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「どうだった学校?」
スミレに聞かれ、群青は唖然とする。
「どうって言われても、そうそう相談に来る生徒なんかいないよ。興味本位で話しに来てくれる生徒は何人かいるけど」
ファミレスの雑音は、いい具合に群青とスミレの会話を引き立てていた。
群青がカウンセラーとして矢代高校に赴任してから一か月が経った。学校には計四回行ったことになるが、当初そうそう来ないと思っていた予想通り、相談室に来る生徒はあまりいなかった。比較的一人の時間を多く過ごしてはいるものの、何人かちらほらと相談室に現れる生徒もいた。そのどの生徒にも当てはまるのが、コミュニケーション能力に長けているということ。スクールカウンセラーに相談に来るといって想像するのは、大体内気な生徒だったり、家庭に事情があったりとそういう暗いイメージがある。でも実際はそうではなかった。確かに雑談に来る女子生徒もいる。話し相手になって欲しい。そういう人もいるが、中には些細な相談に来る生徒もいるのだ。
「この間、恋愛の相談されちゃったよ。そういう経験がないからなんて言っていいか困っちゃってね。なんて答えればよかったかな」
群青にとってはどうでもいい相談だったし、ごく些細な相談だった。相手の生徒も、どうせ話すならとそのついでという感じで相談してきた。話の話題にすぎなかった。
でもそうは思えないような表情をする子が稀にいる。顔は笑っているのだ。冗談交じりに。でも、実際その生徒にとっては深刻な相談であって、誰かに話すのには勇気がいることだからと、笑ってごまかしながら群青に伝えている。ということもあり得なくはないのだろうと思うことがある。
よく考えればポッと現れた「スクールカウンセラー」という肩書きを背負ってやってきた大人に、生徒たちはいきなり信頼など置けない。本当に思い悩んでいて誰にも打ち明けられない蟠りを持っている人は、そんな大そうな肩書きに騙されない。寧ろ普段よく話している友達の方が話しやすいということだってあり得る。でも逆に、どうでもいい人だから打ち明けられるということもあるかもしれない。
そんな自分一人頭の中で悩んだところで、本人に聞いてみないことにははっきりしないことを、久々に考える一か月となった。思った以上に人間は鈍感で、且つ過剰に敏感なんだなと思い知らされた。特に思春期の子どもたちは。
「恋愛ねえ。私もよくわかんないけど、恋愛小説とかそこそこ読むしドラマも見たりするから、その程度のことならアドバイスしてあげられるかも」
スミレはフォークにくるくるとパスタを巻いている。四百円のパスタ。身なりと比べるならコッペパンと脱脂粉乳。
「その子はどんなこと相談してきたの?」
「なんか、ずっと嫌っていた子に最近惹かれ始めたんだって。女の人って生理的に受け付けない人とかっているみたいじゃん? そう思ってた子がさ、電車で席を譲ってる姿とか見かけると惹かれちゃうんだって。本当はいい奴じゃんみたいな」
「あるあるだねー。常に優しい人はそういう目でしか見られないけど、普段根暗みたいな奴でもそういうギャップを見ちゃうと好きになっちゃうのかもね。その生理的に受け付けないってのが、ビジュアル面でなければの話だけど」
「やっぱり見た目は大事か」と群青が笑うと、「絶対って訳じゃないのは確かだけど、多少はね」とスミレも笑っていた。
「見た目よりもさ、優しい方がいいってのはすごくある。タイプとか聞かれて優しい人って答えるのは全然いいと思うし。自分を必要としてくれて、それでいて優しくて、って人だったら多分見た目なんて関係ないんだと思う。人格を好きになるっていうか。一緒に居た時間が長くなると特にね」
「名言みたいだな」
また二人で笑った。スミレの照れる顔が微笑ましかった。
「そういえばその服気に入ってるの? いつも着てくるけど」
なんとなく気にかかったことを群青は口にしていた。ボアのジャケットにスキニータイプの黒デニム。よくよく考えると自分と会っているときは大体その服を着ている気がした。会うのも大体駅前のファミレスなせいか、話した内容を除けば、同じ記憶が繰り返されているような錯覚さえする。
「そう、気に入ってるの。それに高かったから何度も着ないともったいないし」
少しあたふたする仕草がかわいらしかった。先程まで恋愛に物申す師匠のような雰囲気だったせいか、よりそのギャップが際立つ。ああ、これが相談してきた生徒の言っていたことか、とリアルに実感する。確かにいいかもしれない。別にスミレのことが嫌いだったという訳ではないが、色恋に発展するような感情は抱いていなかったのに、今の可愛らしさは色恋に発展させるには十分だ。彼女の髪の毛の周りに恋蛍が何匹か見える気がする。
「ギャップって服もありそうだよな。いつも制服着てるけど、偶々私服姿を見かけたときとか。それにさっきのビジュアルの話にからめるなら、貧相な服着ているだけで好きな人から嫌われるかと思うと、その程度のことで失っちまうのかーって思っちゃうわな。俺も昔好きな人の目に触れるときは、大体綺麗な服買って着てったよ。そしたら足元にまでは目がいかなくってさ、ドブの中走って来たのかってくらいの汚いスニーカー履いてて、それ女の子に指摘されるまで気づかなかったよ。あれはやらかしたな」
「ありそうだねー。加賀美さんって意外とバカっぽいし」
「いや、その靴の話は単純に忘れてたんだよ。バカとかじゃなくて」
「本当に好きなら、靴にまでちゃんと目が行くものでしょ?」
「……いかなかったんだなーあのときの俺は」
足元にまで目がいかなかったのは、きっと目がいかないくらい夢中になっていたものがあったからだ。そう信じていたい。本当は足元に目がいっていたのに、靴が少し汚れていたって相手は俺自身のことをちゃんと見てくれる。後付けだけどそういう期待を膨らませていただなんて今となっては笑い話にもならない。気づかれずに落とされるサインほど見苦しいものはないと、群青は知っている。自分の名前が加賀美だということ。そのサインを見逃してやれるほどお人よしではない。
なんてね。
ファミレスを出たのは夜の八時過ぎだった。スミレを駅まで送って、群青は喫煙所で煙草を咥えた。吸う瞬間。吸ってしまった後。吐き出される浅白い深い息。この瞬間が、今日一日生きた自分をリセットする瞬間だった。走馬灯のように一日を思い返し、こんなことがあった、あんなことがあった、もっとこう言えばよかった、こうすればよかった、話が面白くなればと虚言を吐いた。良かったことは大抵思い浮かばない。
でも、着実に一歩一歩前に進んでいる。早く辿り着きたいという焦りを押し殺して、一日に二歩進めるところを一歩で押さえる。まるでマラソン選手だ。四十二キロ近くを一時間で走ろうだなんて物理的に実力が伴わない。それを知っていても早くゴールに付きたい、ベストタイムを出したいとひた走る。誰だって短距離なら早く走れるのだ。距離が長くなれば、短距離と同じ速さで走っていては、当然息は続かない。
耐えるのだ。数十メートル先がゴールだったらもっと早く走れるのに、という想いを隠して、今日はゆっくり走る。そうやって毎日毎日煙草の火を消す瞬間に思い至るのだ。