空欄の理由【解決編】
この学園に生徒指導室というものはない。大神が呼び出されたのはまず職員室で間違いないだろう。彼女が出てくるのを俺は職員室の近くで待っていた。先ほど扉を少し開けて中を確認したとき、教頭先生と話す大神がいたため彼女はまだここにいる。呼び出されたのが結構前なことを考えると、大神は何も話していないのかもしれない。まあ、ゼロに聞いたことが真実だとしたら、彼女が白紙提出をした理由を誰かに話すことはないだろう。
しばらくすると、失礼しました、という声と共に大神が職員室から出てきた。彼女は表情を何一つ変えることなく廊下を歩き出した。その背中を呼び止める。
「大神」
大神はこちらを振り返るとやや顔をしかめた。
「下条……。どうかしたの? 白紙提出の件はあんたに関係ない」
「そうだな。確かに関係なさそうだ。けど、本当なのかどうかを訊きたい」
この返答に大神は眉をひそめる。
「本当なのかどうか、ってどういうこと?」
「俺の知り合いにお前が白紙提出をしてることを話したら、その理由を推理してくれた。それが正しいかどうかを確認したい。誰にも言うつもりはないからよ」
大神は真っ直ぐと俺を見据えると、
「私の考えを知ってるなら、どうしてそれを本人に確かめようとするの。こっちとしては放っておいてほしい」
「そうだろうな。けど、お前が一人じゃないってことを知ってほしいんだ。重たいもんを一人で抱え込むのはきついだろ?」
俺だってそうだ。あのことも、部屋に不審者を匿っていることも、花蓮が知っていてくれているから気楽に生活できている節がある。秘密を隠し通すことほど疲れることはない。
大神は目を伏せると、諦めたようにため息を吐いた。
「場所、変えるわよ」
俺たちは近場の空き教室に入った。俺は早速語り始める。
「俺の知り合いが最初に注目したのは――」
◇
「僕が最初に注目したのは大神さんの心情だった」
俺は首を傾げる。
「そりゃそうだろ。何を思って白紙提出をしたのか考えるんだからよ」
「そういうことじゃない。僕が言う心情というのは、何を思って白紙提出をしたのか、じゃなくて、白紙提出をするときの心持ちさ」
「……?」
ゼロは大きなため息を吐き、
「真紅郎は白紙提出をしようと思うかい?」
「思わねえ」
「どうして?」
「そりゃ、0点が確定するし、教師に何言われるのかわからねえし……」
「総合的に言うと怖いから白紙提出をしないということだね?」
確かに、そういうことになるか。0点なんて取りたくないし、教師に怒られるのは嫌だ。
「けど、誰だってそうだろ」
俺が言うとゼロは頷いた。
「そうだと思うよ。学費免除の特待生からしたら尚更怖いだろうね。自分の将来に関わることだ。けど大神さんは白紙提出をした。それほどの覚悟があったってことだ」
「覚悟……」
そんなこと、考えもしなかった。白紙提出をするとやばいとか、どうしてそんなことしたのかとか、そういうことばかり考えて大神の気持ちを考えていなかった。自分の将来が悪い方に変わる可能性がある。親にも迷惑がかかる。大学にいくためにそれまで行ってきた全ての努力が無駄になるかもしれない。白紙提出とはそういう行為だ。それを彼女は行った。強い覚悟が伴っていたはずだ。
「真紅郎は、どういうとき自分の将来を捧げられる?」
「どういうときって……うーん、脅されたとき、とかか?」
ゼロは軽く頷いた。
「そうだね。そういうこともあるだろう。けど、大神さんが脅されて白紙提出をしたというのはあまり考えられない。白紙提出なんてさせたら教師が大神さんに理由をしつこく尋ねることになるのは、想像に難しくない。脅迫した人が大神さんの弱みを握っていたとしても、教師が味方になると思った大神さんがそのことを喋ってしまうリスクがある。大神さんに悪い点数を取ってほしければ、間違った答えを書かせればいい。それなら大神さんの実力不足ということになる。順位が張り出されるなら彼女の点数が悪いことも把握できるしね。明らかに理由ありの白紙提出より、こっちの方が教師も彼女に失望するだろう」
「脅されたわけじゃないなら、何なんだ?」
ゼロは指を二本立てた。
「人が自分の将来を捧げられるときは二つあると思うんだ。一つは真紅郎の言うように脅されたとき。これは恐怖や不安を更なる恐怖と不安で塗り替えられている。そして、もう一つは大切なものを守るときだ。まあ今回のは守るとはちょっと違うと思うけど」
「大切なもの……」
「真紅郎は何のためなら自分の将来を捨てられる?」
ゼロの質問に一瞬だけ考え、
「たぶん――」
「言っておくけど、その場の空気とかノリとか焦りとかは全部ないものとして扱うよ。それらの理由で不審者を部屋に匿ってしまうお人好しもいるからね」
「うっ」
俺は今、たぶんその場の状況によっては相手が誰であれ何であれ守ると思う、と言おうとしていた。そんな俺にゼロは釘を刺すように言う。
「考える時間が十分あって、それに伴うリスクを自覚しているとき、君は何になら将来を捨てることができる?」
将来を捨ててもいいと思えるもの……。
「花蓮とか、お前とか、かな……」
ゼロは意外そうな表情になった。
「花蓮ちゃんはともかく、僕も? 何で?」
「そりゃ友達だからな。お前のこと何も知らねえけど」
俺の答えが余程衝撃的だったのかゼロは少しの間硬直していたが、不意に咳払いすると、
「なるほど、確かにね。……まあ、そのように、親しい人――家族や友人、仲間のためなら人は自分の将来を捨てることもいとわなくなる。大神さんも、そうだったんだろう」
俺は首を傾げた。
「けど、白紙提出なんてお袋さんに迷惑がかかるだけのような……」
「どうして大切な人が母親だと決めつけるんだい?」
「だって、大神が誰かと親しげにしてるとこ見たことないし」
「真紅郎が見ていないところで親しくしているかもしれないじゃないか」
「まあ、そうだけど」
「自分の見ている世界が全てじゃない。……とか、偉そうに言ってみるけど、本当に大神さんに友達がいるのかはわからない。僕がこの推理を言い渋っていたのはそういう理由なんだ。彼女が大神さんの友達だという確証がなかったから」
「彼女ってのは田所か?」
「ああ。ルームメイト兼隣の席の田所さんが大神さんと仲良くなる可能性が一番ある。実際のところは知らないんだけど。でもまあ彼女だと思うよ」
そりゃ一日中この部屋に引きこもってるんだから知るわけがない。むしろ知ってたら怖いくらいだ。
「お前がそこまで田所に注目するってことは、何か理由があるのか?」
「あるよ。テスト結果を知る前は可能性が高いから疑ってたけど、今は田所さんを友人と仮定するとしっくりくるから疑ってる」
「しっくりくる、って何がどうしっくりくるんだ?」
ゼロは指を一本立てた。
「まず、田所さんは中学時代は成績が悪かった。そうだね?」
「ああ。本人も新納もそう言ってた」
「けど高校になってからは学年二位。高校と言えば、大神さんがこの学園に編入したのも高校からだ」
淡々と紡がれるゼロの言葉に嫌な汗が出てきた。本能的にこいつがとんでもないことを話そうとしていると察する。
「ゼロ、お前何を――」
「確か、この学園では席替えもクラス替えもないんだよね。花蓮ちゃんのプリンが家政婦さんに食べられた日、君はそう言っていた。つまり大神さんと田所さんは一年のときから窓際二列の一番後ろという、教師から目立たない席にいたことになる。そして、だ。大神さんが白紙提出した今回のテストでは田所さんの名前が順位表から消えた。要は成績が落ちたってことだね。……ここまで言えば、わかるだろう真紅郎?」
◇
「大神。お前は一年のときから田所のカンニングに協力していた。お前が白紙提出をしたのは、カンニングへの協力を拒む意志を示すため、だよな?」
俺の問いに大神は片手で顔を覆うと、絞り出すような声を発した。
「あんたの知り合い、凄いわね。あんたから話を聞いただけでそこまでわかっちゃうなんて……」
「じゃあ、本当に……」
大神はこくりと頷いた。
「ええ。私はテストの度に田所へ自分の解答用紙を見せてたわ。丸写しさせるんじゃなく、ある程度空欄を作るようにして。そう言うと私がカンニングするように誘ったみたいになるけど」
「発起人は田所だったのか」
曖昧に頷く大神。
「責任をなすりつけるみたいで嫌だけど……」
「何でカンニングに荷担なんてしたんだ?」
「頼まれたから……」
「頼まれたからって、それだけか?」
俺は目を見開いた。大神は自嘲げな笑みを浮かべる。
「馬鹿みたいな理由よね……。私って、昔から勉強ばかりしてきて、性格の方もノリ悪いし冷たいしで友達もいなかった。この学園に入学したときも周りは全員お金持ちばかりだろうし、庶民を通り越して貧乏の私に友達ができるなんて思ってなかった」
彼女からため息が漏れ、
「だからルームメイトになった田所が親しくしてくれたとき、驚いたし、嬉しかった」
俺は口を挟まず彼女の言葉に耳を傾ける。
「クラスじゃあんまり話さなかったけど、寮の方では普通に話してたのよ。その田所がテストでカンニングさせてほしいと頼んできた。断るべきだったんだろうけど、断ったら親しくなった事実が消えてしまうんじゃないかと思ったの」
「それを恐れて、カンニングに協力したのか」
大神は頷いた。
「最初はばれないかただただひやひやしてた。けど、次第に田所のことが心配になってきたわ。田所の父親は彼女を医学部に進学させたがってるんだけど、テストでカンニングして偽りの点数を稼いでる学生が、医学部に入れるとは思えない。仮に入れたとしても絶対に付いていけない。今のままじゃ駄目だと思って、今回のテストの数週間前にカンニングをやめるよう提案したんだけど、聞き入れてくれなかった。本人は冗談かなんかだと考えてたみたい」
「だから白紙提出をして、自分の意志を示したってことか。けど、他に方法はなかったのか?」
「全てのテストを休もうとも思ったけど、それだと私は追試で良い点を取ればいいことになる。そうなると田所の成績は落ちるけど、私の成績は変わらない可能性が出てくるでしょう?」
「不公平だと思ったわけか」
「そういうことになるわね」
真面目すぎるだろ。
「他にも、テストでいくつか間違った答えを書くというのも考えたけど、その間違った答えを田所が写したときカンニングがばれかねないと考えた。だから白紙提出に踏み切ったのよ」
確かに白紙提出なら、自分の成績を棒に振ってでもカンニングをやめさせたい、という思いは相手に伝わる。
大神が白紙提出をしていた理由はわかった。だが、正直俺はその後のことの方が気になっている。
「それで、先生たちに何て言われたんだ? 学費免除はどうなる?」
「先生たちは心配してくれたわよ。気が病んでるのかとか、誰かに脅されてるのかとか。とりあえず再試では全科目百点取るって言ったら全員何も言わなくなった。学費免除の話は出てこなかったからわからない」
「そうか。……じゃあ、田所との関係はどうなった?」
この質問に大神は顔を伏せた。前髪に隠れて表情が読み取れない。
大神は自嘲するような声で、
「口も聞いてくれなくなったわ。彼女にとって私は辞書みたいなものだったみたい」
「そう、か……」
予想はできていた。田所からしたら突然裏切られたようなものだ。
大神はふっと息を吐き、
「けど後悔はしてない。やっぱりあのままじゃ田所にとってよくないだろうし」
「優しいんだな、大神」
素直に思ったことを言う。大神は首を振り、
「少なくとも、私は田所のことを友達だと思ってるから。友達のために何かするのは当然のことでしょ? そう思っただけのこと」
彼女は扉の方に歩いていく。
「ありがとう下条。少しだけ気が楽になった。それじゃ」
それだけ呟くと大神は空き教室から出ていった。友達のためを思っての行為で友達を失ってしまった。それはつまり、本来なら痛みを共有するべき人をなくしてしまったことを意味する。彼女が俺の話を聞こうと思ったのは、やはり知っている人の存在からほしかったからなのか。
俺は廊下に出て大神の背中に叫んだ。
「大神! お前は一人じゃねえからな!」
そう、彼女はひとりじゃない。
その後、大神は再試では本試験と打って変わって全科目百点を叩き出したらしい。彼女が白紙提出をした理由がわからない教師陣は、ひとまず次のテストの結果を見るまで彼女の学費免除は取り消さないと決めたようだ。これだけは心の底から本当によかったと思った。