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飲み放題の二時間を三十分オーバーしたところで、日和たちは席を立つことになった。三千円ずつ回収され、比較的酔いのまわっていない安西が会計を済ませた。日和はその横に付き添った。
会計を終え、振り返ると、すでに六人の姿はなかった。おそらく先に地上に出たのだろう。
荷物を持ち、地上への階段を上りながら、「安西変わんないなー」と日和は呟いた。「日和も中身は変わってないみたいだったけどね」と安西は答えた。
「変わってないかな?」
「俺の目からはそう見えるけど。もしかしてさっきまで話してたこと覚えてない?」覗き込むように安西に見つめられ、日和は先程までの時間を思い出そうとする。なんか余計なことしゃべったっけかな? 中身が変わっていないなんてわかるようなそんなエピソードを。そもそも俺の高校時代の印象って……。
そんなことを考えているうちには時間が過ぎ、二回折り返す階段も終盤だった。居酒屋内とはまた別のざわめきが耳に入り、白い街灯がアスファルトに反射する光景が視界へと飛び込んできていた。
曖昧に、「あんまり覚えてないかな」と日和は頭を掻いた。
「まあ、悩みがあるならいつでも聞くよ」すまし顔で言う安西が、日和には格好良く見えた。
高校時代のことなどそんなに覚えていないのに、級友からの労わりの言葉は、他人事とは到底思えず、言われたら言われたでなんとなく懐かしくなる。安西がよくできた人間のように思えた。懐かしい匂いがして口角がふいに上がっている。
階段を上り終えて、地上に出る。大輝たちの姿は見当たらず、左右に顔を振ると、右側の少し進んだあたりに見覚えのある人影が見える。「あの服は大輝だよね?」「ああ、確か」と安西に確認したところで、異変に気付く。先程までおちゃらけて酔っぱらっていた大輝たちを見ていたせいか、その直立して円を囲むような姿は酷く滑稽だった。まるで、悪いことをして担任に怒られている中学生だ。そんなこともあったなと、また一つ過去が蘇る。あの時は確か、文化祭で調子乗って、十月のきったないプールにパンイチで飛び込んだんだっけ。頭びしょびしょのまま呼び出され、「やべー、親に電話されるかな」「されたらされただろ」「お前ん家は厳しくないから言えんだよ」なんて、逃れようのない未来に対して時間稼ぎ。ちんたらしていたら怒鳴られ、掃除したばかりの床に水をぽたぽた滴らせ、「濡らすな! 拭け!」と逆切れされて終わったっけ。あのときのような俯き加減ではないかと、思わず苦笑してしまう。
その苦笑が漏れたのか、安西は「おかしいけど、ちょっと静まりすぎだね。何かあったのかな」と呟く。
「あいつらに限ってそれはねーよ。ガキでもあるまい」
日和は安西の心配お構いなしに、期待を膨らませながら大輝たちの元へと歩み寄っていった。走ってすぐに終わらせるのではなく、じっくりと猶予を。大輝の背中が目前に近づき、「何しょぼくれてんだよ」と肩を叩こうとする寸前で手は止まる。
また、懐かしい匂いがしたのだ。脱脂粉乳のように水気がなく、萎れ、淀んだ空気。斑に汚れたペアガラスを通して差す光は当然汚い。いつかの気疎さが舞い戻って来たかのような錯覚に陥る。
日和は顔を振った。気疎さの正体は、ペアガラスではない。俯いている大輝たちが発しているものだった。明らかに彼らの周りの空気が淀んでいるのだ。
「どうした?」半分開いたままの口を一度塞いでから日和は聞いた。だが答えは返ってこない。後ろから遅れて着いた安西もこの空気を察してか、「なんだって?」と神妙な面持ちだった。
「これからカラオケ行くんじゃなかったのかよ。なにそんなテンション下げてんだ」
日和は先ほど肩を叩きながら言うはずだった言葉を大輝に投げかけた。両手で彼の肩をポンッと一回叩くが、ピクリとも反応しなかった。
周りを見渡してみた。加奈も、博之も、大輔も、彩香でさえ先ほどまでの酔いが一気に冷めてしまったかのような面持ち。え、そんなに大変なこと起きたの? と真っ当な人間なら思うくらい異常だった。あーでもそもそも人間って腐ってるしな。酒を飲もうが飲まなかろうが、こんなもん杞憂で終わるのが普通――そこで満を持して気づくのだ。
「優華は?」
全員の肩がビクッと動いたのを日和は見逃さなかった。大輝が二センチ。加奈が一・五センチと、見て取れた一人ひとりの肩のずれが、数秒前と今現在の二つの映像記憶から還元され、自動的に脳内に流れ込んでくる。
何を問いかけても、大輝に関しては肩を叩いても反応しなかったのに、彼らは肩を震わせた。あまりに露骨すぎる。
周囲を見渡す。ああ、と日和は納得するには早すぎた。普通の人間がこの時点で事の真相を察知し、納得するはずはないが、日和にはわかった。当然だ。
優華がいない可能性としてはいくつか挙がるだろう。
トイレに行った。
先にカラオケ店に名前を書きに行った。
用事があって先に帰った。
でもそのどれでもない事実が、日和には見えていた。
「ごめん、俺、先帰るわ。なんか盛り下がっちゃったみたいだし、皆またね。安西も今度どっか食事行こうよ」
安西は、「おおう、またね」と小さく手を振り返してくれたが、その他の旧友たちはこちらに顔を向けただけで、見送ることもなかった。
その場から彼らを追い越し、立ち去ろうとする日和に、安西が近づいてきた。旧友たちに背を向けながら「どうした?」と日和は問う。
「いや……うん、またね。またそのうち」
「大丈夫だから。あいつらのことよろしく」
日和は軽く微笑み、早足で立ち去った。
歩行者天国とも言えるようなこの一直線の道路。っこんな時間にもかかわらず、肩が触れてしまうこともままならないくらい人がごった返す中、日和は一人、その流れに逆らっていた。飲み屋を出てきた酔っ払い。スカートの丈が短い熟女とスーツ姿の青年。女子学生の群集。オーエル、リーマン。それぞれが穏やかな感情の中、日和は一人、目を凝らし続けていた。最後尾から最前線に向かって、早足で向かう。
何の躊躇もなく路地を曲がった。薄い平たいタイル状の路地裏。居酒屋が一件。洋服屋らしきのぼり。なぜこんなところを曲がったのか。もっと人気のない場所があるだろうに。
日和は、にやっと微笑んだ。そして僅かに開いた唇の隙間から零れる。「馬鹿だから」
上がった口角はすぐに引き締まり、前傾姿勢の早歩きは、背筋を伸ばした堂々たる歩きに変わる。爪先から接地する歩き方は、靴を履いていようとも裸足そのものだった。
「お兄さんたち、煙草はお好きですか?」
柄の悪そうな金髪二人、黒髪一人。日和の言葉に反応したのか、こちらを窺ってきた。
「最近いい煙草を見つけましてね。チェ・ゲバラってご存知ですか? あのカストロ兄弟とキューバ革命を起こした英雄です。そのゲバラの描かれたパッケージの煙草がありましてね、これが旨いんですよ。どうですか、お三方。一緒に吸いませんか?」
揉み合っていたような騒々しさは一瞬消え、「お前、舐めてんのか」と日和の耳に届いた。
三人のうちの誰がその言葉を発したのか、すぐにわかった。一番右の金髪。口の動き。表情筋のしなり、たおり。
続けてもう一人の金髪が、「怪我したくないなら帰った方がいいぞー」とクールぶっている。ポケットに右手を突っ込み、あろうことか煙草に火をつけ始めた。大根役者みたい。その余裕さに、瞬間的に違和感を覚える。むかついただとか、脳に血が上っただとか、そういうのではない。日和は単に、なぜそこまで余裕ぶっていられるのか、不思議に思ったのだ。
手え、ふるえてんじゃないの?
蟻と人間の差。無意識に人間の方が上の存在だと思うかの如く、あっけらかんとした態度。何も確証を得たわけではないのに優劣をつけられる。どちらかといえば、その精神が日和は気に食わなかった。否、不思議だった。
右から、金髪、金髪、黒髪と綺麗に横一列に並んで日和を窺っていた。その隙間、彼らの後ろに花柄のブラウスを着た女が垣間見えた。金髪たちの着ているブランドパーカーにはそぐわない服装だ。それが優華だということは、すでに知っていた。日和は確信がなければ行動しない性格だった。
「何、突っ立ってんだよ。早くしねーと殴りかかるぞ」
今度は黒髪が五メートル越しに、眉間に皺をよせ、眉根をひそめ、上目使いで言った。一歩一歩距離を詰めてくる黒髪に対し、日和は微動だにしなかった。三メートル、二メートルと近づく中、動く気配すら見せない日和に、黒髪はさすがに何か異変を感じたようだった。
だが、遅かった。勘づいたときには、もうすでに日和との間合いは一メートル二十センチになっていた。おかしいと思ったら引かなければならない。おかしいと思いながらずるずる間合いを詰めるなど、愚かにも程がある。上限があるのは天井だけで十分だっての。
微動だにしなかったはずの人間の拳が、いきなり素早く動き出そうともなれば、反応は当然遅れる。ましてや、日和の動きになど注意も払っていなかったのだ。なんせ、勝手に自分の方が高尚な人間で日和のことは蟻んこだと思い込んでいただけに、実力の差など測りもしなかった。その先入観こそが命取り。黒髪の顔だけが後ろを向かされたときには、すでに日和の左脚が腹部を強襲していた。黒髪は、「有り得ない」と思った。右手で殴った後に瞬時に左脚が出る。ノーステップに見えた。ステップしたって人間の構造的に無理だ、有り得ない。そう。有り得ないはずのことをやってのける人間が目の前に実在するのだ。有り得ないと思っていただけで、実際には有り得るのだ。自分の既知の外だった、というだけの話。
その、「有り得ない」と思った黒髪の顔を、日和は見逃さなかった。これこそが日和が生きる理由。身体全身の気孔から蒸発しているかのように噴き出る熱気。ハイになった頭は身体の動きを抑制させない。性欲を帯びた加害者と同じだ。止まらないのだ。止めたくても。その恍惚感に酔いしれる。堪らなかった。
日和にとって恍惚感とは、いわばギアだった。間抜けなミスを犯すような油断などではない。恍惚によってさらに自分の心を高ぶらせ、高ぶらせることによって、身体の節々、指先、筋肉の収縮、力加減、自分の身体全体がレントゲンで写したように脳裏に映り、全てが思い通りに動くようになる。
レントゲンのように映るのは自身の身体だけではない。相手の身体や動きも然り。盲滅法に動き回ることほどの無駄遣いはない。ドラマで見かけるような、殴って、殴られて、そこから這い上がるなどという過程など詭弁。相手の急所が透けているのなら、当然、一発でそこを強打しに行く以外の道理はない。
気づけば、三人は地べたに這いつくばっていた。その奥で、壁に背を預けながら怯えている優華の姿が見える。
ああ、と日和は思った。今日は懐かしい匂いばかりだ。いつかのアパートで隅に座っている自分と優華を重ねて、感傷に浸ろうとしている自分がいたことに、大そう嫌悪感を抱く。俺がそれ思っちゃうか? 白々しいな、と。たまらず失笑する。
何を思うでも言うでもなく、優華の元へと近寄っていった。優華は、今起きた目の前の恐怖と日和をだぶらせて立ち上がれず、踠いているのかと思ったが、意外とそういう訳でもなさそうだった。近づく日和に対し、安堵の方が大きかったようで、自分の手の届く距離に来ると、まさに先程の日和と金髪の初手のように素早く日和の手に触れた。手を引っ張られるようにされ、日和はしゃがみこむことを余儀なくされる。
思いもよらないような恐怖に襲われても安堵を感じられるなんて、と日和は思った。俺だったら真っ先にこいつも敵なんじゃねえかと疑うのに、と。でもこれはあれに似ている。いらない、と言っているのに渡してくるような、大丈夫と言ったのに手伝ってくれるお節介のような、そんな心の動きに。
調子が狂う。何百年と動かなかった山が突然息を吹き返して動き出すかのよう。
触れられた優華の手には、細かい震えが残っていた。服ははだけて羞恥を感じるほどの状態だったが、彼女は何かに苛まれているようで、自分の身なりのことなど忘れているようだった。
「立てる?」
「無理……かも……」
無理矢理立たせようとするのもどうかと思った。かといって、その場に長時間居座るのも好ましくない。こんなときに使える的を得た質問は。
「どうして欲しい?」
どうしたい? だと、自分は動けないのに、という雑念が紛れ込む気がする。より本心に近い言葉を引き出すにはこちらの方が適切だと考えた。
「と、とりあえず、立ちたいかな」
優華は、見るからに腰が抜けた状態だった。その状態から立ち上がろうと試みるが、力が入っていない。手を後ろに突いているにもかかわらず、上半身がついてきていなかった。
日和はスッと優華の腰に右手を回した。競技ダンスの組み合いのように、腹と腹を密着させ、持ち上げる。それは案外容易なものだった。彼女が軽いせいなのか、意識がある状態だからなのかはよくわからない。
立ち上がって、二人は顔と顔を見合わせた。優華の今の状態は、まったく羞恥がないようだった。そのまま数秒間顔を見合わせることとなった。
その見つめ合いに針が刺される。
「あんたたち、何してんだい」
男勝りな口調だったが、男にしては声のトーンが高すぎる。声のする方へ振り向くと、自然と優華との密着は緩んだ。見れば、髪の異常に長い人間が六メートル先で腰を折っている。
歳は、二十代後半と言ったところか。服装は、OLとさほど変わりないパンツスーツで、足元はピンヒールで綾なされていた。床でくたばっている金髪たちの様子を窺っているようで、腰の後ろで手を組む姿は、老婆が歩く姿とさほど変わりなく見えた。そこで、先程の言葉が自分と優華ではなく、地面で伸びている三人のチンピラに当てられた言葉だと理解する。
「ありゃー。こりゃ酷くやられたね。外傷が少ないところからするに、手数は少ないね。もしかしてあんたたち、一発でKOされちゃった?」
髪の丈が太腿まである長髪の女性は、からかうように金髪の頬を叩いていた。「おい、起きろ。はいお前も、お前も」横たわっている男三人を、奥から順に目を覚ませと言わんばかりに叩く。叩くたびに彼らの顔を彼女の髪が触れた。汚れたものを箒で掃くみたいに。そして、一番手前の黒髪を叩いて、掃き終わったところで長髪女と日和の目が合う。
「で、あんたが私の可愛い弟たちを虐げた、と」
そこでやっと長髪女は腰を起こす。腰に手を当て仁王立ちの姿勢になる。
日和はただ、そこに立ち尽くしていた。いや、立ち尽くしているように繕っていた。隣で小刻みに震え、日和の手をぎゅうっと掴んで離さない優華の存在など二の次で、遠くに見える平屋から突き出したように見える鉄塔をただボーっと眺めるように、長髪女の目を見つめていた。
「あんた、いい目してるね」長髪女は、仁王立ちのまま唇だけを動かす。数秒して、その口角は頬の上へとこれでもかというぐらいに吊り上がった。
「私の弟にならないか?」
日和は、似ている、と思った。