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逃走

 月曜日になった。

 返信が無い以上、直接話すしかないと判断したのか「待ってるから」とのメールが土曜と日曜両方来ていた。場所の指定はなかったが、二人の接点は海風公園しかない。たった一つの絆と言ってもいいだろう。彩香なりの賭けであることは容易に知れる。

 馨は、両日共に行かなかった。

 彩香は、何時から待機して何時まで待ったのだろう。いよいよ梅雨入り間近となってきて、土曜は薄曇で気温が少々低く、日曜日は雨が降っていた。

 阿屋は、屋根があっても壁は無い。

 冷えたのではないだろうか。

 吹き込んだ雨に濡れたのではないだろうか。

 待ちぼうけさせたのは馨だが、それは「『ユイ』という存在としては二度と会ってはならない」という戒めによるものであり、体調を案じる気持ちとは別の問題だった。

 身支度をして家を出て、イトコ宅で和室を借り、男子の制服に着替えてから登校する。

 いの一番に窓際へと目を走らせると、彩香はいつも通り静かに佇んでいた。すっかり晴れた空は、透明感のあるセルリアンブルーだ。

 担任が現れない内にと席に着き、無事に一日が始まった。




 授業中、黒板の数式を書き写していると、視界の端で何かが光った。反射的に目をやると、彩香が机の下で携帯を弄っている。

 意外さに数度まばたきした。

 規則遵守というよりは、見つかった際の面倒を厭いそうな印象がある。ボタンが押されるたび、キティちゃんのストラップが揺れていた。

 数秒後、用を終えたのだろう、滑るようにして携帯が机の中に仕舞われる。

 休み時間にすればいいものを、何を急いでいたのだか。呆れつつノートに視線を戻す。

 丸きり他人事だった。

 机の横に掛けてある己の鞄から、受信音が響いてくるまでは――――。

 シャープペンシルを握ったまま凍りつく馨へ、教室中の視線が集まる。

 音が止むと、教師が教壇から降り、馨のもとへとやって来た。

「授業中は電源を切っておくか、マナーモードにしておきなさい」

 めったに使用しない上、携帯自体を家に忘れることも多い。その為、うっかり配慮を忘れていたのだ。

「はい。すみませんでした」

 普段の行いが良いからか、教師は携帯を取り上げたりはせず、授業に戻る。胸を撫で下ろしたが、鞄の中に手を突っ込み、マナーモードに切り替えてから顔を上げると、彩香の愕然とした面があった。

 嫌な予感がする。




 馨の勘は当たった。授業が終わると、彩香がこちらにやって来て「携帯、見せてくれないかな」と手を出してきたのだ。

 頼む口調ながら、差し出された手といい射すくめるような視線といい「断ったら許さない」と言わんばかりだった。

 胸腔が軋み、呼吸が上手くできなくなる。

「早くしてよ」

 彩香が急かす。馨は声を出すのも一苦労だったが、どうにか

「見せなきゃいけない理由は?」

 と抵抗した。

「ここで言っていいの?」

 口端と語尾が揃いで吊り上がる。意地の悪い笑みだった。眇められた瞳にも邪悪が宿る。

「桐生くんは、白川くんとイトコなのよね。わたしの友達もそうみたいなの」

 馨はハッとした。イトコといっても仲が良すぎる、と梓が雅芳をからかった日、彩香は二人の横を通り過ぎた。

 彩香は、一度耳に入れれば覚えてしまう人間だ。馨をユイと呼び始めたのも、桜子が「唯」と叫んだことを覚えていたからで……「ユイ」として最後に会った日、イトコだから当たり前だと口を滑らせていなかっただろうか。

「桐生くん?」

 呼ばれて意識する。彩香が、ユイではなく「桐生馨」を認識した。

 存在価値の無い「馨」として、たった今対面してしまっている……!

 足に火がついたような感覚に、矢も盾も溜まらず教室を飛び出した。

「待って!」

 背中からの声に焦り、スピードを上げる。右に折れ階段を下り、今度は左に。目的地など無い、闇雲な逃走だ。

 怠そうに歩いている集団の間を抜け、角を曲がってきた女子生徒をぎりぎりで避けて、空き室の並ぶ一階の廊下におりる。

 撒くことが出来ていない。後ろに彩香の気配があった。ヤバイ、と焦り、汗が浮かぶ。

 さぁっ、と頬を撫ぜる風があった。

 涼しい。

 見渡すと、開いている窓があった。

 一か八か、馨は桟に足を掛け、外へ出る。無論上履きのままだ。

 彩香が汚れを気にして追って来れなくなるのを期待してのことだった。

 誤算は、昨日の雨で地面がぬかるんでいたこと。校庭等、良く日の当たる場所は乾いていたが、ここは焼却炉のある裏庭だった。

 ずるりと足元が滑る。

「あっ」

 短い叫びは馨ではなく彩香のもので、瞬間、襟首を強く掴まれた。転ばないようにという咄嗟の親切だったのだろうが、足は完璧に滑ってしまっているので、首吊り状態になる。絞められた喉の苦しさにもがけば、大慌てで離された。

 急なことに体勢を整えられず、したたかに尻を打つ。ズボンも地面についた掌も、一瞬にして泥まみれだ。

 下着にまでじめっとした感触が広がり、馨は眉を顰めた。走り通しで、ただでさえ呼吸もきついというのに、最悪だ。

「大丈夫?」

 声だけではなく、持ち主自身もセットで降ってきた。優雅に左横に着地され、頬が引き攣る。上履きの汚れなど意に介していないようだ。

「…………大丈夫」

 総動員した理性でどうにか返答したが、始業のチャイムに即掻き消される。

 サボりか……。

 脱力し、馨も彩香もしばし沈黙した。その間に、激しい呼吸が落ち着いていく。

 会話の口火を切ったのは彩香だった。

「わたし、サボるの初めて」

 立ったまま壁に背を預け、彩香がくすくす笑う。対して馨は泥だらけのまま体育座りし

「僕も。そんなつもりなかったんだけどな……」

 重々しい溜息をつく。

「でも、わたしにとっては都合がいいわ。誰にも邪魔されない時間ができたから」

 携帯のストラップやメールボックスを改めずとも、逃走の事実が暴露と同じだと指摘される。

「桐生くんは……ユイなの?」

 仰げば、誤魔化しを許さない澄んだ瞳がある。降参だった。

「うん……」

 罵られるか泣かれるか、どちらにしても謝罪することしか出来ない。過ごした時間は取り戻せず、汚点となるか輝かしい絆の証となるかは彩香の胸ひとつなのである。

「……そう」

 それだけだった。反発の台詞等は無い。

 意外だ。

「怒らないの?」

 彩香がぱちりと瞼を開いた。見下ろす双眸に負の感情は欠片も無く「いったい何を言っているのか」といった表情をされてしまう。

 馨は困惑した。

「騙したとか、ひどいとか、沢山言われると思ってたんだけど……」

 馨が口ごもれば、彩香は首を横に振る。

「わたしが勝手に誤解したっていうの、わかってるから」

 驚きだった。

 返信せず、海風公園にも行かなかった土日、彩香は彩香なりに「ユイ」の発言を吟味し、真剣に考えてくれていたのかもしれない。

「あの……桐生くんは、どうして放課後に女の子の格好してるの。お母さんも、なんで桐生くんのことユイって呼んでたの」

 早口で問われた。勇気を振り絞ったのだろう。彩香の目元はほんのり赤く染まっていた。

「無理に聞き出そうとは思ってないから」

 嫌なら答えなくてもいい、と遠慮がちに付け足される。『能面女』は無表情で態度が一様に冷たく、人間味が無い……と陰口を叩かれているのだが、横に居る彩香は最早別人だった。きちんと気を使ってくれている。

「いや、話すよ。さっき、勝手に勘違いしたって言ってたけど、僕が訂正しなかったのも確かなんだし。知る権利はある」

 十歳の頃「唯」という名の姉とプールへ行ったこと。帰り道で我が侭を言った挙句に飛び出し、車に轢かれそうになったこと。運転手が避けた先に姉がいて、死んでしまったこと。葬式で生まなければよかったと罵られ、それ以降家の中では「唯」として存在しているということ。

 すべてを包み隠さず話した。

「そうだったんだ……」

 しん、と静まり返る。コンクリートの壁や塀の無機質さが、話の暗さを引き立ててしまっているようだった。ズボンの汚れていない部分に掌をこすりつけ、泥を拭う。

「僕も、一つ聞きたいことがあるんだ」

「何?」

 馨は彩香の顔を見ず、地面に目線を落とした。

「どうして男嫌いなの」

 生理的な問題ではないだろう。馨はそう踏んでいた。二人きりで会話することができている、現在のこの状況が証拠だ。

「僕、男だってバレたらどんな反応されるんだろうって、少し怖く思ってたときもあったから。気になってさ。勿論、答えたくなかったら答えなくてもいいよ」

 十中八九、不愉快な体験に基づいたものだろう。生活に支障をきたしてしまうほどの記憶かもしれない。それならば、そっとしておくべきだ。

「……ユイ……ううん、桐生くんに声を掛けたのはね」

 不自然な間に顔を上げれば、彩香がスカートのポケットから携帯を取り出すところだった。

「これをくれた友達に似てたからなの」

 ストラップを手に乗せて言う彩香に、馨は思い至る。

「オフ会で二回会っただけっていうネット友達?」

 よく覚えてたね、と力無く笑んで、彩香は携帯を操作した。

「見て」

 示された画面を覗き込む。大人しそうな少女が映っていた。僅かばかり年上に見える。十五歳程度だろうか。顔の造作はさておき、どことなく品のある様子が「唯」に似ている。

「大人しそうでしょ。見た目通り、大人しかったんだ、すごく。年上だけど、わたしの方がネット歴長くてさ、今思えば恥ずかしいけど先輩面してた」

 ふふっ、と苦笑して、続ける。

「沖縄に住んでる子でね……受験終わった、高校受かったよってメール貰って、よかったねって返信した後……連絡が取れなくなったの」

 身体と声が震えていた。

「基地の米兵に乱暴されたって……」

 瞼と唇がきつく閉じられる。

「本当かはわからない。オフ会のメンバーからメールが回ってきただけだから。でも、もうずっと連絡が取れなくて……三日ごとに更新されてたHPも放置されてて……ニュースの時期と一緒なの」

 彩香が、腕を交差させ自分自身を抱きしめる。携帯が落ちた。手が滑ったのだろう。真っ青な顔に紫色の唇。拾う余裕はなさそうだった。とても怖がっていることがわかる。

 馨は、どう接していいか惑った。慰めるような台詞を言うべきなのだろうか。

 ひどいことだとは思う。

 どうしてそんなことができるのかという憤りもある。

 だが、恐怖となると未知だった。

 馨は、女装はしていても「男」なのだ。本能的な女性の「恐れ」までは汲み取れない。

「飛び降り自殺したとか、リストカット繰り返して死んだとか……そんな噂が掲示板に書き込みされてて……」

 彩香が「うっ」と口に手を当てしゃがみこむ。スカートの裾に泥がついた。汚れていない手の甲部分で背中をさすってやるが、壮絶に鳥肌を立てられ、腕を叩き落とされた。

「ごめん」

 謝るが、逆に彩香から「ごめんなさい」と頭を下げられる。

「わかってるの。男の人全員がそんなことするわけじゃないって。なのに……女の子をひどい目に遭わせようと思ったら、男の人はいつだってそうできるんだって思うと……どうしても怖くて……」

 今までも、ニュースで似たような事件は観て来た。

 怒りも覚えていた。

 けれど、所詮は他人事だ。数分後にはすっかり忘れて、変わらない日常を過ごしていた。

 テレビの中の出来事は別世界の出来事だと、無意識に分類していたのだ。

 それなのに、たった二回とはいえ実際に会ったことのある友達が、ニュースで報道されるような目に遭った。

 一パーセントほどの「もしかしたら」を含みながらも「嘘だろう」と放置していたが、いつまで経ってもHPは更新されない。

 メールの返信も来ない。

 時が経つにつれ、事実である可能性が高くなった。

 舞い込む噂に戦慄し、無視できなくなる。

 あの子は、どんなに怖く、辛かったことだろう。自分の身体そのものが汚らしいものに思えて、脱ぎ捨てたくなったのではないか。そうなれば、誰を憎むよりも先に自分を殺したくなってしまう。生きていることそのものが、肉体を持っているという事実自体が苦しみになる。

 悲しくてたまらない一方、女である以上自分も同じ目に遭う可能性があるのだと思うと、怖くて防御を張らずにはいられなくなるのだと、彩香は途切れ途切れに語った。

「死んだら、そういうこと全部関係なくなるんだろうね。身体が無いんだもの」

 死んだら――――唐突に、馨は忘れていた父の言葉を蘇らせる。

「お姉ちゃんは、空の上の綺麗な場所、天国ってとこに行ったんだ。お前は何も気にしなくていいんだよ」

 葬式前日だったか当日の朝だったか。忘れたが、空は曇っていた。

 今日は、嫌味なくらいの晴天だ。雲ひとつ無い。

 サッカーの日本代表のユニフォームがこんな色だったなー……。

 馨は、ぼぅっとしばらく青空に魅入った。

「ごめんなさい。わたし、無神経で……」

 彩香の声で我に返る。

「謝らないでいいよ。たぶん、小宮山さんが思ってるような感傷に浸ってたわけじゃないから」

 サッカー選手になる夢はもう持っていない。

 したがって、サッカーの日本代表のユニフォームを着る機会もない。

 だが、ユニフォームのかわりに姉の服を着る毎日を送っている。

 自分が姉の服を着ているのなら、姉は――唯は――天国でどんな姿でいるのだろうか。そんなふうに思っただけだ。

 たしかに「お前は何も気にしなくていいんだよ」という言葉を思い出す前だったなら、彩香の発した「死」が事故の記憶をよみがえらせ、罪の意識に苛まれていたかもしれない。

 お父さん、ありがとう。

 時間は掛かったが、愛情の篭った一樹の台詞は確かな心の支えになった。

「天国のユニフォームって、どんなかなと思って」

 話の変転についていけなかったのか、彩香がぽかんとする。クール系な容貌にはアンバランスだが、やけに可愛らしい。

「天国のユニフォーム? そんなの、あるのかしら」

 怖い、と怯えていた空気が霧散する。無防備で、あどけない雰囲気だ。

 女装していた「唯」を守ると宣言していたが、どちらかといえば守られるべき側の人間ではないのだろうか。

 馨は、彩香の態度から繊細で壊れやすい性格を読んだ。急に保護欲が湧いてくる。彼女の心を翳らせてはならない。

「わかんないけど、男がセーラー服着ちゃいけない天国なら、僕は入れないね」

 彩香の唇が笑みに綻ぶ。砂糖を舐めたような、甘い幸せが胸に広がった。馨が恍惚としていると

「何着てもいいんじゃない?」

 彩香が言う。

「何着ても、か。じゃあ反対に、裸とかはどうだろう」

 無礼講ってあるし、と続けてから馨は「失敗した」と胸中で舌打ちした。

「それは……」

 彩香が困惑し、表情を暗くさせたのだ。

 馨は大慌てで弁解する。

「死産だった赤ちゃんとかはさ、一度も服を着ないまま天に召されちゃったわけじゃない。なのに、服を着てないから入っちゃいけませんなんて、変だよね」

「そうね……」

 彩香が頷く。馨は、こうなったら二転三転させるよりも、意見を押し通したほうがいいと拳を握った。

「いっそのこと、裸がユニフォームっていうのはどうだろう。うん、きっと裸だよ」

 無理やり力説すれば、彩香の目はまん丸になる。口を開かずして「えぇえ!」と叫んでいた。目は口ほどにものを言う。

「死んじゃってるんだからさ、子孫繁栄なんてどうでもいい問題だろうし。色欲もなくなってるよね。男も女も無いんじゃないかな」

 彩香が目を潤ませ、涙が流れてしまわないようにかキュッと唇を噛んだ。しばし間を置いてから口を開き

「そうかな……」

 と呟く。小さいながら、大きな希望のこもった声音だった。

 死亡したという書き込みが本当なら、彩香の友人は現在天国の住人なのだ。せめて死後は幸せにと願っているのだろう。

「きっとそうだよ、天国なんだから。皆が幸せになれる、皆が何かを気にしたり怯えたりしなくてすむ。そんな場所なんじゃないかな」

 話しながら、馨は自分自身目が開く心地がした。服装など、瑣末な問題にすぎない。

 男だとか女だとか、そういうことも、全てくだらないことなのだ。

 幸せの条件は、おおらかなこと。

 何でも受け入れること。

 そういったものなのではないだろうか。

 女装していた。

 唯を理解しようと本を読んだ。

 桜子の望む「唯」になろうとした。

 受け入れようとしていたのではなく、勝手なイメージを構築して「成ろう」としていたのだ。あまつさえ、自分自身である「馨」を拒絶していた。

 これでは駄目だ。

 まったく、愚か者だった。

「小宮山さん」

 馨は、晴れ晴れとした気分で向き直る。

「なに?」

「ありがとう」

 何に対しての礼だか、彩香にはわからないだろう。

「え?」

 当然の反応だ。馨は構わずに続ける。

「小宮山さんが気づかせてくれたんだ」

「なにを?」

 馨は、パールピンクの携帯を拾い、シャツで拭いてから手渡した。

「落としたまま忘れてたでしょ」

 受け取った彩香は「ありがとう」と携帯をポケットに仕舞う。次に、眼差しで質問の答えを促してきた。

 馨はにっこりと笑う。ミントガムのような、わざとらしいくらいの爽やかさだった。

「母離れできそうだから」

 彩香が「頭の中がクエスチョンマークでぎっちり埋まってます」な表情で首を傾げる。

 馨は決意していた。

 転んで泥まみれになるような鈍臭い人間で、携帯を拾って渡すくらいのことしかできないけれど、いつかきっと、彼女の騎士になる。

 桜子にとっての一樹のように、頼りになる唯一の人間になるのだ。

 彩香にとっての「必要な人物」を模倣するのではなく、「馨」本人として頼りにされたい。

 そうでなくては駄目なのだ。

「わたしも、桐生くんには感謝してる」

「え?」

 思いがけない言葉に瞠目する。

「わたしね、海が見たくて公園に行ったの。沖縄っていったら海じゃない。だから、怖くてきちんと調べたりはできないけど、海を見たら何かが伝わってくるかもしれないって思ったの」

 馨は、思い切り苦いものを無理やり租借させられたような表情をした。

「一口に海って言っても、色々あるのにね。そんなこと忘れてたの。沖縄の海は、テレビ越しでも綺麗だったのに……」

 彩香の表情に、馨は自分の予想通りだったことを悟る。

「ここの海はどす黒くて、汚かった。元々海質も違うんだろうけど、それにしたって濁ってた。こんなんじゃ伝わってくるはずない。これが現実なんだって……悲しかった」

 禁止されているが、釣り人は後を立たない。気の早い人間がバーベキューをしていることもあった。ゴミは毎日捨てられているのだ。

「けど、海なんか目じゃない、分身みたいにそっくりな貴方がいた」

 続けて、よく見ればそんなに似てなかったんだけど、と苦笑する。

「貴方はやさしかった。うっとうしがらずに毎日相手をしてくれて、やさしく微笑んでくれた。知らなかったとはいえ、男の桐生くんに沢山男の人の悪口言ったよね。なのに、ずっと我慢してくれてた……」

 彩香は苦笑を納め、清らかなくらい真剣な表情になった。

「ありがとう。まだ完全に男の人のことが怖くなくなったわけじゃないけど、貴方みたいにやさしく接してくれる人もいるっていうのがわかって、とても嬉しいの」

 心臓が止まりそうになる。

 女の「ユイ」ではなく、男の「馨」を認識し「やさしい」と受け入れてくれた。

「貴方がいるのなら、怖くて遮断せずにいられなかった学校の空間も、もっとやさしくて楽しいものだと思えていけそうな気がする」

 感動に、胸が打ち震える。

 こんなことがあっていいのだろうか。

 何もしていない。

 話をしただけだ。

 もっと役に立ちたい。

 幸せを運んであげたい。

 怯えずに世界を広げられるように、手を引いて導くことが許されるのであれば、何だってする――――思ったところで

「こらっ、授業中のはずなのになぁんでこんな所にいる!」

 紺色のつなぎを着た用務員に見つかり、教師に連絡されてしまった。


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