聖紋使いと泣いた竜
☆1☆
「間違いなくドラゴンです。が、近隣の村々を襲った黒竜ではなく、その色は赤、真紅の赤い竜です」
斥候の報告に辺境の若き隊長が決断する。
「憂いは断つべし。色は違えど、ドラゴンに変わりはない。被害が出る前に、速やかに掃討する。距離30まで歩兵を前進。包囲網を展開後、弓兵による一斉射撃を行い、突撃だ!」
大気の流れの中に、かすかな人の気配を感じ取り、赤竜が重々しい鎌首をもたげ周囲を警戒する。と、
ザァーーーーーッ!
天を覆うように矢の雨が赤竜に降り注ぐ。
バサッ!
赤竜が翼で矢を振り払う。
届いた矢も重甲冑じみた硬さを誇る、竜の鱗の前に、傷一つ付ける事が出来ない。
怒号をあげ兵士が赤竜に群がる。
鈍重そうな赤竜の巨体が素早くひるがえり、胴ほどの太さがある尻尾が鞭のように唸る。
次々に薙ぎ倒される兵士たち。
その隙を衝くように、騎馬に乗った騎士が、赤竜に迫り、剛剣を振るう。
騎士の身体に紋章じみた緑色の気脈【聖紋】が浮かび上がり、
「もらった!」
両手に握った剣先を深々と赤竜の眉間に突き刺す。
背筋が凍るような激しい咆哮が辺り一面にあがり、兵士の誰もが勝利を確信した。
直後、赤竜のあぎとが騎士に喰らいつく。
紙屑のようにヒシャげる騎士の甲冑。
食い込む牙の間から飛び散る鮮血。
「ぐっ……あ、浅かった、か……」
騎士が呻く。
それでも、なお剣を突き立てる騎士。
それを振り払おうと唸りを上げて首を左右に振る赤竜。
ついに、騎士の身体は赤竜から離れ宙を舞う。
硬い樹木へ叩き付けられ、騎士が意識を失う。
手負いの獣と化した赤竜は咆哮をあげて周囲の兵士を薙ぎ倒し、狂ったように大空へと飛び立つ。
兵士が口々に隊長と呼びながら、倒れた騎士へ駆け寄った。
が、すでに騎士の命は果てようとしていた。
☆2☆
これより少し前、ファルという少女が、騎士団の隊長である兄の加勢を思いつき、女だてらに軽甲冑を着込んで意気揚々と深い森の中の探索を始めていた。
西の森で戦いの喚声があがり、雷鳴のような竜の鳴き声とともに静寂が訪れたのを耳にし、ファルが音のした方向へ足を向ける。
陽に焼けた引き締まった身体は、足場の悪さを物ともせず、平地を歩くように森の中を進む。
ファルの年齢は15才ほど、長い黒髪を三編みにして背中で束ねている。
顔付きは辺境の少女らしい鋭い眼差しと野生の獣のような凛とした雰囲気を漂よわせている。
今は戦いを前に、緊張感に溢れた戦士のような顔つきに変わっている。
☆3☆
大地を揺らす地響きにファルの足が立ち止まる。
地震ではない。
すぐそばに何かが落ちたのだ。
それも、かなり巨大な、何かが。
ファルがさらに歩を進める。
草を掻き分け、薙ぎ倒された木々の間から慎重に覗くと、
「黒竜か……?」
一匹の竜が倒れている。
ファルが隙なく剣を構え直し、ゆっくりと竜に近づく。
竜の眉間に突き刺さった剣を見て、
「あれは……兄者、ルシオンの剣? ドラゴンを仕留めたのは、兄者か?」
と呟く。
途端に竜が馬のいななきのように喘ぐ。
ぎょっとして後方に跳ね飛ぶファル。
「まだ……生きて、いるのか?」
竜を見つめるファル。
それっきり竜は動かなかった。
薄目を開けたまま、じっとファルを見つめる。
「観念したようだな」
言い終わると、ファルの身体に青色の紋章を思わせる美しい気脈【聖紋】が浮かび上がった。
ジリジリと竜に近づき、剣を振り上げるファル。
刹那、少女とは思えない鋭い斬激を放つ。
軽量ながら、踏み込んだ足元が地中深く食い込み、剣を天に向かって跳ねあげる。
凄まじい一太刀だが、切っ先は竜の首ではなく、眉間に刺さった剣をはね飛ばした。
小気味良く、騎士ルシオンの剣が宙を舞う。
「兄者の剣を返してもらう。あたしが聞いた話では、悪い竜は黒い竜であって、赤い竜ではなかったはず、お前が襲われたのは、きっと、何かの間違いだろう。命までは取らない。そのかわり、二度と村の近くに近づくな」
そう言い捨てファルが足早にその場を去った。
☆4☆
村へ戻ったファルが、屋敷の一室で傷だらけのルシオンの姿を目にするや、全身の血を凍りつかせたかのように震えだす。
医術の心得のある者が溜め息を吐き、手は尽くした。
あとは、神の御心に委ねる他ない。
とファルに告げる。
「兄者をかような目に遭わせた竜は、赤い竜かっ!」
ファルが叫ぶ。
兵士が首を縦に振る。
ファルは踵を返し、森へ駆け戻った。
怒りに我を忘れ、赤竜を討つ鬼と化す。
疾風のように脚は走り、燃える瞳には、世界は流れる墨のように色褪せて見える。
息を切らせ、瞬く間に赤竜と出逢った場所へたどり着いたが、竜はいなかった。
すでに裳抜けの空である。
ファルは剣を地面に突き立て赤竜を罵倒する。
やり場の無い怒りは、やがて悲しみへと変わった。
ファルの悲痛な叫びが森に響き渡る。
☆5☆
オートミールの入った皿が壁に弾かれ粉々に砕け散る。
「兄者が目覚めるまで、あたしは、一切、何も口にしない! 情けは無用です!」
げっそりとやつれながらも、瞳の輝きだけは尋常でないファルが村人を一喝する。
ルシオンとファルを慕う村人が、数日、絶食しているファルに食事を運んだのだが、ファルは頑なに拒否した。
辺境屈指の武術の達人として名を馳せたファルの両親だが、長い戦乱の果てに二人とも名誉の戦死を遂げた。
両親が死ぬや、弟子は一人残らず去った。
残ったのは、まだ少年と言っていいルシオンと幼いファルの二人きりだけだ。
ルシオンは家財は切り売りして、かろうじて、日々の生計を立てていた。
長い年月を経て、ようやく、ルシオンが辺境警護の隊長に昇格し、お家再興の目処がついた矢先の出来事である。
黒竜の討伐に失敗し、ルシオンは生死をさ迷う意識不明の重体。
しかも、ルシオンをそんな目に遭わせた、憎い仇ともいえる赤竜を、ファル自身が逃がしたのだ。
ファルの悔しさは計り知れない。
ファルは自分自身が許せなかった。
その身を内から焼き付くす焦燥に責め苛まれていた。
☆6☆
チリーン……。
屋敷の外で鈴の音が鳴る。
行商人だろうか?
ファルが屋敷を出て表に出る。
若い男が箱を背負い、鈴の付いた杖を鳴らしている。
清涼な響きに心が和らぐ。
男はファルを見掛け声を掛けてくる。
「薬の行商をしております。良薬を辺境の方々に売るために参りました。こちらに重症の方がおられると聞き及び伺いました。医術の心得も少々あります。差し支えなければ、ルシオン隊長にお目通り願えませんか?」
礼儀正しい薬師だ。
およそ行商人風情には見えない。
貴族の風格さえ漂う。
穏やかで優雅な物腰にファルが、
「薬師様をお呼びしたいのは山々ですが、我が家には薬師様にお支払いするだけのお金がございません。大変申し訳ありませんが、今日の所はお引き取り下さい」
薬師が背負っていた箱をおろし、薬を小箱に詰め替える。
小箱を開いて虹色の丸薬をファルに見せた。
「ドラゴンの生き胆、フェニックスの尾羽、サラマンダーの鱗、緋百合、天神火草、他、数十種の薬剤を練り込んだ、死者すら蘇らせる奇跡の丸薬、《竜命丹》です。お代はいりません。ルシオン隊長の武勲こそ、私の報酬です。どうか、お気になさらず、お受け取り下さい」
薬師が真摯にそう言う。
その言葉に嘘はない。
しかし、ファルはかしこまった態度で、
「薬師様、神のように深い慈悲と、ご厚意に感謝致します。ですが、対価無しに竜命丹を受け取るわけには参りません。あたしもルシオンも、武家の子です。我らは乞食ではありません。例え死すとも、武家の子は家名を傷つけるような真似は致しません。怪我に伏せる兄者とて、それは同じ気持ちのはず」
薬師が典雅に微笑む。
「お許しください。侮辱する気はありませんでした。武家の心をないがしろにした私の罪、慎んでお詫び申しあげます」
そう言い残し、薬師は来た道を戻る。
途中、屋敷を振り返って見つめる。
広壮な屋敷だ。
が、手入れは行き届いていない。
幽霊屋敷のように荒廃の一途を辿っている。
困窮の極みにあるのは一目瞭然だ。
☆7☆
翌朝、近隣の農夫が畑に落ちている金貨を見つけた。
さらに、遠くの空に、輝く光が落ちていくのを目にする。
何事か?
と空を見上げると、真紅の朝焼けの中、一匹の赤い竜が、金貨の詰まった袋をいくつも両足に抱えて飛び去って行った。
金貨はその袋からこぼれた物だ。
と農夫は悟る。
農夫は狂ったように叫んだ。
「ききき、金貨じゃあああっっっ!」
近隣の農民が総出で畑に落ちた金貨を拾いあげた。
全員が突然の幸運を神に感謝する。
ファルも例外ではなかった。
大量の金貨が詰まった袋を前に茫然自失の態に陥いるファル。
まだ夜も明けないうちに、突然、何かが落ちる物音に驚き、寝間着姿のまま庭に飛び出した。
すると、目も眩むような金貨の山が屋敷の庭に落ちていたのだ。
驚かないほうがおかしい。
チリーン……。
小気味良い鈴の音とともに昨日の薬師が再び現れた。
「これは見事な輝きですね。これなら薬代には事欠かないでしょう」
言うなり金貨を2、3枚手に取り屋敷へと入る薬師。
「薬師様! お待ちください! この金貨は我が家の金貨ではありません!」
「お日様の輝き、優しい雨、健やかな風。天から授けられる物は、誰の物でもありませんよ。天から降った、この金貨もしかり。すべては、神の思し召しです。ところで、あなたは、まず、その身なりを改めるべきですよね」
「へ?」
ファルが間の抜けた声をあげた。
途端に顔を赤らめる。
露出の多い寝間着姿である事に気が付いたのだ。
ファルが短い悲鳴を上げて室内に飛び込む。
何という大失態。
薬師様に会わせる顔がない。
歯軋りしながら羞恥の炎に焼かれる。
次いで思考が泥沼の深みに落ち込む。
が、勝手に屋敷をうろつく薬師を放っとくわけにはいかない。
普段着に着替え、顔を火照らせながら、ルシオンの寝室に向かう。薬師がルシオンの治療に向かったのは間違いない。
☆8☆
「今、竜命丹を飲ませた所です。生命の気脈が途切れかけていたので、私の《気》も送って補完しました。危険は去りましたが、予断は許しません」
真剣な表情で語る薬師。
頬に掛かった流麗な赤い髪を払いあげる。
美しい横顔が見えた。
服の裾をたくし上げ、右手をルシオンの胸に当てる。
均整の取れたしなやかな腕に紋章じみた赤色の気脈【聖紋】が浮かんでいた。
【聖紋】はルシオンの胸元まで広がり、ルシオンの顔に生気が戻った。
己の生命力を《気》に変え【聖紋】を通じて病人に分け与える、高度な医術だ。
《気》自体はファルも練れる。
ただし、ファルが使う【聖紋】は身体を強化する【聖紋】だ。
同じ気脈を使った《術》でも内容は百八十度異なる。
ファルの【聖紋】は敵を倒すための《武術》だ。
女だてらに甲冑を纏って身体的に圧倒的に不利な男と混じって同等に戦うためには【聖紋】を駆使する能力は欠かせない。
生まれつき備わった強力な《気》と《気脈》【聖紋】を制御する鍛練を、ファルは幼少の頃より続けて鍛えあげていた。
「終わりました」
薬師が告げる。
それまで死人のように青冷めた顔つきをしていたルシオンが、今は健やかに落ち着きを取り戻している。
ファルが感謝の念が堪えない顔つきで、
「このたびの仕儀、薬師様に対し、お礼のしようもございません。天から授かった、あの金貨、あれを全部、薬師様に与えても不足な気がいたします。薬師様さえよろしければ、兄者ルシオンの為に、この屋敷に留まって治療を続けてくれないでしょうか? あばら家ながら空いている部屋には事欠きません。いつまで滞在して下さっても構いません。どうか、よろしくお願い致します」
ファルが叩頭(こうとう※土下座のように額を地に着ける最上級の礼)をする。
薬師がファルに顔をあげるよう即し、
「私も初めからそのつもりです。病人を見捨てる気は毛頭ありません」
「薬師様、それを聞いて安心しました」
言うなり自室へ戻ると、ファルが勇ましい軽甲冑姿に着替えて舞い戻った。
甲冑を打ち鳴らし、
「あたしはこれより、赤竜討伐の旅に出ます。赤竜の首を討ち取らない限り、死んでも村には戻りません。くれぐれも兄者の事、お頼み申します。では、さらばっ!」
言い残すや屋敷を飛び出す。
薬師が呆気に取られていると、
「あいつは、昔っから気が早くて、思い込みの激しい奴なんだ。そのせいで、周囲に誤解を与える事もあるけど、ああ見えて、意外と優しい面もあるんです。何より、兄思いの、可愛い妹って奴ですよ」
ルシオンが言いながらウェーブの掛かった金髪をかきあげる。
怪我のせいでなかなか上手くいかない。
「ルシオン殿。気がつかれましたか」
「薬師様の賢明な処置のおかげで、なんとか助かりました。ところで、意識を失っている間に、俺は不思議な夢を見たんです。それは、一匹の赤い竜が、俺に生気を与える……という、不思議な夢です」
薬師が微笑を浮かべ、
「生死の境をさ迷うと、病人は往々にしてそのような、非現実的な夢を見るものですよ」
「薬師様。あなたは俺の命の恩人だ。感謝しきれないほど感謝している。そこで、感謝ついでに、もう一つお願いしたい事があります」
薬師がニコやかに応じる。
「病人のおっしゃる事を無下に断る真似は致しません。どうぞ、遠慮なさらずに仰って下さい」
「とりあえず……縄でくくってでもいいから、妹のファルを連れ戻して下さい。赤竜は強い。小隊の俺ですらこのザマだ。ファルごときに倒せるわけがない。同じドラゴン属なら……可能かもしれませんが」
意味深長に薬師を見つめ、ルシオンがつぶやく。
薬師が優雅に立ち上がり、美貌に輝くような笑みを浮かべる。
「妹君の事はお任せ下さい。手荒な真似は致しません。理をもって説得し、連れ戻して参りましょう。ルシオン様はそれまで、ご無理をなさらず。静養に努めて下さい。竜命丹は1日1粒を服用して下さい。1粒飲めば死者をも蘇らせ、2粒飲めば常人を遥かに超える《力》を発揮いたします。但し、強力な薬である反面、3粒以上服用すると、間違いなく死に至ります。くれぐれも用法用量をお守り下さい」
ルシオンがうなずく。
屋敷を出た薬師が風のように立ち去った。
ルシオンがぼやく。
「人間ではあるまい、な。一体、何者か? 妖かしか? それとも……竜の化身か?」
ルシオンの疑念は晴れなかった。
☆9☆
満月を背に、夜空を切り裂く二匹の竜が、猛烈な速度で追いつ追われつ、大空を螺旋状に飛び交う。
竜が交差し、鋭い牙、巨大な鉤爪が激突し激しい火花を散らす。
赤い竜が翼を震わせ、黒い竜との距離を開ける。
赤竜の胸が紅蓮の炎のように明滅し、上顎が大きく裂ける。
途端に口中から凄まじい熱線を吐き出す。
炎は黒竜の背中に直撃した。
爆散した炎が地上へ飛び火し、山々が炎上する。
赤竜が熱線の第2波を黒竜に放つ。
それに構わず、黒竜は赤竜に向かって背中から突進する。
黒竜の背中に生える、鋼のような硬い鱗と無数の鋭い棘が赤竜に突き刺さる。
赤竜は吹き飛び、枯れ葉のように回転しながら樹木を薙ぎ倒す。
転倒した赤竜に黒竜か襲いかかる。
赤竜に馬乗りになり、長い鉤爪で赤竜を抑え付けようとするが、一瞬の隙をつき、首をひねった赤竜が黒竜の腹に食いつく。
鋼じみた背中とは違い、腹は容易に食い破られる。
さらに、赤竜は渾身のブレスを地獄の業火さながら、黒竜の体内に吐き出す。
黒竜の身体が超高熱の熱線に耐えられず、風船のように膨張、瞬時に臨界点を超え、無敗の盾である外郭が真っ赤な亀裂とともに爆散する。
黒竜の身体が木っ端微塵に飛ぶ散った。
赤竜が月に向かい、勝利の雄叫びをあげる。
☆10☆
月明かりを頼りに、夜の闇を疾駆するファル。
突然、山の奥から聞こえた爆発音に驚き、現場へと向かう。
ファルが目にしたのは、山火事のような炎の海と、焼け焦げた黒竜の破片だった。
腐った肉が焼けるような、吐き気を催す臭気に口許を押さえながら、ファルが子細に周囲を観察する。
「急激な熱膨張に耐え切れなくなって、内部から破裂したようですね」
「その通りです。辺境の学問も進んでいますね。ファルのご明察に感服です」
背後から聞こえる弱々しい声に、ファルが振り返ると、身体中が傷だらけの薬師が折れた大木に腰を下ろしている。
「薬師様! どうしたのですか? そのお姿は?」
薬師の衣服は所々裂け、身体中傷だらけである。
「森をさ迷っていたら、二匹の竜の闘いに巻き込まれてしまいました。迂闊でした。けど、たいした傷ではありませーー」
言い終わるのを待たずに、ファルが薬師の破れた衣服を引き裂き、手持ちの薬を薬師の傷に塗り付ける。
「薬師様の薬ほどではありませんが、戦場で重宝される、兵士の携行薬品です」
裂いた衣服を包帯がわりに、患部を巻いていくファル。
「棘の刺さったような傷が、特に酷いですね。薬が効くといいのですが……ところで、薬師様は何故こんな山奥に入って来たのですか?」
薬師が力なく笑う。
「あなたを連れ戻すためですよ」
ファルが薬師を睨む。
「赤い竜を、兄者の仇を討つまでは帰りません! そう言ったはずです!」
薬師が苦笑する。
「笑い事ではありませんっ!」
ファルが怒鳴る。
薬師が謝った。
「すみません。ファルのおっしゃる事ももっともです。が、その敵ならすでに、ご覧の通りです」
薬師が黒竜の死体を指差す。
ファルが反論する。
「あたしが探しているのは赤竜です!」
薬師が宥めるように、
「村を荒らしたのは黒竜なのでしょう」
「兄者を死地に追い込んだのは赤竜です!」
「赤竜に、戦う気はなかったかもしれませんよ……人に襲われたから、仕方なく、咄嗟に反撃したのでしょう」
「薬師様は赤竜を擁護するのですか! 竜は人を脅かす魔物です! 世界の敵です!」
薬師が一転、恐い顔をし、
「世界は人の物に非ず」
続けて穏やかに、
「ファルが敵だと思う物は、すべて、ファル自身が作り出した幻です」
ファルが途方に暮れる。
「薬師様のおっしゃる意味が分かりません。この話はもうやめましょう。村までお送りします。が、仇討ちは、あたしの問題で、薬師様には関係ありません。どうか、放っておいて下さい」
「ファルは頑固ですね」
「武家の娘が意思を曲げるわけにはまいりません!」
「ファルがチャンバラで人生を無駄に浪費するのが残念です。若く、美しく、人生で一番輝く時なのに、それが一瞬の夢のように短い。儚く消え去る幻であることを分かっていない」
「あたしにどうしろとおっしゃるのです! はっきりおっしゃって下さい!」
薬師がまじまじとファルを見つめる。
「私はファルに助けられました」
「手当てをしたまでです」
「私はファルに感謝以上の好意を抱いています」ファルが当惑する。薬師がファルの瞳を覗き込みながら、「分かりませんか? それでは、はっきりと申しあげましょう。私はファルが好きです。あなたを愛しているのです」
薬師の真剣な眼差しに、顔が爆発的に赤くなるファル。
「かっ、からかわないでくださいっ!」
「私は本気です」
「あたしは、あ、兄者の仇を討たなきゃ、い、いけないんです! 薬師様を信頼して兄者を任せたのに、からかうなんて、ひ、酷いです!」
ファルの動揺に構わず、
「ルシオンなら目覚めましたよ」
「えっ! 兄者が? 本当に……そうなのですか?」
「早くあなたの顔が見たいと、おっしゃってましたよ。あなたがいないと寂しいそうです」
ファルの顔が明るく輝く。
「それを早く言ってください!」
ファルの身体に青色の紋章じみた気脈【聖紋】が浮かびあがる。
黒竜の死骸に近づくと、
「はっ!」
気合い一閃、刀身を振り下ろす。
すると、黒竜の上顎が音も無く滑り落ちた。
ファルが腕を伸ばし、その角をつかみ、軽々と持ち上げる。
「赤竜の首でないのが残念ですが、黒竜の首なら兄者も納得してくれるでしょう」
言い終わると、岩山を軽快に飛び越えるファル。
「待ってください」
ファルが振り向く。
影のように薬師が寄り添っていた。
「先ほどの返事がまだですよ」
ファルが真剣な表情で、
「冗談なら、例え薬師様でも許しません。本気なら……それは、お門違いです。武家の娘に二心はありません。あたしは修行中の身です。おわかり頂けますか?」
薬師が肩をすくめ、
「あなたは、まるで駄々っ子ですね。それとも……もしかして、本気で兄上を愛しておられる?」
ファルの表情が激変する。
髪が逆立ち、憤怒とも羞恥ともつかない、苦し気な表情を浮かべる。
凍りついたように固まった。
「図星ですか? これは……参りましたね。墓穴を掘ってしまいました。でも、私は諦めませんよ。なにしろ、あなたは……強くて、優しい。なにより……」
薬師がファルを見上げる。
煌々と冴え渡る満月の下、黒竜の首をぶら下げ、剣を杖がわりに大地に突き立てる、頑強な岩山をものともしない、しなやかな肢体、研ぎ澄まされた鋭い顔つき、全ては凄艶とさえいえる凄みに満ちた美しさだ。
その身体には美しい青色の、紋章を思わせる精緻な気脈【聖紋】が輝く。
「……美しい」。
それまで凍り付いていたような顔つきが一転、拍子抜けした顔つきに変わる。
ファルが叫んだ。
「やっぱり、からかってるんじゃないですか! 何が『強くて、優しい、美しい』ですか? 三拍子揃った決め台詞を言われても、騙されませんよ!」
ヘソを曲げたファルに対し、
「子供相手に、愛は早すぎましたね。反省です」
と薬師がぼやく。
一刻後、二人は村へ戻った。
ファルとルシオンの感動の対面は書き記すまでもない。
☆11☆
天気の良い昼下がりにファルが大空に向かって弓を構える。
その身体に紋章のような気脈【聖紋】が浮かぶ。
鋼の弓は屈強な男が3人がかりでも容易には引けない強弓だが、ファルは易々と弓を引き絞る。
数瞬後、ファルの瞳に天高く舞う二羽の鷹が映る。
と同時に矢が放たれた。
天を裂き矢が二羽の鷹に命中する。
枯れ葉のように落下する鷹。
が、途中で慌ただしく羽を広げ直し、再び空へ舞い上がる。
薬師が感嘆の声をあげる。
「耳を狙って射ちましたね。鷹が見事に気絶しましたね。しかも、二羽まとめてとは、入神の絶技ですね」
ファルが謙遜する。
「母上と比べたら、あたしなんてヒヨコ同然です。母上は弓聖と呼ばれた、名高い騎士なのですから」
「赤竜を射ち落とせば、母上以上ではないですか?」
薬師が悪戯っぽい笑みを浮かべる。
「明日の朝あたり、もしかしたら、この辺りを飛ぶかもしれませんよ」
ファルが憤慨する。
「赤竜が姿を現すなら、明日といわず、奴が現れるまで、あたしは何日でも弓を張って粘ります」
「赤竜がこの辺りを飛ぶ時は、いつも宝を落とすので、近隣の村人に感謝されていますけどね」
「悪は悪! 赤竜は憎き仇! 絶対許しません!」
ファルの瞳が炎のように燃える。
肩をすくめ薬師が屋敷に戻る。
その晩、ファルは野戦用の低いテントを庭に設置し、そこに籠もって朝まで寝ずの番をした。
夜明け前、夜空が明け白む頃、真紅の朝焼けを背景に、大空を横切る竜のシルエットをファルが視界に捉えた。
千載一遇のチャンスとばかりにファルは武者震いをする。
ファルの身体に青色の紋章じみた気脈【聖紋】が浮かぶ。
弓を引き絞る響きが空気を震わす。
弦を離し次々に矢を射る。
「痛っ!」
ファルの指先が切れる。
指先に紅玉のような赤い血が滴る。
「あたしには母上のような真似は早すぎるか」
弓聖と呼ばれるファルの母は、七つの矢を瞬時に放った。
「あたしは五本が精一杯。無理をしても指先を痛めるだけ」
ファルの放った矢は空を切り裂き赤竜に迫る。
当たった!
と思った瞬間、赤竜の巨体が傾ぎ地上へ落下した。
「やった!」
喜びも束の間、地上すれすれで赤竜は反転し、再び大空へと舞い戻る。
そのまま、天空の彼方に消え去った。
「駄目だったか」
ファルが項垂れると、突然、鈍い音とともに一本の矢が、庭の端に突き刺さる。
赤竜に放った矢である。
ファルが不思議に思い調べてみると、矢に何かが巻き付いている。
「罠か?」
とファルが恐る恐る取り外そうとすると、
「これはまた、随分と美しいドレスですね」
薬師が矢に絡まった衣服を広げ、気楽に喋る。
ファルが激昂する。
「なっ! 何をなさるんです! 罠が仕掛けてあったら、どうするんです!」
「ただのドレスですよ。おや? ファルのサイズにピッタリですね」
薬師がドレスをファルにあてがう。
「チャンバラに明け暮れているファルに早く婚活しろ、というメッセージを持って来たのかもしれませんね」
「余計なお世話です!」
ファルが憤慨しながら屋敷に戻る。
が、途中で引き返し、ぶっきらぼうに、
「とりあえず、そのドレスに危険がないか、あたしが調べてみます。なので、念のため、預かっておきます。あくまで念のためです。別にドレスが欲しいとか、そんなんじゃないですからね! 変な誤解をしないで下さい! ドレスの持ち主が現れるまで、とりあえず、預かっておくだけですからね!」
と、まくし立てドレスを引ったくるファル。
「着てみたらどうですか?」
「預かるだけです!」
「着ないのでは、せっかく綺麗なドレスが勿体無いですね」
「人様のドレスを勝手に着れません! 勝手に着たら泥棒です!」
「ファルなら似合うと思うんですが、残念です」
ファルが薬師を睨みながら屋敷に入った。
部屋に戻るやドレスをあてがい、鏡の前で入念に様々なポーズを取る。
しかし……悲しいかな、徹夜明けでボサボサの髪、寝不足で出来た目の下のクマ、《気》の放出でガサつく肌。
そんな自分の惨めな姿に……、
「こんなの似合うわけないじゃない!」
と怒鳴り散らし、肩を落としドレスをドレッサーにしまった。
☆12☆
王国の遣いの者が、きらびやかな馬車の隊列を組み、ファルの屋敷を訪れたのは、薬師がルシオンに《気》を送り、竜命丹を飲ませ終わった、気だるげな昼下がりの午後だ。
豪奢な官衣を纏った大臣が、居丈高にファルに告げる。
「此度の黒竜並びに赤竜撃退の件、官民問わず、ファルの名声は王国の隅々にまで及んでいる。感謝の念は永らく絶えず。よって、その功績により、国王陛下より、ファルの王宮入りの勅命が直々に発せられた。ファルは我らと共に王宮へ赴き、陛下に謁見されたし。速やかにご同行願いたい」
ファルが寝耳に水、という表情を浮かべ、
「お待ち下さい大臣様。あたしは兄者の仇、赤竜をまだ討っておりません。赤竜討伐を成し遂げるまでは、しばし、ご猶予を賜り下さい」
大臣が勅命の証文を広げ、
「陛下の勅命である! 騎士ならば、この意味は分かっておろう!」
ファルが歯を食い縛り、
「騎士は、王に絶対の《忠誠》を誓い、王は臣下の《権利》を守る。ですが……」
「俺の事はいいから、早く行ってこい。赤竜は、俺が倒してみせる。上手くいけば、玉の輿も夢じゃないぞ。富クジの一番に当たったと思って、王都へ行ってこい。ついでに、少しは、女らしさも磨いてくるんだ」
薬師の肩を借りながら、ルシオンが苦しげに呟く。
「で、でも、あたしは……あ、兄者が……その、心配で……」
「心配無用。薬師様と竜命丹があれば、何の問題もない。とにかく、こないだ赤竜が落としていったドレスを着て、正装が済んだら、大臣とともに王都を目指せ、ファル」
ファルが渋々といった調子で、
「分かりました。兄者がそうまで仰るなら、あたしは兄者に従います」
☆13☆
ファルが純白のドレスを着て支度を済ます。
ファルの正装にルシオンが瞳を見開き、
「孫にも衣装だな。見違えたぞファル。とても我が妹とは思えん。王候貴族も顔負けの麗しさだ。国王陛下もきっと喜ぶ」
薬師も感心し、
「ファルのこういう姿は、恐らく、二度とお目に掛かれないでしょうね。眼福です」
ファルが唇を尖らせ、薬師に喰って掛かる。
「余計なお世話です! では兄者、行って参ります。どうか、お身体にお気をつけください!」
ファルの瞳が潤む。
馬車に乗ろうとして空を見上げる。
秋の空は暮れるのが早い。
夕焼けが空一面に、燃えるように赤々と広がっていた。
辺境の景色もこれで見納めだ。
ファルが感慨に浸りながら乗車した。
間もなく、大臣一行が出発する。
一行の姿が見えなくなり、屋敷に戻ったルシオンが真顔で薬師に尋ねる。
「薬師様、俺の命は、あと、どれぐらい持ちますか?」
薬師が肩をすくめ、
「あと、三日……という所でしょうか?」
「そうか、最後にファルの晴れ姿が見れて良かった。もう、目が霞み始めている、から……な」
「まだ、最後ではありませんよ。またすぐに、ファルにお目に掛かる事になります」
「どういう意味だ?」
「あの大臣一行は真っ赤な偽物です。勅命の印が微妙に歪んでいました。村の鑑定士に見せれば、すぐ偽造した勅命だと分かるでしょう」
薬師が瞳を細め、
「なので、今からファルを取り返しに行ってきます」
薬師が笑顔で振り返る。
「わざとファルを行かせたのは、彼女のドレス姿が一度は見たかったからです。ただし、この事はくれぐれも、ファルには内密に願います」
ルシオンが呆れる。
構わず薬師は屋敷を出た。
大気を震わす羽ばたきの音が聞こえ、すぐ、何事も無かったかのように静寂に包まれる。
ルシオンが舌打ちする。
薬箱に手を伸ばし、竜命丹二粒を取り出した。
☆14☆
馬車に揺られながらファルはルシオンの身を案じた。
赤竜退治なら、いつでも気楽に我が家に帰れる。
しかし、王都となると、そうはいかない。
下手をすると、一生ルシオンに会えないかもしれない。
後ろ髪引かれる思いで、馬車の窓から見え隠れする村を眺める。
それを付き添いの、少々逞し過ぎる身体つきの侍女が、低い声で夜風は身体に障ります。
と言いカーテンを降ろしてしまう。
まるで囚人の護送車に揺られている気分だ。
ファルは今にも息が詰まりそうになる。
気分を紛らすために、昔の、幼かった頃の記憶を回想する。
ルシオンとファルは戦災孤児で、血の繋がりはない。
両親は強い《気》を持つ子供という理由で、ファルとルシオンを養子として引き取った。
以来、武門の弟子同様、二人は厳しく鍛え上げられる。
血は繋がっていないものの、家族の絆は血族より遥かに濃く、固く、結ばれている。
鉄血の絆である。
時折、ファルが稽古で音をあげそうになると、ルシオンは決まってファルを励ました。
朝から晩まで剣を振り続け、ファルが立って歩くことも出来なくなると、ルシオンは自身の疲れもかえりみずに、迷わずファルをおぶってやった。
時には、余力があるにもかかわらず、ファルはルシオンに甘えておぶってもらった事がある。
ファルはルシオンの筋肉質な引き締まった背中が大好きだ。
流れる金髪、雪のような白い肌も大好きだった。
とても苦しい日々の連続だったけれど、子供の頃にルシオンの背中越しに見上げた夜空には、落ちてきそうなほどの満天の星が輝き、ファルはいつまでも星々の輝きを飽きずに眺めていたものだ。
成長するにつれて、いつまでも甘えるわけにはいかなくなったが、今でも、あの頃の優しかったルシオンを忘れた事は一度もない。
ファルが幸福な思い出に浸っていると、突然、重低音の巨大な地鳴りとともに、凄まじい咆哮が辺り一帯に鳴り響いた。
☆15☆
大臣一行の前に巨大な赤い竜が立ち塞がる。
身の丈、六、七メートル。
茫然自失の態で兵士が巨竜を見あげる。
そんな中、一人、大臣だけが冷静に戸惑う兵士たちを叱咤する。
「でかいトカゲに怯むな! やれっ!」
途端に兵士が手に武器を取り赤竜に襲いかかる。
赤竜は鬱陶しげに翼の一振りで雑魚の群れを退ける。
さらに、赤竜の胸元が真っ赤に明滅し、激しく燃え上がる。
大臣が吠える。
「ブレスだっ! 退避っ!」
逃げ惑う兵士がブレスの猛火に晒される。
ファルの乗る馬車も熱波の余波を受けて吹き飛んだ。
半壊した馬車からファルが転がり出る。
赤竜に気付き、転がっていた兵士の剣を拾いあげ憤怒の形相を浮かべる。
「赤竜っ! よくもっ!」
ファルが打って出ようとすると、
『娘! この者たちを、とくと見よ!』
直接、頭に響く絶対的な《声》にファルは雷鳴に撃たれように立ちすくむ。
が、すぐに我に返り、周囲を見回すと、甲冑を吹き飛ばされた従者の肌には、黒々とした入れ墨が彫られていた。
さらに、囚人が罰として受ける焼き印がある者も多数いた。
装飾品もメッキが剥げ落ち、ガラクタ同然である事は一目瞭然だ。
大臣一行が偽物である事に気付いたファルが、
「あなたたちは、大臣一行を装った偽者ですね!」
偽大臣が歯を剥いて笑う。
「悪趣味な富豪が、竜殺しの娘が欲しいと、大金を山と積んで俺に頼みにきた。そこで、一芝居打ったわけだが、思わぬ邪魔が入った。楽な商売だと思ったんだがな」
言うなり赤竜に向き直る。
「ブレスを吐いたあとは、次のブレスが来るまでに、数秒、時間が掛かる」
偽大臣が腰の佩刀を引き抜く。
「それだけあれば充分」
赤竜が鎌首を振り、獰猛な牙で偽大臣に噛みつく。
それを、偽大臣の剣が火花を散らし鮮やかに受け流す。
顎下の偽大臣を鋭い鉤爪で捕らえようと赤竜が腕を振るうも、虚しく空を切る。
偽大臣の身体が低く沈み込んだ、直後、身体が跳ね上がり、
「竜舌斬っ!」
偽大臣の剣が頭上に弧を描く。
軌跡は三度、光の円を形作る。
同時に赤竜の首が切断され、大量の鮮血が雨のように噴き出す、
ザァーーーーーッ
辺り一面が血の海と化し、赤竜が音もなく崩れ落ちる。
ファルの純白のドレスも真紅に染まる。
血煙で視界が霞む中、ファルが偽大臣に向かって叫ぶ。
「あなたは……それだけの剣技を持ちながら、何故? 盗賊まがいの悪事を働くのです! あなたなら一流の騎士にも、世界を救う勇者にも、なれるでしょう!」
偽大臣が裂けた衣服の袖を破る。
ファルが息を呑む。
その右腕には、赤黒い気脈が浮き上がっていた。
それは、紋章のように美しい紋様ではなく、世にも醜く歪んだ気脈【凶紋】である。
「呪詛のような気脈【凶紋】だ。傭兵として実践を繰り返し、勝つために気脈の流れを変え続けた結果だ。誰よりも強い剣だが……俺の剣は呪われた鬼の剣なんだよ」
ファルが告げる。
「邪心を改めないなら、この場で斬ります!」
「やってみろ」
偽大臣が薄く笑う。
血煙が炎に煽られ異臭を放つ。
ファルがジリジリと偽大臣に近づく。
直後、背後に気配を感じ、剣を鏡がわりに後ろを覗くと、侍女の変装の剥がれた若い男が、ファルの後頭部を狙い重い戦斧を叩きつけてくる。
男の必殺の一撃をかわしたファルが振り向きざま一刀両断にする。
さらに、剣が踊り左右に男の身体を薙ぎ払う。
四つの肉片が吹き飛んでいく。
凄まじいファルの剣撃に仲間の盗賊がたじろぐ。
ファルが威嚇する。
「善人を泣かせる悪党どもに情けは無用! 死にたくなければ、おとなしくしなさい!」
ファルの身体に青い紋章のような気脈【聖紋】が浮かびあがる。
気脈はさらに、その先、剣の先端にまで達する。
ファルが青い【聖紋】に彩られた剣を構え直す。
偽大臣が感心したように、
「ほう、【聖紋】を通じて、剣と《一体化》したか」
ファルが偽大臣に突進する。
「ていやっ!」
気合い一閃、青く輝く剣を横薙ぎに払う。
刹那、青い軌跡は飛燕のごとく三度ひるがえる。
相手から見れば三方向からの同時斬撃にしか見えない。
偽大臣の抜き打ちもファルと同時、その剣もまた三度ひるがえった。
ガギンッ!
目の眩むような衝撃、ファルの両手が鉄柱に叩きつけられたように重く痺れ、目の前に剣撃の火花が飛び散る、鉄の焼ける匂いが鼻腔を通り過ぎ、偽大臣の剣がさらにひるがえる、切っ先が四本目の残像を生み出す。
四方向からの同時斬撃と化す。
ファルが本能的に後方に跳ね飛んだ。
直感的に死を回避する。
着地と同時にファルの腹部に衝撃が走る。
痛みが脳天を突き抜ける。
バケツの水が溢れ出すようにファルの腹から大量の血が流れ出る。
切り裂かれた内臓の流出を左手で必死に抑え、全気脈を腹部の修復に傾ける。
ファルの剣から青い輝きが失せた。
偽大臣が、
「あと半瞬、遅れていたら、真っ二つだったんだがな、それにしても、面白い技を使う奴だ。まるで、《飛燕》だな……が、その技、盗ませてもらった」
すでにファルは立ってるだけで精一杯だった。
意識は朦朧とし、偽大臣の言葉は朧気にしか耳に響かない。
傷ついたファルに盗賊が襲いかかる。
が、ファルの返り討ちあう。
どんなに身体が音をあげようと、強靭な意思でねじ伏せる。
幼少の頃から叩き込まれた剣技は、無意識であろうと反射的に繰り出せる。
(だ、けど。あと……数分、もつか、どうか……)
ファルが自身の死のカウントを始める。
身体中の体温が冷えていく中、偽大臣が剣を正眼に構える。
「こんな、ド・田舎の辺境で、王国の近衛騎士にも匹敵する剣技を見せてくれた礼だ。俺も《本気》を見せてやろう」
ファルが虫の息で応える。
「ど、んなに、強く、ても……邪剣は……邪、剣……」
「そうかな?」
偽大臣の気脈の流れが変わる。
呪文めいた禍々しい流れが、清廉で、輝くように美しい流麗な紋様へ変化する。
気脈の色合いも、赤から赤紫、紫から青。
次々と変わり、虹色の輝きを放つ。
ファルがその輝きに心奪われそうになる。が、
「そ、れでも、あ、あなた、は、騎士じゃ、ない……ただ、の……賊っ!」
偽大臣が応える。
「東の大陸で名を馳せた、闘神・カンウとやらも、元々は盗賊だぞ。それに、俺は【騎士】にも【勇者】にも、なるつもりはない。王にも民にも、誰にも……仕える気はない」
「あ、なた、は、いったい……?」
偽大臣が曇りの無い澄んだ瞳でファルを見る。
「俺は【王】になる。【王】の剣、その身で受けてみよ!」
凄まじい踏み込み。
間合いは瞬時に詰まり、剣先はファルの眉間に迫る。
そこに影が割り込む。
ルシオンだ。
ファルを庇い、偽大臣の剣を受ける。
ルシオンの剣が両断され、肩から腹にかけて切っ先が食い込む。
ルシオンが歯を食い縛り、偽大臣を羽交い締めにする。
「やれっ! ファルっ!」
ルシオンが叫ぶ。
チャンスは一度きり。
考えるより先にファルの身体が動く。
閃光のように刃が煌めき、ルシオンの心臓越しに偽大臣の心臓を貫く。
偽大臣が大量に吐血する。
真っ赤な鮮血を滴らせ、
「遊び、が……過ぎた、よう、だ、……な……」
ルシオンと偽大臣が倒れた。
ファルも膝をつく。
最後の力を振り絞り、偽大臣からルシオンを引き剥がした。
ルシオンはすでに事切れている。
ファルはルシオンの隣りに横たわる。
ルシオンの手を握り、夜空を見上げる。
星は子供の頃と変わらぬ美しさだ。
千年経とうと、いつまでも変わらぬ美しさを誇るだろう。
ファルが切れ切れに呟く。
「お、兄、ちゃん……星が、綺、麗……だよ……」
☆16☆
数時間後、ファルとルシオンの遺体を前に、薬師は呆然と二人を見下ろすしかなかった。
薬師の瞳から止めどなく涙が溢れる。
「おかしい、ですね……竜は、涙など、流さない、ものなのです、が……」
言いながら涙を拭う。
首筋には鋭利な刃物で斬られた傷痕が、今も生々しく残っている。
薬師、いや、ドラゴンは薄皮一枚で命が繋がったのである。
「……不思議なこともあるものです」
薬師の姿が赤竜へ転じた。
巨大な翼を震わし、羽音を一つあげ、大空へと舞い上がる。
夜空に輝く月に巨大な竜の影が差す。
黄金色に輝く満月の下、赤竜の哀しげな雄叫びが、いつまでも、いつまでも、辺境一帯に響き渡った。
☆完☆