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別離

 薄曇ではっきりしない天気の日だったが、阿屋のベンチに並んで腰掛けた馨と彩香は、晴天の日と変わらぬ和やかさで談笑していた。

「それでね、ユイ、その番組で……」

 「馨」ではなく「唯」として彩香と出会ってから、数日が経過した。雨天の日と土日以外、ほぼ毎日彩香と過ごしている。

 休日に観た映画の感想、感動できる本を読んだから是非といった紹介、ネットサーフィン中に見つけた面白いブログの話……内容はとりとめのないものだったが、それだけに楽しい。

「しょっちゅう気前良くおごってくれる男は、後でぜーったい見返り要求してくるんだって。おごった合計金額とか、いちいち覚えてるらしいよ」

 楽しいのだが、偏った情報による彩香の「男否定」が始まることも多々あった。

「私達まだ中学生だし、おごるおごられるなんて話、関係ないんじゃない?」

 馨は「興味が無いだけ」と思われるよう、淡白な声音を心がけた。反駁と取られれば論争に発展し、話がややこしくなってくる。

「んー、それもそうかもね」

 軌道修正成功、と判じたが……甘かった。

「部活だ何だって言い訳して、大事なイベントに限って予定を一日ズラす男はね、他に本命がいるんだって。つまり、浮気相手にされてるってこと。二股された上に自分が浮気相手なんて、最悪だよね。どっちの立場も嫌なことに変わりないけど。男って、女なら誰でもいいのよ。女を個人じゃなくて『女』っていう生き物でしか見てない。獣よ」

 極端な言い分にげんなりするが、上辺の笑顔だけはかろうじて保ち続ける。だてに女装歴は長くない。

「一途な男の人もいるでしょう」

 馨は、梓一筋の雅芳をイメージしていた。

「いるわけないじゃない」

 にべもない。一刀両断の即答だった。

「います」

 事実を語っているだけだが、彩香は哀れむように馨を見やる。

「ユイは男の人に幻想を抱きすぎ。そんな甘い考えじゃ、いつか怖い目に遭っちゃうわ」

 彩香の方こそ偏見を抱きすぎだ。馨は、きつい口調にならないよう注意しつつ反論した。

「そんなことないよ。テレビなんて、特殊なケースを面白おかしく紹介してるだけなんだし。普通に暮らしてたら、怖い人に会ったり怖い目に遭わされたりなんて、そんなにないでしょう」

 彩香が、いつぞやのようにサッと顔色を変える。そればかりか、拳を握り肩をいからせた。

「だからユイは甘いって言うのよ! 自分だけは大丈夫、テレビに映ってる世界は別世界、なんて思ってたら、絶対怖い目に遭っちゃうんだから!」

 猛然と捲くし立てられ、凍りつく。氷像のようになった馨を前に、彩香はほぅと息をついた。脱力し、肩を落とす。

「でも、大丈夫。ユイはわたしが守ってあげるからね。初対面のとき、お母さんにもよろしくって頼まれたしさ」

 人情に厚い姉御肌……では無いだろう。面倒見の良い人間が『能面女』と陰口叩かれるほどのコミュニケーション不全のはずはない。かといって、冗談として受け止めるには真剣すぎた。

 いったい何が彩香に「守る」などと言わせているのか。

 さっぱり見当がつかなかった。






 担当場所の掃除が終わり、馨はいそいそと教室に戻る。六月だとは信じがたい夏日である今日、冷房の利いた校舎から出たくない、と居座っているクラスメイトは多い。その中で、素早く鞄を手に持ち背筋を伸ばす馨は、まるでナメクジの群れの中のカエル、もしくは異星人だった。

 たとえ汗じみるほどの陽気でも、晴天でさえあれば良い。ここ一月の間に習慣となった阿屋での一時を想い、くるりと踵を返した馨だったが、鼻先をあたたかな壁に打ち付ける。

 つと見上げた先には、雅芳の顔があった。

「邪魔」

 馨が短く言い放つ。

 親類ゆえの遠慮の無さだ。

 雅芳はといえば、気を悪くするしないの前に、聞いていなかったらしい。立ちはだかったまま口を開いた。

「お前、最近楽しそうだな」

「そう?」

 嬉しげに声が弾んだ。雅芳は渋い顔になる。

「俺は心配だよ」

「え?」

 馨が、不意を突かれた子犬のようにきょとりとする。

 何を心配することがあるというのか。

「お前はお前として小宮山に受け入れられてるわけじゃないだろ。もしバレたらって思うとさ。あっちの反応とか、お前が傷つかないかとか……考えちまうんだよ……」

 くびり殺される寸前の鶏のような、ぎゅうっとした苦しさが込み上げる。雅芳に言われるまでもない。似たような懸念は幾度も過ぎった。

 馨は、彩香が『「唯」の正体は「桐生馨」だ』と気づく日が来たら、誤魔化さずに真実を告げるつもりだ。

 友情まで偽りではないと信じているからだが……彩香の方はどうだろう。

 騙されたと感じ、楽しかった時間まで「汚点」と処理されてしまうのだろうか。嘘はついていないが、訂正もしなかった。

「………………」

 考え込んでしまいそうになるのを、瞼をきつく閉じて防ぐ。どこかで遮断しなければ「不安」という名の風船はどこまでも膨れていって、遠からず破裂してしまうだろう。一度四散してしまえば、残らず拾い集めて閉じ込めるのは至難の業だ。芽吹いて心を侵食していくのを止められなくなる。

「バレたりなんてしないよ。お母さんだって、全然気づいてないんだから」

 よほど近くにいなければ届かない程度の音量だった。

「馨……」

 雅芳は、瞳に悲しげな色を宿し、馨の両肩を掴む。駄目押しのように額を触れ合わせ

「大丈夫だ」

 と告げた。

「伯母さんだって、いつかは……」

 言いかけたところに

「あ――――――!」

 幼稚園児の嬌声のような、元気な声が割り入ってくる。

 声の主は、教室のドアの前に立っていた。あんぐりと口を開け、馨達を指差している。

「何してんの何してんの何してんのよ! やだっ、顔近っ!」

 見るからにパワフルな彼女は、雅芳の恋人の冴山梓だ。子猫のような丸っぽい輪郭の中に、こぼれそうに大きな瞳と小さい鼻、形の良い唇が収まっている。髪は金に近い薄茶色で、長さは首の中ほどまで。細かできついウェーブが掛かっていて、後ろからだと逆さにした扇の形に見える。量の少ない前髪は、斜めに流してクローバーの飾りピンで留めていた。

「あああ梓、これはイトコ同士のコミュニケーションの一環で、けっして怪しいとかそんなんじゃ……」

 馨は、胸中で「あーあ」と呆れる。雅芳が弁解を重ねれば重ねるほど、梓の瞳は爛々と輝いていった。可愛らしい唇が、悪戯っぽく弧を描く。

「あんた達、イトコとはいえほんっと仲良しよねー。アタシ時々不安になるのよ。ホモのカモフラに使われてんじゃないかって」

 雅芳は、マナーモード中に着信を受けた携帯のようにぶるぶると震えた。あからさまに気色悪がっている。

「変なこと言うなよ」

 必死にカモフラージュ説を打ち消そうとする雅芳に、梓は一転して天使のような微笑を寄越した。

「観たい映画があるんだよねー。雅芳が苦手なべったべたの恋愛物なんだけど、二人で見たいなー。でも、アタシ今月金欠だから、割り勘はできないのよねー」

 天使のような悪魔の笑顔、とはよく言ったものだ。雅芳が「うっ」と喉を詰まらせる。

「か、馨……助けてくれ」

「無理」

 間髪入れずに答えれば「薄情者」の烙印を押される。

「薄情者でけっこう」

 痴話喧嘩に巻き込まれるよりは、傍観を決め込む方がいい。

 惚れたほうの負けって、本当だなぁ。

 他愛の無い事実にしみじみしていると、彩香が梓の横を通り過ぎた。

 見間違いだったのか何なのか。

 横切る刹那、彩香が梓を睨んでいったように見えた。何故……と思考する馨の傍で

「ったく。わーったよ、梓。奢りで映画な」

「やったぁ!」

 カップルは晴れて大団円を迎えたが、対照的に、馨の胸裏には暗雲が立ち込める。

 また、妙な誤解をしているのではないだろうか。

 思い込みの激しい彩香なら、充分有り得る事態だった。




 ジョンベラ、暑い……。

 緑の丘を登りながら、馨はセーラー服独特の大きな襟をつまむ。この部分の名称がジョンベラなのだが、肩や背に被る部分の暑いことといったら無い。至極通気性が悪いのだ。

「取り外し可能だったらいいのに……」

 無くなれば間抜けなデザインになること必至だが、既に馨の頭は朦朧としていて、わけのわからない状態になっている。

 スカートの中を下敷きで扇ぐなんて、家ならともかく公園では……駄目だろうなぁ。

 声無き声で零しつつ登りきると、彩香はいつも通り阿屋にいた。

 だが、暗く俯いてしまっている。

「どうしたの?」

 問いかけると、彩香はのろのろと顔を上げた。うつろな様子で唇を動かす。

「……見ちゃったの」

 狐狸妖怪の類だろうか。そう思うくらい、おどろおどろしい声音だった。

「白川くんが……ユイじゃない女の子とキスしてるの……」

 昨夕、唯に扮する馨と会話を楽しんだ後、家への最寄り駅で目撃したのだと言う。駅名を訊けば、雅芳と梓が頻繁に放課後デートに行っている場所だった。近くに大型のゲームセンターがあるのだ。UFOキャッチャーで人形を「取れる」「取れない」で騒ぐのが醍醐味なのだと以前聞かされた。

 衆目のあるところでキスだなんて、と苦笑するものの、雅芳らしくて軽蔑する気は微塵も起きない。

「二股かけるなんて」

 やはり「カレシではない」という言葉を信じてはいなかったらしい。苦笑を深めつつ、二度目の説明を試みようと口を開きかける。だが、彩香の方が早かった。

「やっぱり、男の人なんてひどい」

 瞬間、馨にとっての世界が無音になる。沸騰するような血流の速さと熱さに、腹の底が焼け焦げそうな感覚に陥った。

 眩暈がする。

 制服が肌に張り付いて気持ち悪い。

 高い気温に滲んだ汗が冷えていく。

「…………?」

 彩香が不思議そうに小首を傾げ、唇を動かしたが、何も聞こえないままだ。

 事故に劣らぬ衝撃に、馨は聴覚を手放してしまっていた。

 男に対する偏見。

 彩香の極端な「男嫌い」は、桜子が行った「馨」の否定を強調し、裏打ちする。

 男の自分に価値など無い。

 女装しているときだけ「価値のある人間」になれる。

 桜子は女の子を欲しがっていた。

 彩香は男を否定し、「唯」を知りたがっても、教室にいる「馨」には興味が無い

 男であることそのものが罪悪なのか。

 ならば、性別とは何だ。

 生まれ持ったものだろう。

 生れ落ち、他人と関わってから養われるはずの人格を、生まれ持っての性別で測られてしまうだなんて、理不尽じゃないか。

 そのくせ、服装を変えただけで存在を肯定する。

 中身は男のままだというのに。

 いったい何をして性別と言わしめるのか。

 わからないうちには「唯」を止められない。 

 身体が男としての著しい成長を遂げても、捕らわれ続けることになるのだ。

 セーラー服からも、故人となった「唯」の服からも、逃れられない。

「私、前ちゃんと彩香に『つきあってない』って言ったよ」

 自身の声が聞こえる。少々掠れていたのは、感情の高ぶりによって、喉が腫れたようになってしまっていたからだろう。

「でも、名前呼び捨てだったし、恋人同士でもないのに、あんなにくっついて……」

 彩香の声も聞き取れるようになった。冷えていた汗も、肌と布地の間で温まって、溶けそうな外気の暑さを伝えてくる。

 体感が戻ってきたのだ。

「カレシでもない人に、あんなふうに無防備に触れさせるなんて」

 背中に乗られても、男である馨にとっては「重い」だけの無害なものだったが、彩香が知るべくもない。

「友達だから……」

 スカートの裾を弄くりながら俯いた。

 真実であっても、信憑性がなければ信じてはもらえない。

 彩香はさらにヒートアップしていく。

「友達の距離じゃなかった! あんな、あんな……いやらしい!」

 古い言い方をすれば「堪忍袋の緒が切れた」だろうか。頭蓋骨の内側でぶつりと音がした。

 怒気の充溢を感じ取ったのだろうか、いきり立っていた彩香が熱気を鎮め、半歩後ずさる。

「男は全部いやらしいの? ただ傍に居るだけでいやらしい扱いされるの? 友達なのは事実なんだから、しょうがないでしょ!」

 彩香は馨に……いや、大人しい「唯」に抗言されるとは思ってもみなかったようで、瞠目した。

 それでも尚、彩香は呆けたように言葉を続ける。

「だって……友達の距離じゃ……」

 先ほどと変わらぬ台詞に「自分の言葉をまともに聞いていない」と判断した馨は、怒気を纏いつかせたまま静かに語った。

「イトコなんだから、普通の友達とは違って当たり前なの。二股なんて、とんでもない話だよ。雅芳は一途で、彼女ととても仲が良い。男なんてって、何の権利があって世界の半分の人間を否定するの。ひどいって、そっちの方がよっぽどひどいじゃないか!」

 「唯」として女性らしい言葉使いをしなくてはならないのだが、熱が入るにつれて失念していく。

「性別で人を判断して、その人自身の人格を見ないだなんて。カレシ云々だって、最初に否定したのに。信じないで勝手に誤解したまま二股だなんて騒ぎ立てて、おかしいんじゃない?」

 言い過ぎた、と悔いるが遅い。

 腹水盆に返らずだ。

 彩香が青褪め、震える。冷たい雨に打たれながら何時間も恋人を待ち続け、挙句すっぽかされたような、痛ましい風情だった。

「ユイのことを守りたいから、だから……心配してるのに。どうしてそんなひどいこと言うの? また同じ思いをするかもしれないって怖かったけど、今度こそ守れるかもとも思って、だから……だから精一杯、警戒してって教えてるのにっ!」

 今度こそ?

 過去に誰かを「守りたい」と願い、果たせなかったということだろうか。

 彩香に対して抱いていた違和感、謎、そういったものの原点が、僅かながら吐露された過去に覗いていた。

「なのに、男をそんなふうに庇うなんて、信じられない。ユイのこと、わかんなくなっちゃったよ!」

 踵を返した彩香のスカートが翻る。

 泣き声まじりの叫びが、尾を引きながら丘の下へと消えていった。走り去った彩香の軌跡を視線で辿りながら

「わかんなくなっちゃった、か」

 ぽつりと零す。皮肉げに、しかし寂しそうに、唇の片端が吊り上がった。

 彩香は、最初から何もわかっていなかった。

 男子である馨を女子トイレに誘導し、馨を「馨」ではなく「ユイ」と呼び、女同士だと信じきって男否定をした。

「仕方ないよね」

 気づかれないように、細心の注意を払っていたのは馨だ。隠されているものは、暴こうという意思が介在しない限り表に出ない。

 「唯」の下に「馨」が隠れている等、彩香は想像したこともないだろう。

 従って、暴かれる所以も無い。

 彩香が「何もわかっていない」のは、馨の責任なのだ。

 責めるべき人間などどこにも存在しない。

 全ては自分の行いが返ってきた結果だ。

 自分自身がつくづく嫌になり、馨はぐったりと阿屋のテーブルに突っ伏した。

 心身ともに身動きが出来ない。

 雁字搦めだった。




 夜、馨は自室のアンティーク調なベッドの上に座り、一人呆けていた。桜子の気に入りである水色のネグリジェを纏い、その裾を軽く持ち上げながら「何やってんだか」と空しく漏らす。

 馬鹿みたいだ。

 いや、馬鹿そのものか。

 卑屈になった直後、ひどい無気力感に襲われる。身体が赤々と命の炎を燃やしていても、精神は風前の灯だ。気温よりも高い湿度にうんざりし、気力が奪われる。

 視界が靄掛かり、意識と現実が乖離しはじめたとき――――枕もとの携帯が鳴った。

 着信音ではなく、メールの受信音だ。

 めったに無い出来事に、視界の靄が払われる。

 携帯が鳴るのは久々だった。

 両親とは家で、雅芳とは学校で、用件の伝達が済んでしまうからだ。それでも、雅芳からは時偶メールが来た。これもそうだろう、と決定ボタンの連打で「一件あります」からメール本文に移らせる。

 送信者名は『小宮山彩香』だった。

 指が止まるが、開いてしまっているので意味は無い。

 本文の内容は、いやらしいなどといった上、自分勝手な捨て台詞を残して去ってしまったことへの謝罪だった。雅芳については触れられていない。付き合っていると誤解したままなのか解けたのかは不明だった。

 返信しなければならないのだろう。

 思うが、指はいっこうに動かない。

 考えてみれば、音信不通にして連絡を途絶えさせる、というのも一つの手ではないだろうか。幸い明日明後日は土日で、会う約束の無い日だ。

 このまま未練たらしく女友達のフリをし続けて、ひょんなことでバレたら……。彩香は傷つき「男なんか、うそつきで変態」と偏見を強めてしまうだろう。

「………………」

 正体がバレる未来を想定し怯え続けるよりは「幻のようだった女友達」としてフェードアウトしていく方がいい。長く友人として接し続けるぶんだけ、バレたときの傷は深いだろうから。

 お互いのためだ。

 馨は、返信するのを止めた。


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