白紙提出の謎
一限目が終わると、当然のことながら二限目のテストを行うことになったわけだが、正直言って気が気じゃなかった。テストの問題が難しかったからとか、緊張していたからとかではない。大神の白紙提出が頭から離れなかったからである。
大神は学費免除の特待生だ。成績が落ちれば学費免除がなくなってしまう。そうなれば、学費が払えなくなって学園を去ることになる可能性もある。まあ、大神ならどの高校でも良い大学の入試に合格できるだろうけれど、だからと言って実際に進学できるかは別問題だ。成績がよくても家庭の事情で大学に通えない学生は多いだろう。奨学金の制度があるとはいえ、これは国に対する借金のようなものだ。大学を卒業して就職したとしても、返せるのがいつになるのかわからない。実際に返せなくて大変な思いをしている人がいるのをテレビで見た。それが嫌だから大神はこの高校に特待生として入学したのだろう。
蓮修学園にはとびきり良い成績を残した生徒の大学生活を援助する制度が設けられている。その制度の恩恵を受けているのは殆どが学費免除の特待生として入学してきた生徒たちだ。彼ら彼女らはその制度をあてにしてこの学園に入学したと言っても過言ではない。大神だってそのはずだ。それなのに、どうして白紙提出なんて……。
非常に気になるが、テストにも集中しなくちゃいけない。もどかしい。しかしここで下手な点数を取ったらゼロに申し訳なさすぎる。俺は気持ちを切り替えて英文に挑んだ。
チャイムが鳴った。二限目のテストが終了した。先ほどと同じように教師の指示に従って俺たちは後ろから用紙を前に送っていく。
大神から答案用紙を受け取った俺はまたしても衝撃を受けた。これまたさっきと同じように、自分の答案用紙を重ねるときにちらっと表を覗く。
まただ……。数学に続いて英語でも、大神は白紙提出をしていたのだ。俺は慌てて前の席に送る。
何でだ!? 何で白紙提出なんてする!? 一問もわからなかったのか? んなわけあるか。学年一位だぞ? これまで九十五点以下の点数を取ったことのない才女だぞ? この俺でもある程度はわかったぞ。大神にわからないわけないだろ。第一、選択問題だってあったんだ。選択問題ならわからなくても勘で書くだろ!
俺は頭を抱える。大事なテスト期間だってのに、とんでもないものを抱えちまった。不発弾でも発見した気分だ。
「下条。そんなにさっきのテストでしくじったのか?」
俺の様子がおかしいと見たのか、新納が呑気な声で訊いてきた。
「別に。普通だよ。赤点はたぶんない」
「案ずるな。俺は間違いなく補習と再試確定だ。共に苦難を乗り越えようじゃないか」
「だから赤点は取ってねえって。普通の点数っつってんだろ」
「大神はどうだった」
話を聞かないのはいただけないが、その質問はナイスだ。俺は大神の言葉に意識を傾ける。
大神はいつもと変わらない冷たい声音で答える。
「別に普通よ」
白紙提出のどこが普通だよ!
「なるほど。君の言う普通……つまり、九十点以上は堅いということだな?」
「かもね」
いや、九十じゃなくてゼロだ。同じ点数でも答えを書く努力はしているのび太くん以下だ。
その後、三限目の生物のテストを行った。今日のテストはこれが最後だ。ここを終えればひとまず解放される。まあすぐに明日のテストに備えて勉強するんだけど。
そしてやはり、大神の白紙提出の件が頭から離れない。どうして一科目だけでなく二科目もあんなことをしたんだ……。もしかしたら今回も……。意識を背にいる大神に集中させると、あることに気づいた。
シャーペンで書く音がしない。そういえば、いつものテストでは物凄い勢いでシャーペンが動く音が聞こえ、五分くらいで全て解き終えているからかそのくらいで音が消える。まだテストが始まって三分くらいだから流石にもう終わったとは思えない。そもそもシャーペンの音も聞いてないぞ。大神の奴、また白紙提出するつもりか?
無性に振り向きたい衝動に駆られるが、テスト中にそれはまずい。とにかく今はテストに集中しよう。考えるのはそれからだ。部屋に戻れば名探偵がいる。
◇
テストが終わり解答用紙を前に送る際、三度大神の解答用紙を覗いたところ、やはり何も書いていなかった。まじで何考えてんだよ。
他のクラスメイトたちがテストの感想を語り合う中、大神の立ち上がる気配を背中で察知した。振り返ると彼女が一人、バッグを持って廊下へ向かうのが見えた。俺は立ち上がって慌てて後を追う。
「大神!」
思わず呼び止めてしまった。廊下の角を曲がろうとしていた大神は立ち止まる。
「なに?」
クールな声音で問われる。俺は意を決して口を開いた。
「先に謝っとく。解答用紙を返却するとき、大神のを見ちまった」
カンニングではないがマナーはない。しかし今はそれは問題じゃない。
「それを踏まえた上で訊きたい。何で白紙提出なんてした?」
大神の表情に変化はなかった。おそらく、俺にばれることくらいはあらかじめ許容していたのだろう。
大神は俺から顔を逸らした。
「あんたには関係ない理由よ」
彼女は再び歩き出し、廊下の角へ消えた。俺はそれ以上追うことはなった。
◇◆◇
「こんなことがあったんだよ。気にならないか?」
部屋に帰ってから真っ先にゼロにこの話をした。しかし、こちらが力説しているにも関わらず、当のゼロはどうでもよさそうに真顔で、
「そんなことより僕は君のテストの調子の方が気になるよ。どうだったんだい?」
「テストはまあ普通だ。教えてくれてサンキューな。けど、今はそんなこと重要じゃねえ」
「大分重要だよ。真紅郎にとっても僕にとっても。他人の心配をしてる場合じゃない」
正論すぎてぐっと喉の奥で呻いてしまう。
「け、けど気になるだろ! 成績優秀の学費免除の特待生が白紙提出したんだぞ? 明らかにおかしいって」
「成績優秀の学費免除の特待生じゃなくても、学生が白紙提出するのはおかしいことだけどね」
「そう思うなら考えてくれよ。じゃなかったら俺明日のテストに集中できねえよ」
ゼロは呆れ顔になった。
「気になっていても二限目、三限目のテストが問題なかったんなら、明日も大丈夫なんじゃないかい?」
「それは、まあ、そうか……」
納得せざるを得ない反論に口ごもってしまう。ゼロはベッドに寝転がった。
「その、大神さんとやらが真紅郎に関係ないと言ってるんだから、君が気にすることじゃないさ」
「それも、そうなんだよなあ。けどやっぱり気になるんだよ」
「真紅郎……君は面倒だな」
「自覚はある」
ゼロは頭を掻き、
「わかった。考えるよ。その代わり真紅郎はしっかりとテスト勉強するんだ。いいね?」
「おお、ありがとな」
「じゃあまず訊くけど、学費免除がなくなると大神さんがまずいのかどうかが知りたい」
俺は顔をしかめる。
「いや、別に親しくないからわからん」
「花蓮ちゃんに訊けばわかるだろう。色んな情報持ってそうだし、得られそうだし」
「あ、そっか」
俺はスマホを取り出して花蓮に電話をかけ……ようとして思いとどまった。中等部の方はまだテストが終わってねえ。電話はやめてメッセージを送っておく。花蓮がスマホの電源を切っている、もしくはサイレントにしてることを祈る。
俺は仕切り直してゼロに尋ねる。
「まだわかんねえから、大神が学費免除がなくなるとまずいと仮定しようぜ。そうすると、なんかわかるのか?」
「大神さんの行動が凄まじいということがわかる」
「そりゃとっくに知ってるよ」
がくっと倒れかかる。芸人になった気分だ。
ゼロは額に人差し指をあてがい沈黙した。このポーズはゼロが考え事をするときによくする格好だ。今、彼の脳内はフル回転しているのだろう。
「田所さんとやらは彼女のルームメイトなんだね?」
不意に話しかけてきたゼロに慌てて頷いた。
「お、おう。田所が関係あるのか?」
「そうかもしれない」
「そうかもしれない、って……もうわかったのか?」
「いや、わからないよ。可能性は思いついたけど、今はまだ何とも言えない。テストの結果が出ればはっきりするだろうけど」
「テストの結果って……。それじゃあ遅いだろ」
ゼロは眉をひそめた。
「遅いって何が? 大神さんの白紙提出をやめさせるのがかい?」
「ああ。どうにかしてとめねえと……」
「無理だね」
「何で?」
「大神さんはたぶん、全科目白紙提出をする気だ。君が何と言おうとやめるつもりはないと思うよ」
その言葉に俺は唖然とする。
「ま、まじか?」
「僕の考えていることが正しければね。けどそれが正しいかどうかを証明することは、現段階じゃできない」
「そう、なのか……。じゃあ、せめてお前が考えていることを教えてくれよ」
俺の願いも虚しくゼロは首を振った。
「それを知ったら君は間違いなくテストに集中できなくなる。もやもやはするだろうけど、今の調子で頑張ってくれ」
「……わかった。微妙に納得できねえけど、他人にばっかかまけてるわけにはいかねえもんな」
ゼロの言う通りもやもやはする。けど、テストさえ終わればこいつは教えてくれるらしいし、何より俺のテストの点数の心配をしてくれてるわけだから、その気持ちを無碍にはできない。
◇◆◇
翌日。今日はテストの数は三科目で、既に三つとも終了した。自信のほどとしてはどれも普通だったが、それは別に構わなかった。俺よりも大神の方が問題だ。今日も全てのテストで白紙提出をしていた。ゼロの言う通り、本当に全部の科目で白紙提出をする気なのだろうか。
昨日花蓮から届いたメッセージによると、大神は母子家庭で生活に苦労してきたらしい。この学園に入学したのも、大学支援の制度を利用するためだ。その彼女がこんなことをする理由がわからない。
俺が頭を悩ませていると、
「大神さん」
歴史を解答用紙を受け取った柊雅先生が厳しい声で呼びかけた。
「はい」
「後で職員室にきてください」
あ、これ白紙提出が教師の間でも問題になったパターンじゃねえか?
「わかりました」
大神は俺にばれたとの同じくこうなることも織り込み済みだったようで、まったく動揺を見せずに返事をした。教室内が少しだけざわつく。俺以外のクラスメイトには、優等生の大神が職員室に呼び出される理由がわからないのだろう。誉められるのなら理解できるだろうが、あの声はどう考えても誉めるつもりのものじゃない。
「大神、何かやったのか?」
新納が心配そうな顔で尋ねる。
「別に何もしてない。それじゃ」
大神は俺に「言うなよ」という圧を込めた目で一瞬だけ睨むと、立ち上がって廊下へ出ていってしまった。
学園が昼休みになったころ、俺は中庭で花蓮と落ち合った。話の内容はもちろん大神のことだ。
「やっぱり、大神の白紙提出は問題になってたか」
「まあね。先生はみんな大神さんと勝負するつもりで問題作ってる節があってさ。真っ先に大神さんの答案を確認するらしいから、すぐに発覚したみたい」
「先生たちはどんな反応になってるんだ?」
花蓮は肩をすくめ、
「みーんな困惑。お母さんも困惑。大神さんが優秀なのは周知の事実だから、どうにか本人から事情を聞きたいっぽいね」
「そうか……学費免除はどうなるんだ?」
ここが一番重要なところだ。
花蓮はペットボトルのお茶を飲み、
「んー……どうなんだろうね。まだそれは問題になってないんじゃないかな。今は、どうして白紙提出なんてしたのか、っていう段階の話だし。けど、みんな冷静になったら学費免除が取り消される可能性はあるかもね」
「試験で一回しくっただけでか……」
「いや、可能性の話ね? 白紙提出って、単に悪い点数取るのとはちょっとわけが違うからさ。ま、ゼロくんが真実を語ったら私に教えて。お母さんに口添えしとくから。大神さんが明日から本気出してくれるのが一番いいんだけどね」
花蓮は肩をすくめながらあまり期待していなさそうに呟いた。そして実際に、大神は全てのテストで白紙提出した。
◇◆◇
テスト返却日になった。俺に帰ってきたテストたちは全部六、七十点台で語るところが何もない点数だった。まあ、予想通りである。ゼロに教わらなかったら赤点必死だったのだからこれ以上は望まない。次からは真面目に勉強しよう。
蓮修学園ではテスト後、上位三十位までの名前が開示される。この日、廊下に張り出された順位表は主に二年生を騒然とさせた。本来なら、その順位の一番上にくるはずの大神冬子の名前がなかったからだ。全て白紙提出したのだから0点だろう。先ほど教師に呼び出されているのを見た。
順位表をよく見れば学年二位の田所の名前もなく、何故か新納の名前が一番上にあった。あいつ、終わったとか言っていた癖に何だよこの結果は。
俺は部屋に帰宅すると、ゼロにこれらの情報を教えた。
ゼロは微笑みを浮かべながら、
「よかったじゃないか。赤点がなくて」
「そっちかよ。確かに赤点なくてよかったけど。今はその話じゃねえだろ」
「冗談だよ」
「で、どうなんだ? 大神が白紙提出してた理由はわかったのか?」
「たぶんだけど、ね。推理していたことと君が教えてくれた事実は合致したよ。けど根本の部分が間違ってるかもしれない。こればっかりは本人に尋ねないとわからないことだ」
「何でもいい。教えてくれ」
頭を下げると、ゼロは不審がような声音で、
「どうして真紅郎がそこまで必死なんだい? 別に大神さんとは仲がいいわけじゃないんだろう? もしかして想い人だったりするのかな?」
「そういうわけじゃない。ただ、個人的にほっとけないってだけのことだ」
そう、俺は彼女をほっとけない。その理由は自分でもよく理解できている。
ゼロは俺の言葉からただならぬ意志を感じ取ったからか、小さくため息を吐いた。
「よくわからないけど、ただのお人好しってわけじゃなさそうだね。……わかった。教えてあげよう。けど、あまり爽快感のある話ではないよ」