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【プロローグ】

 生かされちゃだめよ、自分で生きなきゃ。








 漂う排泄臭はいつからか鼻の奥を突き刺さなくなっていた。電気の付かない電球ほど無意味なものはなく、この部屋の色、空気、それらの変化を目にするには、いつも太陽の日差しが必要だった。安っぽいこの部屋のペアガラスは斑な白濁に表面を染め、ベランダに最後に出たのはいつだったかと思う程。その汚いガラスを通して差す日中の光。日和(ひより)の目にはすべてが淀んで見えていた。


 壁に張り付いた排泄物は、黒い模様になった。机の上は昨日久々に片づけてまっさらになっていた。埃はまだ残っているが、以前に比べればましな方だろう。コンビニ弁当の容器やら包装やらビニール袋は、もうない。一年前に喜んで買った割り箸の束は、もうない。


 黒ずんだ絨毯の上。ぽつんと誰にも気づかれまいと必死に姿を隠そうとしているものが目に入る。日和は寄りかかっていた部屋の壁から背を放し、立ち上がって拾う。買った当初の色は思い出せないような塗装の落ち方だった。うっすらと輪郭が見えていて、脳内の記憶から呼び起こした可愛らしい茶色いクマの絵柄を、拾ったフォークと照らし合わせていた。


 日和は、すぐ横にある押し入れの襖を開けた。途端に鼻を刺すようなきつい臭いに襲われ、反射的に顔を(しか)めた。すぐに後ろめたさを思い唇を嚙んだ。頬はぴくぴくと強張り、鼻の穴が大きくなった。臭くない、臭くない、心の中で必死に唱えた。


「何してんだ?」声が聞こえ、後ろを振り返ると、先程まで隣で一緒に座っていた群青(ぐんじょう)が、顔を上げてこちらを見ている。


「フォーク。落ちてたから」


(しい)()のか?」と聞かれ、日和は頷く。


 日和は振り返ったついでに部屋を一望していた。こんなに部屋をしっかりと一望したのはいつぶりだろうか。毎日暮らしているはずのアパートの一室のはずが、どうも親しみのようなものが感じられない。まるで自分の部屋と間違え、気づけば同じ間取りの別の誰かの部屋に入ってしまっていたような感覚だった。それくらいに、この部屋の景観が身近なものに感じられなかった。


 反して、部屋の雰囲気自体は自然だった。ずっと繰り返してきたいつもと同じ流れ。地球は回っているらしいとどこかで聞いた。それと同じように、この部屋の雰囲気も、沿って、流れているのかもしれない。


「椎菜の元に戻さなきゃと思って」日和は群青を背にして、押し入れの方へと向き直った。


 またきつい悪臭が襲ってくる。が、感じるには感じるのだが異常だとは思わなかった。それもそのはずだった。一日に一回はこの襖を開けた。その度に臭いを嗅いだ。その度に「臭くない、臭くない」と心の中で反芻し、「おかしなことじゃない、おかしなことじゃない」と言い聞かせた。もし仮に右腕がない人がいたとして、その人には右手がないだけで、自分たちと何ら変わりはない。それと同じようなものだった。


 右腕どころか身体全体がすでに溶けているように見えた。もはや肉の塊となった肌の隙間から、反対色のような目立つ骨が浮き出ている。数か月間、(かたち)が綺麗だったのはきっとコンビニで買ったタマゴのランチパックのせいだろう。椎菜はコンビニに行くたびにそのパンを日和と群青の持つ籠の中へと入れた。


 どっと情景が込み上げてきた。何度通ったかもわからないコンビニ。幾通りもの椎菜の出で立ち、動作、表情。


「泣いてんのか?」と群青に言われるまで、実際に自分の視界が潤んでいることにさえ気がついていなかった。「俺、泣いてるの?」目を指でこすってみると、確かに生暖かい水滴らしいものは、人差し指と親指の腹に染みていた。


 (おもむろ)に群青は立ち上がり、日和の前まで来て直立した。


「どうするか、これから」群青は気疎い眼差しだ。


 日和はそう言われて先程まで考えていたことを思い出す。かつて透明だったはずの窓は、雨が降った日の結露のようなくぐもった色。それを通して差し込む光。


 少し考えてみた。その汚いガラスを掃除してみようかと。ピカピカに磨いたらこの部屋ももっと明るく見えるかもしれない。透明で、透き通っていて、太陽の日差しを心地よく浴びられる。


 でも、と思う。それが透明に戻ったところでどうだろうか。少しだけ視界が良好になるだけで、気分まで変わってしまうだろうか。この部屋から出て行こうと思えるだろうか。椎菜の亡骸をどこかへ埋めに行こうと思えるだろうか。この現状を、月末には金のなくなる生活を、ガスの使えない、電気も付かない、水も先週止まってしまったというこの家を、果たして潔く出て行けるだろうか。


「母さんは、俺たち二人に任せるって言ってたよね」

「ああ、言ってたな」

「俺たち向いてなかったのかもね」

「何が?」

「椎菜を守るっていう使命」




 母親がこの家を出ていくとき、その玄関先で振り返った姿が思い出される。「椎菜のこと、ちゃんと面倒見てあげてね。椎菜はまだ七歳なんだから。二人はもう十四と十五でしょ? それぐらい任せられるわよね」そう言い残し、母は重々しい鉄製の扉を開いて出ていった。アパートの通路に響くハイヒールの足音が今も聞こえる。この部屋にはそぐわない身なりと、これまたそぐわないサラサラの長髪を靡かせて。


 椎菜が息をしなくなってからの数か月、日和は自分なりにいろいろと考えていた。どうすればよかったのか。というか、そもそも俺たちの生活って何なの? 日中、外に出れば正装の大人に声を掛けられ、学校に行っていないことを白状することもできず、なぜ白状したらいけないのかも曖昧なまま、その大人から逃れることさえもゲームのように捉えられていた。楽しんでいた。


 椎菜のことを後回しにした訳ではない。寧ろ、一緒だったし、その方が楽しかった。朝起きれば兄妹三人で河川敷に行って走り回り、疲れればぼうっと遠くを眺める。だだっ広い草原と、目の前を流れる河。その奥に見える向こう岸の人の様子でさえ、三人で指を差し合って、「あ、あいつ今こけた!」「あ! ほんとだー!」「その後ろの奴、助けてやってる……」と椎菜も楽しそうだったし、群青も自らいろんな人を探していた。


 高い丘を背にして眺める向こう岸。いつかあっち側に行ってみたいな、と椎菜が言ったことがあった。


「泳いで渡るか」と日和が言えば、「その前にまず溺れるな」と群青が日和の意思を否定してくる。


「兄ちゃんは、意気地なしなんだよ! すぐそうやって俺の言うこと否定するじゃん!」


 日和が群青に向かって言い放った後、群青は冷静な面持ちでこう言った。


「無謀すぎるんだよ。この川の深さどう考えてもやばいだろ。毎日ここに来ててそんなこともわからないのか。おまけに一回河ん中飛び込んだら岸に上がれないだろうが。よく見てみろよ」群青は向こう岸を顎でしゃくっていた。


 見れば、確かに高さがあった。子どもの日和たちには上がれないくらいの高さ。多分、日和の身長の三倍くらい。


「おまけに向こう岸まで百二十メートルはあるはずだ。河の流れに逆らいながら今の俺たちで向こう岸にたどり着けると思うか?」


 そのとき、日和は群青の皮肉そっちのけで妙なことに気がついていた。自分も向こう岸まで百二十メートルぐらいなのではないかと思っていたからだ。


 そんな昔話はもう思い出すことしかできない。


 もう何日も河川敷に行っていない。


 もう何日も外に出ていない。


 愛する妹は飢えに耐えかね死んだ。「ねえ、お兄ちゃん、お兄ちゃん」と駄々をこねる椎菜。「食べたい! 食べたい!」と日和の脚にしがみつく椎菜。不憫さに耐えかね仕方ないと群青に視線を送るが、群青は横に首を振った。


 日和はしゃがんで椎菜の頭を撫でた。


「ごめんな。もうないんだ」


 椎菜の泣き声だけが部屋に響いていた。背中をさすってやっても泣き止むことはなかった。抱きかかえても椎菜は泣き続けた。水道は流れていたからコップに水を入れ、「ほら、水だよ」と飲ませようとした。


「おいしくない! いらない!」


 椎菜の振り払った手にコップが当たり、床に落ちて割れた。ピカピカにすれば少しは喜んでくれるのではないかと思い、タオルで磨いたコップは無残にも砕け散った。


 それと同時に日和の中でも何かが砕け散った。


「だって……どうしようもないじゃんかよ……」


 床に散らばったガラスの破片を眺めながらうずくまった。椎菜が何か食べたいと言ったら椎菜を優先した。一日水だけで過ごすのはざらだった。それは群青も同じ。群青も日和と同じ思いだった。椎菜に食べさせるためにコンビニに行く度に、金があるのかと心配になった。金を管理しているのは群青だった。「金はまだ余裕があるのか?」と訊けばよかったのかもしれない。でも日和は聞かなかった。聞きたくなかったからだ。


 椎菜が寝静まった後、部屋には日和と群青の腹の音が響いた。互いの腹の音が聞こえるたびに、「腹が減っているのは自分だけじゃない」と互いが確認しているような気がした。群青の腹の音が聞こえなかったら……日和の腹の音が聞こえなかったら……多分きっと椎菜よりも早くに死んでいた。


 椎菜は反抗期なのか意地っ張りなのか、水を飲もうとしなかった。そのうち自分の腹も限界を迎え始め、日和と群青は椎菜に水を飲ませようとする行為をやめてしまった。椎菜はよく泣いた。「お兄ちゃんなんて嫌い」と喚きながら泣いた。そんなに泣くもんだから体力が尽きるのも早かったのかもしれない。

ぼやけた視界、おぼつかない手、脚、痙攣したような指先。火よりも群青も、以前のように椎菜に気を使ってやれるほどの体力が残っていなかった。群青は部屋の反対側で膝を抱えて俯いている。


 何を思ったのか日和は椎菜を撫でてやろうと思った。


「しいな」日和は這って椎菜の元に近づいた。


「しいな?」そういえば毎日泣く椎菜が今日は泣いていなかった。


「兄ちゃん!」


 日和が叫ぶと群青は即座に顔を上げた。抱えていた膝から手を離し、椎菜の元に駆け寄った。二人で椎菜の体を揺すった。息はしているようだった。だが、子どもの目から見ても相当弱っているように見えた。もう虫の息なのではないか……日和は泣きそうになった。だから唇を噛んだ。


「俺、くいもん探してくる」


 気づいたら日和はアパートの扉を押していた。


 そこら中を駆けずり回った。


 誰かに頼んでもらおうかと思った。


 コンビニから盗ってこようかと思った。


 声をかけ続ければ千円くらい恵んでもらえたかもしれない。でも、大人は信用できなかった。「お母さんは?」と聞かれ、答えずにいればすぐに警察に連れていこうとするから。


 なりふり構っていられない状況だった。金はないがコンビニに行こうかと思った。


 でも行かなかった。


 なんとなく母親に怒られるような気がしたから。


 成長した今だから言えるが、ろくでもない母親だった。キッチンに立つ後姿を見た記憶はない。母親の記憶で鮮明なのは玄関の扉を押す後ろ姿。いつも綺麗だった。幼い頃は自慢の母親だと思った。しゃがんだ母親と目線が揃い、頭を撫でられ、「いい子にしてるのよ」と言われるたびに元気に返事をした記憶がある。母親が男と遊びに行っていたと知るのは、もっとずっと後のことだ。


 でも、俺たちにとっての母親はあんたしかいなかった。


 ろくでもないかもしれないけど、そんな母親に怒られるような気がしたから。


「腹、減ってんのか?」


 公園を通りかかったとき、ホームレスが話しかけてきた。話したことはなかったが、コンビニに行く度この道を通ったので顔が知れていたのだろう。


「最近見かけねえから寂しいと思ってたところだったんだよ。ほら、これ」そう言うとホームレスはたまごのランチパックを二つ手渡してきた。


 日和は顔を上げた。


 ホームレスの顔は汚れていた。だが微笑んでいた。「全部わかってるよ」妹がいること、妹の好きなパン、妹がどういう状態か、すべて見透かされ、「全部わかってるから」そういう顔だった。偶々かもしれない、見当違いかもしれない。だが涙が自然と溢れた。


「ありがとうございます……」泣きながら言い残し、来た道を引き返した。階段を上った。アパートの扉を開けた。「兄ちゃん!」日和は叫んだ。「パン持ってきた!」椎菜の元に駆け寄り、袋を開いた。食べさせようと口元に持っていった。その手を群青が止めた。


「なにすん――」


 日和は後ろに手をついた。


 せっかくもらったパンだったが、腹は死ぬほど減っていたが、このパンだけは食べられなかった。そのあと群青と日和はホームレスの元へと返しに行った。




「ねえ、兄ちゃん」日和は俯いていた顔を上げた。群青は「何だ?」と言いたげに首を横に傾げた。


「河の向こう岸に行きたい」

「行ってどうするんだ?」


 どうしたい。何がしたいのだろうと自分に問う。いつか憧れた河の向こう側へ行き、何がしたい。どうしたい。どうしたい。「行ってどうするんだ?」という群青の言葉が頭の隅で音楽が流れるように繰り返されていた。邪魔だな、この音……と思いながらも必死に頭を悩ませていると、スッと一つの感情が沸き上がった。これを言語化するには……と思ったときにはすでに口走っていた。


「壊してみたい」


 口にしていたのは、驚くくらいに抽象的な言葉だった。そして、驚くくらいに群青の目を見入っていた。自分でも驚くくらいに、群青の瞳の奥まで見えていた。この淀んだ空気の漂ったアパートの一室。差し込む光は汚いガラスを通しているので当然汚いだろう。なのに、群青の目の、瞳の、奥の奥まで見透かそうとしていた。群青の瞳はピクリとも動かなかった。それが何だか不思議だった。いつもいつも言うこと成すこと否定されていたため、正直否定されるのかもしれないと思った。なのに、群青は黙っている。


 瞳が動いた。


「どうせ壊すなら、世界でも壊しちまうか」

「え? なんて?」

「なんだ、日和は壊したくないのか? 世界」


 想像していた回答とは違ったせいで、混乱しかかった。否定するどころか日和より上を行く馬鹿げたことを言っている。


「二十五歳だな」群青が呟いた。


「二十五歳?」

「そう。二十五歳になるまでは何とか生き延びなさい、それまでに大人の脳が形成されるから、ってコンビニの雑誌に書いてあった」

「意味わかんないんだけど」日和は瞬きを繰り返し、頭をひと掻きしたところで意図を汲み取った。「二十五歳になったら世界を壊しに行くってこと?」日和の考えが群青の意図と合っているかどうか、恐る恐る顔を覗くと、口角を上げてゆっくりと頷く姿が見えた。

「その時まで生き延びてたら、二人で世界を壊しに行こう」

「ちゃんと生き延びられるかな。母さんの四万じゃ、絶対二人で十年も暮らせないよ」

「大丈夫だよ。生き残れる。日和は気づいてるか?」

「何が?」

「目がいいんだ、俺たち」

「え?」


 そこで群青は、フッと大きく息を吐いた。直立の態勢から膝を曲げて屈み、膝に手を当てて小刻みに反動をつけながら、そしてまた立ち上がる。


「旅立ちだ。俺はこの目がある限り、十年経っても日和を見つける自信がある」


 黄ばんだ群青のシャツ。胸の辺りに印刷されている英語の羅列が、酷く濃く見えた。残像を追って、部屋から立ち去る足跡を追って、玄関にたどり着いたときには、もうすでに群青の姿はなかった。


 日和は扉の前で座り込んでしまった。群青のいつも履いていた黒のビーチサンダルが見当たらない。


 はあ、と一息で溜息が出た。前に群青が言っていた。「溜息が出たときはな、大体上手くいったときだ」


「意味わかんないし」


 鍵の閉まっていない、鉄の扉に向かって呟いていた。



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