逆潮干狩り
最初に海に行こうと思い立ったのは、あさりのせいだった。
四月の中旬に会社で健診を受けて、貧血でひっかかった。どうやらヘモグロビン値とやらが低いらしい。
「若い女性は食事の偏りや妊娠・出産などで貧血になりがちです。食生活や生活習慣を見直してください。それで改善しなければ鉄剤を処方します」
五月の初めに再検査に行った町医者で、おじさんとおじいちゃんの間くらいの年頃の医師にそう言われた。
おねえさんとおばさんの境目にいる私は、神妙に頷いた。三十四歳だと若い女性に該当するかは微妙だなって思いながら。
妊娠と出産は、結婚はおろか彼氏すらいないから関係ない。
そうなると改善すべきは食事だ。
ひとり暮らしのわりにマメに自炊してるし、食事に気を使ってるつもりだったけど、忙しいとどうしても手を抜いてしまう。
変な所で生真面目な私は、鉄分の多い食品を調べて、なるべく摂るようにした。
レバー、あさり、牛ひれ肉、小松菜、ほうれん草、プルーン、レーズン。
ちょうどあさりが安い季節だった。食卓にあさりが出る率があがった。
仕事帰りにスーパーに寄ると、さらにそこから半額になってたりするので、薄給の会社員には大変ありがたい。
帰宅すると、まずあさりをボウルに入れる。それから水五百ミリリットルに対し塩大さじ一の塩水を作ってボウルに注ぐ。
薄暗いバスルームの床に置いて、三時間くらいで砂抜きは終わり。
あとはあさりの水気を切り、ジップロックの保存袋に入れて、冷凍庫にしまうだけ。これで一か月は保つ。いつもならそうしていた。
それなのに私は、夕飯も食べずにバスルームに座り込んで、ボウルの中身に魅せられていた。
ずいぶんと活きのいいあさりたちだった。
約三分の二くらいは、ボウルの中でのびのびと身体を伸ばしたり水をピュッと吹いたりしていた。
貝の隙間からはみだした半透明の身体が女性的で、妙になまめかしかった。
私の足や手が一之瀬さんの身体に絡みつくときもこんなふうだったのかな。
ふいに最後に寝た人のことを思いだした。
どんなきっかけで何が出てくるかわからないから、記憶って怖い。
一之瀬さんは行きつけの美容院のスタイリストで、私より二歳年上だった。
男性にしては少し小柄で、私と並んでもそれほど身長差はない。
切れ長の目の、涼しげな人だった。
指がきれいで、髪を切ってもらっているとき、よくみとれていた。
恋が始まったのは些細なきっかけや、ちょっとした偶然からだ。
たとえば二人とも犬が好きとか、血液型がA型とか、住んでいる場所がけっこう近いとか、帰りの電車でたまたま一緒になるとか。
そういうのが積み重なって、ただのスタイリストが、いつの間にか好きな人へと変わっていった。
思えばその頃が一番楽しかった。
一之瀬さんも私のこと気になってるんじゃないかなとか、今度美容院に行くときはどんな服を着て、何を話そうとか。
そんなことを考えて、それで幸せだった。
「水嶋さん、今日はカットですね。どんな感じにしましょうか」
髪に触れられながら柔らかな声で問い掛けられると、年甲斐もなくドキドキした。
どうして彼が私と関係を持つようになったのか、今でもよくわからない。
私が独身なのは単に縁がなかったからだけど、彼は女性に不自由することがなかったから、逆に結婚を選ばなかったのだろう。
一緒にいると、今までに関わってきたであろう女性の影を感じることがあった。
幸福な片想いから二人で食事に行くようになるまで、一年近くかかった。
そこから身体の関係を持つまでは、あっという間だった。二回目のデートで居酒屋を二軒はしごしたあと、そういうことになった。
十一月の深夜一時は痛さを感じるくらい寒くて、私たちはそれを理由に手を繋いでいた。
二人ともたっぷり飲んで、気持ちよく酔っていた。
「今から砂枝さんの部屋に行きたいな」
そう言われて、私は頷いた。
男と寝たのは久々だったけど、身体は案外覚えているもので、自然に抱きあえた。
それまでは髪や手のひらにしか触れなかった細くてしなやかな指が、慣れたように全身を辿った。
声を押し殺しながら私は、このまま溶け合って、ひとつの身体になってしまいたいと願った。
「いま世界が終っちゃえばいいのに」
隣り合わせに眠るまえ、無意識に口をついた言葉を聞きとがめられた。
「どうして」
手を伸ばして私の前髪を撫でながら、かすれた声で一之瀬さんが訊いた。
一之瀬さんの手で切りそろえられた髪は肩下十センチくらいのセミロングで、短く整えた前髪は彼の好みだった。
なんとなくこぼれた言葉だったから、私はすこし考えた。
「すごく幸せだから」
彼はふうん、と相づちを打った。きっと意味が分からなかったのだろう。
おかしなもので、言った本人でさえ、その時はちゃんと理解できていなかった。
だけど心のどこかで感じていた。
私たちは遠からず離れていくと。
「だって何を話せばいいのか、わからなくなってきちゃったんだもん」
腕時計は九時を指していた。
いつしか私は、バスタブのふちに座って、あさりに語りかけていた。
薄暗いバスルームであさり相手に話し込むところなんて、誰かに見られたら正気を疑われてしまう。
だけど同居人なんかいない。気兼ねなく、心ゆくまで語れる。
「一之瀬さんは暇があったら一人でツーリングしてた。私はバイクなんて興味ないし、もともと共通の話題は、ほとんどなかったの」
付き合い始めは気にならなかった感覚の違いは、時間が経つうち、どんどん膨らんでいった。
恋の魔法がとける前に、それに代わる関係を築けなかった。
「けっきょく自然消滅しちゃった。だんだんメールが減って、なんとなく終わり。好きでいる時間は長かったのに、終わるのはあっという間だったなぁ」
あさりを見下ろすと、前髪が目にかかってうっとおしい。
ひと房、指でつまんでみた。明らかに伸びすぎだった。
一之瀬さんとの関係が終わってから、美容院に行けなくなってしまった。他の店を探す気も起きなくて、伸びるに任せていた。
「いい年して私ダメすぎじゃない? 中学生のころは三十歳過ぎたら結婚してて、当たり前に子供がいるって思ってたんだけどなあ」
喉が渇いてきたから、冷蔵庫を開けて缶ビールを取り出した。
バスルームにプルトップを開ける音が響く。バスタブに寄り掛かって座りながら、私は話を再開した。
こうなったらもう、話したいだけ話してやる。
夕飯なんか遅くなっても構わないし、せっかくの週末でも予定なんかなにもない。
友達はほとんど身を固めたから、最近は合コンもなくなった。
明日は仕事が休みで、たっぷり寝坊できるのは地味に嬉しいけど。
「でもさ、自分に子供ができるなんて想像もつかないや。言葉も理屈も通じない赤ん坊に二十四時間付きっ切りなんて、考えただけで気が狂いそう。その点、今は気楽だよね。お金も時間も、自分の為にだけ使えばいいし」
このままでいったら両親に孫の顔は見せられなさそうで、それに関しては申し訳なく思っている。
少子化が騒がれているのに、なんのお役にも立てないのも、なかなか心苦しいところだ。
だけど、安い給料から税金をむしり取られても機嫌よく生きてるんだし、むしろ褒めてもらいたい。
あさりの入ったボウルのふちを爪の先で弾くと、水を吐いていたところが、しゅるっと縮んで潜った。
ネイルも塗らず、短く切りそろえた指先は色気がない。
長い爪は好きじゃないけれど、一之瀬さんと会う時は、マニキュアくらい塗っていた。
今ではもう、どこにマニキュアの瓶をしまったのかすら思い出せない。
「あんたたちも人間に捕まらなかったら、子供をたくさん産んでたの? それか、もう産んでるの?」
答える者のない問いかけは、泡のように消えていく。
少し肌寒かったけれど、ひたすら話し続けていた。なんだか教会で懺悔する人みたいだ。
酔いが回ってきたのか、だんだんいい気持ちになってきていた。
伴侶も子供もいなくても、独り身だからこそできることだってある。
仕事帰りにぶらりと一杯飲んで帰ったり、今みたいによれよれのTシャツとユニクロのスウェット姿でビールをがぶがぶ飲んで、人目をはばからず、あさりに語りかけることだってできる。
「アンタたちも飲めればいいのにね、お酒。ボウルにビール入れてあげてもいいけど、そんなことしたら、きっと死んじゃうでしょ」
あさりが一匹、水をピュッと吹いた。ちょうど答えるようなタイミングで、思わず笑ってしまった。
今まで数えきれないほどのあさりを食べてきたけど、話を聞いていてくれたこのあさりたちに、いつしか愛情を感じはじめていた。
このまま飼えないか一瞬検討したけど、遠からず全滅するのは目に見えている。
じわじわ死んでいくより、ひと思いに殺されるほうが幸せだろう。
せめて酒蒸しにでもして、最期に一杯飲ませてあげようか。
そんなことを考えながら、あさりを眺めているうち、今度はなんとなくしんみりしてきた。
きっとアルコールのせいで、感情の起伏が激しくなっているんだろう。
ボウルの中のあさりのように、私だってどこへも行けない。
一人で暮らして、たまに好きな人ができて、生殖と結びつかないセックスをして、やがて別れる。
誰かと生活を分かち合うことなく一人で生きて、そのうち死ぬ。
結婚と無縁なまま孤独死して、その名のとおりの無縁仏になる可能性だって大いにあり得る。
そういう人生に意味なんてあるのだろうか。
意味なんかあろうとなかろうと、死ぬまで生きるのが生まれてきた者の運命だとしても、一人きりの人生はなかなか長そうだ。
じんわり目が覚めた。
いつの間にか、バスタブに寄り掛かったまま、うたた寝をしていた。腕時計は午前三時半を指している。
酔いはすっかりさめていた。
変な体勢で眠ってしまったから首が痛い。足も痺れている。
ボウルに目をやると、二十匹ほどのあさりのほぼ全員が、のびのびと身体を伸ばしていた。
そのままぼんやり眺めていたら、一匹、威勢よく水を吐いた。
こんなに元気でも、煮え立った鍋にいれてしまえば死んでしまう。
あたりまえだ。そんなことされたら、どんな生き物だってたぶん死ぬ。
食べて、鉄分になってヘモグロビン値をあげてもらう。私が楽しく生きていくことが、せめてもの供養だ。
飼うというプランが現実的でない以上、それが私にできることだった。
「海に帰れれば生きられるんだろうけどねえ。このへん海ないし」
そこまで言って、ふと、お台場とか葛西あたりで潮干狩りができると誰かが言っていたのを思いだした。
海なし県の埼玉県民だけど、最寄駅は浦和だから、東京からほど近い。
「海か……」
最後に海を見たのはいつだろう。思い出せないほど昔だ。
「海、いいな」
淡く揺らぐ水平線とか潮の香りとか打ち寄せる波の音とか。
そういうのを思い出したら、無性に海を見たくなった。
海へゆく電車の始発は何時だろう?
アイフォンを取りに立ち上がった。
四時三十九分発の上りの始発電車は、想像していたより多くの人が乗っていた。
とは言え、自分を含めて一車両に六人だから、ほとんどガラガラといってもいい。
一晩中飲み明かして帰宅すると思しきスーツ姿のサラリーマンが二名。片方は三十代後半くらいで、もう一人は二十代前半だ。
二十代前半がひとまわり年下だと、ふいに思いついて愕然とする。
何ひとつ変わっていなくても着実に年は取っていることを、こういう瞬間思い知る。
それから、つけまつげが取れかけてる女の子が一人。二十歳そこそこだろうか。肌寒いのに生足で、パンツが見えそうなミニスカートを履いている。
三人ともはかったように同じような角度で、うつむいて眠っている。電車の振動に合わせ、揃って揺れる。
そして三歳くらいの女の子を連れた、私と同じ年頃の女性。
すっきりした目鼻立ちや柔らかそうな頬がよく似ていて、ひと目で親子とわかる。
大きなバッグを持っているから、旅行にでも行くのだろう。
女の子は飽きもせず、車窓の外を眺めている。
母親は女の子の手を握りながらうとうとして、たまに薄く目をひらく。景色を眺める我が子に微笑みかけると、またゆるく目を閉じる。
車窓から、のぼりゆく朝日が見えた。世界が淡い紫に染まってゆく。
夜の終わる瞬間を目の当たりにするのは久しぶりだった。
最近では夜遊びも朝帰りもしなくなったから、この時間は自分のベッドで熟睡している。
健全すぎる生活をしていると、綺麗なものを見逃してしまうこともある。
規則的な振動に眠気を誘われながら、ひんやり冷たいエコバックを落とさないよう、膝の上でしっかり抱える。
防水性のエコバックには、あさりの入ったボウルがラップをかけてしまってある。
車体が揺れると塩水も揺れて、あさりがカシャカシャ音を立てた。
不審物を持った怪しい女と思われないか心配になったけど、誰も私なんか見ていない。
停車するたびに乗客は増えても、みんな眠るかケータイをいじるのに忙しそうだ。誰も他人に注意を払ったりしない。
上野駅で、乗客はほとんど入れ替わった。母子も降りていった。その手はしっかりと握られている。
子供の頃は、外に出るとき必ず親と手を繋いでいた。母親に膝まくらをしてほしくて、頻繁に耳かきをせがんだりもした。
ハグなんて風習のない日本人だから、大人になってから親に身体を寄せることなんてまずない。
両親が老いて足腰立たなくなったら手を取って歩くようになるだろうけど、それまではきっと手も繋がない。
親に注いでもらった愛情は親に返すだけで、我が子に注ぐことはきっとない。
あさりを抱えながら、そんなことを考えていた。
大森海岸を選んだのは電車一本で行けるからで、深い理由なんかなかった。
だけど着いた瞬間、ここで良かったと思った。
大森駅に着いたのは五時半で、夜は完全に明けていた。人生で初めてこの駅で降りた。
お腹が減ったから、コンビニで甘い缶コーヒーを買った。ちょっとしたピクニック気分で、わくわくしてきた。
そろそろ梅雨の始まる季節だけど、淡く澄んだ春の空は雲ひとつない。
髪を揺らす風は穏やかで、どこからか微かに花が香った。
駅前からタクシーに乗るとき、あまり人の来ない海岸に行きたいと頼んだ。
せっかく海に帰したあさりが、即座に他の人に狩られてしまったら切なすぎる。何をしに来たのかわからない。
タクシーから降りたとき、飛び立つ飛行機がまず見えた。晴れ渡った空を大きな白い鳥みたいに、悠々と泳いでいる。
鮮やかな青と白のコントラストは、目の奥に染み入るようだった。
少し歩いて、海岸に出た。砂浜に直に座って、馬鹿みたいに空を見上げる。履き古したデニムだから汚れなんて気にしなくていい。
海風が髪を揺らして視界を妨げた。指先で前髪をかき分けても、さらさらと邪魔をする。
諦めてそのままでいた。どうせ人っ子ひとり来ない。帰るときなんとかすればいい。
首が疲れてきたから真正面を眺めてみると、沖合に揺らぐ白い船と、飛び立つ飛行機が視界をよぎった。
ほどよく冷めた缶コーヒーを飲みながら、しばらく私は静かな景色に魅せられていた。それからあさりの入ったボウルをエコバックから出して、ラップを外した。
「ホントに来ちゃったよ、海。アンタたちがどこから来たのか知らないけど、海は繋がっているから、きっと大丈夫だよね」
あさりの視覚や聴覚がどの程度なのか知らないけれど、戻るべきところにいることは、感じられるのだろうか。
明るい空のせいか長時間の移動のせいか、あさりは殻に閉じこもったまま、微動だにしない。
私は立ち上がって、ボウルを手に取った。
さくさく砂浜を踏みしめながら、真っ直ぐ海に向かう。スニーカーの隙間からどんどん砂が入って、じゃりじゃり痛い。
波打ち際につくと、いったんボウルを置いてスニーカーと靴下を脱いだ。
濡れなさそうなところに置いてから、デニムの裾を三回ロールアップする。
再びボウルを手にして大事に運ぶ。足の裏全部に砂が冷たくまとわりついてこそばゆい。
なにかの儀式みたいに、あさりを一粒一粒砂の上に置いている間も、波にさらわれては戻る砂が足の裏を冷たくくすぐった。
並べ終ってからしばらく、殻に閉じこもったまま砂に溶け込むあさりを眺めていた。
大きく息を吸い込むと、海の香りで胸が満たされた。
空を見上げてみたらあまりに眩しくて、目が痛くなった。
そろそろ帰ろう。私のいるべきところはここじゃない。
私はごみごみと雑多な街で仕事をしたり、恋をしたり、悩みながら生きていく。
デニムのポケットを探って、ヘアゴムを取り出した。
乱れ放題の中途半端な長さの髪をひとつに結んだら、なんとなく背筋が伸びた。
*
「ボンゴレビアンコってなに」
「たしかトマトソースとかクリーム系じゃなくて、塩っぽい味のやつだったかな」
いい加減な私の説明に、健一はふうん、と頷く。
「じゃあそれにしよ。すいませーん!」
いきなり大声で店員さんを呼び止めるから、私は慌ててメニューに目を走らせた。
「俺はボンゴレビアンコってやつ大盛りと、ミックスピザのMサイズ。それから生中」
「えっと、私はジェノベーゼと、ハーフサイズのサラダと、グレープフルーツジュース」
「あれ? サエさん飲まねぇの」
「うん」
メニューを店員さんに返しながら短く答えた。
今はお酒を飲む気分になんかなれない。
通りがかりに入った小さなイタリアンレストランは、金曜日の夜ということもあってか、混み合って賑やかだった。
店内を占めるのは若い女性のグループ客ばかりで、他はカップルが二組いるだけだ。
いや、私と健一を含めれば三組になる。
カップルと呼べるような関係じゃないから、含めてもいいのか微妙なところだけど。
「なんでぼんやり俺の顔みてんの」
ビールを飲みながら、健一が訊いた。
「え、ああ。このお店にぎやかだし女性ばっかりだったから、健一くん、居心地悪くないかなあと思って」
適当に言いつくろうと、健一はにかっと笑った。
「確かに、普通なら来ねぇな。でも新鮮でいいよ」
笑顔は意外に幼くて、ちょっとかわいいと思ってしまった。
実際は決してかわいくない。
左官屋さんという職業柄か、よく焼けた顔と、無造作に伸びた髪と髭。少し団子鼻で、口はかなり大きい。
体も大作りで、女性としては平均的な身長の私より、二十センチ以上背が高い。
よく洗いこまれて色落ちしたTシャツからのぞく腕は、私の足と同じくらいの太さだ。
だからだろうか。私より五歳も年下のような気がしない。
目を覚ましたら隣でこんないかつい男、つまり健一が眠っていたときには、驚きすぎて三秒くらい息が止まった。約一週間前の土曜の朝のことだ。
私は右半身を下にして眠る癖があって、男はちょうど右側にいた。だから寝顔がしっかり見えた。軽くいびきをかきながら眠っているのは、明らかに知らない人だった。
申し訳程度に乱れたシーツがかかっていたけれど、私も男も一糸まとわぬ姿なのはすぐにわかった。
今の状況はどうしたことで、この強面の男はいったい誰なのか。
記憶を辿り、前日立ち寄った呑み屋で隣に座っていた男だったと、じわじわ思い出した。
七月に入った途端、連日のように気温は三十五度を越え、湿気がねっとりまとわりつくようになった。何もしなくても汗をかく気候なんて、理不尽で大嫌いだ。
暑さに弱い私は、すでに夏バテしていた。
おまけにその週は仕事が忙しくて、すっかり疲れ果てていた。
食事を作る気力など残っていなかったし、キッチンで火を使うと思っただけで気が遠くなった。吸い寄せられるように通りがかりの居酒屋に入った。
初めて入ったその店は、金曜の夜にもかかわらず、客入りはほどほどだった。駅から少し遠く、ビルの三階という立地条件のせいだろう。
店の奥にある座敷席や個室から、酒に飲まれた団体客の発する奇声がときたま聞こえたけれど、カウンター席やテーブル席は、いくらかの空きがあった。
カウンター席に案内されるとすぐにビールと枝豆、それから適当に何品か頼んだ。
よく冷えたビールは、全身に染み入るように美味しかった。
「おねえさんも一人?」
隣に座っていたガタイのいい男に話しかけられて、イヤだな、と思ったことは覚えている。
喋ってみたら意外に人懐っこい男で、予想外に話が盛り上がったことも、ついつられてハイペースで飲んでしまったことも。
だけど居酒屋からここまでどうやってきたのか、どうしてこうなったのかわからない。
そもそも、ここはどこなんだろう。
男を起こさないようにそっと、ほんの少しだけ体を起こして室内を見渡した。
フロアスタンドの薄灯りに照らし出される、見慣れない天井とダブルベッド。
窓のない狭い部屋。大きなテレビと、そのへんに脱ぎ散らかした服。
黴臭くて古びているけれど、空調の効いて涼しい、無個性な部屋。
シャワーしている姿が丸見えになるであろう、ガラス張りのバスルーム。
どこからどこまでも、悲しくなるほどラブホテルの一室だった。
行き当たりばったりに男と寝るなんて、なんというビッチ! なにやってんの私!
あまりの事態に恐れおののいていると、男のいびきが止まった。それからバチっと目を開けて私を見た。
「おお、起きたんか」
男の声は、肉食獣の唸り声のように低い。
小さくパニックに陥って硬直している私の腕に、男の手が触れた。
「もう気分悪くねぇか」
問い掛ける口調は優しかった。
マメのたくさんできた、ザラザラと荒れた手のひらが、私の背中をそっと撫でた。
どうすればいいのか、かすかに痛む頭で考えていると、男が眉を寄せた。
「もしかして覚えてねぇの」
おそるおそる頷くと、男はそうかぁ、と欠伸まじりのため息を吐いた。
「一緒に居酒屋で飲んで店を出たあと、そのへんの植え込みにゲロ吐いてた。なりゆきで俺が介抱して、最終的にヤっちゃった」
簡潔な説明は二日酔いの頭にもやさしくて有難かったけど、内容はまったく有難くない。
お酒を飲んで記憶をなくすなんてこの十年以上なかったのに、いい歳して私はいったい何をしているんだろう。
生中二杯とモヒート一杯、それからワインのボトルを注文して、半分ずつ飲んだことは覚えている。
ワインは白と赤を両方で、たしか一本は七百五十ミリリットルだから、なかなかの量だ。
そのあたりから記憶が怪しくなってくるけど、さらに飲んでしまった気もする。
最近はあんまり飲んでいなかったし、夏バテ真っ盛りだから、酔い潰れてしまっても不思議はない。この男に一服盛られたわけじゃなさそうだ。
「おい、大丈夫か? だいぶ吐いてたけど、まだ気持ち悪い?」
だいぶ失礼な事を考えていたのに、そんなこと知る由もない男は、心配そうに私の顔を覗きこんだ。
「もう大丈夫です。ご迷惑をおかけしました」
ようやく出した声があまりにガラガラで、また驚いた。
「水、飲むか」
男は裸のまま身軽に立ち上がって、備え付けの小さい冷蔵庫からミネラルウォーターを二本取り出した。
「ほれ」
差し出されたボトルを一本受け取ると、ひんやりして気持ちよかった。
シーツを巻き付けながら、私も起き上った。ひと口飲むと、冷たい水が身体を満たしていくのがわかった。
ぼんやりと部屋を見渡して、ガラス張りのバスルームに、昨日私が着ていたシャツが干してあるのに気付いた。
「ああ。あれゲロかかってたから、軽く洗っといた」
ミネラルウォーターを飲んでいた男は、私の視線を辿ってそう言った。
「……本当に、ご迷惑をおかけしました」
それ以外、言うべき言葉が思いつかない。
「気にしなくていい、こういうの慣れてる。俺の職場の若い連中、だいたい吐くまで飲むし。女の介抱したことは、あんまりねぇけど」
それにしたって行きずりの他人の服まで洗ってくれるなんて、見かけによらず、面倒見の良い人だ。
男はミネラルウォーターを飲み干すと、ゆっくり近寄ってきて、私の上に覆いかぶさった。
「もう一回いい?」
どうして答えを待たずに触れてくる男を拒まなかったのか、今でもわからない。
生乾きのシャツを着て、松屋で一緒に朝定食を食べているときに、連絡先を交換してしまった理由も。
恩を感じていたからかもしれないし、ただ単に二日酔いのせいかもしれない。
「またぼんやりしてる」
旺盛な食欲で大盛りのボンゴレビアンコをむしゃむしゃ平らげながら健一が言った。あさりの殻がいくつか、お皿の隅に置かれている。
ボンゴレビアンコってあさりが入ってるパスタだったんだと思いながら、私は曖昧に笑った。
「美味しそうに食べるね」
「サエさんも食えよ。ちょっと細すぎ。ほれ、俺のピザやる」
健一は半分に減ったピザのお皿を私のほうに押し出しながら、ちょっと笑った。
「ありがと。なんで笑うの」
私は一切れ取って口に運んだ。
すこし冷めていたけど、チーズがたっぷり乗っていておいしい。この店は当たりだ。
「この前の晩ああいうことになったとき、いきなり謝られたの思い出した。貧乳ですみませんって」
私は赤面した。
そんな色っぽいシチュエーションで、なんで私は貧乳の謝罪をしているんだろう。
もしかしたらちょっと頭がおかしいんだろうか。
ピザを食べ終わったから、パスタをフォークにくるくる巻きつけて口に運んでみた。ほどよい塩味とバジルの加減が絶妙だった。
「そういう食べ方、女っぽくっていいね」
ひっそり自己嫌悪に陥っていたから、健一の言葉にちょっと驚いた。
「女っぽい人は飲みすぎて吐いて初対面の人に迷惑かけないと思うし、貧乳で謝罪なんかしないんじゃないかな……」
ぼそぼそ答えると、健一は吹き出した。
「充分女っぽいよ。まぁ、俺のまわりに女がいねぇから、そう思うのかもしんないけど」
健一はピザに噛み付きながら言った。
口元から覗く歯すら大粒でごつい。歯並びは抜群によい。
炭水化物ばかり大量に食べてる健一の食生活が、ふいに気になった。
「普段ごはんはどうしてるの?」
唐突な質問に、健一は首を傾げた。
「朝は食わねえだろ。昼は大体コンビニ飯だな。あと、うちの近所にうまい定食屋があるから、よくそこ行く。俺、メシなんて作れねぇし」
そう言って、ちょっと笑った。
「なに、ホントに女がいねぇかのチェック? それか俺にメシを作りてぇってこと」
予想外の言葉に、私は急いで首を振った。
「そういうわけじゃなくて、ちょっと気になっただけ。ごめん」
「なんで謝んの。今はいねぇよ、女。そうじゃなきゃヤらねぇよ」
ピザの最後の一切れに取り掛かりながら、健一はあっさり言う。あまりに直球すぎて、返す言葉を失ってしまう。
健一と話しているとよくこうなる。
「サエさんはメシどうしてんの」
「基本は自炊かな。最近は夏バテ気味で、おそうめんばっかり食べてるけど」
「だからそんなひょろっとしてんだよ。もっとガッツリ食ったほうがいいぜ」
そう言うと、真正面から私の目を見た。
「さっき言った定食屋、朝もやってるから、明日の朝メシそこで食うか」
私はフォークを置いた。サラダもパスタも半分くらい残っているけど、もうこれ以上食べる気がしない。
「返事がねぇのはイヤってこと」
「そうじゃないけど」
健一と寝るのは全然かまわない。そうじゃなかったら今夜、誘いに乗ったりしてない。
「じゃあ決まりな。これからウチ来いよ。あ、タバコ吸っていい?」
「うん」
だけど好きでも嫌いでもない人に、心は閉ざしたまま、身体だけ開くことが正しいとは思えない。
健一はタバコに火をつけた。
私はグレープフルーツジュースを飲みながら、あさりの殻を眺めていた。
そういえば、あれからあさりを食べていない。
スーパーで見ても、なんとなく手が伸びなくなってしまった。
海に返したあさりたちは、今頃どうしているんだろう。
まさかこの殻たちが、あの子たちのなれの果てじゃないとは思うけど。
そんなことを考えながら私は、ぴったり殻を閉じたまま、砂に飲み込まれていく姿を思い出していた。
*
暑く辛い、長い夏がようやく終わったと思ったら、今度は台風の季節が来た。
今年は当たり年で、台風は順調に号数を重ね、次から次へと豪雨や強風を巻き起こした。
一之瀬さんと再会したのは、今年何度目かの台風の日だった。
その日は金曜日で、私は大雨の中、一人で大通り沿いを歩いていた。
台風の進路は逸れていて風はそれほどでもなかったけれど、そのせいで定時まで仕事をすることになってしまった。
どうせなら派手に直撃してくれればよかった。そうしたら会社が休みになったかもしれない。
透明なビニール傘を差してもあんまり意味がなくて、髪も服も容赦なく濡れた。
雨の冷たさより、湿った服とか靴がなんとも言えずに不快で、体力を奪ってゆく。
俯き加減に歩いていたら、右脇に車が止まった。
軽くクラクションを鳴らされて、ようやくそれが一之瀬さんの車だとわかった。
今さらどうしてとか、このままここに止まっていたら後から来る車の迷惑になるとか、知らんぷりして立ち去ったら一之瀬さんはどんな顔するんだろうとか。
一瞬のうちに、いろんな考えが頭を巡った。
カチカチ瞬くウインカーをしばらく眺めて、それから車のドアに手をかけた。
「これ使っていいよ」
助手席に乗り込んだ瞬間、大判のフェイスタオルを渡された。
美容院で使っているのと同じメーカーだと気付いたら、伸びすぎた髪が急に恥ずかしくなった。
一之瀬さんと会わなくなってから、一度も美容院に行ってない。少なくとも半年以上、髪を切っていないことになる。
伸びすぎた前髪は、適当に分けて流しているうちになんとなく様になってきたから、そのままにしている。
「いま帰り?」
一之瀬さんの口調はあまりに普段通りで、この数か月の空白なんてなかったみたいだ。
「はい」
私は濡れた髪や服を拭いながら頷いた。
きっと今日のこの再会は、先に続くものじゃない。
たぶん一之瀬さんはたまたま私を見かけて、ほんの気まぐれに乗せたんだろう。
身体を寄せ合っても、また離れていく。そんな予感がする。
それなのに彼の隣に座っていると、閉じていた気持ちが開かれてしまう。
合うとか合わないとかはどうでもよくて、ただ一緒にいれればよかった。
自然消滅したのは、彼からの連絡が途絶えた後に、自分から連絡してうっとおしがられるのが怖かったからだ。
そんな怖さを感じるくらい好きだったと、今さらながら気づいてしまった。
バカみたいにまた惹かれているのがバレなければいいと願った。
「俺も。こんな天気じゃ店を開いたって誰も来ないと思ったんだけどねぇ。意外にちらほら来た」
目の前の十字路の信号が黄色く瞬いた。
一之瀬さんは慎重に減速して車を止め、右側のウインカーを切る。
私の家はこの十字路を左手側にあると、一之瀬さんは知っているはずだった。
右手側にあるのは一之瀬さんのマンションだと、私も知っていた。
それでも黙って髪を拭い続けた。
激しく窓に打ちつける雨音は、波音とどこか似ていた。
私はまた、あの海を思い出していた。
*
いま私が一人で海に来ているのは、あさりのせいじゃない。
砂浜に直に腰かけながら、私はアイフォンに目を落としていた。
こんな海辺にいても、どこからか金木犀の香りがする。
このまえ来たのは五月の終わりごろだった。
同じ場所で同じ時間なのに、十月初めの朝六時は、夜の気配がまだ残って肌寒い。
視線を上げると、薄紅色に染まる空と海が見えた。昇り始めた陽が眩しくてまた下を向く。アイフォンが目に入った。
着歴一件とメール一通。どっちも健一からだ。ため息をひとつ吐いた。
車で拾われて一之瀬さんのマンションで彼と寝たあと、アイフォンが震えた。
ベッドから体を起こしてハンドバッグから出すと、健一からの着信だった。
「出ないの?」
そのままバッグにしまうと、ベッドに横たわったままの一之瀬さんが訊いた。
私は起き上がって服を着始めた。
「そろそろ帰ります」
まだ雨は少し残っているようだったけど、ほんの数時間前の激しさはもうない。じゅうぶん歩いて帰れそうだった。
「送るよ」
起き上ろうとする一之瀬さんを手で制した。
「天気もおさまってきたし、ひとりで大丈夫です」
「でも……」
雨で湿った服が、余計に健一を思い出させた。
「そのまま寝ててください。さっきは雨の中ありがとう」
すばやく身づくろいを整えて、私は一人で部屋を出た。オートロックのマンションだから、鍵の心配はしなくていい。
マンションを出たら、雨はだいたい上がっていた。
しばらく歩くうち、傘を忘れたのに気付いた。
どうせ安いビニール傘だし、のこのこ帰るのも間が抜けている。なにより、今さら戻りたくなかった。
きっと適当に処分してくれるだろう。そう思って、そのまま歩き続けた。
大通りに出るころ、健一からメールがあった。
返事は返さずに、やっぱり歩き続けた。
一之瀬さんのマンションからウチまでは、徒歩で十五分くらいだ。それほど遠くないけど、時刻は一時を回っている。
夜道の一人歩きが危ないことくらいは、もちろんわきまえている。
むしろ襲われて殺されたかった。
不謹慎で無責任だけど、心からの本音だった。ひと思いに死んでしまえば、こんなもやもや苦しくなることもない。
健一とは、連絡があったらなんとなく食事して、セックスするだけの関係だ。
だから誰に対しても、後ろめたく思う必要なんてないはずだった。
それなのに、胸によどむこの感情はなんだろう。
思えば、バスルームであさりに洗いざらいぶちまけていたときは気楽なものだった。
良くも悪くも、私は一人だった。
好きな男と寝ても、誰かに好意のようなものを寄せられても、幸せになれるとは限らない。
人は一人じゃ生きられないというけれど、一人のほうが生きやすい場合だってある。
帰宅するとすぐに湿った服を脱いで、シャワーを浴びた。髪を乾かし終わるころには、三時をまわってしまった。
疲れているのに、ベッドに入っても眠れない。目を閉じて、何度も寝返りを打った。
一時間後、諦めて起き上った。
カーテンを開けると朝の気配はまだなく、窓越しの空気はひんやり冷たかった。
これからどうしよう。今日一日の過ごしかたも、一之瀬さんや健一のことも。
返事ができなくて、メールは放置してある。
『台風大丈夫だった? いま何してんの? 明日ヒマなら会おうぜ』
台風は大丈夫だったよ。電話をくれたときは他の男と寝てた。今日はヒマだけど、こんな気持ちで会ってもいいのかな。
返せない言葉を脳内で反芻しているうち、なにもかもイヤになってきた。
もう何も考えたくない。ここから逃げたい。
枕元の目覚まし時計は三時五十五分と示している。
今すぐ支度をすれば始発の上り列車に乗れる。そう思いついてからは早かった。
大森に着くと駅前でタクシーを拾った。
曖昧な記憶を頼りに、前回と同じ場所まで乗せていってもらった。
夜明けの海岸線を一人で歩いていると、ゆるやかに気持ちが満たされて、ずっと心に棲みついている寂しさと溶けて混じりあっていった。
こういう感情にどんな名前をつければいいのか、歩きながら考えたけど、結局思いつけなかった。
あさりを海に返したあたりに辿りついて、私は砂浜に腰を下ろした。
数か月前、ほんの一回来ただけの場所なのに、なんだか懐かしかった。
なにをするでもなく、私は海を眺めた。
潮のかおりとか、海鳥の鳴き声とか、ほの寒い海風とか。
そういうのを感じながら、頭をからっぽにして、あさりのようにひっそりと砂に溶け込んでいた。
こうしていると自分が世界で一人きりになったようで安心できた。
ここには面倒な人間関係はなにもない。
残っているのは自分だけだった。
それで充分なんだと、なんとなく思った。
誰かのものにはなれなくても、私は私のままでいられる。それだけでいい。
独りよがりで身勝手な考えと他人は断じるかもしれないし、ただの負け惜しみと嘲笑うかもしれない。
だけど身勝手な考えや負け惜しみのどこが悪い?
どこも悪くない。
*
帰りの電車で、私はアイフォンを眺めていた。
できることならあさりを海に返したように、海に放り投げてしまいたかった。
そうすれば一之瀬さんや健一とは連絡が取れなくなる。
縁があればまた会えるし、なければ二度を会えない。それでいい。
ケータイがダメになったら疎遠になるような人間関係なら、最初からないほうがいいのだ。
機体を分割払いにしているからお金がもったいないとか、海に物を捨てたらいけないとか、理性が邪魔をして思いとどまったけど、投げ捨てたらさぞかしサッパリしただろう。わりと後悔している。
アイフォンを海に投げ捨てる代わりに、電話帳から一之瀬さんと健一のアドレスをブロックした。メールも全削除した。
最近の私はいったい何をしているんだろうと思わなくもない。
食べるために買ったあさりを、けっして短くはない時間と安くはない交通費をかけて、わざわざ海に返しにいった。
せっかく出会った男を切り捨てた。しかも二人も。
手に入るものをわざわざ捨てて、一人になった。
何を捨てても元通りには戻らない。
きっと私は、なにかにつけてあの海と、そこに返したあさりを思い出す。
一之瀬さんのきれいな指や、健一の低い声も、心のどこかに残る。
そうやって生きていくうち、もしかしたら誰かと出会うかもしれない。出会わないかもしれない。
出会っても、また切り捨ててしまうのかもしれない。
この先どうなるのかは全くわからないけれど、ひとつだけ確かなことがある。
いま何もないというのはつまり、これから何かを得る可能性があるということだ。
時計は午前十一時をまわっている。もうそろそろお昼だ。
行きとは打って変わって、車内は混み合っている。
学生のグループとか、おばちゃんの団体とか、年配の夫婦とか。みんな口々になにかを喋って、笑って、相づちを打っている。
電車の座席に座りながら、私はいつしか眠気を覚えていた。
意味をなさない言葉の群れと、ほどよい振動に包まれながら、吸いこまれるように目を閉じた。