バレンタインの夜は甘く
私の夫・将くんは女性にモテるタイプではない。
身長は私と同じ160㎝くらいだし、顔だちも平凡。眼鏡をかけていて髪型もぼさぼさ。学歴も収入も決して高くない。女っ気のない男子校出身で、いつも好きな読書に没頭していて、およそ女の子が好きなことなど理解していないまったくの朴念仁。
そんな将くんと、同僚に誘われて参加した合コンでたまたま隣同士に座って、読んでいた本の話で意気投合して付き合うようになって。
あの頃、将くんはいかにも嬉しそうだった。
「女の子とつきあうの、くぅちゃんが生まれて初めてだよ」
とろけそうな笑顔で、確かにそう言っていたのに……。
◇◆◇
「何、これ……?」
将くんと結婚して初めての年の瀬、大掃除をしていたときだった。
普段掃除しないスペースを掃除していて、私はあるモノに気がついた。
うちには沢山の隙間家具がある。
私は色々服や雑貨が多いし、将くんはとにかく本が多い。
それで、将くんが様々な種類の家具を買ってきて設置し、狭い我が家の壁を全て埋め尽くしているのだが。
将くんの本を収めているその手の家具は沢山あって、その中のスリムな本棚の上から二番目の少しスペースが空いているところに見つけたのだ。
「ゴディバの缶……?」
それは、金色の小さな品のいい缶だった。
それがまるで隠しているかのように置かれている。
『ゴディバ』といえば言わずと知れたベルギー王室御用達のチョコレートメーカー。
将くんは甘い物好きとはいえ、わざわざ自分でこんなブランドのチョコレートを買うとはとても思えない。
「誰か女の子からのプレゼントよね……」
きっとバレンタインのプレゼントに違いなかった。
そんな……。
四年前の初めてのバレンタインに、私がクーベルチュールチョコレートから本格的に手作りしたフォンダンショコラを前にして、「女の子からチョコレートもらえるなんて」と感激していたあの将くんの言葉は嘘だったの?!
そのゴディバの金色の缶を私はじっと凝視した。
そこには、誰か私の知らない女の子の将くんに対する想いが透けて見える気がした。
◇◆◇
その缶を何事もなかったように元の位置にしまったものの、私の心は穏やかではなかった。
将くんが私にも黙って隠している想い出の品。
そこにどんなロマンスが秘められているのか。
将くんは相変わらず呑気で、優しくて。
私は将くんに、「このチョコレート、誰にもらったの?」と問い詰めたかったけど、出来なかった。
将くんからもし、秘められた過去の想い出を語られたら立ち直れない。
将くんが出社している昼間、寝ているとき、本棚から何度も金色の缶を取り出し、手に取ってみる。
捨ててしまいたい。
突然、そんな衝動に駆り立てられる。
本当にそうしたら、将くんは気づくだろうか。
気づいて私を詰るだろうか。
『くぅちゃん……アレどこにやったの』
いつもの穏やかな表情とは違い、硬く、そして悲しそうな顔をした将くんの幻がちらつく。
悪い想像ばかりが胸を支配していく。
そうやって悶々と過ごす内に年を越し、いたずらに時は過ぎていって……。
◇◆◇
「ただいま」
その夜、いつも通り将くんは帰宅した。
お風呂を準備して将くんが上がる頃に、用意していたふろふき大根と粕汁を温め、海老やキスなど魚介の天ぷらを揚げながらキッチンで将くんを待っていた。
「うわあ、僕の大好物! キスの天ぷら美味そう。頂きます」
将くんはテーブルにつくと軽く合掌し、早速夕食を食べ始めた。
将くんはいつも美味しそうに私の作るモノを食べてくれる。
食べるだけでなく、どんなに疲れていても後片付けは率先してやってくれる。
将くんはこんなに優しくて、いい夫なのに……。
「うわっ くぅちゃん! 何泣いてんの」
私はいつの間にかぽろぽろと涙を零していた。
あの日以来、ずっとつかえていた胸の詰まりがもう限界に達していた。
「将くんの……将くんの馬鹿!」
「だ、だから何で」
「チョコレートもらったの、私が初めてじゃなかったの」
「チョコレート?」
「バレンタインよっ チョコレートもらったの私が初めてだなんて嘘つき!」
私はもはや逆ギレに泣いている。
「バレンタインのチョコなんて、くぅちゃん以外にもらったことないよ」
「じゃあ、これはなんなのよ?!」
そう言って、私はあのゴディバの缶を取り出した。
「このゴディバ、将くんの本棚に隠してあった……」
将くんはキョトンとしている。
「これがどうかしたの?」
「だから、ゴディバってことはバレンタインにもらったんでしょ!」
将くんはゴディバの金色の缶をしげしげと眺めていたけれど、ややあって「ああ、これ」と思い出したようだった。
「やっぱり……」とうなだれる私に、しかし将くんは笑いながら言った。
「これ。生保のオバさんにもらったんだよ」
「生保?!」
思ってもみなかったその言葉に、私は思いきりずっこけた。
「そう。保険のセールス」
「で、でも。いくら小さくても、セールスでこんなゴディバなんて高級チョコ……」
「この頃は僕、社会人になったばかりで何もわからないまま高い契約組まされてたから、それなりのモノがもらえたんだよ。すぐに解約して安い保険に乗り換えたから、今はピーナツチョコくらいしかもらってないよ」
「で、でも」
私は一番、気になっていたことを口にした。
「なんでそのチョコレートを後生大事に隠してたの」
それが一番の問題なのだ。
しかし
「隠してたわけじゃないよ。中身はとっくに食べてるし、缶をとってたのは、こういう小ぶりの缶って今時あんまり手に入らないから、ボルトとかナットとか小さなモノを入れるときにいいかなあって思っただけで」
他意はないんだ、と将くんは言った。
「なーんだぁ……」
私は脱力してしまった。
あれからずっと毎日、妄想に悩まされていた。
将くんが私にも黙って、内緒にしているバレンタインの想い出。
そこには私は立ち入ってはいけない気がして。
将くんと見知らぬ女の子とのロマンスに嫉妬して。
そう。
将くんに私より先にチョコを渡した女の子の存在も気になったけれど、それを将くんが私にも黙ってずっと大事にしまっているというその事実に私は傷ついていた。
『私とその娘とどっちが好きなの?!』
“妄想”の中の私は将くんにそう詰め寄り、なじっていた。
そして結局、本当の“事実”を聞かずにはいられなかった。
それもこれも全て将くんのことが本当に好きだから……。
「納得した?」
目の前の将くんは微笑んでいる。
いつもの穏やかな優しい瞳で。
ああ。私、こういう将くんが好きなんだ。
とくんと胸が鳴る。
結婚しても、まだドキドキする。
女の子にモテない将くんだけど、将くんの良さは私が一番よく知っている。
誰より優しくて、真面目で、誠実で。
さりげない気配りが出来る心の広い将くん。
他のどんな女の子も知らない将くんの良さを私だけが知っている。
それは私の小さな誇り。
「はい、これ」
私はわざとぶっきらぼうに、テーブルの傍らの椅子に隠していた白いリボンがかかったその箱を将くんの前に差し出した。
「わ。これ、もしかして……」
「そう。バレンタインのチョコレート」
「チロルチョコ?」
「なんでやねん!」
顔を寄せ合い、笑い合う。
「開けてもいい?」
そう言って、将くんがリボンをほどく。
「これ。……『デメル』? 新婚旅行のお土産に買った」
将くんの口元が懐かしそうにほころぶ。
そこには、三匹の猫の絵が描かれ、『LES LANGUES DORRES』『DEMEL VIENNE』と金色で印字されたイエローの小箱。
「ウィーンの本家本元のものじゃないけど、日本でも主要都市では売ってるから、ちょっと買いに出かけたの」
「デメルのチョコって、本当に猫の舌みたいだ。食べていい?」
将くんは、アイスクリームについている木製スプーンのような形をした薄いチョコを一枚取って、口にする。
「うん、美味しい! あんまり甘くないのがいいね」
「良かった。ミルクかスィートか迷ったの」
「猫モティーフのチョコっていうのがまた嬉しいよ」
「将くんって本当に猫好きよね」
「実家でずっと『みぃこ』を飼ってるからね」
「うちでも飼う? 私もお世話するわよ」
何の気なしに言った私を将くんが見つめる。
「嬉しいけど、猫より欲しいものがあるんだ」
「え、何?」
すると、将くんの顔が近づいてきて。
将くんは、ゆっくりと耳元で囁いた。
「え……?」
まじまじと将くんを見つめる。視線が交錯する。
将くんが告げた言葉が頭の中をリフレインする。
『くぅちゃんの赤ちゃんが欲しい』
そう、確かに囁いた……。
うっすらと頬が赤らむ。
そんな私を将くんは優しく抱き締めた。
甘く、そして艶やかに、ふたりで過ごすバレンタインの夜が更けてゆく。
本作は、藤乃澄乃さま主催「バレンタイン恋彩企画」参加作品です。
参加させてくださった澄乃さま、お読み頂いた方、どうもありがとうございました。