花蓮との勉強
扉を開けてすぐ目の前に飛び込んできたのは待ちくたびれたようにしゃがみこんでいた花蓮だった。
花蓮は開口一番、
「真紅郎くん遅いよ。庭で迷子にでもなってたの?」
「門からここまで直線なのに迷うかよ。理事長に挨拶したら身だしなみを整えられたんだ」
靴を脱いでスリッパを穿きつつ答える。それを受けて花蓮は申し訳なさそうに肩をすくめた。
「あー、そういうことね。お母さんほんっと潔癖症だからなあ」
二人でリビングへと向かいながら花蓮の愚痴を聞く。
「きっちりしてないのも駄目だし汚いのも駄目なんだよね。だからきっちりしてない私はいつも小言を言われてるの。やんなっちゃうよ」
「それはお前がきっちりすればいいだけの話だろ」
「それはそれ、これはこれだよ。他にもお店とか駅のトイレを使うときはいつも便座を除菌シートで拭いてから使ってるみたいだし。誰かが食べた物や飲んだ物は絶対口に入れない。本棚にぴっちりと隙間なく本が並んでないと気がすまなかったり」
「ほぼ病気じゃないか、それ?」
「そうなんだよ。それから、今から殺す相手の靴下が裏返しになってたらそれをわざわざ戻した上で殺そうとしたり」
「どこの殺人鬼だよ」
理事長の名誉に関わることなので流石につっこんだ。
「まあそんなこんなでさ、困ったもんなんだよ。うちのお母さんは。ほい、入っていーよ」
花蓮がリビングの戸を開けた。馴染みのある冷気が身体を包んでこなかった。今気づいたのだが、どうやらこの家は廊下にもエアコンがあるようで既に涼しかったのである。玄関ですぐ花蓮にエンカウントしたから気がつかなかった。
リビングはまあ当然ながら広かった。というか広くないと家の面積が余ってしまうから当然なんだけど。ダイニングテーブルと一体になっており、床には大きなペルシャ絨毯が敷かれている。その他「北欧からやってきました」というオーラを放つテーブル、ダイニングテーブルや椅子があり、どでかいテレビと高そうなソファがある。
俺たちはテーブルを挟み込むように向かい合う二つのソファにそれぞれ腰掛けた。
「さて、じゃあまずゼリー食べよっか」
「勉強じゃねえのな」
「そりゃあね。腹が減っては戦はできぬ、って言うし」
「まだ一時半過ぎだぞ」
「大丈夫大丈夫。ゼリーってそこまでお腹の容量圧迫しないし」
「圧迫しないなら腹満たされなくないか?」
「もういいから食べようよ! しつこいよ!」
何でキレられてるんだ俺は。
俺はビニール袋をテーブルに置いて、ゼリーを取り出した。
「これ普通のスーパーで買った奴だけどいいのか?」
ソーダ味のゼリーを花蓮へ渡す。
「いいのいいの。ゼリーは高かろうが安かろうがほぼ味変わんないし」
そういうもんなのか。高級店で売ってるようなゼリーなんて食ったことないし、そもそも買おうと思ったことすらないからわからない。
俺たちは付属されていた透明なプラスチックのスプーンでゼリーを食べた。食べ終わると、花蓮はゴミをキッチンのゴミ箱へ捨てにいき、コーラの入ったコップを二つ持ってきた。
「外暑いから喉渇いてるよね。これ飲んで、ひとまず休もうよ。あ、今日のルパパト見た? ノエルって胡散臭いけど何が目的なんだろうね。少なくとも悪人ではなさそうだけど」
「勉強しないなら帰っていいか?」
勉強を後へ後へと追いやる花蓮の心を読んだ。
「じょ、冗談だよ。やろう、勉強。今すぐやろう」
花蓮はリビングを出ると、自室から勉強道具を持ってきた。俺の隣にどかっと座り、
「さて、教えてもらおうかな」
「何で隣に座るんだよ。俺のノートが広げられねえだろ」
「え、だって隣同士の方がすぐ答え聞けるし」
「勉強する気なしかお前は。勉強ってのは問題の答えを知ることじゃねえ。考えることだ」
花蓮は頬を膨らませる。
「むぅ。偉そうなこと言ってるけど、真紅郎くんも別に成績よくないよね」
「そ、そうだよ。だから勉強したいんだっつうの」
「まったく、もう。しょうがないなあ」
花蓮がやれやれと嘆息して向かいのソファに移った。
何でお前が、妥協してやりました、みたいな雰囲気出してんだよ。どう考えても俺の言ってることの方が正しいと思うんだけど。
俺たちはそれぞれノートに向き合うことになったのだが、勉強開始早々に花蓮が参考書を突きつけてきた。
「ねぇ真紅郎くん。ここ、わかんないんだけど」
「ああ?」
シャーペンでぺしぺしと示されている問題を読む。
「火星の夕焼け・朝焼けが青い理由を地球の夕焼け・朝焼けが赤い理由と共に述べろ、か」
俺は腕を組み、憤懣の言葉を口にする。
「何だこの問題。俺らは地球だぜ? 火星のことなんて知らねえよ」
「だよね? そもそも火星の夕焼けと朝焼けが青いことなんて今初めて知ったもん。それに地球の夕焼けとか朝焼けとかが赤い理由とか気にしたことないし。生まれたときから赤かったんだから、そうもんだとしか認識してないよ」
「どうせあれだろ。赤外線とか紫外線とかがどうたらこうたらとかいう理由だろ。答え見てやれ、そんな問題。理科なんて暗記するしかねえ」
花蓮は一瞬だけ呆れたように顔をしかめた。
「さっきの説教は何だったのさ……。けど、暗記って苦手なんだよねぇ。困ったなあ。私の脳のキャパ容量が保つか不安だよ」
「大丈夫だよ。俺の脳の容量でもいけるくらいだからな」
でなきゃ俺はこうして入学試験に合格してこの学園に通えていない。入試にこんな問題出なくてよかった。
気を取り直して参考書を見ると、リビングの扉が開くのが聞こえた。
「どうやらちゃんと勉強してるようね」
理事長が戻ってきたのだ。花蓮はぶすっとした表情になり、
「もう。それじゃまるで私が普段勉強してないみたいじゃん」
「してないじゃないの」
「そうでした」
謎のコントの後、理事長は俺の座るソファの後ろを通ってキッチンへ向かった。
俺は声を抑えて花蓮に話しかける。
「お前、よく学校の理事長職に就いてる親がいるのに勉強しないな。逆に凄えよ。普通親に恥をかかせないように勉強すると思うんだが」
「いやさ、私は勉強の代わりに学校のために色々尽くしてるから。お母さんも特に大きなプレッシャーはかけてこないんだよね」
あー、抜き打ち寮監か。娘に汚れ役を担わせてる――まあ花蓮が自分からやると言い出したことらしいが――から、理事長も負い目を感じているのかもしれない。部屋に入って物色してもいいという権限を持ってる生徒なんて、嫌われるに決まっている。そもそも花蓮が高等部の俺と勉強をしているのは同学年の友達がいないからだ。
こそこそ話しながらもちゃんと勉強していたら、いつの間にか理事長が部屋から出ていっていた。
その後も花蓮が躓く問題を教え、たまに答えを見ろと丸投げしつつ、いい感じに集中して勉強に取り組んでいると再び扉が開き、中年の女性が入ってきた。
「風間さん、どうも」
「あ、下条さん。こんにちは」
彼女はこの家の家政婦である風間祥子だ。家の掃除や料理は彼女がしているらしい。この馬鹿広い家かつ潔癖症の理事長を相手に掃除しているというのは、かなり偉い人だと思う。実際、花蓮曰わく家政婦界隈では有名な家政婦らしい。家政婦界隈とは何ぞや。
特に話すこともなく、風間さんはキッチンへ向かい俺は問題に向き合った。すると花蓮が口を開き、
「ねぇ真紅郎くん」
「何だ?」
「蜂って英語でビー? それともワスプ?」
「ビーだろ」
「でもさ、チェンジワスプって言うじゃん?」
「確かに。けどよ、それってザビーだからビーとも言えるぞ」
「そっか……。じゃあどっちでもいいってことなのかな」
「そうなんじゃね。けどbeeの方がいいとは思う」
たぶんビーは蜂全体のことを指して、ワスプは蜂の種類かなんかを指してるのかと思うけど、詳しいことは知らない。
こんな話をしているうちにキッチンからゴミ袋を持った風間さんがリビングから出ていった。
五分後くらいに三度リビングに人が入ってきた。
「およ、真紅郎君?」
振り向くと花蓮の姉の蓮香さんがいた。花蓮の身長が伸びって雰囲気を大人っぽくした感じの容姿の女性だ。見た目は完全に花蓮の上位互換だろう。俺はとっさに挨拶をする。
「あ、こんにちは。お久しぶりです」
「一年ぶりくらいだねぇ。どうしたの?」
「花蓮に勉強を教えつつ自分も勉強を」
蓮香さんは俺の向かいの花蓮を見て、驚愕の表情を浮かべる。
「ほんとだ、花蓮が勉強してる」
「うるさないなあ。私だってテスト前はちょっとくらい勉強するよ。むしろそれで赤点取ったことないんだから誉めてほしいくらいだよ」
蓮香さんは呆れたように首を振った。
「赤点も取らない代わりに良い点も取ったことないでしょうが」
「一回国語で七十六点取ったことあるし」
一回だけかよ。しかも別にそれほど良い点じゃねえよ。
俺は気になっていたことを尋ねることにする。
「蓮香さんって大学の近くに下宿してるんですよね? どうして実家にいるんですか? 流石に夏休みには早いですよね」
「あ、あー、それは……」
蓮香さんは言いづらそうに目を逸らした。花蓮が意地の悪い笑みを浮かべ、
「エキサイトしすぎて停学食らったんだって。お母さんマジ切れしてたよ」
「エキサイトしすぎて、って何したんですか?」
「いやほら、色々とね。うん。色々」
何なんだよ。けどまあ花蓮の姉は姉ってことか。
「まあテスト期間には停学終わるし、講義の出席回数はもう問題ないからラッキーってところね。じゃあ私は黙るから、勉強ガンバ」
蓮香さんはキッチンへ歩いていった。
せっかく気を遣ってもらったのだから勉強しないわけにもいかない。微妙に切れた集中力のまま頭のごちゃごちゃする数式と格闘する。あー嫌だ嫌だ。XとかYとかZとかはともかくよ、何でμとかσとかギリシャ文字が出張ってくんだよ。頭がこんがらがるからやめてほしい。
こんな実のないことを考えているうちに蓮香さんがリビングから出ていった。
それからしばらくは真面目に勉強ができていた。やはりときたま……ではなく割と頻繁に花蓮から質問が飛んできたので、答えられるものは答え、答えられないものは無視した。
時間が経ち三時を少し過ぎたころ、花蓮が待ってましたとばかりに立ち上がった。
「よしっ! プリン食べよっと!」
唐突によくわからない、宣言する必要すら感じない言葉を放った花蓮に顔をしかめる。
「何だよプリンって?」
「洋菓子店『ステファニー』のプリンだよ。昨日買ったばかりなんだ」
「有名な店なのか?」
「超有名だよ! 世界のプリンのコンテストで一位になったことのあるお店なの! 硬めでカップにぎっしりと詰まった身からは卵の濃厚な味わいがして、えっとそれからカラメルもトロトロしてコクがあって美味しくて、あと全体的にコクがあって、とにかく美味しいんだよ!」
「わかったから。語彙力ないのに食レポ紛いのことすんな。何か悲しくなる」
コクがあって美味しいことしか伝わらなかった。
花蓮は小走りでキッチンへ向かっていった。食器棚からガタンという大きな音が響く。
俺は変わらず勉強をしようとシャーペンを握り直す。そのときだった。
「うぎゃああああああ!」
キッチンから魔物の断末魔のような叫び声が飛んできた。
「ど、どうした花蓮!?」
黒い悪魔Gでも現れたのだろうか。すぐさま駆けつけると、開いた冷蔵庫の前で花蓮がスプーンを握りしめて絶望的な表情を浮かべていた。
花蓮が冷蔵庫を指差しながら、
「こ、これ、見て……」
まさか生首かなんかが入ってるんじゃないだろうな……。訝りながら冷蔵庫の中を覗いた。タッパーやらチョコレートやら飲み物やら、色んな物が入っていたが、一番目を引いたのは空っぽのカップだった。中にプリンの残骸で思しき物が付着している。……何となく事情を察した。
花蓮は瞳に血と涙を浮かべ叫んだ。
「誰だ!? 私のプリンを食べたのは!」