現在
あの日から、馨は桜子にとってずっと「唯」だ。「馨」は、最初からこの世にいない者として消去されてしまった。言葉については、日が経つたびに「死んで忘れてしまっていたものが、再び思い出されていっている」と解釈しているらしい。
馨は、綺麗に形作った皮肉な笑みを一樹に向ける。
「二人も子供作る気無かったって……僕は避妊が失敗した結果に出来ちゃった、本当はいらない子なんだって……」
一樹が、椅子を蹴倒す勢いで立ち上がった。唇がぐっと噛み締められる。吊りあがった眦、赤鬼の如く染まった顔、こめかみに浮いた筋は激しく痙攣していた。熱せられた砲丸のように赤く硬く握り締められている拳に、馨は殴られる覚悟をする。
瞼を閉じた。
一秒、二秒、三秒……痛みは来ず、代わりに大きなため息が耳朶を打つ。馨が瞼を開くと、一樹は席に座り直し、両手で顔を覆っていた。
沈静したものの、未だ燻っている部分があるらしい。揺れ幅の大きい心電図のような感情が、空気を伝って届いてくる。
平静な馨は、この場では完全な異端者だった。仕方なく
「ごちそうさま」
半分以上残したまま席を立つ。夕食を続けられる雰囲気ではなかった。
馨が廊下に出ると、電話中の桜子が目線で「もういいの?」と訊ねてくる。馨は小声で「食欲がなくて」と伝え階段を上った。馨の部屋は二階の奥にあるのだ。
ドアを開ければ、白いレースのカーテンと、御伽噺に出てきそうなアンティーク調のベッドが真っ先に目に入る。乙女の夢、大切なものを仕舞う宝箱、そんなコンセプトなのだろうか。本物の「唯」でもここまで少女趣味ではないだろう、という内装になっている。言うまでも無く、桜子の趣味だ。
宝箱がコンセプトだとすると、宝は間違いなく「唯」だった。桜子は、自分がお姫様なら一樹は騎士だと言い切ったことがある。一樹が「王子様じゃないのか」と本気ではない文句をつけたことまで、馨は記憶していた。
姫と騎士、二人が大切に守る宝。
僕は……どこにも分類されていない。
ベッドに突っ伏し、苦い事実を噛み締める。自分は「唯」であって、桜子の中に「馨」は存在しないのだ。無いものの分類を考えたりはしない。仕方がないのだと納得する反面、馨は自覚していた。
心の奥深くで、とぐろを巻いた大蛇が雌伏している。眠りから醒めれば最後、双眸の宿す怒りと悲しみを基に暴れだし、体内をのた打ち回ることだろう。
理性では本能を抑えきれない。堰を切って溢れ出したとき、自分がどういった行動に出てしまうのか、馨には想像できなかった。
「それでも、こんな僕でも……」
吊りあがった眦。
真っ赤だった顔。
振り下ろされなかった拳。
何もかもが、愛情から来るものだった。
わかっていた。けれど……。
「ごめんなさい、お父さん」
未だ女装し「唯」を演じている理由は、桜子の精神の安定のため――これも事実の一つであり、嘘ではない。
「けど……」
自分本位な真実は、事実の影で深く根を張っていた。
馨は、女装を解き「馨」として再び桜子の前に立つことが怖いのだ。
「お前なんて生まなきゃよかった」
思い出すたび自殺の情動に駆られた。
親しい人間からの拒絶は、時として何にも勝る凶器となる。
ナイフや銃よりも強力だ。
飛び降りや服毒といった方法が脳裏に過ぎるだけで、実際に行動に移したことは無いけれど、絶大な威力に「負けるかもしれない」「自殺してしまうかもしれない」と感じたことは何度もあった。
馨は自嘲する。「唯」を演じることを止めれば、一樹の心痛がなくなる。叔母の桃子やイトコの雅芳に面倒をかけることもなくなるのだ。桜子も、絶対に「馨」を拒絶すると決まっているわけではない。
全てを理解しているにも関わらず、宝でも騎士でもない、本来生まれるはずのなかった存在なのだと思うと、「唯」という部分を捨て切れなかった。存在を丸ごと「馨」に戻す勇気が持てないのである。
女装を続ける限り「馨」としての人生を案じてくれている人々には迷惑をかける。申し訳ないと感じているのに、恐怖はそれを上回り、克服ができないでいた。
情けない。
自覚があるだけに、ますます自信は喪失されていく。
悪循環だった。
二
馨の朝は忙しい。コンタクトを入れ髪を梳き、セーラー服を着て家を出る。この格好のまま学校に行けば晒し者なので、人通りの少ない細い道を使い、迂回しながら雅芳の家へ行く。制服及び男性用の私服は、イトコ宅に避難させてもらっているのだ。
「毎日見てるけど、やっぱ凄いなぁ〜」
洋風建築である馨宅と違い、和風建築のイトコ宅は重厚さがある。塀が岩を積み重ねたものだったり、庭に松があったり、飛び石がやけに高級そうな緑がかった黒石だったりするのだ。ゆえに、最初の頃は馨も萎縮していたのだが、数年単位で時が経過しているとなると、緊張もどこかへ吹っ飛んでしまう。
「おはようございます」
出迎え等はなく無人だが、礼儀として挨拶する。
「入りますよ。お邪魔します」
勝手に靴を脱いで上がりこんだ。毎日同じ和室で着替えさせてもらっているので、誰かに通してもらうのを待つまでもない。
もはや自分専用となりつつある部屋の襖を開けると、「おっはよー」といった挨拶と共に、四等分にしたスイカのような、くっきりとした笑みで迎え入れられる。覗く八重歯が愛嬌を添えていた。
「おはよ、雅芳」
挨拶を返せば、狐目が和んで一層細くなる。毛玉みたいにふわふわした薄茶の髪と良く合っていた。
「制服は? ハンガーに掛かってるはずなんだけど……」
胡坐を掻いている雅芳を見下ろし問うと
「お袋が持ってった」
簡潔すぎる答えが返ってきた。何故持っていったのかが説明されていない。
「いきなり気になったみたいでさー。なんか埃とかで白っぽくなっちゃってる気がするって」
察するに、ブラシ掛けしてくれているのだろう。
「朝忙しいんだから、帰って来てからでいーじゃんなー」
ごもっともだが、場所を借りている上に洗濯等もしてもらっている立場では、肯定などできようはずもない。馨は曖昧に濁して鏡台の前に座った。コンタクトを外すためである。
ケースの蓋を開け、洗浄液で中を満たす。二本の指を目の表面にそっと当て、摘まむようにしてコンタクトを剥がした。ケースの中に入れ、蓋を閉める。目が乾いた気がしたので、目薬を差してから眼鏡を掛けた。
ついでに髪を梳かし、首の後ろ辺りで一本に結ぶ。
「毎朝大変だよな」
軽い口調がデフォルトの雅芳にしては、やけにしんみりした響きだ。いったいどうしたのかと顧みれば、ハの字になった眉が目に入る。その下では、狐目が心配そうな色を宿していた。
「お前、いつまでそんな格好し続ける気だ?」
馨は、思わず笑ってしまう。
「昨日、父さんにも同じ事言われたよ」
ハの字の隙間に縦皺が刻まれた。不快というには伝播する雰囲気に棘が無く、案じる気持ちに拍車を掛けさせてしまったのだと悟る。
「大丈夫だよ」
何が大丈夫なのか、自分でも意味不明ながら、とにかく馨は力強く告げた。雅芳は、昨夜の一樹のように息をつき「誤魔化されてやるよ」と弱々しく笑む。
話は終了したが、重苦しい空気は拭われない。室内がうっすら灰色がかっているような、よろしくない錯覚に見舞われていると、から〜っと、軽やかに襖が開けられた。
「遅くなってごめんね〜、馨くん」
現れたのは、お猿さんのような金茶のベリーショートが良く似合う、太陽のような女性だった。パンツスーツを凛々しく着こなしている。彼女が叔母の桃子だ。
「けど、ほーら、制服とってもキレイになったわよ」
制服の掛かったハンガーを片手に、オホホホホとマダムな笑い方をする。
「やめろよお袋。恥ずかしいだろー」
雅芳がハンガーごと制服を引ったくり、馨に渡した。
「『お袋』じゃなくて『ママ』と呼びなさい、『ママ』と。でなかったら『桃子サン』ね」
馨は、叔母の桃子とイトコの雅芳のやりとりを生ぬるく見つめる。この親子は、「喧嘩するほど仲が良い」間柄なのだ。
「な〜にが桃子サンだよ。もうさんじゅ……痛っ、ぃってぇっつーの」
耳を引っ張られて喚く雅芳を他所に、馨は黙々と制服に着替える。叔母の前で気恥ずかしくもあるが、そろそろ出ないと遅刻してしまう。
崩したりせずきちんと着込み、さて二人の口喧嘩はどうなったのかと顧みれば、桃子の視線とかち合った。
ニッ、とレモンが弾けるような、溌剌とした笑みを寄越される。
何か良いことがあったのだろうか。
「馨くんの誕生日に、姉さんをディズニーランドに誘ったの。泊りがけだから、次の日姉さんが帰ってくるまでは、のんびり男の子してていいのよ。叔母さんからの誕生日プレゼント」
誕生日プレゼント……両親から貰った「馨」としての最後の誕生日プレゼントは、サッカーボールだった。そういえば、将来の夢はサッカー選手!などと息巻いていた気がする。
「ん? 『姉さんをディズニーランドに誘ったの』って……」
馨は昨夜の電話を思い出した。
「もしかして、夕飯のときにかかってきてたのって……」
桜子を誘う電話だったのかと眼差しで問う。
「ご名答」
笑みが深まると、雅芳と同じで八重歯が覗いた。馨が、やっぱり親子なんだなと妙に感慨に耽っていると、鞄を持った雅芳がローキックしてくる。
「早くしろよ。遅れるだろ」
「ごめん」
馨は、桃子に礼を述べつつ慌てて鞄を手に取った。
「いってらっしゃい」
桃子のあたたかな見送りの元、遅刻しそうな二人は学校へと走り始めた。
ドアを引き開け、二人同時に雪崩れ込むようにして教室に入る。鐘が鳴る前に着席していなければ、遅刻になってしまうのだ。体勢と呼吸を整えた馨は、席に着こうとして――止まった。窓際に視線を吸い寄せられる。
「馨? 何ぼーっとしてんだ」
訊きつつ、雅芳は馨の視線を辿った。
「小宮山? へー、なるほど」
雅芳は、ニタァ〜と唇を三日月形にし「ああいう美人タイプが好みか」と何度も頷きを繰り返す。
「違うよ」
訂正するが、雅芳はすっかり妄想の虜となっていた。人の話など聞いていやしない。
「わかってるって。なんとな〜く恥ずかしいんだろ。初めての恋だもんな、そっとしておいて欲しいよな。けど、なんか悩みができたら俺に相談するんだぞ」
まかしとけ、と背中を叩かれ、一時的に咽てから反論する。
「本当に違うんだよ。昨日……」
説明しようとしたが、邪魔が入った。
「こーら、教室に居ても、着席してないと遅刻だぞ」
達磨体型の担任が、出席簿で軽く二人の頭を叩く。
「先生〜、俺達ちゃんと教室に居たんですから、遅刻扱いにはしないでくださいよー」
冗談めかして頼む雅芳に、担任が「さーて、どうするかな」と悩むフリをする。他の生徒から「雅芳、出席簿で頭ペンペンは体罰だって脅してみろよー」と野次が入った。
「こら、変な入れ知恵をするんじゃない。まーったく、イイ性格な友達を持ってるじゃないか。白川も桐生も席に着け。遅刻扱いにはしないでおいてやるから」
「おっ、ラッキー。やったな、馨」
勝利だ、とはしゃぐ雅芳へ適当に頷ぎ、馨は窓際を眺めた。教室中の生徒が微笑ましそうにしているのに、彩香だけが無表情に外を見つめている。
不意に、雅芳に袖を引かれた。
「重傷」
と耳元で囁かれ、誤解を深めてしまったことを悟る。しかし、授業が始まらんとしている今、弁明している時間は無い。大人しく席に着いた。奇しくも、馨は彩香の右斜め後ろの席である。
「んじゃ、小テスト配るからなー。足りなかったら手挙げろよ。余ったら前に回すように」
回ってくるのを待っていると、視界の隅に、彩香が後ろに用紙を差し出す場面が映った。なんとなしに見ていると、受け取ろうとした男子生徒の指が彩香の指に触れる。彩香は、大げさなほど勢いよく手を引っ込めた。顔色が真っ青になっている。
無表情とこの反応が、株大暴落の原因であった。
昼休み、馨は弁当もそっちのけで誤解の訂正に務めていた。
「……で、人間嫌いっぽいのに。わざわざ話しかけられたんだ。不思議でしょうがなかったって、それだけの話だよ。恋心ゆえに見蕩れてましたとかじゃないから」
訴えれば、雅芳は考え深げに「んー」と唸りつつ、紙パックのストローを噛む。
「人間嫌いってよりは、男嫌いっぽいけどな。女子とはたまに話してるし」
小休憩中に読書で防御を張っているのは、うちのクラスが男女混合の席順を取っていて男に挟まれた状態だからではないのか、と雅芳が分析する。
「ま、女子ともあんま話してないけどな。ありゃたぶん、きゃあきゃあ騒ぐのが苦手なだけだ」
言い終わると、ちゅーっ、と吸引力自慢の掃除機のように一気に飲み干し、唇を離す。雅芳の手の中で、紙パックが上品ならざる音を響かせた。
「さすがカノジョ持ち」
馨が、お世辞でなく感嘆する。
「いやいやいや」
謙遜するが、口元がめいっぱい緩んでいた。満更でもないのがバレバレだ。ふわふわ浮いた茶髪が軽そうな印象を与えてしまうが、雅芳は意外に一途で、カノジョとは小学生の頃からのお付き合いだったりする。
馨は首を傾げ、彩香が「唯」に話しかけてきた理由を検討する。
「男嫌いだけど女の子は大丈夫で……だから話しかけてきた? でも、女の子はこの教室にもいるし」
思惟活動に限界を感じた脳が、漫画のように不可視の蒸気を発した。お手上げだ。
「だからさ、騒がしい教室の女じゃ駄目なわけだよ。その点、海風公園の阿屋で本を読んでる美少女なんて、物静かを極めてるね。相性が良いとでも思ったんだろ。今日も、お前に会おうとして公園来るかもな」
「……そうかな」
馨は、喜色を含んだ己の声音に驚いた。会う回数が多くなればなるほど、女装がバレる可能性も高くなる。人にはなるべく会わない方がいいというのに、何故望んでしまったのだろうか。
雅芳は、自身の心に驚愕している馨のことなど知らず、言葉を続けた。
「放課後にわかるさ。どーせ、鞄の中に本持ってきてるんだろ」
馨は無言で首肯する。彼は読書家ではないが、姉の唯により近づくため、彼女の蔵書に毎日一冊ずつ手を着けている。既に全部読み返し、何順目かになっていた。
昨日と同じく、苛烈なほどの晴天に海面は輝いていた。
阿屋の中の影は反比例して濃く、読書にはやや不向きな状態となっている。
「読めないな」
馨は、影と重みに耐えかねて本を閉ざした。
「栞とか挟まなくていーのか?」
重みの原因、雅芳が背中から訊ねてくる。彩香が公園に来るか否か興味を引かれたらしく、馨についてきたのだ。
「大丈夫。それより、重い、熱い」
おんぶお化けかとつっこめば、あははは、と文字表記できるくらいわざとらしい笑い声で返してくる。
「自分で認めるのも癪だけど、僕小型種だからきっついんだよね」
姉の私服が、ようやくぴったり身体に添うようになってきた。
「だってさー、お前梓と抱き心地似てるんだもん」
梓とは雅芳のカノジョで、フルネームを冴山梓と言う。
「気色悪いこと言うな、するな」
不本意だが、梓のセーラー服がジャストフィットな以上、腕の中に収まるすっぽり感は似ているのかもしれない。
馨は一気に憂鬱になった。
「あれ、落ち込んだ? ごめんってば、馨―、馨ちゃーん、機嫌直してよー」
馨ちゃん呼びにさらに不機嫌になり、腕の輪がきつくなったことに苛立ちを覚える。
「お前なぁ……!」
注意しようとした途中、馨はぞくりと背筋に悪寒を走らせた。凄まじい視線を感じる。
「やっぱ、俺がいると近づいて来ないか」
雅芳の呟きに顔を上げれば、正面遠方に見える公衆便所の影から、ちらちらとこちらを窺ってくる顔があった。高い位置で結ばれた髪が揺れている。間違いなく彩香だ。
「じゃーな、馨。また明日」
「うん、また明日」
手を振って別れると、しばらくして彩香が駆け寄ってきた。切れ長の目は据わっていて、馨は慄きながら彼女を見上げる。
「……カレシ?」
彩香の第一声はこれだった。
「は?」
カレシ、と反芻すれば、脳は勝手に検索を開始する。簡単な単語だ。即ヒットしたが……本能が意味の捕捉を拒否した。
「白川くんのことよ」
彩香の付け足しによって、馨は「女性だと思われている自分に、雅芳がべったり張り付いていた→同性間なら問題なくとも、異性間ならば恋人以外では取りようの無い距離→従って誤解を受けた」のだと、ようやく理解した。
「ああ、雅芳のこと。違う違う。単なるイ……友達」
用心のため「友達」と言い直す。名字が違うため、馨と雅芳がイトコだと知っている人間は少ない。クラスメイトとの交流が薄い彩香なら、たとえイトコだと教えても「桐生馨」と結び付けたりはしないだろう。だが、用心するに越したことはない。
「……そう」
深く追及する気は無いようだ。疑わしい目線はそのままだが、馨は「口に出されないのなら良いか」と放置した。
彩香がポツリと
「男の人は……」
と何事か呟きかける。的確な言葉が見つからないのか、口をもごつかせて俯いた。腕の中の鞄がもどかしさのあまりか強く抱きしめられ、外側の小ポケットに入っていた携帯が押し上げられて地面に落ちる。パールピンクの筐体が、回転しながら床を滑った。拾った彩香の手の中で、キティちゃんのストラップが揺れる。
「かわいいストラップだね」
褒めると、手に取って見ても良いと携帯ごと渡された。花輪を下げたキティちゃんで、リボンの代わりにハイビスカスを飾っている。
「……友達がくれたの。って言っても、直接会ったのなんて二回しかないんだけど。ネット友達なんだ。だから、オフ会の数が対面した数なわけ」
馨は胸中で「オフ会、聞きなれない響きだな。さすが東京っ子」と田舎者らしい感じ入り方をした。彩香は、入学に合わせて東京から引っ越してきた人間なのだ。
「あのね……ユイって呼んでいい?」
桜子が呼んだ「唯」という名を記憶していたのだろう。
「うん、いいよ」
女装時は、「馨」ではなく「唯」だ。嘘をついているわけではない。
「ユイのストラップはどんなの?」
ここで教えて、万が一教室で「桐生馨の携帯」を目撃され「ユイの携帯」と同じものだと結び付けられたら……。気に掛かったが、馨の携帯使用頻度は低い。学校で取り出したことなど、一度も無かった。
平気だろう。
結論を出し、馨は自身の携帯を鞄から取り出す。
「それ、わたしも持ってる。つけてないけど家にあるの。本屋さんでもらえたんだよね」
「うん、そう」
見せたのは、蜂が読書しながら泣いているストラップだ。馨も彩香に携帯を手渡す。
「ユイってお母さんと仲良いの?」
デコレーションの代わりに、桜子と撮ったプリクラが貼ってあった。女装で街に出ることはほとんど無いが、その日は桜子の誕生日で、ねだられたのだ。
「まあね」
適当に答え、携帯を仕舞おうとしたが、彩香に「待って」と止められる。
「せっかくケータイ出したんだし、メアド交換しよう」
提案され、馨はきょとんとした。友人となればメールアドレスの交換ぐらいするものだが、まだ携帯を与えられていなかった十歳の頃から交友関係が狭まっていたので、馨のメールアドレスを知っている人間は、雅芳と両親ぐらいのものだったのだ。教えてくれと訊ねてくる人間は、これまで一人もいなかった。
初めての体験に馨は「いいけど」と答えることしかできない。呆然とする馨の目の前で、彩香は素早く指を踊らせる。
「えーと……」
馨はといえば、自分のメールアドレスを教える方法がわからず、見当外れな操作を繰り返していた。
「貸して」
焦れたのか、彩香がやんわり馨の携帯を奪い取る。作業はあっという間に終了した。
「ありがとう。慣れてなくて」
「いいのよ。HP持っててパソコン詳しいのに、ケータイ操作は全然駄目っていう子知ってるし」
パソコンと携帯は、見た目の大きさだけではなく、機能からして別物らしい。若いくせにそういった機器類からは無縁の馨は、漠然と「凄いな」と感服し、携帯を仕舞う為に鞄を開ける。
馨の手元を眺めながら彩香が「本、持って来てる?」と訊いた。
「うん」
鞄の中を片手で探り、一冊の文庫を取り出す。ブックカバーはつけていない。裏面左上にBOOK・OFFのシールが貼ってあった。値段は105円。背表紙にあるタイトルは「看護婦の打ち明け話」だ。小説ではなく、実録の裏話集だった。
「意外。しっとり系の小説とかじゃないのね」
軽く目を瞠った彩香に、馨はこっそり苦笑する。己の抱いた感想と同じだったからだ。大人しやかな唯が読んでいるのなら、所蔵本も上品な内容のものが多いだろうと、先入観を持っていた。
「本に関しては、けっこう雑食タイプなの」
次いで、唯の本棚にあった他の本、小説やエッセイだけではなく詩集や漫画まで、幅広いジャンルタイトルを述べる。
「そっかー。守備範囲広いって、いいことよね。人間としての幅が狭まらないっていうか」
たかが本で「人間としての幅」にまで繋がってしまうのか。飛躍が激しすぎるだろう。
思うが、何も言えない。彩香の眼差しに、溢れんばかりの好意が含まれているからだ。胸の内側がむず痒くなり、羞恥に似た熱が湧いて喉が詰まる。
「ユイのこと、もっと知りたいな。たくさんの本を受け入れられるっていうことは、それだけユイにもたくさんの秘められた部分があると思うから……」
秘められた部分。
ダンッ、と床に叩きつけられたバスケットボールのように心臓が跳ねた。
彩香は内面のことを言ったのだろうが、馨は真っ先に重大な秘密――女装――を連想してしまったのだ。
「ユイ……?」
怪訝そうに、彩香が馨の顔を覗きこむ。
「そんなご大層な人間じゃないのに、って思っちゃって」
謙遜の台詞で誤魔化せば、「なーんだ」と彩香が胸を撫で下ろす。不愉快にさせる発言だったか、と気を揉んだのだろう。
「ご大層な人とかじゃなくても、人って複雑に出来てるから。色々な思考形態があるでしょう。嫌いな人の内面なんてどうでもいいけど、ユイとは気が合いそうだなって思うの。だから、知りたいな」
深遠な台詞に虚を突かれる。
思考形態という言い方にも目を剥いた。
謎だ。
物静かで男嫌いな『能面女』小宮山彩香は、どのような内面を持った人間なのだろうか。
「ね、ユイ……明日も会える?」
考えるより先に頷いていた。
なんのことはない。馨も彼女を「知りたい」と思ったのだ。