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作者: 四境

果たして、コメディなのか。

果たして、ホラーなのか。






 夜眠る時、部屋の中に何かが“いる”ような感覚がし始めたのは、つい最近からのことだ。



 日が落ちた後も、室内は日中と変わらず蒸し暑いのがこの季節だ。人類の大発明、エアコン様に頼ろうにも、生憎我が家のポンコツエアコンは少し前から壊れてしまっていて、役目を果たすことなく休眠中。買い換えたいのは山々だが、学生のひとり暮らしのご身分で、エアコンなんて高価なもの、そう安々と買えるはずもない。修理をしようにも、それはそれで新品を買うのと同じぐらい値段がかかるとかで、僕は結局、今夏をエアコン抜きで過ごすことを決意している。

 で、エアコンをつけられない、となると。暑さを凌ぐために出来ることと言えば、扇風機をつけて、窓を開けることぐらいだろう。友人から譲り受けた、使わなくなった古い扇風機をフル稼働し、猫の額ほどの広さのベランダに通じる大きな窓を網戸にして、僕は溶けそうになりながら、何とか日々の暑さをしのいでいる。



 そうして地獄のような夏の毎日を過ごしていたある日のこと。

 その日の晩も、いつも通りに窓を開けて網戸にし、フローリングに敷いた、といれたばかりの布団に仰向けに寝転んだ。暗いほうが安眠できる質なので、常夜灯もつけない。

 窓の外の道路を、車が走り抜ける。隣の部屋からは人の話し声がした。雑音には慣れている。僕の睡眠の妨げにはならない。

 首振りに設定した扇風機が低い唸りを上げながら、僕の体に風を送りつけるのが少しだけ心地よい。しかしそれだけでは、熱を帯びた夜の空気に抵抗しきれる気がしない。右手の団扇で顔をあおぎ、左手のタオルでじんわり滲む汗を拭った。夏夜の熱への徹底抗戦である。

 暑いは暑い。だが、最善を尽くせば、耐え切れないほどではない。じっくりと時をかけて夜は進み更けていく。そんなこんなで、意識を離した寝入り端。うとうとしながら、息が沈んで、身を包む感覚が緩やかになっていく。

 完璧な眠りに落ちた、つもりでいた。


 夜にさらわれた知覚が、ピクリと反応を起こし、ゆっくりと目が開く。

 仰向けだったはずの体は、背を丸めるようになって布団の上で横を向いていた。ちょうど網戸に背を向ける形だ。

 あまりにも暑くて目を覚ましてしまったのだろう。そう思った。

 しかし、体が異変を覚えるまで、時間は数秒とかからない。


「…………!」


 動かなかった。体が、硬直して、動かなかったのだ。

 硬い紐で縛られてしまったように。或いは、体中に石化の魔法でもかけられたかのように。意識はある。むしろ目覚めてすぐにしては、随分意識がはっきりしていた。これは夢ではない、とすぐに理解出来た。僅かに布団に沈む肌の感覚や、扇風機の風の触感は本物だったからだ。夢ではない、だからこそ、気味が悪い。動けないのに、感覚だけは生きている。

 つまるところ、僕は金縛りにかかった。それまで金縛りになんてかかったことが無かった僕は、初めての金縛り体験に、心底恐怖した。体の自由が突然効かなくなったのだから、それはもう大慌てだ。体はピクリとも動かないわけだけど。

 体は動かないが、音は聞けるし、部屋は暗いが目も見える。

部屋の中は、冷蔵庫が稼働する音が僅かに聞こえるのみ。車道を走っていた車も、隣の部屋の人の声も、気付けば鳴りを潜めていた。何故か不思議なことに、自分の背に風を吹き付ける扇風機の音も、聞こえなかった。

 室内が無音であることを意識した途端、半袖半パン夏仕様の、剥き出しになった僕の肌の表面を、ひんやりとした寒気が舐めるように撫で付けた。それに一拍遅れ、全身に鳥肌がぶわっと走り立つ。部屋の中の気温が数度下がったような気がした。いや、多分下がっていたんだろう。

 突如気温の下がった部屋の中は真っ暗闇で、音もしない。そして体は動かない。初めて、常夜灯をつけていないことを、電気代をケチるんじゃなかった、と初めて後悔した。

 そして僕は、動けない体勢のまま、目を見開いた。金縛りにかかった理由、部屋の中の温度が下がった理由、僕の睡眠を妨げる、全ての要因に、気が付いた。

 自分の背中側、窓際に。

 “何か”が“立っている”、そのことを認識した。



 金縛りにかかっていたのが、どれぐらい長い時間だったのか分からない。だが多分それほど長くはなかったんだろうと思う。とにかく気付いた時には、体の縛りは消えていた。ゆっくり起こした体は、まるでバケツいっぱいの水でも頭からかぶったみたいに、全身汗びっしょりだった。もちろんその後は目が冴えて、ただの一睡も出来なかった。

 体の自由が効かなくなって、気温が下がった、あれは間違いなく霊だ。焦りに焦り、怯えに怯え、僕は家中の電気をつけ、夜中にやってる楽しげなバラエティー番組を視聴しながら、夜明けを待った。霊を認めたくないなんて心は、端からへし折れていた。

 初めての金縛り――どころか、初めての霊体験――に怯え切ったあの時の僕は、さながら濡れた子犬のように弱々しい姿をしていたことだろう。

しかしそれからというもの。その日以降、夜に眠れば必ず一度、金縛りにかかり、あの“何か”が部屋を訪れるようになってしまった。眠りにつくかつかないかという頃に、同じように目が覚めて、体が縛られ、気温が下がり、背中に“何か”が現れ、時が過ぎる。最初の数日は恐怖のあまり、この部屋で眠るのが怖くてたまらなかった。かと言って自分の家を出て行くわけにはいかないし、我慢する以外に術はない。

 幸いなことに、窓際に立つあの“何か”は、僕に何か手出しをするワケじゃなかった。僕の肩は軽いし、体調も悪くないし、ブリッジしたまま階段を駆け下りたりもしていない。むしろ以前より元気なぐらいだと思う。

 そうこうして数日の間、毎晩のように訪れる金縛りと幽霊の存在を認識し続けているうちに、僕はいよいよ、あの霊に“慣れて”しまった。夜中に目が覚めて体が固まっても「ああ、またか」で済むようになったし、最近ではいっそあの霊に感謝しているぐらいだ。何せエアコンが壊れた蒸し暑い部屋で生活している身としては、あの霊が現れると部屋の気温が下がり、地獄のような熱帯夜を乗り切る助けになったりするのだから、それはもう感謝せずにはいられない。

 素晴らしい共存の形だ。僕は涼しいひと時を過ごせるし、あの霊は……まぁ、あの霊にも、僕の部屋を訪ねるメリットがあるんだろう。



 だが「慣れた」だの「共存」だのとは言っても、僕が一度眠りについたところを叩き起されているわけで、やっぱり睡眠を妨害されていることに変わりはない。今は夏休みだからまだいいものの、秋学期が始まり、早起きしなければならなくなってからも来訪が続くようなら、それはきっと困る。あの霊の来訪がひと夏だけの思い出なのならまだしも、霊に「いつまでこちらにお出てですか」とは尋ねられない。

 それに“あれ”は霊なのだから、まぁ気分的にもいつまでも我が家に住み着かせておくわけにもいかないだろう。

 そういう話、というか相談を、僕は近くのアパートに下宿している、大学の友人の三波にぶつけた。

 入学した時のオリエンテーションで話してから、二回生の夏の今に至るまで、友人であり続ける三波は、僕よりも比較的身長が高く、僕よりも比較的コミュニケーション能力に優れ、僕よりも比較的良い奴だ。あくまで、比較的だけど。

 幽霊が出て最初の日は、こいつの家に避難しようとしたのだが、最近恋人を作り、早速半同棲生活を始めたとかで、僕のお泊り計画は断られてしまった。彼女を作りやがったおかげで、僕は怖い思いをしながら夜を過ごすことと相成った訳だ。友を捨て、女を取るとは、なんてひどい奴なんだろう。


「ふーん、で、この部屋に幽霊が出るって?」


 床に直に座った三波は、英字がプリントされた半袖のTシャツの首元に団扇で風を送り込みながら、僕の部屋をぐるりと見渡した。汚いのは嫌なので、男の一人暮らしにしては掃除をしている方だと自分でも思う。ゴミはないし、部屋は汚れていない。窓はほとんど開けっ放しだし、幽霊が好みそうな嫌な気、みたいなのは溜まっていないはずだ。

 それにこの建物自体まだ築十年にも満たず、大家さんが精力的に修繕を行っているため、見た目も特にボロっちくはない。幽霊が出るにしては小綺麗過ぎるとさえ思う。むしろここに幽霊が出るのなら、三波の住む洋館みたいなアパートなんて、もっと霊がごろごろ出てきてもおかしくない見た目をしている。

 「そうだ」と僕が真剣に頷くと、三波はよく冷やした麦茶の注がれたプラスチックのコップを、日焼けした手に取った。この前彼女と海に行ってきたそうだ。

 苦々しい笑いを浮かべながら、三波が言う。


「達央って、そういう霊的なものは信じないって言ってなかったっけ?」


 達央、というのは僕の名前だ。僕は激しく首を振り、三波の言葉を否定する。


「信じてなかったけど、実物見りゃ考えも変わるんだよ!」

「へー」


 三波は適当に相槌を打ちながら、麦茶を飲み干した。なんだか上の空な三波に多少の苛立ちを覚えながら口を開く。


「信じてないだろ、お前。そうだ、今夜泊まって行けよ」


 実物見れば、こいつも信じるだろう。僕が言うのを聞きながら、三波はもう一度部屋を見渡し、顔をしかめた。


「嫌だよ、エアコンもないこんな暑苦しい部屋」

「自分の部屋にだってエアコン無いクセに、何偉そうに言って――」

 言いかけて、何だか嫌な予感がした僕は口を閉じた。三波が満足そうに笑って頭をかく。


「だって俺、今はつくしちゃんの家に住んでるもん」


 つくしちゃん、と言うのは、こいつの彼女の名前。

 それで、半同棲って、つくしちゃんの方の家ね――。僕は顔を引きつらせて固まった。でも確かに、あのお化け屋敷みたいなアパートの三波の部屋に住みたがる女の人(というか一般人?)はそうそういないだろうし、同棲するんなら、そりゃそうなるそうか。

 いや、でもそれにしたって、彼女の家に泊まり込みって、こいつ。連日訪ねてくる幽霊とのこれからの問題について、僕がうんうん頭を悩ませている頃に、こいつは彼女の家で彼女といちゃいちゃしていたというわけか。いつの間にか握っていた拳に力が篭る。いよいよ腹が立ってきた。

 だが苛立ちは心の中に抑え込まなければならない。こういう時に、おばあちゃんがよく言っていた言葉を思い出す。『腹は立てたらあかんよ、横にしとかな』――そうだ、そう、腹は立ててはいけない、横にしろ。平常心だ、嫉妬は醜い。



 目を瞑り、必死に自身の精神をコントロールしていると、三波が唐突に「あ、そうだ」と手を叩いた。パチンと音が鳴り、僕が目を開けると、世紀の大発見でもしたかのような驚きと喜びを湛えた瞳で、三波が僕を見ている。「なに?」と話を促す。


「明日つくしちゃん連れてくるわ」

「……は?」

「お前にはまだ写真しか見せてないだろ?」

「確かにまだ写真しか見てないけど、要らないから、そういうの」


 お前は自慢したいだけだろ。恋人はアクセサリーじゃないんだぞ。


「いや、つくしちゃんはさ、実家がお寺とか教会? とか――なんか詳しくは聞いてないけど――そっち系の聖なる感じの職の家なんだって。だから、昔から霊が見えたり、霊の声が聞こえたりするんだってさ」

「は?」


 思わず声が出た。聖なる感じの職の家ってなんだよ。というか、待て。


「え、三波の彼女ってなんか、そういう不思議系……というかスピリチュアルな感じなの?」


 幽霊が見えるだの、幽霊の声が聞けるだの、聖なる感じの職だの、どれを取っても怪しさ満天で、ますます会いたいと思わない。

 でも同時に、三波の彼女が変わり者らしいことには、少し安心する。前に見た写真に写っていたつくしちゃんは、とびきりかわいい女の子で、正直あんなかわいい子が三波の彼女になってるのを見た僕は、ほんのちょっぴり嫉妬した。でも、そうか。不思議ちゃんなのか、ふーん。

 僕の言葉を聞いた三波は「スピリチュアルってどう言う意味だっけ?」と肩を竦めた。


「とにかく、つくしちゃんなら、お前んちに来るその幽霊のことも、何か分かるんじゃないかなって」


 一応、三波も僕のことを考えてはくれているらしかった。彼女を自慢したい気持ちが見え隠れしているような気もしなくはないけど、助かるっちゃ助かるので、とりあえず頼って見ることにする。それに実を言えば、そのつくしちゃんがどんな人物なのかも、ほんの少しだけ気になるし。



 その後、幽霊とは関係のない話をだらだらしていると、机の上の三波のスマートフォンがブルブル振動した。嬉しそうに通知を確認する三波によると、彼女がバイトを終えたらしい。三波は今からそれを迎えに行く、とのこと。

 三波は立ち上がり、大きく伸びをした。部屋を出かけてから、部屋の入り口で振り返り、見送るために立ち上がりかけた僕に向かって言う。


「幽霊が嫌ならさ、実家帰れば?」


 僕は首を振った。


「家に帰るのは正月だけでいいんだ、もう。って、そういうお前も今年は実家帰んないの?」


 去年は、僕も三波も実家に帰っていた気がする。この時期になってもまだこっちにいるということは、帰らないってことなんだろうけど。


「だって……彼女が『今年はこっちに残る』って言ってるから」

「もういい、分かった。帰れ」


 無意味な質問だった。

 去り際に麦茶をもう一杯ねだられたが、腹が立つので家から追い出した。おばあちゃんの金言を実効するのは、まだまだ難しそうである。



 それから、その日の晩も、やっぱりあの“何か”はやってきた。

 何をするでもなく、窓際に立つ気配を見せて、時間が経てば静かに去っていく。一体あの霊は、僕の部屋に何の用なんだろう。









「初めまして、達央さん。綾塔 つくしです。陽介くんからいつもお話は聞いています」


 三波に伴われて現れたつくしちゃんは、スピリチュアルな不思議ちゃんで、どちらかというとクレイジーな人だろうという、僕が事前に抱いていた勝手な予想とはかけ離れた人だった。今まで勝手に、三波に合わせてつくしちゃん、と呼んでいたが、これからはつくしさんと呼ぶべきだろう。

 つくしさんは、肩にかからないぐらいの長さの黒い綺麗な髪をした、いかにも和風美人といった風貌の、彫りの深くない顔立ちの女性だった。身長は百六十センチちょっとぐらいだろうか、もともと背の高い三波と並ぶと、随分背が低く見える。


「わざわざお時間頂いてしまって……」

「いえいえ、そんな……こちらこそ暑い中ご足労おかけしまして……」


 つくしさんのあまりにも畏まった態度に、僕もすっかり萎縮してしまい、僕と彼女は我が家の玄関口で、いつまでもペコペコと頭を下げ合っていた。それを後ろから見守っていた三波が促して、僕はようやく部屋の中へ客人たちを通した。


「エアコンが壊れてて……すみません」


 外の暑さと、そう変わらない室温なのが、大変申し訳なく思う。僕はこの暑さに慣れているから良いものの、つくしさんはしきりにハンカチで首元と額の汗を拭っていた。

 急いで麦茶を準備しつつ、二人には適当な場所にかけてもらう。普段人を呼ぶ生活をしていないので、下に敷くクッションも座布団も何も無いのがこれもまた申し訳ない。

 僕が三つ分のコップを机の上に運びきり、隣に仲良く並んで座る三波とつくしさんの正面に腰を下ろすと、つくしさんは早速「ああ……」と感心するように口を開いた。彼女が目を細めて見ているのは、僕の後ろ、ベランダの方向。毎夜霊の立っている場所。

 僕は驚いた。三波に伝えたのは「部屋に幽霊が出る」ということだけで、霊がベランダの窓の側に立っている、とまでは言っていない。つまりつくしさんも、あの霊が現れる場所のことを事前に知っているはずがない。僕が何も言わずとも、真っ直ぐにベランダを眺めるつくしさんは、どうやら本物の霊感を持っているらしい、と考えても良いんだろう。


「ここ、いますね」


 つくしさんは涼しい顔で言った。え、と固まる僕。いるってことは――。


「夜中だけかと思ってたんですけど、今も、いるんですか?」


 恐る恐る、と背後を振り返り、僕もベランダの方を見る。白い薄手のカーテンの向こうで、Tシャツやズボンなどの洗いたての洗濯物が、時折吹く風にゆっくりと揺れている。僕のパンツが物干しハンガーに吊るされ、日光を浴びているのもよく見えた。しまった。

 見なかったことにして視線を戻すと、つくしさんの真っ黒な瞳が僕をじっと捉えていた。


「今もいますよ、そこに。というか多分、ここ最近ずーっと達央さんの側にいたはずです」

「えぇ……」


 困惑。ずっとこの家いた、ということか。全く気が付かなかった。まさに、知らぬが仏だったというわけだ。それを知ると、慣れたはずの気味の悪さが突然舞い戻ってくる。ずっといて、今もいる。純粋に気持ち悪い。


「でも、いるだけで実害は無いタイプの霊ですから、大丈夫だと思いますよ」


 にこやかに言うつくしさん。何が大丈夫なんだろう。とりあえず、気になっていることを質問してみる。


「あ、でもどうして気配を感じるのは夜中の間だけなんですか? ずっと部屋の中にいるなら、なんで今まで気が付かなかったんだろ」

「達央さんが霊に気付いたのは多分、霊が一番活発になるって言われている、午前二時から三時の間のことだったと思うんです。普段は普通の人には感じられないぐらいの存在なんですけど、その時間の間なら霊の力が強まって、比較的霊感の薄い人も霊を感じることができる、と」

「活発な時間っていうのは、丑三つ時ってやつですか」


 それです、とつくしさんはこくこくと頷いた。質問への丁寧な答えに納得する。ついでなので、質問を重ねる。


「金縛りに遭うの、どうにかならないんですかね? 寝ている最中に起こされるの、ちょっと困るんですけど」


 いつまで続くのかも分からないし、とため息混じりに付け加える。

 つくしさんは僕の言葉を聞くと、ちらりと僕の背後に目をやってから「ふーむ」と唸った。少し俯いた時にずり落ちた黒い髪をかきあげて、それを耳にかける。三波はそんな様子のつくしさんの横顔を眺めながら、幸せそうにニヤついている。

 隣で満たされた顔をする彼氏には目もくれず、つくしさんは俯けていた顔を上げ、真剣な目で再び僕を見た。


「この霊は、達央さんに話しかけられるのを待っている……みたいです」

「話し、かけられる?」


 はい、とつくしさんは頷いて、話を続けた。僕と僕の背後を交互に見遣り、ゆっくりと言葉を選んでいる。


「達央さんに話しかけてもらうために、金縛りをかけていたみたいです。霊力が最も高まる丑三つ時なら、こちらに干渉してくることが出来たのでしょう。……この霊は、達央さんのことをとても大切に思っているみたい……すごく暖かい気持ち……」


 つくしさんは目を瞑り、優しく微笑んだ。きっと霊に向かって微笑みかけているのだろう。

 しかし、僕は困った。僕を大切に思っている、だって? そりゃ意思があるのなら、霊にだって好きや嫌いの感情はあるだろう。でもなんで僕のことを大切に思うんだ? しかもその上、アプローチの仕方が夜中にたたき起こして金縛りにかけるって、どうなの。

 反応の鈍い僕を見た三波が久しぶりに口を開いた。


「あれだけモテたいって言ってたんだし、良かったじゃん」


 相手は幽霊だけどな、と快活に笑う三波を睨むが効果はなさそうだ、僕は諦めてため息をついた。他人事だと思って、イヤなヤツだ。

 モテたい、と過去にそう言ったのは事実だが、だがまさか幽霊に好かれたいとは当然思ってない。

あれ、でも待てよ。僕に好意を抱いている、という言葉を聞く聞かない以前に、すっかり思い込んでいたことがあったんだ。


「幽霊の性別ってどっちですか?」


 つくしさんの「女性ですよ」という返事を聞いてひと安心する。一つ屋根の下暮らしているのだから、女の人の方が男同士よりよっぽどいい。死んでいるなら男でも女でも変わりないと言われればそれまでだけど。


「生前はかなり美人だったみたいですよ」


 付け足すように言って、つくしさんはふいに――すごく自然に――口角を上げてニヤっと笑った。何故ニヤついているんだろう。三波はさっきからずっと、つくしさんを見つめてはニヤついているから、僕の目に映る顔はどちらもニヤニヤ顔ということになる。なんだ、この人たち。



 ひとまず、我が家に住み着いていた幽霊のことは分かった。ここから先は僕ひとりで何とかする他ないらしい。とにかく、幽霊に害がないことは分かったし、僕に好意を寄せているらしいことには、悪い気もしない(どうやら美人らしいし)。

 二人のニヤニヤ顔から逃れるため、話題を変えようと思った僕は、そういえば、と口を開いた。半ば強引なやり方だけど、仕方がない。


「つくしさんに質問してもいいですか?」

「どうぞどうぞ」

「えーと、じゃあ、つくしさんの家ってどんな家なんですか? 三波からはなんか聖職って聞いたんですけど」


 家、ですか。つくしさんは顎に手を当てた。


「……家自体はお寺だとか教会だとか、そういう感じの立派なもんじゃないです。聖職っぽいって陽介くんに教えたのは、うちの家の出の人の多くが昔から、祓い師とかそういう職につく人が非常に多いからなんですよね。何故か皆霊感が強くて、私も例に漏れず霊感がある、って感じです」

「祓い師の名門、みたいな? 由緒正しそうですね、なんか」

 

 言わずもがな、きっと由緒正しき家の娘なんだろう、丁寧だし、雰囲気は落ち着いていて、育ちの良さが良く見える。誰であれ彼女を一目見た人が、彼女が庭園のある大きな和風建築の家に住んでいるんだろうということを想像するのは、それほど難くないはずだ。

 しかし僕の言葉を聞いたつくしさんが、「そうですね」と言いながら口を歪めるのを見て、僕は目を瞬いた。苦々しい顔、というやつだ。


「由緒正しい、といえば正しいのかもしれません。特に両親は、家の名前に誇りを持っているみたいですし、『綾塔の名を背負う意識を持て』とは昔からよく言われましたね」

「なんか厳しそうだけど、大丈夫なんですか?」


 大丈夫か、というのは、この時期に実家に帰らないことについて、だ。もちろん僕も人に言えたことではないけど、彼女の家の人はきっと、うちの両親よりも段違いに厳しいはずだ。それもこんな容姿端麗な娘を、放ったらかしにしておくわけがない。少なくとも僕ならしない。

 つくしさんは頭に手を当てて苦笑した。


「私、ちょっと親とケンカ中で、実家には帰れないんです。……帰りたくない、というか」

「ああ……それは……」


 要らないことを言わせてしまったかも、と思ったのも束の間、その思考を僕の表情の変化から読み取ったように、つくしさんはすぐさま「気にしないで」と首を横に振った。口にかかったツヤツヤの髪の毛を、ゆったりとした手つきで除ける。三波はその動作に見とれている。


「大したケンカじゃないんで、全然大丈夫です。それに私、三女なんですよ。両親が心配する家の大事なことは、兄や姉たちに任されていますから、私はいてもいなくても変わらないんですよ」


 こっちにいれば陽介くんと一緒にいられるし。つくしさんは口を閉じて笑うと、自分よりも座高の高い三波の顔を見上げながら三波の腕に手を通し、ぐいと体を寄せた。三波も満足そうに頷いて、つくしさんに軽く寄りかかる。

 そういうもんですか。素っ気なく答えた僕は、客人たちに麦茶のお代わりを出すことをやめた。



「じゃあ、俺らそろそろ帰るわ」


 その後しばらく、三人でたわいもない話をして。突然三波がすっくと立ち上がったのは、これ以上いても麦茶のお代わりが出そうにないからか、ただ部屋が暑いからかのどちらかだろう。正直僕も、これ以上二人のおのろけを見せられるのは苦痛でしかなかったから、ちょうどよかった。のそのそと立ち上がる客人たちを玄関まで送り、扉を開ける。


「今日の夕飯の材料を買って帰ろうね」

「おっ、いいね」


 靴を履く二人の背中を、廊下の壁にもたれかかりながら死んだ目で眺めていると、なんとも虚しい気分になれた。僕も誰かと一緒に夕飯の準備をしたい。でも今の僕を想ってくれているのは、部屋に住み着いた(生前は美人だった)幽霊だけ。笑える。


「達央さん、お邪魔しました」

「今度また三人で飯でも行こう」


 幽霊さんは連れてこなくていいからな、と冗談っぽく笑う三波を睨み、僕は二人に手を振った。


「じゃあまた」


 外へ出た二人は、このクソ暑い中恋人つなぎで手をつないだ。そしてべったり互いに寄り添いながら歩いていく三波とつくしさんの背中が、折れた通路の先へ消えるよりも前に、僕は玄関の扉をそっと優しく閉めた。腹は立てず、横にしておこう。









 いつも通りに夕飯を済ませて、お風呂に入り、眠る時間までの間、ゆったりと夜を過ごした。

 道を行き交う車の走る音が聞こえてくる。バイクも多い。家の前を歩く人の笑い声が聞こえる。

 右隣の部屋の住民が帰ってきた、今晩はいつもより帰りが早い。今日はひとりのようだった。

 録画しておいたドラマを見た。ドラマを見ていると小腹が空いたので、前に買ったスナック菓子を食べる。やはり季節物のフレーバーは買わない方がいい、と反省。

 今日の夜はいつも通りに暑い、喫煙家ならベランダに出て一服するのだろうか。僕はタバコを吸わない。長い間スパスパやっていた父も祖父も、おばあちゃんが病気になってからは吸わなくなった。

 上の部屋で何かが転がる音がした。重たい何かが転がる音だ。左隣の部屋は、掃除機をかけ始めた。

 いつも通りの夜だった。何の変哲もない、ただの夜。でも僕が日常をなぞるこの瞬間にも、あの幽霊はこの部屋に存在している。それを思うと、なんだか奇妙な気持ちだ。でも気配を感じられないのなら、いるもいないもあまり変わらない気がする。そんな風に思えるのは、僕だけなのかもしれない。

 夜が更ける。更に奥深く、暗く、黒く、更けていく。



 目が覚めた。今はきっと、草木も眠る丑三つ時。

 真っ暗な世界に放り出されることに慣れつつあった。自分の体の自由が効かないことにも、同じく。

 仰向けだったはずの体はやっぱり横になっていて、ベランダに背を向ける姿勢になっている。部屋の中も、部屋の外も、無音のままだ。背中に風が当たるので、扇風機は稼働している。

 暑かったはずの室内は、エアコンがよく効いたように、ひんやりしていて涼しい。

 そして、気配。気配がする。僕の背後に、ベランダの側に、何者かが立っている気配。

 はっきりと感じられる。あの、霊だ。いつものように、僕をじっと見つめている。


「…………」


――この霊は、達央さんに話しかけられるのを待っている。


 つくしさん、彼女の言葉を聞くまでは、彼女がこの霊の気持ちを代弁してくれるまでは、一切考えたことがなかった。

 それは、霊に話しかける、という行為。

 覚悟は出来ていた。最も霊が活発になるという丑三つ時、そこで声をかければ、何かが起こるかもしれない。僕の部屋にいるこの霊は僕に何を伝えたいのだろう。それを尋ねてみよう。そうしたい、そう思った。単純で純粋な興味だった。



 口を、開いてみる。今まで試していなかったが、口はきちんと動くようだ。

 すぅ、と息を吸う。そうすると、僕が息をする音が鮮明に耳に届く。

 声を発する。なんて、声をかければいいのだろう。唐突に人に話しかけるのが難しいように、霊に話しかけるのもやっぱり難しい。散々頭を悩ませて、選んだ言葉は。


「こ、こんばんは……」


 無難な言葉を発した僕の口は、ゆっくりと閉ざされた。


「…………!」


 霊の反応。声もせず、動きもない。だがわずかに、部屋の中の空気が変わった気がする。張り詰めていた何かが、ほんの少しだけ緩んだような。でも、彼女から返事はない。そこに立ったまま、黙している。

 部屋の中に沈黙が広がる。僕はさらに、言葉を選んだ。


「この部屋、暑いでしょ? エアコンが壊れちゃってて、大変なんですよね」


 でもやっぱり返事はない。金縛りにあっていることを忘れた僕は、肩を竦めようと肩に力を入れて、自分の体が動かせないことをようやく思い出した。このまま言葉を選び続ける。


「お名前、伺ってもよろしいですか?」

「……」

「前はどこにお住まいになっていたんですか?」

「……」

「すごく綺麗な人だと伺いましたけど」

「……」

「芸能人で言えば誰に似てます?」

「…………」


 何を言っても駄目だ、返事がない。まさか返事がないとは思ってもみなかった。つくしさんは、この霊が「話しかけてもらいたがっている」と教えてくれたが、それは「会話をしたい」ということと、また違ったのだろうか。或いは返事をしたくても出来ない、とか?

 でもどうせ金縛りにあっている間は眠れないんだ。始めた以上、もうしばらく話しかけ続けてみてもいいだろう。

 そう思って、また違う質問を投げかけてみようと思った、その時。


「…………え」

 枕元に、何かが立つ気配がした。

 はっきりと、後頭部に存在を感じる。霊が、僕の頭のすぐ後ろに立っている。

 認識した途端、心臓が跳ね上がった。大丈夫だ、と自分に言い聞かせ、息を鎮める。この霊に、害はない。ここまで彼女が近付いて来たのは、僕への好意の顕れと受け取ろう。


「…………」


 近付いてきても、何も変わらず、彼女は黙ったまま。むしろ霊の気配が近付いて、僕の心臓の鼓動がバクバク早まるだけだ。ふいにつくしさんの言葉を本当に信用してもよかったのか心配になってくる。害は、ないのか?

 霊の視線が僕の後頭部に降り注いでくるのを感じる。じぃっと、見つめる目。

聞こえるのは自分の鼓動の音だけで、他には何も聞こえない。見えるのは暗闇だけで、他には何も見えはしない。この暗い部屋の中に、僕と霊だけが存在している。

 言葉をかけるのを忘れてしまうぐらい、長い沈黙。深く長いトンネルをくぐるような感覚がする。

 僕は、息を吸って吐き出した。一度、落ち着ける必要があった。このままでは、何かに呑み込まれてしまいそうな気がした。口をぱくぱく動かしてみる、まだ声は出せる。


「……この金縛り、解いてくれませんか」


 声を発した数秒の後、ふつっと体が軽くなった。自分の体が乗る布団の感触が直に伝わってくる。手も足も、腕も首も動かせた。肩を竦めることも出来る。

 消えていた扇風機の音も、窓の外の音も聞き取れた。真っ暗だった部屋に目が慣れたように、少しだけ視界が広がる。金縛りが、解けた。何事も言ってみるもんだ。

 視覚と聴覚が解放され、体に自由が与えられた。だがまだ、霊は僕の背後にいる。部屋の中はひんやりとしたまま、後ろに立っているのを感じる。横倒しになっていた体を、ゆっくりと持ち上げ、窓際に背を向けたまま布団の上で足を伸ばして座った。僕は「ありがとう」と言った。


「…………」


 体の自由を与えられたということは、振り向いてもいいんだろうか。

 僕は息を呑み込んだ。心臓が高鳴る、緊張と不安。僕を想う幽霊が今、後ろにいて、僕に視線を注いでいる。美人な、幽霊が……。

 一体、どんな顔なんだろう。一体、どんな人なんだろう。どうして何も言葉を発さないんだろう。どうして僕を想うんだろう。様々な疑問が形になって、全てが僕を振り向かせる燃料になる。

 ゆっくりと、体を捻る。ついた手と布団が擦れて、衣の擦れる音がした。扇風機が寝巻きの裾に風を送り込む。夜半にかいていた汗で、髪の毛がボサボサになっていた。

 名前はなんだろう。どんな人生を送ったんだろう。どうして亡くなってしまったんだろう。

 僕は、振り向いた。

 そして、背後に伸びる、影を見上げた。

 真っ黒な影は、人の形をしていた。顔は、見えなかった。

 体中がぞわぞわと、震える。振り向いて体をねじった体勢で、再び体の自由が効かなくなっていた。僕は、目を細めたり開いたりして、影を見た。


「…………あなたは……」


 僕が口を開いて、言葉を漏らした瞬間。


「……っ!」


 眩しい光。光が見えた。窓の外、ベランダに見える手すりの向こうから、金色に光る、眩しい光が見えた。輝いて、煌めいて、真っ直ぐに、光は僕の目を差し、そして部屋の中へと差し込む。

 朝日だった。夜が、明ける。

 窓、幽霊の影、僕。順番はそう。朝日の光は強く、眩しい。だから、幽霊は逆光になっているはずだった。

 でも何故か、はっきりと、幽霊の顔が見えた。

 僕は、目を丸めた。僕の目は、どんな丸よりも真ん丸な目をしていたと思う。



「おばあ……ちゃん……?」



 幽霊が、にっこりと微笑む。

 幽霊は、数年前に亡くなったおばあちゃんの形をしていた。顔も、背筋の伸ばし方も、全部おばあちゃんだった。

 というか、おばあちゃんだ。


「え……なんで……?」


 僕が呆然と口を真ん丸に開けたまま固まっていると、おばあちゃんはゆっくりとその場に座り込み、輝かしい日の出と共に口を開いた。


「あんたが……お盆になっても実家に帰らんから……」

「しゃ……喋っとる……」

「だからこうやって……心配やから見に来たんよ……」

「えぇ……」

「一人暮らしが楽しいのも分かるけどな、ほんにちゃんと帰らなよ……。お母さんもお父さんも、あんたのために頑張ってんやから……」

「は、はい……」

「……若い頃は、ヘップバーン似ってよく言われたわ……」

「……さっきの質問の話ね」


 おばあちゃんになんて質問してしまったんだ、恥ずかしい。でも確かに、おばあちゃんの若い頃の写真を見たことがあるけれど、すごい美人だった記憶がある。ヘップバーンに似ていたかどうかは定かではないけど。

 そして美人だった、と言えば、思い出した。つくしさんはこの部屋に住む幽霊のことを「生前は美人だった」と言っていた。それと、やけにニヤニヤしていた覚えもある。あの人、もしかして全部分かった上で……。

 僕の眉間に皺が寄っていくのを見たおばあちゃんはコホンと咳払いをして、そしてゆっくりと立ち上がった。


「じゃあ、ばあちゃんはこれでもうあっちに帰るから……。ちゃんとしぃよ……」


 口を閉じて、おばあちゃんが笑う。僕はそれを見上げていた。


「分かっとる? 普段から、腹は……」

「……立てずに、横にしてるよ」


 答えると、おばあちゃんは頷いて、そして窓の方にゆっくりと後退し始めた。

 僕は急いで立ち上がろうとして、自分の足が痺れていることに気付いた。足を踏み出そうとして、変にバランスを崩し、その場に崩れ落ちる。ジンジンして、ぐわんぐわんして動けない。

 おばあちゃんは、微笑みながら、また一歩、窓の方へ、光射すベランダの方へと。少しずつ、体が透けて消えていく。僕の手の届かないところへ、消えて行く。



「おばあちゃん!」



 僕が呼んでも、止まらずに、おばあちゃんは窓の外へ消えていってしまった。

 部屋の中が静かになる。全部が、僕だけのものになる。






 足の痺れが収まった。僕は、壁にかけた、真っ白なカレンダーを見た。

 夏休みが終わるまで、まだ数週間ある。


「実家……帰るか」


 夜が明けて、朝が来る。部屋の中はまだ薄暗く、ひんやりとしていた。







いい話、みたいになってしまった、不覚。

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