11
スマートフォンの画面を見ると、午前の十一時を過ぎていた。一時間ぐらいは殻に閉じこもって自問自答していただろうか。もう一時間も経ったのか、と人間の集中力の偉大さにまいってしまう。
そこでああ、と日和は思う。捉え方だな、と。
人間の感情はそもそもあやふやだ。それを証拠に、世界にはいろんなセクシャリティ、マイノリティがある。この言葉が生まれること自体が、もはや、捉え方、ということを象徴している。自分と違う人間が目の前に現れたときに、否定したい焦燥に駆られる人もいれば許容してやりたいと思える人もいる。当事者視点で言えば、そもそも少数派だと思っていない人間だっているだろう。
人間の傾向を分類することはできても、「こういう人間だ」と、一個人を、ひとえに確立することはできない。
要するに、何でもあり、なのだ。何が正解だとか、何が不正解だとか、人間の思考に是非はない。
今更になってこんなことに気づいた。妙に納得している自分が喫茶店の中にいた。店の天井から俯瞰して見ると、よきひとときをたしなんでいる客の傍ら、自分だけが一番穏やかでいるように見えた。サーモグラフィで言えば、日和だけが暖色に染まっている。
でも、これも捉え方なのだろうなと思う。自分がそう解釈しているだけで、実際は違う。一つ奥のテーブルに座っている中年女性は、仕事について悩み、上司への愚痴を湯気の立つ真っ黒なブラックコーヒーと一緒に飲み込んでいるかもしれない。その奥に見えるガタイの良い強面の男性は、ファストフード店の店員の笑顔が忘れられず、恋煩い、なんてことも考えられるのだ。サーモグラフィで赤く染まっているのは自分だけではないのかもしれない。
そりゃ、答えも欲しくなるはずだわな。
不安なんだな。人生のマニュアルも欲しいな。
でも、もし仮に読心術があったとしても、互いが読心術を使っていたら意味ないよ。互いのことを話さなくてもなんでも知ることができちゃうんだから。なんだか飽きちゃいそうだな。
そう思ってしまう日和の捉え方もまた、一つの多様性。是非のない思考の一つだ。
日和は、ストローを抜いて、紙ナフキンの上に置いた。グラスの淵に口をつけて、勢いよくごくり、ごくりと飲み干す。
これも一つの思し召しなのだろうか。
少し昔のことを思い出していた。答えのない問いに、無理矢理、解、を作った。それは捉え方次第だった。今思えば、不正解のようにも思える。どれを正解にするか、正しい道が欲しかったのだろう。
――どうして、正しい道じゃなきゃいけなかったんだろう。
ふいに、優華の顔が頭に過った。
ああ、こいつもか。
こいつも捉え方の一種なのか。
そう思った途端に、急にすべての事象に対して冷めてしまうような感覚を覚えた。初めて感じたかもしれないあの心躍らされているような胸騒ぎ。恋愛感情のような温かさ。それすらも自分の捉え方次第だったのかと思うと、酷く溢れた羞恥心で過去を拭いたくなる。
でも、それすらも捉え方ではないか。恋愛や、人から愛されることから程遠い存在だった自分に、麻痺してしまった。愛を蔑んで、見下して、「馬鹿馬鹿しい」と、自分の醜い環境を卑下して、棚に上げて、自身をねぎらいたいだけではないか。
もう訳わかんねえ。
日和は席を立った。会計を済ませ、ドアを押すと、気圧の差のせいか、吹き込んでくる風にどっと身体を押された。その風が結論を出さずに喫茶店を出ようとした日和を、もう一度よく考えろ、と店内に舞い戻させようとするかのように感じられた。
「すげえなあ。素直に尊敬するよ。この世で生きてる全員」
悩むことは誰にでもできる。それすらしない奴もいるが、何かを信じて生きて行こうとする人が、厳かで輝いて見える。どんなにくだらないことでも、踊らされていることでも、愚直に生きている人々が、そこを歩く人が、そこで立ち止まる人が、眩しいくらいに光って見えた。
「まあこれも捉え方次第ってやつかな」
久々に吐いた独り言は、幼少期の自分に戻ったような感覚を味わわせた。




