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 二日後、群青はまたあのピンサロを訪れていた。午後の六時。辺りも暗くなり始め、道の端々でLEDの明かりがちかちかと輝き始めていた。


 二十分で四千円。この手の店にしては安い方だった。たかだか二十分で四千円が消えると思うと、もったいないという気持ちも少なくはなかった。


 席に通され、数分すると女性は現れた。


「あれ、また来てくれたんですね」


 ワイシャツのボタンは、最上部を除いてちゃんと閉められていた。露になった太腿は、雰囲気をいっそう興奮へと変えさせそうだった。


「今日は、お仕事の帰りですか?」


 この間来たときにニートだと言ったはずだが、覚えていないのだろう。彼女は群青との間合いを詰めるように、ソファーの上をずるずると擦って寄ってきた。


「いえ。この間、お名前伺わなかったので聞いておこうと思って」


「名前? 言ってなかったっけ。スミレです」そう言ってニコニコ笑う。「時間ないので、」そう言ってワイシャツのボタンをはずし始める。流れに沿って群青もベルトを外し始めていた。またあっという間に時間が過ぎていく。彼女の口は塞がれたままだ。上下運動を何度も繰り返し、二十分後には、はいさよなら。この間みたいにあっという間に時間が過ぎて行ってしまう。


「スミレさんって、なんか優しさが滲み出てますよね」

「そうですか? ここにいる人は皆そんな感じだと思いますけど」

「そういうのじゃなくて、なんか見ていて落ち着くっていうか」


 そう言っても、スミレは群青の下半身につきっきりだった。たまらず、「ちょっと顔上げてもらえません?」と彼女の頬に手を伸ばした。


 少し驚いたように「ん?」と首を捻る動作は、純粋な女性だということを象徴させた。肩にかかるくらい長い髪を後頭部で一つに結び、耳元には女性にしてはカジュアルなピアスが何個かついている。


 あれ、俺何言おうとしたんだっけ?


 自我を忘れさせるくらいの艶麗(えんれい)。単に容姿がいいというからではなく、寧ろ言ってしまえば彼女の容姿は絶世の美女とは言えない。スタイルはいい。脚もウエストも細くて、顔も小ぶりでふくよかな胸。胸が大きすぎないせいで、全体のバランスがしっかりと取れていない。


 だから、そういうことではないのだ。群青が彼女に惹き込まれるのはそういうことではない。彼女の後ろに隠れているもの。それを知ってしまったせいで、印象が変わってしまったのだ。


 純粋無垢。何物にも染まらない白。スミレは群青の唇を受け止めた。


「珍しいですね」

「何が?」

「なんか、普通のお客さんと雰囲気が違う」

「俺にとってキスの方が価値が上。なんじゃないかね?」

「やっぱり面白いですね」


 スミレの顔が近づいてきた。




 店から降りてきたスミレは、女性だった。裸にワイシャツ一枚。学生にとっての制服のような、一張羅の姿しか見ていなかったせいか、ちゃんと服を着た姿は彼女の印象を変えた。スキニータイプの黒いデニムに、白いボアのジャケット。年齢の割に大人びて見える。


「どこ行きますか?」そう聞かれ、居酒屋という選択肢は浮かんで消えた。

「ファミレスでもいいですか?」


 群青の声にスミレは笑顔で頷いた。



 駅前のファミレスに入る。薄暗かった景色は一層明るくなった。当然スミレの顔も明るく見えた。あんな暗い店の中で見ていたせいで、肌の白さに少し驚嘆する。


 席に通され、注文だけ済ませる。すると、二人の時間ができた。二十分だけではなく、永遠と続いていきそうなくらいの長い時間が流れ始めた。それだけで、心の中は穏やかになる。限られた時間内で、それもやることが決まっていて自分が行動を起こさなければそのまま終わってしまうような、ピンサロと今いるファミレスの差。気が楽になった。


「お仕事何されてるんですか?」手慣れたように話題を振ってきた。


「心理関係の仕事を」

「ニートじゃないんですか?」

「あっとあれはその……」

「いや全然全然。よく知りもしない人に本当のことなんか話せませんもんね。見栄張ってる人だっていそうだし。あでもニートってことはその逆か。まあ、それはいっか。心理関係のお仕事ってカウンセラーみたいな?」

「まあそんな感じかな」

「あれありますよね。ほら、学校に決まった曜日だけ来るやつ。そういうのやってるんですか?」

「今はやってないけど、来週から都内の学校に行くことになった」

「へえ、すごい! うちの学校にも来てくれればいいのにな」

「大学は需要ないかも。若しくはすでに足りてるとか」

「そうですよね」


 スミレの顔は、群青の(ほころ)びを誘発した。「可愛い」そう言ってしまえば、もしここが海外だとしたらきっと容姿のことだと捉えられてセクハラになっていただろう。でも、群青にとってはセクハラでもなんでもなく、最大限の誉め言葉。でも、誉め言葉ともちょっと違う。自分の感じたものを相手に伝える。語彙力が乏しいせいで、「嬉しい」という感情が「可愛い」という言葉に姿を変える。


 可愛いんだ。顔じゃなくて、あなたが。愛おしいんだ。きっと。辞書で調べないとわからない。


 面と向かって言える。誰かに告白をする。誰かに自分の気持ちを伝える。その、誰か、という対象。一般と比べて群青の人生で圧倒的に足りていないものだった。


 自分の中で完結してしまう。それが正しいと思って生きてきた群青にとって、今目の前に現れたスミレは、圧倒的な存在感を放っていた。


 この感情は何か。それを疑って図書館に駆け込む。難解は解かれた。そして完結する。また図書館に通えば、今のスミレに対しての感情の答えも解かれるだろうか。解かれたところで完結してしまうのは目に見えていた。


「今日は楽しかった」そう言って駅の構内に消えていくスミレの姿を、群青はきっと遠目で眺める。いつか弟が言っていた。「河の向こう側に行きたい」と。当時の群青にはその意味が分からなかった。行ってみたいという好奇心はある。でも行ったからなんだというのだ。行って、歩いて、また帰ってきて終わり。そこで完結するのに、そこまでして河の向こう側へ行きたいか?


 その答えを解く鍵。ドアにかかった南京錠。鍵穴の向こう側の景色を眺めてはまた、溜息をつく。


「溜息が出るときは大体上手くいってるときだ」


 スミレの腹には鍵穴があった。それは向こう側が見えてしまうほど、大きな穴だった。


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