表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
15/33

2

「群青、ピンサロも行ったことないのか。じゃこれから行くぞ」


 浅岡は、ポンと一回群青の肩を叩き、ついて来いとでも言うように、改札へと歩を進めた。これが一時間前の話だ。


 今は、山手線の電車に揺られている。十八時前だったせいか、上りだったせいなのか、比較的車内は空いていた。車内からは、駅の名前すら覚えたこともない群青にとって、聞き覚えのない駅名ばかりが流れていた。まるで異国のよう。


 隣に立つ浅岡は、乗車口付近で吊革につかまって直立している。その少し後ろに群青は立っていた。


 これからどこの駅に下ろされるのだろうか。おそらく一度も降りたことのない駅だろう。移動手段といえば、埼京線の池袋から新宿というたった一駅。それ以外の用事では常にタクシーを使っていた。駅の名前を覚える必要などないに等しい。誰かが一般教養だというのなら、自分はそこから遠い存在なのだと反論する他ない。


 何度かドアが開き、乗降者が行き交い、また進みと繰り返された。浅岡が無言で降りようとしたのを見て、群青もその背中を追った。


 下り階段を軽快に降り、改札を出ると左右に大きく開けた。浅岡はその左側を進み、それについていった。上の方を見ると「南口」と書かれていた。


 駅を出ると、左前方に逸れた道を上っていった。群青は、新宿みたいだな、と思った。新宿ならば、何度も歩いたことがある。あの歌舞伎町の通りの輝かしさ。ぴかぴかと光る立て看板がいくつも目に入った。しかし、規模は新宿に遠く及ばない。


 数メートル歩くと、そこで前を歩く浅岡は足を止めた。「ここに入るぞ」彼の背を追って、廃ビルのような狭い階段を上っていった。引き戸を開けると、そこはバーのような薄暗い空間だった。


 支配人のような男が出迎える。白いワイシャツの上に黒いチョッキに身をくるんだ男性に金を支払い、奥の方へと案内される。手立てはすべて浅岡に任せていたため、群青は財布から三千円を出すだけで済んだ。浅岡は案内された手前の椅子に座り、群青は奥の席へと案内された。


 黒いテーブルが一つ。黒いソファーの上には見るからに安そうな白いタオルが敷かれていた。その上に腰を下ろし、溜息をつく。そこでこの店内にクラブのような大きなミュージックがかかっていることに気がついた。好奇心から周りを見渡すと、安そうな観葉植物が周りの席との仕切り代わりになっていた。その後ろに整理されていない本棚のような棚が見え、この薄暗さと合わせて、昔一人で行った「学園祭のお化け屋敷か」と言ってしまいたくなるくらいには、清潔感があるようには思えなかった。少なくともラーメン屋の方がまだいい。いや、ラーメン屋も暗くして馬鹿でかい音楽を流していれば同じか、と想像して考え直した。


 だるいな、と心の中で呟いた。


 周りの人間とは違った道を進んできた。学校など以ての外。ホームレス染みた人生はもはや習慣と化していて、今でも道端にステンレスが光っているのを見つければ、脳が無意識に反応してしまうくらいだ。


 風俗、という言葉すら知らないで成人を迎えるはずだった。偶々先に知っていた言葉の意味が「風俗的」といったニュアンスだったためにたまげた。それくらい生活が偏っていたのだ。ふとした時にそわそわとする感情、その正体が知りたくて区の図書館に駆け込んだこともあった。そこで性についての知識を理解した。それで満足したかと思えば、今度は世の中についてのことが知りたくなった。朝から晩まで、飯を食うことも忘れて、図書館で本を貪り読んでいたことも多々あった。そのおかげもあってか、生活に困らないくらいには知識がある。


 セックス、と言われても現実味がなかった。身近に女性はおらず、ずっと一人で生きてきた。自分の勘が鈍ったのだろうか。性欲という言葉自体知らなかったので、そういう人がいるのかも知らない。聞けない。ただ、性欲、というものは、自分の身体の中を探そうにも喉に手を突っ込むわけにもいかない。それくらい、なかった。


 はあ、とまた溜息が出た。面倒だ、と思ってしまう。群青にはやることがあった。なのに、今こんなところで油を売っている。あほか、時間の無駄だ。時間を何だと思っている。唯一無二、世の中で買えないものだぞ。一番大切にしなくてどうする。そう心の中で呟いてみるのだが、不思議と席を立つ気にはなかなかなれなかった。


 やっと決心がつき、ソファーから立ち上がる。浅岡には悪いが、勝手に帰らせてもらう。金は払っているのだから文句はないだろう。前払いって素敵。そんなことを考え、ほくそ笑みながら席を出ようとすると、ちょうど目の前に自分より数十センチ低い女性が現れた。


「すいません遅くなってー」


 彼女は軽やかに言ったと思ったが、すぐに表情が曇る。遅いから怒らせてしまったと思ったのだろうか。それとも席を立つ客が珍しいのか。どちらにせよ、なんだか申し訳ない気分になってしまった。結局雰囲気に押され、席に座り直してしまった。


 ソファーに座ると、隣に女性も座ってきた。ワイシャツにひだのついた暗い色のスカート。そこから太腿が顔を出し、膝を折って座っていた。


 女性の土俵に入ってしまったのか、いつの間にか彼女の表情は柔らかくなっていた。髪は後頭部で結われていて、右の耳朶にシルバーのリングがついていた。


「仕事の帰り? その割には若く見えるけど」


 目を背けたいくらいには、群青の目をしっかりと見ていた。何かいつもとは違う状況を理解して、ああやっぱりな、と思った。慣れない場に素っ裸で来るべきではない。完全に主導権を相手に握られている。これはこの先の仕事にも影響しそうだなとぼんやり思った。


「仕事はしていません。ニートです」


 体裁もプライドもないあっけらかんとした群青の言葉にたじろぐ様子も見せず、「へえ、大変だね。ニートって言ってもいっぱいあるしね」と笑顔で対応した。彼女は俺の何を知っているのだ、と思わなくもなかったが、小柄な体と愛嬌から、悪そうな人ではないと判断してしまっていた。術中にはまったんだな。


「年はいくつなんですか?」

「二十いくつとかですかね」

「いくつって、自分の年覚えてないの?」

「あーーお姉さんは結構若そうに見えますけど」

「え、私? 二十だよ。言わなきゃ年齢不詳で扱われるんだけどね」


 そう言うと、ソファーの上で折られた膝を擦ってこちらに近づいてきた。


「二十分しかないからもう始めちゃうね」


 女性は、ワイシャツを脱ごうとボタンをはずそうとしていた。咄嗟に、「あ、ごめんなさい。その、もうちょっとお話しませんか?」と口にしていた。


 女性は、群青と初めて顔を合わせたときと同じ顔になる。戸惑っているのか、珍しい客なのかは知らない。


「なんか面白いね」


 彼女は微笑んだ。



 これといった話題もなく、たびたび沈黙を挟むような話が続いた。気まずい、とまではいかないが、その間が息苦しく感じた。自分から話しませんかと言っておきながら、話す話題がないとなると、申し訳ない気持ちになった。自分のことを話すのはあまり得意な方ではないが、しょうがなく自分のことを話していた。具体的には展開せずに、抽象さを残しながら嘘を混ぜる。我ながらこの状況でよくそんなことを話せたか疑問なくらいに冷静だった。


 聞く側の彼女といえば、大きな相槌を群青が話すたびに打って、正座で前かがみで聞いていたので、その態度自体は悪い気はしなかった。寧ろ、いい人相手に嘘を混ぜながら話している自分が酷く惨めに思えたくらいだった。これが罪悪感です。


 話が途切れた。それを繋ごうとしただけにすぎないのだと思う。


「あの、キスしてもいいですか」


 そんな言葉を口にしていた群青。雰囲気にのまれたのか。この雰囲気なら大丈夫だろうと思って言ったのかは定かではない。


「いいよ」


 女性は身をまた少し寄せて、目を閉じ顎を少し突き出す。


 群青は、そこに唇を重ねた。


 すぐ離してしまったのだが、彼女は「もう一回」と言って促す。もう一度唇を寄せると、舌が絡んだ。その行為自体には何の感情も抱かなかったといってもいい。言ってしまえばただの皮膚と皮膚の接触。問題なのはその、行為をしている、という点だった。今日初めて会った女性とキスをしている。それだけのはずなのに、どこか体の奥が締め付けられるような、ぞわぞわと湧き上がるような、震えない身震いのような、よくわからない感覚を覚えた


 唇を離すと、彼女の顔が近くにあった。


「抱きしめてくれる?」


 群青は腕を回した。そこでアナウンスが鳴ったらしい。


「ごめん、終わり。ちょっと待ってて」彼女は立っていなくなった。


 群青はまだ冷静でいられた。だが、おそらく後で思い出そうと思っても思い出せないだろうなと思った。


 彼女が帰ってきて、ソファーに腰を掛ける。


「まだ時間ありますか?」そう聞くと、「ちょっと」そう言ったきりだった。


 別に早く出る分には問題ないだろう。群青が立ち上がると、彼女も立ち上がった。出口に向かいながら、「お客様お帰りでーす」と高らかな声で言った。


「まだ若そうだし、こういうのはまっちゃダメだよ?」


「あ、なんかまた会いに来そうな気がします。ありがとうございます」白々しい。まったくそんなつもりはなかった。


 群青は歩きながら、振り向きかけながら、彼女の顔を見ずに言って階段を下りた。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ