家庭
帰宅し、馨は桜子の要望通り台所に立っていた。
しばらくすると、桜子が開錠の音を聞きつける。
玄関へ向かう彼女に倣い、馨はフリルがふんだんにあしらわれた、ドレスのようなピンク色のエプロン姿で父を出迎える。
父の表情は複雑だ。
カノジョに「お弁当作ってきたの。美味しい?」と半生状態の唐揚げを食わされたものの、初デートゆえに何も言えないカレシのような……形容しがたい空気を漂わせてくる。
馨も、笑って済ますべきか無表情でいるべきか迷い、妙な具合に唇を歪めた。
「お帰りなさい。今日の夕飯は、唯と二人で作ったのよ」
場の雰囲気が読めない、自分中心の桜子がにこやかに告げる。
「そりゃあ楽しみだ」
馨の父、桐生一樹は、ぎこちなく唇の両端を持ち上げた。
一樹は桜子に鞄と背広の上着を預け、ネクタイを緩めつつ風呂場に向かう。
一家の主である彼が入浴を終えた後、家族全員で夕食を摂るのだ。
「どうだ、学校のほうは」
暗黙のうちに決まっている『お父さんの席』に着席し、「いただきます」をするや否や、一樹は切り出した。
馨は、主に登下校の心配をしているのだろう、と読み取りながらも
「何も問題無いよ」
敢えて触れずに済ませた。会話が終わってしまい、一樹は肩を落とす。その横で、桜子がポンと手を打った。
「そういえば、イトコの雅芳くんが同じクラスなのよね。何かあったら頼って守ってもらいなさい。唯はお母さんに似てかわいいから、気をつけないと」
一樹が、メドューサの呪いを受けたように固まった。馨も、嵐の前に凪ぐ海面のような、扁平な表情になる。
横たわった静寂に、父と息子は身動きさえままならない。蟻の足音すら聞こえてきそうだ。
呼吸一つにも気が張る中、電話の着信音がけたたましく鳴り響いた。馨と一樹、両名の肩が同時にびくつく。揃って扉へと視線をやった。家の電話は廊下に設置されているのだ。
「あらあら、夕飯時に誰かしら」
桜子が慌てて受話器を取りに行く。着信音が止んだ。閉められた扉越しに「桃子? やぁね、電話する時間くらい選んで頂戴」と応答が聞こえてくる。
桃子とは桜子の妹、馨にとっては叔母にあたる人物の名前だ。
姉妹の電話が長引くと踏んだのか、硬直を解いた一樹は、馨にひたと真摯な眼差しを向けた。
「馨、お前……無理してお姉ちゃんのフリすることないんだぞ。中学に上がったし、誕生日ももうすぐだし、これをきっかけに止めてもいいんだ。お母さんのことは……お父さんがなんとかするから」
来月、馨は十三歳になる。
姉の唯は十二歳で死んだ。
「十二歳までしか居なかったお姉ちゃんが十三歳になるなんて、お母さん混乱しちゃうかな。そしたら、お姉ちゃんの服着てても無理だし。僕、完璧に役立たずになっちゃう」
一樹は震える指で己の眉間を押さえ「そうじゃない」と低く伝える。動揺も露な一樹に対し、馨はひどく淡々としていた。
「中学に入ったっていっても、僕が小柄なのは変わらないし……平気だよ。特に無理してるわけでもないから。声変わりもまだだしね」
セーラー服の調達は雅芳のカノジョに頼んだ。余分に買ってもらい、金を払って一着譲ってもらったのである。畢竟、彼女のサイズで作られており、馨にとっては多少小さく着心地が悪い――――はずだったのだが、着てみたらば……まったく問題が無い。むしろピッタリ。ジャストサイズだった。疑いようなく小柄であることが証明されてしまったのである。
男としては傷つくが、姉の「唯」として女装をする分には都合が良い。
「女装に違和感があるとか、そういう意味での『無理』じゃない。わかってるんだろう、本当は。お父さんが言っているのは、精神的な、自我とか自己とか、そういう話だ」
図星だった。馨は、意図的にズレた返答をしていたのだ。
一樹に嘘をつきたくなかった。
まともに「無理なんてしていない」と返せば、それは嘘になる。
実際には無理をしているのだから。
セーラー服の着用に慣れはしても、女子トイレの使用には苦痛が伴う。全てを「唯」に捧げ、男としての自分を塗り込めてしまったわけではないのだ。
男子生徒の「馨」として学校に通う一方、女装して「唯」を演じる。
この二重生活による精神的負担は、半端ではない。
「やさしい子に育ってくれたのは嬉しい。だけど、やさしさでお前がお前としての人生を押し込めて台無しにしてしまうのはいけないと思うんだ。あれからずっと、放課後に友達と遊びに行ったりとか、楽しいことしてないだろう?」
やさしいのはそっちじゃないか、と馨は唇を噛み締めた。母の桜子は喜んでいても、父の一樹は心痛を覚えている。知っていても「唯」を手放せない自分のエゴを、馨は重々承知していた。
だからこそ、せめて嘘はつかないようにと……。
ズレた返答は、一樹の質問に対し真っ向からの嘘をつかない、ただひとつの逃げ道だったったのだ。
苦しげに表情を歪める馨へ、一樹は訴え続ける。
「お前はお前だ。無理はしなくていい。これじゃあ、唯の代わりにお前が死んでしまったみたいじゃないか」
眼窩の奥で何かが弾け、思考が停止した。
姉が生き、自分が死んでいたら。
仮想の「現在」に馨は酩酊する。
「本当に、そうだったら良かったのに」
無意識が、するりと言葉を滑り出させた。
「なっ……」
一樹が、息を呑むヒュッという音と共に失語する。父親としてみれば、死を望むような台詞は青天の霹靂、寝耳に水、そのくらいショックなものだったのだろう。
愕然と馨を凝視する。
「だって、お姉ちゃんの名前、唯一の子っていうのが由来だったんでしょ」
うつろな瞳は、一樹を映してはいない。
馨は思い出していた。三年前の夏の日、姉を死に至らしめた事故のことを――――。




