間になってしまっているのだろうか……日和は、すぐに消えてしまう雪の浅はかさに、浸っていた。


「お待たせ」


 いつの間にか、自分の両手で作った器を見ていたはずが目を瞑ってしまっていた日和は、声を聞いただけで誰かを認識した。キャッチでもない。宗教勧誘でもない。そっと目を開け、寄りかかった壁から背を離す。


「久々だね。この間の飲み会以来? ほら、あのちょっとした同窓会みたいな」


 優華の声は、多分普通だった。日和には、上ずっているように聞こえる。まるで俺が初めてコルトパイソンを撃ったときみてえじゃねえか、と思った。


「そこら辺の居酒屋でいい?」「あ、うん。どこでも」そんな簡単な言葉の掛け合いでコミュニケーションが成り立ってしまうのだから、人間というのは末恐ろしい。本心かどうか見極めるのは、コミュニケーションの範疇に無い。だからこそ、コミュニケーションは面白かったりもする。


 優華と日和は、目の前の交差点を渡った。左前方に奥へと続く道を進む。大衆居酒屋はもちろん、細長く天を指すビル、巨大な看板を掲げた雑貨店などが立ち並ぶ。行き交う人々は、やはり歩行者天国のように堂々と歩く。この道が車が通るべき道であるとかないとかに関係なく、広い道幅を存分に使って個々が独立して行き交う。先を急ぐ一人のサラリーマンもいれば、目的地へ着くまでの期待を膨らませながら話す四人組の大学生もいる。どちらも日和の隣を通り過ぎていった。そして、その居心地の良い歩行者天国空間を作り出す一片。日和と優華もその一部だった。


 日和は廃れた大衆居酒屋へと入ろうとする。ビルの五階にあるのだが、エレベーターの前には人だかりが出来ていた。確かこのエレベーターはそれなりに広かったはず。日和はそれを思い出して、次のエレベーターで自分たちも乗れてしまうだろうなと思った。


 案の定だった。奥の壁に貼り付けられた鏡が奥行きを感じさせ、そのまま満員電車の要領で乗り込もうとする。日和の後ろにいた優華は、エレベーター内に入ると体を翻し、閉まるドアに当たらないようにと体をひっこめる。ドアが閉まったときには、日和の胸から太ももにかけて、完全に優華の背中が密着していた。


 一瞬日和は思わずたじろごうとした。衣服を挟んでの肌と肌との密着。優華のベージュのブラウスとの触れ合い。素肌で握手するのを超える、身体と身体の密着。満員電車で思わず触れてしまうのとは訳が違った。彼女の胸の前に腕を回して自分に寄せ付けようという衝動に駆られる。ナニコレ。


 エレベーターの数字は、止まることなく一から五へと進んだ。ドアが開いたときには、すでにそんな感情など初めからなかったかのように消えた。


 店員に「二人で」と右手でピースサインを作る優華の後姿を視界にとどめながら、店員に席へと案内された。入ってすぐ左の壁際。二人席。


 座ってすぐに、「生ビールを」と優華は店員に伝えていた。つられるように日和も「同じのをもう一つ」と続けた。とりあえずこれで、と言うと、日系人らしき肌の浅黒い店員は、去っていった。


 今日一緒に居酒屋に来たのは、優華に誘われたからだった。本当は日和の方が優華のことを心配するはずなのに、なぜか優華は日和のことを心配していた。あの一件以降、ラインが届くのだ。何を勘違いしたのか、「ねえ大丈夫? あの人たちとまだ関係続いてるの?」とか「やばいことだったらやめた方がいいよ」とか、「私のせいでもあるからすごく心配」とかいろいろ届いた。優華はきっと、あの後、彩に付いていった自分のことを、連れていかれたと勘違いしているのだろう。本当ならあの場で優華のことを置き去りにした日和のことなど見限っているはずなのだが、どうも優華は字のごとく優しく華のような人間みたいだった。知らない男性に襲われそうになって、腰まで抜かしていた優華を置き去りにし、彩に付いていった日和のことを心配して今日は「飲みに行かない?」と誘ってくれていた。


 目が眩む。


 そのせいもあってか、日和は少し構えていた。彩に付いていった後の経緯や彩との関係を聞かれるのではないかと思って事前に身構えていた。だが、注文以降、優華は口を閉ざしたままだった。生ビールが届き、「乾杯」と声に出すまでもなく二人はグラスを合わせ、重いジョッキの接触音を響かせていた。


 何から話せばいいだろうか。日和は、いつになく戸惑っていた。彼女は自分を心配して飲みに誘ってくれたのだ。あの飲み会以降、優華と会うことはなかった。一週間して届いたラインの内容は、どこまでも軽く、どこまでも重かった。絵文字はなく、クエスチョンマークもエクスクラメーションマークですら使われていないセンテンス。顔が見えていない以上、心配しているのか、感づいて怒りを露わにしているのか、どちらともとれる文章だった。


 だからこそ、今日この場で顔を見合わせて対峙しているという状況には、心から惚れ惚れする。心が読めなかったり、曖昧で嘘のつきやすい「文章」での会話よりも、どう考えたって感情が表情や態度に出やすい「会う」という会話の方が、断然質も高い。おまけに自分が頭を悩ませる必要も少なくなる。悩む前に返事をしなけらばならないのだから。対話、コミュニケーションなのだから、ラインでの相手の質問に対して一時間も二時間もあーでもないこーでもないと悩んでなどいられないのだ。


 ただ、どうしたものかと日和はビールの泡をズズっと啜った。目の前の優華は口を閉ざしたまま早二分半。居酒屋の雰囲気をもってしても気まずい空気を作ってしまうのならば、いっそ酔っぱらって絡みに行った方が早いのではないか。逡巡するが、断念する。


「学校はどう?」そんなありきたりな言葉でしかコミュニケーションが取れなかった。昔高校の教師がやけに熱弁していたアイスブレイクの重要性を知った瞬間である。


 優華は、「それなりに楽しいよ」と笑顔で言ったきり、元の雰囲気へと逆戻りだった。その笑顔は何なんだ。場を保つためのあれか? 愛想笑いか? 日和は、少々の苛立ちを覚え始めていた。


 しかし、別になんてことはない。今目の前にいるこいつは、俺にとって利用価値のあった人間に過ぎない。今更どうこう言ったところで過去を打破できる訳でもないし、打破する(すべ)も思いつかない。そこから織りなされる現状を変えることだってどうとしても難しい。変えることが出来るのは、過去はそのままで、これからの彼女の思想を変えるために、きっかけを与えることぐらい。


 口説く、というのはこういうことかもしれないと思った。宗教、丸め込むというのはこういうことかもしれないと。ホスト、と聞けばよくないイメージを持つ人もいると思うが、実際は逆なのだ。いわば彼らはプロだ。心理学を応用し、誘い込みやすい環境を築き上げ、作り、そして自らの持つ対話能力で、対象者を言いくるめる。そこに本心があるか否かは問われない。容姿がある程度保たれている若い時しかできないだろうが、歳を重ねたところで彼らのスキルは老いない。コミュニケーション。会話。心象。これを一つも使わない仕事はどこにもない。


 日和がもしホストだったら、きっとこの場でそのスキルを存分に発揮していることだろう。無言の時間は消え、無言の時間でさえ相手の思考を勘繰る時間や諭すための間として使い、結果、自ずと帰る時には二人とも仲睦まじくなっている。そんな未来が想像できた。勿論、日和にそんなスキルは持ち得ていない。


 日和は、ジョッキの淵に口を付けたまま喉を何度も鳴らした。その光景に、優華も少し驚いたようだった。ビールを飲み干してジョッキを置き、「唐揚げとか枝豆でも頼むか」優華の顔を窺い、反応が出る前に指先は呼び出しボタンへと延びていた。


 店員に注文をしたあと、日和は意を決したように言う。


「俺は大丈夫だから。それより優華の方が心配だよ。久々に会ったと思ったら、よくわからない男たちにナンパされてて、PTSDにでもなってないかって、こっちのほうが心配」


 当初は、こんな話を切り出すのもどうかと思った。強姦にまで手が届いていないものの、未遂だろうと、当時の話を思い起こさせられる女は、たまったもんじゃないだろう。なんだこの日和という男は。恐怖に満ちた過去を思い出させようとしている。そんな女心もわかっていないのか。言い淀まれる可能性もあった。でも実際はそんな未来を予知する能力も、相手の心を確実に読む能力も、人間には持つことを許されていない。出来るのは、やはり不確かな未来の予測と、可能性を自分自身に示唆させることのみ。そう思っていただけに、優華の言葉は意外だった。


「日和君も大胆なこと言うね」

「え?」

「普通そんな話聞いたら、信じられないよ。甘い言葉をかけてるに過ぎないんだって思っちゃう。隣の芝生は青いってよく言うじゃない。自分以外のものはだいたい綺麗に見えるものなのよ」


 店員が陽気な口調で唐揚げと枝豆を運んできた。その置かれた枝豆に目をやる。青い。旨そうに見える唐揚げと違って枝豆は青かった。枝豆はおそらく唐揚げを妬んでいるだろう。唐揚げは唐揚げで、枝豆に対して「青い」と感じるだろう。


「でも」と優華は続ける。「女の子はそういうことでも通り越してうれしくなっちゃうこともあるのよ。失恋した直後に甘い言葉をかけてくる男の子がいたとして、それでもその男の子について行っちゃうかもしれない。周りから、なんであんな男と付き合ってんの? ってぐだぐだ言われてもさ、なんとなく信じちゃうのよ」

「もはや、恋愛ですら宗教だな」

「そうそう。根拠がないことなんて世の中にはたくさんある。溢れてる。だから結局自分が何を信じるかの方が重要になってくる。人間関係の波に乗せられてたら、本質を見失うことになっちゃう。自分で信じたことが正解だとは思わない?」


 優華は枝豆を一つ手に取り、「この枝豆が、実は色を塗りたくった大豆かもしれない」なんて言って口に運んだ。二、三回噛んでから、「大豆じゃないみたい」と笑った。



「フーコーもそんなこと言ってたな。唯一、絶対の真理は存在しないって」

「じゃあ、この枝豆は大豆かもしれない?」

「ちょっと違う気もするんだけど、そう思うこと自体は間違いじゃない。真理が絶対的な権力なんだ。大体悩む人って、みんな絶対的な真理があると思ってそれを前提に苦悩してる。数学みたいに、確実に正解があるわけじゃないんだ。そんなんじゃなくて、もっと一人ひとりが意味付けた真理に耳を傾けようって」


 考えた奴が強いとは言わない。でも、悩んだ奴は弱くない。それをなぜか優華の顔を見ていたら伝えたくなっていた。自分を否定せず、頷きながら親身に傾聴してくれている。そんな姿がどこかうれしくなったという他ないのかもしれない。


「でもさあ、私は自分のことよりも日和くんの方が心配。そう思えるのって、私自身もすごいことだと思ってる。自分を二の次にして、誰かのことを想えるなんて、なんか家族とか特別な存在みたいじゃない?」


 そんなことを言われ、日和は想像してみた。


 特別……。家族……。身なりが同世代ということもあり、優華を妹の椎菜と重ねてみる。でもなんだかしっくりこなかった。成長した椎菜と対面で座って酒を飲んでいる。やはりしっくりこない。だが、もっとしっくりと当てはまったのが、隣を歩く存在だった。家族ではなく、家族になろうとしている存在。若しくは、家族みたいな存在。気づけば、それが「恋人」という事柄に当てはまることを悟っていた。


 ただ、日和自身、また別の感情を抱いていた。「恋人」が確かに家族同然のように慕って心配できるという点については頷ける。でも、それは空論に過ぎない。「気を付けてね」と言われて家を出たとして、本人は何をどう気を付ければいいのだ。それが家族なのか? 優しい言葉や労りの気持ちを持って接すれば、それは恋人にもなり得るのか? 関係性が構築できているのか? 声をかけるだけで身は売ってくれないのに?


 家族。椎菜。群青。彼らは日和に何を与えたのだろうか。椎菜が家族ではなく恋人のように思えたのは、やはり絶対的な信頼関係が自分たちの間に備わっていなかったからなのか。


 日和は、優華そっちのけで、自分のことについて考えてしまっていた。



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