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電車をちょうど降りたところで電話が鳴った。
「日和、早く来てくれよ。今、民家の奥にある雑木林にいんだ。分かるだろ? 場所」
拓弥の声は少し焦っているようにも聞こえた。声の向こうから聞こえる、木々の揺れ、近くにいるもう一人の人間の足掻き。以前そこの民家に行ったことのあった日和は、その場所の光景を思い出す。目を閉じて奥にあった雑木林の内部を想像する。電話の向こう側の状況。木々が揺れるくらいの風。拓弥は携帯電話を片手に〝誰か〟を捉えている。そして、その焦りを隠しきれていない声から、その〝誰か〟は逃げようとしていて、それを許してしまいかねない状況。
「今行く。それまでは耐えてね。逃がしたら彩さんに何言われるかわかんないよ」
「わかったから早くー」電話は切られた。
元々の目的地の『民家』へはここから大体歩いて十分。走れば五分。無人駅の改札に切符を置き、日和は走った。
五分程度なら大丈夫だろうと日和は高を括っていた。しかし、当初の予定とは少し異なっていた。本来なら、『民家』の一軒に入り込み、そこにいる男を始末する手立て。この時間に男がその家にいることは調査済みだった。調査出来ているという点において、信頼度は九十パーセント。確かに想定外の行動をとる可能性も考えられなくもないが、今回の件に関しては、そこは心配されていなかったはずだ。
が、現に拓弥は想定外の行動を強いられている。家にいるはずが裏の雑木林にまで足を運ばざるを得なかったのだ。
嫌な予感がした。高を括っていたはずなのに。それは自分を騙そうとしていたにすぎなかったのか。日和は更に足を速めた。
民家に入ると、静けさは以前とそのままだった。揉み合った痕跡も見つからない。雑木林へと急ぐと、がさがさとした草を擦る音と、拓弥の「おい! 逃げるなって!」という怒声が聞こえた。
その方角へ向かって進んでいた日和。間一髪だった。T字路を右に曲がると、雑木林の方から一目散に走り下る中年の男が見える。その後ろから追いかける拓弥の姿。日和はすぐに足を速めた。勢いよく下った中年男は、日和を見るなり足を止めようとするのだが、後ろを振り返れば拓弥の姿がある。咄嗟に右に逸れようとしたのだろう。後ろを向きながら逸れるのは、彼にとってやや難易度が高かったのか。足がもつれて無様にアスファルトの上で転がった。
笑えない。
その必死な姿は無様ではない。上手くいくかどうかじゃない。その必死な姿は、国籍年齢経歴身分、あらゆるものを問わないだろう。
中年男は背広に砂ぼこりを付けながらもすぐに立ち上がった。だが、遅かった。すでに一メートル前には日和が見下ろしていて、拓弥も後ろから追いつこうとしていた。
「なんなんだお前らは。俺が何したって言うんだ。あ? お前らになんか関係があるのか」
中年男は開き直っているようだった。喧嘩腰に日和に向かって声を投げていた。
「すみません。事情はよく知らないのですが、あなたが何かよからぬことをしたと我々はうかがいました。そして、それが我々にとって不都合だった。それだけのことです」
日和がそう淡々と言葉を口にすると、拓弥も続いて「もう観念しろよ」そう言って、銃口を中年男の後頭部へと向けた。
そのときだった。銃口が向けられた一瞬の隙を前々からうかがっていたかのような俊敏な動き。まるで背中に目があるような気配の察し方だった。
中年男は、拓弥の手を裏拳で思いっきり弾く。振り返るタイミング、その間合い、角度。日和は惚れ惚れするほど完璧なその動きに、ただものではないなと察知した。察知したときには、いつも通り身体はすでに動いているのだ。
「遅いな」銃口は再び中年男の後頭部に向けられる。彼の動きは止まり、それを見て拓弥は落とした銃を忙しなく拾った。中年男はゆっくりと両手を頭の横に挙げた。
「一瞬、油断したかと思いました。あなた元軍人か何かですか」
中年男に反応はなかった。ピクリとも動かない後ろ姿。そこから動き出す一瞬。何を血迷ったか、最後の足掻きに転じようとしたのか、中年男の振り返りざま、それが合図かのように日和は引き金を引いた。
ゴオン、と大きな音が鳴っる。余韻が響く。静けさが返ってくる。まだ意識があるのか、よろよろとこちらに覆いかぶさろうとする中年男を足で切り飛ばした。バランスを崩し、後ろに倒れた。
「なかなか撃つの上手くなったな」拓弥が男の頭を指さす。「でもちょっとずれてるな。振り返ったときだったのか、額とこめかみの間らへん撃ってる」
銃痕は左の横髪の上だった。血液は髪に滴ってから流れていたため、アスファルトに到達するまで分かりづらかった。
「そうですね。銃を撃つのがこんなに難しいとは。なんせ、反動がすごいもので、当てるのも精一杯ですよ」言いながら、ハンカチを中年男の頭に当て、止血した。自分で被っていたニット帽を取り、彼に被せた。
日和は重くなった中年男の体をよっこらせ、と担いだ。まだ温かい。もしかしたらまだ意識が残っているのかもしれない。そんなことは構わず、落ちないようにと男の体に巻き付けた。
「さて行くか」
拓弥は踵を返し、あらかじめ用意してあったのか、いったん民家の中に入り、中からスコップを持って出てきた。スコップを片腕で持ち上げて手を振るような仕草。ただものではない。自分よりは劣ろうとも、敵に回せば痛い目を見る。浮き上がった上腕二頭筋、浅黒い血管の隆起、その先に延びるスコップの揺れ。振り下ろされたスコップを想像すれば一瞬でわかる。ただものではないと。その見極めを見誤っては、勝てる勝負も負けになる。驕りと見極めは別物だ。
日和はそのスコップを見入るように、拓弥と伴に雑樹林の中へと入っていった。
道なき道を入っていく。背の高いブタクサをかき分けながら三十分は歩く。そして、三十分経ったかなというところで、その地面の中へと穴を掘る。その中に遺体を埋めるのだ。
三十分というのは程度の問題だ。そして遺体を埋めるという対処方法。どれも日和にとっては納得のいく方法ではなかった。
「遺体を燃やすのってやっぱり大変なんですかね」
一応下っ端という体の日和は、スコップで地面に穴を掘りながら聞いた。
「そうみたいだな。俺もよくは知らないが、異臭とか、全部燃えきるまでの時間とか、そういう痕跡が残るんじゃねえかな。ばれないようにするためには、証拠は残したくないだろう?」
拓弥は一人、樹の幹に寄りかかって胡坐をかいていた。いやいや、埋葬の方が証拠残るだろう、と、ちょうど日和が顔を上げたとき、拓弥は、顎を思いっきりひいたあくびをした。
日和は再び地面へ向き直って穴を掘った。よく考えてみろ。どう考えたって埋めた方がばれたとき一発アウトじゃねえか。指紋、血痕、あらゆる痕跡。警察も頭が悪い訳ではない。寧ろ、すこぶるいい。証拠を残さないというのならば、遺体をこの世から消し去るのが一番利口で、合理的ではないか。異臭が残る? 遺体が燃え尽きて灰になるまでの時間がかかる? 遺体さえ消えてしまえばそんなものは、そんなものは……ただの偶然に過ぎない。すべて偶々で片づけられる。頭の悪い日和でもそれぐらいのことはわかる。証拠を残したくないのだったら、寧ろ燃やすべきである。遺体が燃え尽きるまでの手はず、手順の重要性は、殺人を犯す瞬間とさほど変わらないはずだ。そこを簡略化してどうする。せめてコンクリートに埋めるとか……。
日和は、ひどく疑問に思っていた。彩の下についてから、これまでにもいくつかのルールを教わっていたが、どれも納得のいくものではなかった。証拠を完全に消そうとしていない。たらればに横やりが刺されることを想像していない。これが本当にプロの殺し屋なのか? そんな疑問も過るのだが、やはり目に浮かぶのは先程の拓弥とスコップのような光景。そうすると納得せざるを得ないのだ。
日和は、一メートル四方程度の穴を掘りあげると、その中に男の遺体を押し込んだ。膝を曲げさせ、抱え込むような状態にして詰め込んだ。まだ完全には体が固まっていなかったようで、その辺りは難なくことを進めることが出来た。最後に土を、男の腹の上へとスコップで放り投げる。だんだんと男の姿は見えなくなっていき、ついには顔もすべて埋まってしまった。
「というかさ、日和ってそんなに簡単に人を殺すような奴だったっけ?」拓弥は立ち上がりながら言った。
「そうですね、まあ人によるのかもしれません。なるべく人を殺めたいとは思いませんが、仕事なら仕方がありません」
拓弥は、「これって仕事なのかね。金そんなに入ってこないし」とぶつくさ言っている。日和はスコップを左肩に担ぎ、拓弥の横に並んで雑木林を下った。
「でもさあ、日和って喧嘩強そうだよな。俺、絶対に日和だけは相手にしたくねえもん。こないだのときだって、内心びくびくしてたんだぜ? 本気で来いって言うからそうしたけどよ」
「目は昔からいいんです。昔から遠くをよく見ていたからですかね」
「へえ。そんなんでよくなるんだな。もしかして山とかに住んでたのか? 日和って田舎出身か?」
「いいえ、ちゃんと都会に住んでいました。でも、狭かったんですよ。外に出ればこんなにも広いはずなのに、狭かった。まるで、監獄に入れられているかのようでしたね」
「ちょっと待て待て。日和って刑務所入ってたのか? 知らんかったぞ」
「いやいや、違いますよ。檻の中にいたような気がしてたってだけです。そういう狭い空間にいると、広い部屋が恋しくなるんです。いつかあの山の向こう側に行きたいとか、あの川の向こう岸へ行ってみたいな、とか思うんですよ」
そんなことを話しながら、日和と拓弥は雑木林を下り切り、さっき男を殺したアスファルトにまで出てきた。
「警察きますかね」
「まあそのうち来るんじゃねーか」
「一般人が一人死んだくらいで世界の情勢なんか変わらないのに、メディアは面白がって殺人事件とか取り上げますよね」
「そりゃあれだろ。家族とか悲しむじゃねーか。そういう人のためにテレビの方々もニュース作ってんじゃねーか?」
少し歩くと、先程の男の血が固まりかけていた。水溜まりから浅黒い線が一本伸びている。
「拓弥さんは、こんなことしてて悲しむ人いないんですか?」日和は聞いた。
「親とはとっくに縁を切った。元々切れてたようなもんだし。名前も変えてもらった。俺らがいるのはそういうことが簡単にできる業界だ。いわば、ゲームだよ。おまけに国民の知らないところで悪を成敗してるって思ったら、少しは満足感あるだろ?」
「ないですね。俺にとっては暇つぶしです」
その日和の言葉を聞いて、「そうか」と拓弥は柄にもなく溜息をついた。その姿が、少し寂しそうに見えたのは一瞬で、次の瞬間には、
「日和、服に血いついてんじゃねーか」
「わかってます。ちゃんとそこの民家に準備してありますよ」
いつものような掛け合いに戻っていた。
「さて、血痕のお掃除しますか」