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マ ダ ダ ヨ

作者: 近藤ロン

今回は少し地味な展開の短編ホラーです。語り切れていない部分もありますが、どうか楽しんで頂ければ幸いです。

 子どもの頃、俺は弟を亡くした。


 母方の実家に帰省していた時のことだ。


 祖母の家の近くに、誰も管理しなくなった広い空き地があった。かつては地元の名士が所持する立派な屋敷が建っていたらしいが、俺が物心ついた時には既に空き地だった。


 小学校の運動場の半分くらいの広さで、背の高い草が伸び放題になっていた。大人ですら少し首を伸ばさなければ周囲を見渡せないほどだった。


 名士が手放したのには何やら事情があるらしく、地元の人間はその空き地を忌避して近づこうとはしなかった。とても危険な場所だから近づいてはいけないと祖母からも注意されていた。


 だが、俺も弟もそういう先の見えない場所を迷路のように冒険するのが大好きだったので、忠告を無視してそこでかくれんぼをした。


 夏休みの真っ只中、空は巨大な入道雲のそびえる晴天だった。セミの鳴き声がうるさすぎて、かえって静かに感じるほどだった。青臭い草の隙間を、虫や泥にまみれながらも、高揚した気持ちで歩いた。


「もー良いかーい!!」

「まーだだよー!!」


 当時、俺は小学5年生、弟は1年生だった。それなりに喧嘩もしたが、決して仲の悪い兄弟ではなかった。なので、弟に度が過ぎた悪戯をして楽しむことはなかったし、その日のかくれんぼも弟がはぐれないように声の聞こえる方角を確かめながら、離れすぎないよう遊んでいた。


「もー良いかーい!」

「まーだだよー!」


 2人だけのかくれんぼというのは、意外と楽しい。役割を短い時間で交代できるので退屈しない。「次はどこに隠れよう?」「あいつはどこに隠れるかな?」と、互いの考えを読み合う時間は、子供心にかなりスリルを感じたものだ。


「もう良いかーい!」

「まーだだよー」


 何度目かの交代で、俺が鬼になって弟が隠れる番になった時。弟の声が少し遠のいた気がしたので、俺は数を数えながらこっそり声のした方向へ近づこうとした。


「もう良いかーい!」

「………」


 だが、弟の次の返事は聞こえない。


「もう良いかーい!?」

「………マーダダヨ」


 やっと返ってきた声は、なんだか変にか細く、棒読みだった。ひょっとして、怪我でもしたのではないか?心配になった俺は、急いで声のした方角へ走る。


「もう良いかーい!!?」


 だが、それきり二度と声は聞こえなかった。俺は草をかき分けて弟を探したが見つからず、とうとう怖くなって空き地から退却した。


 夜になっても弟は帰ってこなかった。父と母、祖母を含めた大人たちが夜通し捜索して、それでも弟の影も形も見つからなかった。警察に捜索願いを出して、より大規模な捜索がなされたが、やはり結果は同じだった。


 以来、弟は行方不明扱いのままだが、俺が中学を卒業する頃には、もうとっくに死んでいると家族全員が諦めていた。


 誰も、長男である俺を責めなかった。何も言われないことが、逆に辛かった。母は3年ほど毎日のように1人で泣いていたし、父はほとんど笑わなくなった。それでも、目を離した俺が悪いとは態度にすら出さず、俺は俺の中だけで罪悪感を抱え込むことになった。











 しかし、あれから10年経った今になって、俺はあの夏の事件を思い出さざるを得なくなった。


 なぜなら、()()()()()()()()()()()()()()


 現在、俺は両親と離れて大学に近いアパートで一人暮らしをしている。その日は、翌日の講義が午後からだったので、少しでも小遣いを稼ごうと夜までアルバイトをして、午後10時くらいにアパートに帰った。


 軽く夕飯を済ませて、誰か暇そうな友人と通話でもしようかと思っていた矢先、突然、部屋の蛍光灯がチカチカと明滅した。その明滅の中、部屋の景色の中に、あり得ないはずの姿が見えた。


「……フミオ?」


 俺は思わずつぶやいた。


 それは、死んだはずの弟・フミオそのものであった。背格好はあの頃のまま、着ている服もあの日のまま、少し泥で汚れた俺のお下がりのTシャツと半ズボンだ。


 フミオはニッカリと歯を見せて笑っている。左目尻にだけある特徴的なシワや、少し丸まった右耳など、何もかもが幼い弟とそっくりだ。


「フミオ!」


 俺は嬉しいのか驚いたのかわからない感情のまま、弟の名前を呼んで近づこうとした。


 しかし、その瞬間に電灯の明滅が治まり、それと同時にフミオの姿も消えた。


(今のは……幽霊ってやつか?)


 俺の頭ははっきりと覚醒していたので、幻覚を見たというのは考えにくい。部屋の明るさによる見間違い、というにはあまりに明瞭だった。なので、俺の脳はそれまで半信半疑で認識していた幽霊という存在を選択したのだ。


 フミオが、幽霊になって俺に会いにきた。他人の話だったなら、背筋が寒くなったかもしれない。しかし、死に別れた自分の弟の幽霊に恐怖は感じず、むしろなぜ現れたのかを知りたいと思った。


(何かを伝えたいのか?)


 その日以来、俺の頭の中はフミオのことや、あの空き地の記憶でいっぱいになってしまい、居ても立ってもいられない気持ちに突き動かされた。


しかし、誰に相談したら良いのかわからない。霊媒師、なんて知り合いにいないし、ネットで検索して見つかるようなのは信用しづらい。本物かどうかわからないし、仮に本物だとしても高い依頼料を取られそうだ。大学生の俺にそこまで金銭的余裕はない。親に相談して不安を煽るような真似もしたくない。


 そんな時、大学内で「オカルト研究会」なるサークルの噂を耳にした。そこに所属するとある人物は、サークル内でも一目置かれる『本物』だそうだ。しかも幽霊や怪奇現象に関するお悩み相談は無料で引き受けてくれるという。俺は渡りに船だと思い、早速そのサークルにお邪魔することにした。











 サークル棟4階の突き当たりに、廊下より少し広めのエリアがある。長年放置されているのだろうピアノや机などが埃を被って押し込められている。そのごちゃごちゃとした物置きのような空間の最奥に扉があり、手書きで『オカルト研究会』と書かれた札が貼られていた。


 机の隙間をぬってようやく扉にたどり着き、俺は3回ノックをした。すると、ほとんど間髪を入れずに扉は内側に5cmほど開き、隙間に目を見開いた男性の顔が覗いた。


「あ、あのぅ、カンザキ・サヤさんはいるかな?」


 俺は少しギョッとしながらも、隙間からじっとこちらを見ている男性に話しかけた。


「……ご用件は?」


 男は低い声で質問してくる。顔は色白の若者だが、声は本当に大学生かと思うほど低く老けたものだった。


「幽霊に関する相談をしたいんだけど」

「……なるほど」


 男はこちらから目を離さずに、扉をゆっくりと開けて俺を迎え入れた。


 部屋の中は、意外と普通の景色だった。オカルト研究会なんていうものだから、てっきりドクロやら水晶やらいかにも面妖なものが置かれているのかと勝手に思っていた。


(いや、普通というわけでもないか)


 オカルト研究会の部屋には、ほとんど物が置かれていない。四方の壁はどれも剥き出しのコンクリートのままで、カレンダーも時計も掛けられていない。戸棚があるにはあるが、ショルダーバッグと女性ものの鞄が置いてあるだけだ。まるで今しがた引っ越してきたかのような、あるいはこれからどこかへ引っ越すかのような殺風景である。


 部屋の一番奥に、これまた事務的な灰色のデスクが置かれていて、そこに女性が座っていた。


「どうぞ、かけて」


 女性は、俺から見て机の手前にある椅子を示した。どうやら、この女性がカンザキ・サヤらしい。


 カンザキは黒髪を肩あたりまで伸ばした美人だった。同じく黒いノースリーブの服から伸びる腕はやけに白く、その手を机の上で組んで顎を乗せている。顔は無表情だ。澄んだ茶色の瞳は作り物のように綺麗で、なんだか等身大の人形が目の前に座っているかのような印象を受けた。大学内で見かけたら記憶に残りそうな容姿だが、これまで一度も見たことがない。


 俺はとりあえず自己紹介をして、10年前に弟が失踪したこと、最近になって部屋で弟の幽霊を目撃したことを話した。


 途中で例の扉の前にいた男がコーヒーを運んできたが、なぜか俺の顔をじーっと見つめてくるので気まずかった。


 サヤは俺の話を聞き終わると、数秒だけ目を閉じて考えを整理している素振りを見せてから口を開いた。


「事情は(おおむ)ね把握したわ。結論から言うと、あなたが見たのは確かに幽霊よ」

「本当ですか!?やっぱり弟の?」

「まだわからない。幽霊っていうのは、見た目じゃ判断できないのよ。あなたが弟さんの姿をイメージしたなら、そう見えることだってある」


 そういうものなんだろうか?何しろ幽霊自体を初めて見たものだからよくわからない。ただ、恐怖は感じなかった。


「幽霊は恐怖を感じるような存在、というのが世間一般のイメージだけど、それはホラー小説や映画の中の話ね。『幽霊は死者の無念がこの世に留まっているもの』だから、死への恐怖を想起させるのね。でも、私たちが実際に行き遭う幽霊は、死者の残留思念とは限らない。もっと(おぞ)ましい霊的存在が、感応しやすい人間を誘惑していることもあるの」


 サヤは至極真面目な顔と口調で続けるが、俺はなんだか現実味のない説明に、カルト宗教に勧誘されているような不安を感じ始めていた。そういえば、幽霊研究会ではなくオカルト研究会なのだ。


「あなたはどうしたいの?その弟さんの幽霊らしきものを見て、怖いから追い払いたい?それとも、なぜ現れたのかを解明したい?」

「……まだよくわかりません。でも、もし弟が彷徨っているのなら、ちゃんと供養してやりたい。遺体も見つかってないんです」


 あいつが死んだのは俺のせいだ。だから俺の前に幽霊となって現れたのだろう。だったら、俺は向き合わなければならない。しかし、カンザキは無表情のまま、淡々と冷たい返答をする。


「幽霊の正体を探るのはお勧めできないわ。放っておいても、いずれ時間と共に薄れていく。あなたが深入りしたり、意識したりしなければ、これ以上何か起きることはないでしょう。生者は、死者を追いかけてはならない」

「……わかりました。アドバイスありがとうございます」


 俺は口では礼を言って部屋を後にしたが、心の中では落胆していた。まぁ、所詮は大学生のサークル、素人の当たり障りのない助言だったというだけだ。やはり、ちゃんとした寺や霊能者を探すか、もしくは……


「直接、あそこへ行ってみるか」










 その夜、部屋に帰ると電気が点かなくなっていた。スイッチを入れようと、直接紐を引っ張ろうと反応しない。ブレーカーが落ちたのだろうか、とバスルームの天井近くに設置されたブレーカーを確認しに行く。


 俺のアパートは、便器とシャワーが曇りガラスの引き戸でちゃんと分かれた作りになっていて、その引き戸の上にブレーカーが取り付けられている。必然、ブレーカーに手を伸ばすと曇りガラスと向き合う形となる。スマホのライトを頼りに、俺はブレーカーがしっかり『ON』の方へ上がっているのを確認し、ふと目の前の曇りガラスに目をやった。


 ガラスの向こうに、何かがいた。


 曇りガラスのせいでぼんやりとした輪郭だが、どう見ても人の形をしているものがそこにいるのがわかった。暗闇の中、光源がライトだけということもあり、俺は飛び上がるほど驚いて背後の便器まで後退した。


「誰だ!?」


 それでも、俺は恐怖より侵入者への警戒心の方が強くなり、扉をライトで照らしつつ、トイレの上に設置していたつっかえ棒を無理やり引っ張り下ろして右手に構えた。上に乗っていたトイレットペーパーがゴロゴロと床に散乱したが、構っていられない。


「警察を呼ぶぞ!!」


 こういう時、どういう対処が正しいのかわからないので、とにかく相手を怯ませようと通報を警告した。だが、逆効果だったらしい。それまで扉の向こうで微動だにしなかった人影が、突然動いた。


 バンッ


 大きな音に、俺はビクッと震えて床に尻餅をついた。人影が引き戸に近づいて、両手をガラスに叩きつけたのだ。張り付いたヤモリのように、手のひらの形がガラスにはっきりと浮かび上がる。


 そして、その手と手の間にぼんやりと浮かび上がるのは顔。その段になって、初めて俺は恐怖を覚えた。人の顔というものがこんなに恐ろしく感じたことはなかった。例えそれが、死別した弟の顔だったとしても。


(やっぱりフミオだ……フミオが笑ってる……っ!)


 曇りガラスのはずなのに、なぜかはっきりと弟の顔だと認識できた。だが、それでも恐怖は消えず、むしろ弟がこんな奇行をしているという現実がますます背筋を冷たくさせた。


 いや、これはそもそも現実なのか?生身の弟がそこにいることなどあり得ない。姿が子供の頃のままなんてあり得ない。だからこれは実体のない幽霊のはずだ。なのに、大きな音を立ててガラスを叩いている。


 頭がどうにかなりそうな恐怖の中、それでも俺は目の前の人影から目を離せなかった。笑顔の弟の口が動いて、何か喋っていることに気づいたからだ。声は全く聞こえないが、ゆっくりと、口を動かして言葉を発しているのだけはわかった。


『マ ダ ダ ヨ』


 口の動きを注意深く見ると、確かにそう言っているように思える。弟は、まだかくれんぼをしているつもりなのだ。


 まだ、俺と遊んでいるつもりなのだ。


「………も」


 俺は、そんな弟が哀れになってしまい、つい、返事をしそうになった。『もういいかい?』と、問いかけそうになった。


 だが、その言葉は口から零れる寸前に、別の声に掻き消された。


「黙ってろ、何も答えるな」


 俺には目の前の弟しか見えていなかったので、その時アパートの玄関の鍵をかけていなかったことも、バスルームにもう1人の気配が入ってきたことにも気づいていなかった。


 突如、布のような感触が俺の口を塞ぐ。それが布手袋をはめた誰かの手だと理解した時、俺の耳には読経のような気味の悪い音が聞こえ、続いて鼓膜をつんざく悲鳴に全身を震わせた。


「!!?」


 パッ、と視界が明るくなった。その眩しさと、さきほど耳を貫いた悲鳴とで、俺の頭はクラクラしていて、何が起きたのかも理解できていない。数秒後、ようやく明るさに慣れた俺は目の前に男が立っていることに気づく。弟の幽霊ではなく、背の高い成人男性だ。


 曇りガラスの方を見たが、もう人影はなかった。


「あんたは……オカルト研究会の」

「ああ、アオイだ。そういえば名乗ってなかったな、まぁどうでもいい」


 そういってアオイは、混乱する俺に手を差し出した。その右手には白い手袋がはめられている。つまり、さっき俺の口を塞いだのも、お経のような呪文を唱えたのも、このアオイという青年らしい。昼間、俺がオカルト研究会の部室を訪ねた時に、じっと俺を見ていた男だ。TシャツにGパンという地味な格好だが、左手に握られているのは複雑な紋様の描かれたお札の束であった。


「どうしてここに?後をつけてきたのか?」


 俺はアオイの手を握って立ち上がりながら尋ねる。色白で、俺と同じくらいの歳の青年だが、腰を抜かしていた俺にとって、その落ち着いた雰囲気はとても頼もしく思えた。


「サヤに頼まれたから来ただけだ。『あの様子だと、おそらく忠告を無視して里帰りするだろう』ってな。単に見張りをするだけの予定だったが、予想以上の憑かれぶりだったんでな。仕方なく手を出させてもらった」

「……ありがとう。つまり、弟の幽霊をアンタが追い払ってくれたんだよな」

「あれは弟なんかじゃない。アンタもすでにわかってるはずだ」


 アオイの言葉に俺は頷く。昼間、カンザキに教えられたことだ。俺が弟の姿をイメージしたから、そう見えていただけ。そして、やっぱり俺がかくれんぼのことを連想したから、アレは『まだだよ』と言ったのだろう。頭が正気に戻った今ならわかる。


 アレは俺の弟に対する後ろめたさを利用して、俺に憑りついていたのだ。そう理解すると、遅れて背筋がぞわぞわと寒くなった。


「でも、わからない。弟以外の幽霊に憑りつかれる理由なんてないのに、何のために俺を選んだんだ?」

「そんなことは知らん。悪霊が人を憑り殺すのに理由なんぞない。ああいう手合いは、生者を自分たちの世界に引きずり込みたくて仕方ないんだ。特に、後ろめたさや苦悩を抱えて疲れてる人間は狙われやすい」


 俺とアオイはリビングへ移動した。電気はすっかり元通りになっている。とりあえず、彼に冷えた麦茶を差し出して話を続けた。


「じゃあ、本当に弟は関係ないんだな?弟が消えた空き地も?婆ちゃんはなにか曰くつきだって言ってたけど」

「それはそれ、まだわからない。アンタ、どこ出身だっけ?」

「〇〇県だよ」

「ここからかなり離れてるよな。だが、もしその場所と悪霊が関係してたとしたら、これだけ離れた場所にまで干渉できるほど強力な呪いってことになる。アンタが里帰りするのは非常に危険だ。そっちの調査はサヤがやってる」

「カンザキも動いてくれてるのか……手間を取らせて、申し訳ない」

「あまり深刻に受け止めるな。これが俺たちの仕事だ」


 アオイはいたって冷静に答えて、麦茶を一口飲んだ。


 よく見ると、若いのに白髪が多く、電灯に照らされてキラキラと輝いている。腕も古傷というか、アザみたいな跡がいくつもついていて、変わったタトゥーのような模様を作り出している。俺は助けてもらった恩もあって、それらの事情について質問するのは憚られた。『俺たちの仕事』ということは、きっとカンザキもアオイも俺の知らない世界に生きている者なのだろう。


「でも、本当にありがとう。君が来てくれなかったら、どうなっていたか。カンザキの忠告をちゃんと聞くことにするよ。もう弟のことは忘れる」

「それが賢明だな。だが、そう簡単に忘れられないのも人間だ。今夜は俺もここに泊まるから、とりあえず心を落ち着けて寝ることだな」


 夜は11時を回っている。帰宅してから2時間ほどしか経っていないのに、俺にはえらく長い時間、恐怖を味わわされたように思えた。


 あいにく布団は一人分しかないので、アオイに使ってもらおうと思ったが、なんとアオイは寝袋を玄関まで持参していた。つまり、最初から泊まるつもりだったのだろう。


 二人でカップ麺を食って、就寝の準備をする。


「これを額に貼って寝ろ」


 アオイは俺にお札を一枚渡してそう言った。昼間まで他人の忠告を聞かなかった俺だが、今回は素直に従い、額にお札を貼った。電気を消すのは少し怖かったが、隣にアオイがいるのだから大丈夫だ、と自分に言い聞かせて紐を引っ張る。


「おやすみ」


 暗闇の中、一応あいさつをしたが、アオイの返事はなかった。










 その夜、俺はあの空き地の夢を見た。


 空は巨大な入道雲のそびえる晴天、セミの鳴き声がうるさすぎて、かえって静かに感じるほどの夏の盛りで、背の高い草が生え放題。記憶の中の通りの空き地だ。


 青臭い草の隙間を、虫や泥にまみれながらも進んでいくと、少しだけ草の密度が少ない場所に子供が一人、俺に背を向ける形でしゃがんでいた。


 少し泥で汚れたTシャツと半ズボン。見覚えのある、俺のお下がりの服だ。


「フミオ」


 俺はその背中に話しかける。弟は反応せず、ジッとしゃがんだままだ。隠れているつもりなのだろう。


「もー良いかい?」


 俺は言葉を変えて再び声をかけた。すると、


「マ ダ ダ ヨ」


 片言でそう答えて、フミオは振り向いた。


 その顔に、もはや生者の面影はない。瞳のあるべき場所には真っ黒な穴が二つ開き、その(ふち)から血の涙を流している。鼻は削られたようにもげて、鼻骨と鼻腔が露わになっている。口も同じように、唇はなく歯茎がむき出しで、まるで満面の笑みを浮かべているようだ。


 これは、弟ではない。


 だが、俺の中でまだ彷徨っている弟の幻影なのだ。そう思うと、恐怖や哀れみよりも、どうしてこうなってしまったのかという疑問が、俺に自然と言葉を紡がせた。


「いや、もう良いよ。もう良いんだよ、フミオ。かくれんぼは終わった。家に帰ろう」

「マ ダ ダ ヨ」


 ソレは立ち上がって、俺の足にしがみつこうとする。だが、俺は冷静にそれを振り払って背中を向け、早足で歩き出した。背後から追ってくる気配を感じつつ、俺は驚くほど落ち着いてしゃべり続ける。


「兄ちゃんは先に帰るからな。ついてくるなら早くついてこい。じゃないと、お前の分のスイカも食っちゃうからな」

「マ ダ ダ ヨ」

「わかった。帰りたくないんだな。じゃあ、一生一人でかくれんぼしてろよ。俺は帰る」


 心にもないことを口にする。そうだ、俺は弟にこんな冷たい態度はとったことがない。


 だって、俺は兄貴だから、いつだって弟をちゃんと無事に連れてなきゃならなかった。あの日までは、完璧に兄貴の務めを果たしてたんだ。


「なのに、お前は勝手にいなくなった。いや、わかってる。お前のせいじゃない、きっと何かがお前を連れ去ったんだ。俺は『もう帰るぞ』って言うことすらできなかった。そのせいで、10年も苦しまなきゃならなくなった」


『弟は俺のせいで死んだ』


『俺が目を離したから』


『俺は兄貴失格だ』


「でも、今わかった」


 俺はくるりと振り向き、追ってきたそいつを見下ろした、その時、心に沸き上がった感情は、怒りだった。


「全然俺は悪くない。悪いのはお前だよ。フミオの皮をかぶって俺に近づきやがった、お前!全部お前のせいだ、どうせフミオもお前が連れて行ったんだろ!?ふざけやがって!!」


 俺は、怒りに任せてそいつの顔を鷲づかみにし、後ろの草むらへ思い切り突き飛ばした。そいつは草むらに倒れたまま、それでも顔をこちらに向けた。いつの間にか、俺の目からは涙が零れていた。


「マ ダ 」

「黙れ!もう終わりだ、『イチ抜けた』だ!なんでお前みたいな奴のために、俺が苦しまなきゃならん!!なんで……フミオが消えなきゃならなかった……っ!!」


 そいつは、呆けたように倒れっ放しだった。俺は涙をぬぐって、今度こそそいつに背を向けて草むらを進んでいく。


「じゃあな!永遠にさよならだ!」


 もう、誰も追っては来なかった。やがて、空き地の終わりに辿り着き、俺は舗装された田舎道に出た。


 後ろを振り向いたが、なぜかそこに空き地はなく、代わりに大層立派な日本建築がそびえていた。


「たかが夢だ、畜生」


 悪態をつきながらも、どこか軽い足取りで、俺は祖母の家に向かって歩き出した。


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