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プロローグ

 セーラー服って、なんて面倒なんだろう。

 心の中でぼやきつつ、かおるは目的地へと急いだ。小走りする間に揺れるスカートの裾が気になって、手で押さえる。万が一下着が見えてしまったら困る、というのもあるが、それより何より、生ぬるい空気が入ってもわんとするのが嫌なのだ。

ほどなくして目的地に着き、そそくさと中に入ろうとする。

 やっと我慢状態から解放される、とホッとした。なのに

「そっちは男子トイレよ」

 端的な制止が背に届く。凛としたその声に振り向けば、澄んだ双眸と出会った。軽く目を見開き、馨は心の中で「あ」と声を上げる。

 声を掛けてきたのは、同じクラスの女子だった。

 彼女の名前は小宮山彩香こみやまさやか。痩身で、小柄な馨に比べると背が高い。顔の輪郭も、シャム猫のようにほっそりしていた。涼しげな切れ長の目は品があり、染色や脱色がいっさい行われていない黒髪は真面目そうな印象を与える。髪型はポニーテールで、一筋の乱れも無い。きっちり眉の上で切りそろえられている前髪といい、厳しいまでに整った身だしなみだ。同年代の少女たちとは一線を画している。

 玲瓏たる美貌とストイックな雰囲気のコラボレーションは絶妙で、入学から約二週間は男子達に大人気だったが……現在株は大暴落、史上最悪の底値を記録している。

 底値の人物――彩香――は、自身の顎に指を添え「う〜ん」と考え込むと、やがて独り言のように呟いた。

「痴女?」

「違います!」

 間髪入れずに返せば、彩香の唇からくすりと控えめな笑い声が漏れる。馨は再び声を失くした。ぱちぱち数度まばたきし、希少価値な微笑を網膜に焼き付ける。彩香は、陰で『能面女』と囁かれるほどの無表情少女なのだ。

 天変地異の前触れか、はたまた馨の目の錯覚か、涼しげな瞳が和らぐ。

「冗談よ。さっき、あそこで本を読んでいたでしょう?」

 彩香は、丘の上に立つ木造の阿屋あずまやを指差した。六畳間ほどのスペースが取られており、中には長方形のテーブルと幾つかの椅子がある。真っ青な海を背景に、阿屋のくっきりとした茶が映えていた。夏と呼ぶにはだいぶ早い五月中旬、異常気象によって太陽の光は強い。眼前の光景は、砕いた水晶を散りばめたような煌きに満ちていた。潮の香りを乗せた微風が、馨の黒髪を揺らす。

 海沿いにあるこの公園の敷地は、割合広々とした面積を持っている。アスレチック等も設置されており、親子連れの利用者が目立っていた。

 明らかに、中学生の遊び場としては不釣合だ。そのため馨は「学校の知り合いに出くわす可能性がある」とは一度も考えたことが無かった。だからこそ、息抜きに使用していたのだ。

 油断した、絶体絶命だ――と内心で冷や汗を流していると、彩香が

「一年生……だよね?」

 と胸元を窺ってくる。瞳に疑わしげな色は無い。馨はひっそり安堵した。セーラー服姿でいるときに、彩香――親類縁者以外の人間――に「桐生馨きりゅうかおる」だと知られては、一巻の終わりだ。

「水色のタイだし。わたしもなの」

 二人が通う私立中学の制服は、一目で学年がわかるよう工夫がされていた。オフホワイトのセーラー服は、学年ごとにタイの色を異ならせている。水色なら一年生、赤色なら二年生、茶色なら三年生だ。無論、私立とはいえ学年が変わるたびに出費させるわけではない。年毎に繰り上がっているだけの話なので、入学時のタイは三年間使用可能だ。要するに、来年は二年生が水色、三年生が赤色となって、卒業する現三年生の茶色が新一年生の色として回される、ということだ。来年の新入生は「外れ年」に当たってしまったと残念がるだろう。茶色のタイは不人気なのだ。反面、水色は人気なので、馨と彩香は「当たり年」の新入生と言えた。

「一年三組所属。名前は小宮山彩香よ」

 見知らぬ他人として自己紹介される。正体は微塵も気づかれていない。

 彩香の知る「馨」は、眼鏡を掛け、いつも低い位置で髪をひっつめている、地味なクラスメイトだ。今の馨は、眼鏡ではなくコンタクトを装着していた。髪も、まとめずに背へと梳き流している。同一人物として結び付けられないのも道理だろう。

「貴女の……」

 名前を聞かれる、と直感し、馨は彩香よりも先に口を開いた。

「ごめんなさい。先にお手洗いをすませてもいいかしら。海風で冷えちゃって」

 事実である。尿意を解消するために、手洗いへ駆け込もうとしたのだ。

「あっ、ごめんなさい」

 彩香は慌てて頭を下げ「どうぞっ」と片手で女子トイレを示す。

 馨はたちまち硬直し、脂汗を浮かせた。

 怯えながらも威嚇する見栄っ張りな番犬のように、「負けるものか」な気合で女子トイレの入り口を睨む。

 真一文字に唇を引き締めた。

 ままよ。

 意を決し、一歩を踏み出す。

 途端、視界がタイルのピンクでいっぱいになり、馨は「視覚から精神を冒される」とばかりに俯いた。早足で個室に入る。鍵を閉め……一気に脱力した。扉に寄りかかり、手の甲で額の汗を拭う。

「さて、と」

 トイレの便座を上げ、下着をずりさげた。スカートの前部をめくってウエストに挟む。

 股間のものを握って固定すれば    

 じょぼじょぼと音が立った。

「変態だよなぁ……」

 彼――馨――は、トホホと溜息まじりに項垂れる。

 女装し、女子トイレで用を足す男子中学生。

 フレーズにすると、変態臭が一層際立った。

 排尿を終え、軽く振ってから下着を引き上げる。悲しいことに、下着にスカートの後ろ部分を挟んでいないかチェックするのにも慣れてしまった。挟んでいた前部分も下ろし、個室を出……かけて引き返し、便座を下げる。洗面台で手を清めてから外に出た。待っていた彩香と目が合って、馨はバツの悪さに苦笑いする。正体がバレておらずとも、馨自身に「男が女子トイレで一連を済ませた」居心地の悪さがある。平然と開き直れるほど図太い神経はしていないのだ。

 名前を訊ねられないうちに、と大股で彩香の前を通り過ぎようとしたが――――聞き慣れた高い声に足を止められる。

ゆい!」

 音源は阿屋にあった。声の主が、緑の丘を走って下ってくる。黒髪がサテン布のように艶めきながら靡き、清楚な白いワンピースの裾は「急がないで」と嗜めるよう彼女の足に纏いつく。

「ああ、よかった。公園に本を読みに行ったって桃子ももこが言ってたのに、いつも通りの場所にいないんだもの。探しちゃったわ」

 あたたかに馨を見下ろす瞳は雛人形のように眠たげで、唇は花のように淡く色づいている。実年齢よりもかなり若い印象を与える女性だ。

「ごめんなさい、お母さん」

 彼女は、馨の実母の桐生桜子きりゅうさくらこだった。二十代に間違われがちだが、既に三十後半である。

「こんなに急ぐなんて、何かあったの?」

 馨の問いかけに、桜子はパッと表情を明るくさせた。スイッチを入れられた電灯の如き反応に、馨はあらかたを予想した。

「お父さんから電話があったの。久しぶりに、早く帰って来れるんですって!」

 桜子は胸の前で手を組み、夢見る少女のようにうっとりする。

 やっぱり。

 桜子は家族に対する情愛が深く、些細なことに一喜一憂する。やっかいで面倒な性質だが、馨は「いつまでたっても少女めいていて、愛らしい」と子供らしからぬ受け止め方をしていた。ありていに言えば、マザコンなのだ。

 桜子は、気合なのか馨の手を両手でがっちり包み込む。

「お母さん一人に出迎えられるよりも、一人娘とそろって二人でっていう方が、お父さんも喜んでくれそうじゃない? ついでに、一緒に夕飯を作りましょう。大丈夫、お父さんの好物はハンバーグだから。唯は一生懸命こねてればいいの。他のおかずはお母さんがやるから」

 馨の意思は関係無い。桜子の中では既に決定事項となっている。馨の手を握ったまま、くるりと方向転換しようとして――――突っ立っている彩香の存在に気がついた。

「唯のお友達?」

 彩香は、桜子の質問に「え、いや、あの」と口をもごつかせ、視線を彷徨わせる。唐突さもさることながら、自己紹介済みとはいえ「友達」と明言できる関係ではない中途半端さが、彼女を迷わせたのだろう。

「お名前は?」

 否定でないのなら肯定、といった判断基準なのか、桜子が次の質問に進む。

「小宮山彩香です」

 平淡に答えた彩香に、桜子はふんわり微笑んだ。

「そう、かわいらしい名前ね。これからも唯のことをよろしく」

 刹那、馨は自身の目を疑った。彩香の顔色がサッと青褪めたような気がしたのだ。

 まばたきの後、目を擦ってまじまじと見入るが……何の変哲も無い。

 一枚だけ混入されていた、サブリミナル効果狙いの商品画像のようだ。

 変化が速すぎて肉眼では追いきれない。

「はい」

 向日葵のような笑顔で彩香が返した。馨は「無表情が常だというのに珍しい」という印象を通り越し、訝しく眉根を寄せる。

 青褪めた顔と、打って変わった向日葵の笑顔。

 両極端な二つの表情は、何を基に作り出されたのか。

 謎が解明されないまま、馨は桜子に連れられその場を去った。



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