別離
三
薄曇ではっきりしない天気の日だったが、阿屋のベンチに並んで腰掛けた馨と彩香は、晴天の日と変わらぬ和やかさで談笑していた。
「それでね、ユイ、その番組で……」
「馨」ではなく「唯」として彩香と出会ってから、数日が経過した。雨天の日と土日以外、ほぼ毎日彩香と過ごしている。
休日に観た映画の感想、感動できる本を読んだから是非といった紹介、ネットサーフィン中に見つけた面白いブログの話……内容はとりとめのないものだったが、それだけに楽しい。
「しょっちゅう気前良くおごってくれる男は、後でぜーったい見返り要求してくるんだって。おごった合計金額とか、いちいち覚えてるらしいよ」
楽しいのだが、偏った情報による彩香の「男否定」が始まることも多々あった。
「私達まだ中学生だし、おごるおごられるなんて話、関係ないんじゃない?」
馨は「興味が無いだけ」と思われるよう、淡白な声音を心がけた。反駁と取られれば論争に発展し、話がややこしくなってくる。
「んー、それもそうかもね」
軌道修正成功、と判じたが……甘かった。
「部活だ何だって言い訳して、大事なイベントに限って予定を一日ズラす男はね、他に本命がいるんだって。つまり、浮気相手にされてるってこと。二股された上に自分が浮気相手なんて、最悪だよね。どっちの立場も嫌なことに変わりないけど。男って、女なら誰でもいいのよ。女を個人じゃなくて『女』っていう生き物でしか見てない。獣よ」
極端な言い分にげんなりするが、上辺の笑顔だけはかろうじて保ち続ける。だてに女装歴は長くない。
「一途な男の人もいるでしょう」
馨は、梓一筋の雅芳をイメージしていた。
「いるわけないじゃない」
にべもない。一刀両断の即答だった。
「います」
事実を語っているだけだが、彩香は哀れむように馨を見やる。
「ユイは男の人に幻想を抱きすぎ。そんな甘い考えじゃ、いつか怖い目に遭っちゃうわ」
彩香の方こそ偏見を抱きすぎだ。馨は、きつい口調にならないよう注意しつつ反論した。
「そんなことないよ。テレビなんて、特殊なケースを面白おかしく紹介してるだけなんだし。普通に暮らしてたら、怖い人に会ったり怖い目に遭わされたりなんて、そんなにないでしょう」
彩香が、いつぞやのようにサッと顔色を変える。そればかりか、拳を握り肩をいからせた。
「だからユイは甘いって言うのよ! 自分だけは大丈夫、テレビに映ってる世界は別世界、なんて思ってたら、絶対怖い目に遭っちゃうんだから!」
猛然と捲くし立てられ、凍りつく。氷像のようになった馨を前に、彩香はほぅと息をついた。脱力し、肩を落とす。
「でも、大丈夫。ユイはわたしが守ってあげるからね。初対面のとき、お母さんにもよろしくって頼まれたしさ」
人情に厚い姉御肌……では無いだろう。面倒見の良い人間が『能面女』と陰口叩かれるほどのコミュニケーション不全のはずはない。かといって、冗談として受け止めるには真剣すぎた。
いったい何が彩香に「守る」などと言わせているのか。
さっぱり見当がつかなかった。
四
担当場所の掃除が終わり、馨はいそいそと教室に戻る。六月だとは信じがたい夏日である今日、冷房の利いた校舎から出たくない、と居座っているクラスメイトは多い。その中で、素早く鞄を手に持ち背筋を伸ばす馨は、まるでナメクジの群れの中のカエル、もしくは異星人だった。
たとえ汗じみるほどの陽気でも、晴天でさえあれば良い。ここ一月の間に習慣となった阿屋での一時を想い、くるりと踵を返した馨だったが、鼻先をあたたかな壁に打ち付ける。
つと見上げた先には、雅芳の顔があった。
「邪魔」
馨が短く言い放つ。
親類ゆえの遠慮の無さだ。
雅芳はといえば、気を悪くするしないの前に、聞いていなかったらしい。立ちはだかったまま口を開いた。
「お前、最近楽しそうだな」
「そう?」
嬉しげに声が弾んだ。雅芳は渋い顔になる。
「俺は心配だよ」
「え?」
馨が、不意を突かれた子犬のようにきょとりとする。
何を心配することがあるというのか。
「お前はお前として小宮山に受け入れられてるわけじゃないだろ。もしバレたらって思うとさ。あっちの反応とか、お前が傷つかないかとか……考えちまうんだよ……」
くびり殺される寸前の鶏のような、ぎゅうっとした苦しさが込み上げる。雅芳に言われるまでもない。似たような懸念は幾度も過ぎった。
馨は、彩香が『「唯」の正体は「桐生馨」だ』と気づく日が来たら、誤魔化さずに真実を告げるつもりだ。
友情まで偽りではないと信じているからだが……彩香の方はどうだろう。
騙されたと感じ、楽しかった時間まで「汚点」と処理されてしまうのだろうか。嘘はついていないが、訂正もしなかった。
「………………」
考え込んでしまいそうになるのを、瞼をきつく閉じて防ぐ。どこかで遮断しなければ「不安」という名の風船はどこまでも膨れていって、遠からず破裂してしまうだろう。一度四散してしまえば、残らず拾い集めて閉じ込めるのは至難の業だ。芽吹いて心を侵食していくのを止められなくなる。
「バレたりなんてしないよ。お母さんだって、全然気づいてないんだから」
よほど近くにいなければ届かない程度の音量だった。
「馨……」
雅芳は、瞳に悲しげな色を宿し、馨の両肩を掴む。駄目押しのように額を触れ合わせ
「大丈夫だ」
と告げた。
「伯母さんだって、いつかは……」
言いかけたところに
「あ――――――!」
幼稚園児の嬌声のような、元気な声が割り入ってくる。
声の主は、教室のドアの前に立っていた。あんぐりと口を開け、馨達を指差している。
「何してんの何してんの何してんのよ! やだっ、顔近っ!」
見るからにパワフルな彼女は、雅芳の恋人の冴山梓だ。子猫のような丸っぽい輪郭の中に、こぼれそうに大きな瞳と小さい鼻、形の良い唇が収まっている。髪は金に近い薄茶色で、長さは首の中ほどまで。細かできついウェーブが掛かっていて、後ろからだと逆さにした扇の形に見える。量の少ない前髪は、斜めに流してクローバーの飾りピンで留めていた。
「あああ梓、これはイトコ同士のコミュニケーションの一環で、けっして怪しいとかそんなんじゃ……」
馨は、胸中で「あーあ」と呆れる。雅芳が弁解を重ねれば重ねるほど、梓の瞳は爛々と輝いていった。可愛らしい唇が、悪戯っぽく弧を描く。
「あんた達、イトコとはいえほんっと仲良しよねー。アタシ時々不安になるのよ。ホモのカモフラに使われてんじゃないかって」
雅芳は、マナーモード中に着信を受けた携帯のようにぶるぶると震えた。あからさまに気色悪がっている。
「変なこと言うなよ」
必死にカモフラージュ説を打ち消そうとする雅芳に、梓は一転して天使のような微笑を寄越した。
「観たい映画があるんだよねー。雅芳が苦手なべったべたの恋愛物なんだけど、二人で見たいなー。でも、アタシ今月金欠だから、割り勘はできないのよねー」
天使のような悪魔の笑顔、とはよく言ったものだ。雅芳が「うっ」と喉を詰まらせる。
「か、馨……助けてくれ」
「無理」
間髪入れずに答えれば「薄情者」の烙印を押される。
「薄情者でけっこう」
痴話喧嘩に巻き込まれるよりは、傍観を決め込む方がいい。
惚れたほうの負けって、本当だなぁ。
他愛の無い事実にしみじみしていると、彩香が梓の横を通り過ぎた。
見間違いだったのか何なのか。
横切る刹那、彩香が梓を睨んでいったように見えた。何故……と思考する馨の傍で
「ったく。わーったよ、梓。奢りで映画な」
「やったぁ!」
カップルは晴れて大団円を迎えたが、対照的に、馨の胸裏には暗雲が立ち込める。
また、妙な誤解をしているのではないだろうか。
思い込みの激しい彩香なら、充分有り得る事態だった。
ジョンベラ、暑い……。
緑の丘を登りながら、馨はセーラー服独特の大きな襟をつまむ。この部分の名称がジョンベラなのだが、肩や背に被る部分の暑いことといったら無い。至極通気性が悪いのだ。
「取り外し可能だったらいいのに……」
無くなれば間抜けなデザインになること必至だが、既に馨の頭は朦朧としていて、わけのわからない状態になっている。
スカートの中を下敷きで扇ぐなんて、家ならともかく公園では……駄目だろうなぁ。
声無き声で零しつつ登りきると、彩香はいつも通り阿屋にいた。
だが、暗く俯いてしまっている。
「どうしたの?」
問いかけると、彩香はのろのろと顔を上げた。うつろな様子で唇を動かす。
「……見ちゃったの」
狐狸妖怪の類だろうか。そう思うくらい、おどろおどろしい声音だった。
「白川くんが……ユイじゃない女の子とキスしてるの……」
昨夕、唯に扮する馨と会話を楽しんだ後、家への最寄り駅で目撃したのだと言う。駅名を訊けば、雅芳と梓が頻繁に放課後デートに行っている場所だった。近くに大型のゲームセンターがあるのだ。UFOキャッチャーで人形を「取れる」「取れない」で騒ぐのが醍醐味なのだと以前聞かされた。
衆目のあるところでキスだなんて、と苦笑するものの、雅芳らしくて軽蔑する気は微塵も起きない。
「二股かけるなんて」
やはり「カレシではない」という言葉を信じてはいなかったらしい。苦笑を深めつつ、二度目の説明を試みようと口を開きかける。だが、彩香の方が早かった。
「やっぱり、男の人なんてひどい」
瞬間、馨にとっての世界が無音になる。沸騰するような血流の速さと熱さに、腹の底が焼け焦げそうな感覚に陥った。
眩暈がする。
制服が肌に張り付いて気持ち悪い。
高い気温に滲んだ汗が冷えていく。
「…………?」
彩香が不思議そうに小首を傾げ、唇を動かしたが、何も聞こえないままだ。
事故に劣らぬ衝撃に、馨は聴覚を手放してしまっていた。
男に対する偏見。
彩香の極端な「男嫌い」は、桜子が行った「馨」の否定を強調し、裏打ちする。
男の自分に価値など無い。
女装しているときだけ「価値のある人間」になれる。
桜子は女の子を欲しがっていた。
彩香は男を否定し、「唯」を知りたがっても、教室にいる「馨」には興味が無い
男であることそのものが罪悪なのか。
ならば、性別とは何だ。
生まれ持ったものだろう。
生れ落ち、他人と関わってから養われるはずの人格を、生まれ持っての性別で測られてしまうだなんて、理不尽じゃないか。
そのくせ、服装を変えただけで存在を肯定する。
中身は男のままだというのに。
いったい何をして性別と言わしめるのか。
わからないうちには「唯」を止められない。
身体が男としての著しい成長を遂げても、捕らわれ続けることになるのだ。
セーラー服からも、故人となった「唯」の服からも、逃れられない。
「私、前ちゃんと彩香に『つきあってない』って言ったよ」
自身の声が聞こえる。少々掠れていたのは、感情の高ぶりによって、喉が腫れたようになってしまっていたからだろう。
「でも、名前呼び捨てだったし、恋人同士でもないのに、あんなにくっついて……」
彩香の声も聞き取れるようになった。冷えていた汗も、肌と布地の間で温まって、溶けそうな外気の暑さを伝えてくる。
体感が戻ってきたのだ。
「カレシでもない人に、あんなふうに無防備に触れさせるなんて」
背中に乗られても、男である馨にとっては「重い」だけの無害なものだったが、彩香が知るべくもない。
「友達だから……」
スカートの裾を弄くりながら俯いた。
真実であっても、信憑性がなければ信じてはもらえない。
彩香はさらにヒートアップしていく。
「友達の距離じゃなかった! あんな、あんな……いやらしい!」
古い言い方をすれば「堪忍袋の緒が切れた」だろうか。頭蓋骨の内側でぶつりと音がした。
怒気の充溢を感じ取ったのだろうか、いきり立っていた彩香が熱気を鎮め、半歩後ずさる。
「男は全部いやらしいの? ただ傍に居るだけでいやらしい扱いされるの? 友達なのは事実なんだから、しょうがないでしょ!」
彩香は馨に……いや、大人しい「唯」に抗言されるとは思ってもみなかったようで、瞠目した。
それでも尚、彩香は呆けたように言葉を続ける。
「だって……友達の距離じゃ……」
先ほどと変わらぬ台詞に「自分の言葉をまともに聞いていない」と判断した馨は、怒気を纏いつかせたまま静かに語った。
「イトコなんだから、普通の友達とは違って当たり前なの。二股なんて、とんでもない話だよ。雅芳は一途で、彼女ととても仲が良い。男なんてって、何の権利があって世界の半分の人間を否定するの。ひどいって、そっちの方がよっぽどひどいじゃないか!」
「唯」として女性らしい言葉使いをしなくてはならないのだが、熱が入るにつれて失念していく。
「性別で人を判断して、その人自身の人格を見ないだなんて。カレシ云々だって、最初に否定したのに。信じないで勝手に誤解したまま二股だなんて騒ぎ立てて、おかしいんじゃない?」
言い過ぎた、と悔いるが遅い。
腹水盆に返らずだ。
彩香が青褪め、震える。冷たい雨に打たれながら何時間も恋人を待ち続け、挙句すっぽかされたような、痛ましい風情だった。
「ユイのことを守りたいから、だから……心配してるのに。どうしてそんなひどいこと言うの? また同じ思いをするかもしれないって怖かったけど、今度こそ守れるかもとも思って、だから……だから精一杯、警戒してって教えてるのにっ!」
今度こそ?
過去に誰かを「守りたい」と願い、果たせなかったということだろうか。
彩香に対して抱いていた違和感、謎、そういったものの原点が、僅かながら吐露された過去に覗いていた。
「なのに、男をそんなふうに庇うなんて、信じられない。ユイのこと、わかんなくなっちゃったよ!」
踵を返した彩香のスカートが翻る。
泣き声まじりの叫びが、尾を引きながら丘の下へと消えていった。走り去った彩香の軌跡を視線で辿りながら
「わかんなくなっちゃった、か」
ぽつりと零す。皮肉げに、しかし寂しそうに、唇の片端が吊り上がった。
彩香は、最初から何もわかっていなかった。
男子である馨を女子トイレに誘導し、馨を「馨」ではなく「ユイ」と呼び、女同士だと信じきって男否定をした。
「仕方ないよね」
気づかれないように、細心の注意を払っていたのは馨だ。隠されているものは、暴こうという意思が介在しない限り表に出ない。
「唯」の下に「馨」が隠れている等、彩香は想像したこともないだろう。
従って、暴かれる所以も無い。
彩香が「何もわかっていない」のは、馨の責任なのだ。
責めるべき人間などどこにも存在しない。
全ては自分の行いが返ってきた結果だ。
自分自身がつくづく嫌になり、馨はぐったりと阿屋のテーブルに突っ伏した。
心身ともに身動きが出来ない。
雁字搦めだった。
夜、馨は自室のアンティーク調なベッドの上に座り、一人呆けていた。桜子の気に入りである水色のネグリジェを纏い、その裾を軽く持ち上げながら「何やってんだか」と空しく漏らす。
馬鹿みたいだ。
いや、馬鹿そのものか。
卑屈になった直後、ひどい無気力感に襲われる。身体が赤々と命の炎を燃やしていても、精神は風前の灯だ。気温よりも高い湿度にうんざりし、気力が奪われる。
視界が靄掛かり、意識と現実が乖離しはじめたとき――――枕もとの携帯が鳴った。
着信音ではなく、メールの受信音だ。
めったに無い出来事に、視界の靄が払われる。
携帯が鳴るのは久々だった。
両親とは家で、雅芳とは学校で、用件の伝達が済んでしまうからだ。それでも、雅芳からは時偶メールが来た。これもそうだろう、と決定ボタンの連打で「一件あります」からメール本文に移らせる。
送信者名は『小宮山彩香』だった。
指が止まるが、開いてしまっているので意味は無い。
本文の内容は、いやらしいなどといった上、自分勝手な捨て台詞を残して去ってしまったことへの謝罪だった。雅芳については触れられていない。付き合っていると誤解したままなのか解けたのかは不明だった。
返信しなければならないのだろう。
思うが、指はいっこうに動かない。
考えてみれば、音信不通にして連絡を途絶えさせる、というのも一つの手ではないだろうか。幸い明日明後日は土日で、会う約束の無い日だ。
このまま未練たらしく女友達のフリをし続けて、ひょんなことでバレたら……。彩香は傷つき「男なんか、うそつきで変態」と偏見を強めてしまうだろう。
「………………」
正体がバレる未来を想定し怯え続けるよりは「幻のようだった女友達」としてフェードアウトしていく方がいい。長く友人として接し続けるぶんだけ、バレたときの傷は深いだろうから。
お互いのためだ。
馨は、返信するのを止めた。