失われた記憶編 第4話
翌日にはまたアレクがマーガレットの屋敷を訪れた。
「気分はいかがですか?」
庭の東屋でアレクはマーガレットのはす向かいに腰掛ける。
「体調はいいです。記憶の方に変わりはありませんけれど」
マーガレットはぎこちない笑みを浮かべながらアレクを見た。
(本当にこんな綺麗な王子殿下が私の婚約者だったのかしら?)
マーガレットは緊張で落ち着かない気持ちを隠すためにぎゅっと自分の手を握った。
そこへアレクの大きな手が優しく重なる。
ハッとして顔をあげると、アレクがひどく優しい瞳をしてマーガレットを見つめていた。
いかに鈍感なマーガレットでも、アレクの瞳から溢れ出る気持ちに気づかないわけにはいかなかった。
(この人は本当に私のことが好きなんだわ)
くらり、と脳を溶かすような甘い感情がマーガレットの中で湧き上がる。
自分の意思とは無関係に感情が動く。
アレクの胸に飛び込みたくなる衝動に、マーガレットは必死に耐えた。
(記憶はない。でも、私はこの人のことを知っている)
じっとアレクを見つめていると、ふいに抱き寄せられた。
「すみません。記憶のないあなたにこんなことをするのは不快かもしれないのに」
その言葉にマーガレットは彼の腕の中で緩く首を横にふった。
「いえ、その、私もこうしたいと思ってたんです」
言ってから、マーガレットは真っ赤になる。
見ず知らずに等しい相手に抱きしめられたいと思ったと告白したようなものだからだ。
「おかしい、ですよね。記憶がないのに」
そう取り繕うようにつぶやいたマーガレットをアレクがぎゅっと抱きしめた。
「おかしくなんてない。とても嬉しいです」
アレクは少し体を離すと、マーガレットの頬を優しく撫でた。
「私はどんなあなたでもかまいません。たとえ過去の私を覚えていなくても。これから先ずっと私のそばにいて私という人間を知っていってくれるならそれで十分なのです」
アレクはせつなそうにそう呟くとマーガレットのおでこにキスを落とした。
「また来ます」
そう言ってアレクは惚けるマーガレットを後に残して屋敷を去っていった。
***
それから1ヶ月、周囲へ要らぬ不安を与えないようにするため、マーガレットは仕事を休んで家で過ごし、そこへアレクが毎日のように訪れていたが、マーガレットの記憶は戻らなかった。
そうこうしているうちに近隣の国から招いた結婚式への招待客をもてなす王宮での晩餐会の日となる。
エスコートするアレクの腕に手をそえながら、マーガレットは必死で緊張を顔に出さないようにしていた。
(とにかく、記憶喪失だと周囲の人に知られないようにしないと)
婚約者である自分が王子殿下のことを忘れていることが知られれば一大スキャンダルである。
王子と結婚したい令嬢は山ほどいるのだ。
マーガレットなどあっという間に蹴落とされてしまうだろう。
(それだけは嫌)
記憶はない。だけどそれだけは許容できないと自分の心が声高に叫んでいる。
マーガレットは知らずのうちにぎゅっとアレクの腕を掴んでいた。
アレクは掴まれた腕にマーガレットを振り返ると優しく微笑む。
「私に全て任せていれば大丈夫ですよ」
マーガレットはその微笑みを見てそっと肩の力を抜いた。
「このたびはおめでとうございます」
前方から黒い衣装に身を包んだ痩身の男がやってくる。
やや後ろに同じく黒い衣装をまとった小柄な女性がうつむきながら従っていた。
「ツィツェン国のラドゥ殿下。ありがとうございます」
アレクがそつのない笑顔で対応する。
(ラドゥ殿下って確かカザブで会ったよね。あのときやたら所長に・・・・)
そう考えた瞬間マーガレットの頭の中で黒い靄がかかり始める。
マーガレットは不快感にこめかみを押さえて少しふらついた。
「おや、マーガレット嬢はいかがされました?ご気分でもすぐれませんか?」
「いえ、ご心配には及びませんわ」
マーガレットが愛想笑いを浮かべて顔をあげると、ラドゥがマーガレットを見ていた。
表情は心配げだが瞳の奥には愉快そうな光がある。
(なにかしら。この反応)
それにラドゥの婚約者のメイは俯いたきり一度も顔をあげておらず、よく見ると握りしめた両手が小刻みに震えていて何か心配になる。
「あの、メイ様のほうがご気分がすぐれないのでは?」
マーガレットの言葉にハッと顔を上げたメイは慌てた様子で笑顔を取り繕おうとして失敗している。
「いえ、あの、どうかお気遣いなく」
「あちらのバルコニーで休みませんか?私もちょうど休憩したいと思っていたのです。夜風に当たれば少しは気分がよくなるかもしれません」
どう見ても大丈夫そうではないメイにそう提案するとラドゥが「お言葉に甘えてそうしなさい」とメイをマーガレットのほうへと押し出した。
メイを連れて歩く間も彼女の顔色は蒼白を通り越して今にも倒れそうだ。
(バルコニーではなくてお部屋にご案内できるように手配したほうがよかったかな)
マーガレットはバルコニーへつながる窓を開け外へ出ると、続いて外へ出て扉を閉めたメイを振り返った。その瞬間。
「ごめんなさい!」
マーガレットの意識が暗転した。
***
「***!」
「****か!」
「だからって****!」
「うるさい!絶対****やるんだ!」
口論するような声にマーガレットが意識を浮上させると見覚えのない天蓋が目に入った。
マーガレットが重い頭を押さえて起き上がると、衣擦れの音に反応したのか人の声がピタリと止まる。
さっと天蓋が引かれ入ってきたのはツィツェン国のラドゥだった。
「目覚めたか。気分はどうだ?」
「…最悪です」
(晩餐会の記憶が途中からないってことは、連れ去られたってことでいいのかな?)
マーガレットはベッド脇に立っているラドゥを睨み上げる。
「ふん。まあいい。メイ、目覚めたからさっさとやれ」
「…」
ラドゥの後ろからメイがおずおずと入ってくる。
メイは晩餐会に来ていたドレスではなく、黒一色のフード付き外套を着ていた。
その姿を見たとき、唐突にメイが誰に似ているのかがわかった。
(メイって、メグに似てるんだ)
メグの髪を長くしてふてぶてしさをなくした感じがメイだ。
そんなメイは唇をキツくかみ締めて俯いたまま動かない。
「何をしている!さっさとやれ!」
「人の耳元で大声をだすのやめてもらえます?」
こちとら寝起きな上に頭に鈍痛があってただでさえしんどいのだ。
耳元で怒鳴られたらたまらない。
「メイ様?つかぬことをお伺いしますけど、お姉さんか妹さんがいらっしゃいますか?」
その言葉にメイがパッと顔を上げた。
「双子の姉がいます。姉を知っているのですか!?」
メイの必死の形相にマーガレットは深く頷いた。
「おそらく。私の家で侍女をしているメグという女性があなたにそっくりなのです」
メイは口元を両手で覆ってその大きな瞳からぽろぽろと涙をこぼし始めた。
「姉の名前もメグなんです!きっと彼女に違いありません!」
そしてメイはキッとラドゥを睨むといった。
「…姉は囚われてなどいなかったのですね」
「いや、それは…」
ラドゥはメイの迫力に押されて後ずさる。
「私に姉を捕らえたと嘘を教え、姉の身の安全の代償に婚約を迫り、あまつさえ他国の婚約者に黒魔術をかけさせて自分のものにしようなどよくそのような悪辣な行為ができたものです」
(うわぁ、ラドゥ殿下最低だね。…うん?)
「あの、メイ様。今黒魔術っておっしゃいました?」
「はい、あの、脅されていたとはいえマーガレット様に黒魔術をかけてしまいました。もちろん、姉の無事を確認し次第解かせていただきます」
「どのような黒魔術でしょうか?」
「ある特定の事柄を思い出せなくする黒魔術です」
(ああ、それで思い出そうとすると頭に黒い靄がかかったみたいになったんだ)
そこへバンっと扉が音を立てて開かれた。
「マーガレット!無事ですか!?」
「アレックス殿下!?」
息せき切らせた所長と騎士団らしき人たちが飛び込んできた。
そのあとに小柄なメイド服の人物も飛び込んでくる。
「お嬢様!」
「メグ!?どうしてここに?」
「お嬢様からお話を聞いてからツィツェンが怪しいと思ってアレックス殿下にご協力を仰ぎラドゥ王子を見張っていてもらったのです」
「いつの間に。あ、もしかしてこの前の私用って…」
メグはニコッと笑っただけで答えない。
「マーガレット、怪我はないですか?」
膝まずいたアレクがあちこち確認する。
「アレックス殿下、大丈夫です。どこも怪我してません」
そこへ、パンと乾いた音が響く。
なんとメグがメイの頬を平手打ちしていた。
「メイ、見損ないました。一族の秘術である黒魔術をよりにもよってお嬢様を害するために使うなど…」
「姉さん…」
(本当に姉妹だったんだ。そっくりだもんね。じゃなくて、やばい。メグの誤解を解かなきゃ暴走しそう。)
「メグ、待って。メイ様はあなたの命を盾に脅されてやったのです」
その言葉にメグは瞠目しメイを見る。
「それは本当?」
こくり、と叩かれた頬を手で押さえた涙目のメイが頷いた。
「そこにいるラドゥ殿下に脅されたのです。姉さんを捕らえた、命が惜しければ自分の婚約者となって協力しろって」
「なんですって?」
メグはじろりと騎士により拘束されているラドゥを見た。
「あなた方は魔力がまったくなく黒魔術が使えないのを理由に私をツィツェンから追放しただけではあきたらず、私の家族に嘘をつき脅迫し本来なら国のために役立てるべき一族の秘術である黒魔術を自分の私利私欲のために使ったのですね。なんと恥知らずな」
ラドゥはぐっと言葉に詰まるとアレクを詰りだした。
「お前が全て悪いのだ!魔法学園に在学中、お前は私の愛する人を奪った!だから私はお前の婚約者を奪って復讐してやろうと思ったのだ!」
それを聞いたアレクは深いため息を吐く。
「私は別にあなたの想い人を奪ってなどいませんよ」
「うそをつけ!彼女はわたしのことが好きだったのだ!それをお前が横から…」
「彼女に頼まれたのです。ラドゥ殿下に諦めてもらうために恋人のふりをしてほしいと」
「は?」
ラドゥはポカンと口をあけたまま固まっている。
「何度断ってもしつこく迫ってくるので助けて欲しいと言われました」
「そ、そんな…うそだ…」
「うそではありませんよ。なんだったらご本人に連絡をとって確認してください」
ラドゥはがくりと膝をつくと騎士に連行されていった。
それを見たこの部屋にいる全員からため息がもれた。
たぶん心の声は全員一致している。
(なんてくだらない…)
それからメイに黒魔術を解いてもらう。
どうやら黒魔術には媒体が必要なようで、かける相手の体の一部が必要なのだと言われて震え上がったが、髪の毛1本でいいですと言われてほっと息をついて1本抜いて差し出した。
メイがマーガレットの髪の毛を片手に懐から魔法陣の書かれた紙を取り出し呪文を唱え始めた。
魔法陣の書かれた紙はマーガレットの髪の毛を吸い込みやがて燃え尽きて消えていく。
「これでマーガレット様にかけられた黒魔術は解けました」
とたんに頭の中の霞が晴れわたっていくかのようにすっきりする。
「マーガレット」
アレクに呼ばれてそちらを向くと、不安と期待に揺れる彼の瞳と視線がぶつかった。
「…所長」
慣れ親しんだ呼び方にアレクはくしゃりと顔を歪めてマーガレットを抱きしめる。
「ご心配をおかけしました」




