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過去

 馨は十歳だった。二歳年上の姉、唯は十二歳だ。唯は大人びた少女で、我が侭も理屈の通らないこともいっさい口にしなかった。当時の桜子の口癖が「お姉ちゃんと一緒なら安心」だったくらいだ。その日も「お客様が来るから、プールにでも行ってらっしゃい」と我が侭盛りの馨を唯に押し付けた。

 うだるように暑い日で、馨は厄介払いされたことも知らず、水の心地良さにご満悦だった。身体を動かすよりは本を読む方が好きな唯も、馨ほどではないが楽しんでいた。

 小学生にとっては、帰り道の買い食いもイベントの一つである。馨も例によってコンビニに寄り、喉が渇いたと唯にジュースをねだった。

「あまりお金持ってないから、一つしか買えないわよ。後でジュース以外の方がよかったって言ったりしないでね」

 念を押され、「わかったから早く」と急かして手に入れたジュースは、果汁生絞りの極上品にも劣らない美味しさだった。

 そこで、満足していればよかったのだ。

 コンビニを出てしばらくしたところに、アイスキャンディの露店が出ていた。水着入れを下げたお仲間達が、こぞって列を成している。馨はどうしてもそのアイスが食べたくなり、強硬にねだった。唯が「お小遣いがもう無いから」と嗜めるが、馨は「なにかあったときのために」と少し多めに預かっているのを知っていた。

 怒りに全身が戦慄く。

「ウソつき!」

 両親の信頼の全ては、常に唯にあった。アイスキャンディを買ってもらえなかったというだけでなく、日頃から抱いていた鬱憤もプラスされ、馨は癇癪を起こした。

「お姉ちゃんなんて、大嫌い!」

 一刻も早く「大嫌い」な唯から離れようと、馨は車道に飛び出した。

 直後、鼓膜が引き裂かれそうなほど強烈な摩擦音が轟いた。

 のみならず、迫り来る大きな車体の影が、悪夢の如く視覚を覆い尽くす。

 何だコレ、事故?

 僕、死ぬの?

 まさに須臾しゅすの命だったが、運転手が咄嗟にハンドルを切る。

 馨を避け、逆方向へと急回転した車体の頭。

 そこには、運転手の視界に入っていなかった人物……唯が居た。

 とてつもない破壊音がしたはずだ。

 聞きつけたからこそ周囲が騒然とし、赤ランプを回した救急車がやってきたのだから。

 サイレンの音だってしただろう。

 なのに――――何も聞こえない。

 そればかりか、風の匂いも汗が肌を伝う感覚も……視覚以外の体感すべてがごっそりと抜け落ちた。

「お姉ちゃん……」

 ひしゃげた車体が壁となり、馨は唯がどうなったのか、具体的に目撃してはいない。

「お姉ちゃん……?」

 混乱したまま再度姉を呼ぶ。

 やわらかに「何?」と答える人が隣にいない。

 どれだけ経っただろう。

 馨の存在に気がついた救急隊員の一人が歩み寄り、餌を求める金魚のように口を動かしてから、薄い肩をぐっと掴んできた。

 力強い感触が伝わる。

「君も乗るんだ」

 はっきりとした声だった。周囲のざわめきが蘇る。肌の上を、噴出した汗が流れていく。

 とめどなく、次々と戻ってくる感覚に、馨は耐え切れなかった。

 身体が、瘧に罹ったように震えだす。

「…………!」

 何事かを叫んだが、馨自身の耳と脳はそれの把握を拒否した。




 あのまま気絶し、何日もの間眠り続けたのか、ショックのあまり記憶が飛んだのか、気づけば葬式になっていた。

 手伝いを終えた親類縁者が、物陰で蹲っている馨に気がつかず、こっそりと噂話に興じ始める。

「お気の毒にねぇ」

「自慢の娘さんが……」

「息子さんが助かったのは幸いだけど」

「幸いでもないんじゃない。弟くんの方は、避妊に失敗してできちゃった子だって聞いたことあるわよ」

「そういえば、お姉さんの名前の『唯』も」

「唯一の唯っていう意味だって言ってたわ」

「逆だったらよかったのにねぇ」

 頭の中が、真っ白になった。立ち上がり、聞かれていたと青褪める親類縁者の間を通り抜け、夢中で走って桜子の元にゆく。否定して欲しかったからだが、一樹に支えられてやっと立っている桜子は、それどころではなかった。馨を視界に入れた途端、慈愛など欠片も見出せない凄まじい形相に変化する。

「お前のせいで……なんで飛び出したお前じゃなくて、あの子が死ぬの。あの子は何も悪くないのに……お前なんて生まなきゃよかった!」

 一樹が桜子の口を手で塞ぐが、遅い。

 馨は納得していた。プールに連れて行ってもらい、ジュースまで買わせて、感謝すべきであるのに我が侭を言って困らせた。

 悪いことをしたのは、僕だ。

 結論付けるが、理性と感情は一致しない。悪いと認めつつ、母の桜子に嫌い抜かれ憎まれるのを、当然の罰として受け入れることが出来なかった。

 逆ならよかったのに。僕が死んで、お姉ちゃんが生きていたらよかったんだ。

 そうすれば、生まなければよかったと言われることもなかった――と悔い、はたと想到する。

 姉になれば良い。

 馨は駆け出した。葬式場として借りている町内会館を出て、家に帰った。クローゼットを漁り、姉の服を拝借して袖を通した後、眼鏡を外す。ショートカットだった為、髪はいじらずそのままだ。

 ぼやける視界のせいであちこちにぶつかりながら、必死で会館へと戻る。そうして一樹と桜子のもとへ行ったわけだが、さぞかしみっともなかったことだろう。サイズが合わず、膝丈のはずのスカートはふくらはぎ中ほどまであり、肩は今にもずり落ちそうだった。

 他人様からすれば間抜けかもしれないが、馨にとっては最後の賭けだ。

「お前、その格好は……何を考」

「唯!」

 一樹の台詞は、桜子の歓喜に掻き消された。

 眠たげなはずの目が、極限まで瞠られている。信じられない、けれど信じたい。桜子の放つ疑惑と希求が部屋中に漲る。馨は、満ち満ちた感情の質量に圧迫され、身じろきどころか呼吸さえままならない。

「お母さん」

 と言おうとしたが、喉が収縮してしまって叶わなかった。馨は「失敗した」と臍を噛む。

 しかし、何が功を奏するかはわからないもので

「かえってきてくれたのね……」

 声無き帰還は、却って信憑性を増させたらしい。桜子は、唯に扮した馨に抱きついた。

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