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閑話 その小さな手の中に 中編

アレク視点が続きます。

宰相が向かった先は彼の執務室だった。

彼は中へ入ると抱えていた僕をソファに横たえる。


「このような場所ですみません。あの場所からですと王子の居室よりもこちらの方が近いものですから。今医師を呼びます」


宰相は侍女を呼びその旨を伝える。

その間、少女は僕のそばに張り付いてその大きな目をうるうるとさせていた。


「痛い?」


その少女の言葉に僕は首を振る。

本当はまだ殴られた場所がズキズキしていたが、彼女をこれ以上心配させたくなかった。

そこへ宰相が戻ってくる。


「紹介が遅れましたな。これは私の娘でマーガレットと言います。今年で5歳になりました。お見知り置きください。マーガレット、こちらはアレックス第三王子殿下だ。ご挨拶なさい」


そう言われた彼女は立ち上がって可愛らしい淑女の礼をする。


「マーガレットです。よろしくおねがいします」


そんな彼女に挨拶を返そうと身を起こそうとするが、ズキンとお腹が痛み再びソファに横になった。


「大丈夫?起きちゃダメだよ!」


マーガレットは僕に飛びつくと僕の手を握りしめた。

小さな手のぬくもりが僕の手を包み込む。


手から伝わる少し高めの体温と、変わらない彼女の優しさが僕の胸を締め付ける。

ふいに浮かびそうになる涙をごまかすため僕はギュッと目を瞑った。


本当は僕が王子だと少女に知られたくなかった。

自分が王子だとわかったら少女の態度も変わってしまうのではないかと思ったからだ。

他の大人たちがそうだったように。

彼女のこの無垢な笑顔が媚びへつらうようなものに変わってしまうのではないかと。


だがそんな心配は杞憂だった。

彼女は出会った時と同じように僕に話しかけ、王子だと分かる前と同じように純粋に僕を心配している。


まだ小さいから王子が何かわからないのかもしれない。

だがそのことが僕の心にたまらない安心感を与えた。


目を瞑って動かなかくなった僕に「大丈夫、すぐお医者さんが来るよ!」と話しかける。

僕は少しでも彼女の心配を和らげたくて、目を開けると薄く微笑んだ。

笑ったのなんて何ヶ月ぶりだろう。

もう笑顔の作り方なんて忘れてしまって、自分がうまく笑えているか僕にはわからなかった。


その時、ノックの音が響き医師が入ってくる。

やってきたのは最近僕付きになった中年の医師ではなく、母が亡くなる前に彼女を診ていた老齢の医師だった。


彼は杖もつかずにまっすぐに伸びた背でシャキシャキやってくると、「ちょいと失礼、お嬢さん」と言ってマーガレットを僕から引き離す。


「まったく、こんな年寄りを呼びつけよって。宰相も人使いが荒い」


「申し訳ございません」


そう言って頭を下げる宰相にかまわず医師は僕を見るといった。


「おお、アレックス殿下。これは大きくなられましたな」


医師の驚きも無理はない。

彼が最後に僕を見たのは、母が亡くなった年ーーもう六年ほど前だ。


「誘拐未遂など。まったく、王宮の警備はどうなっておるんじゃ」


そう言うと僕の腹を触診する。


「うっ」


医師に抑えられた腹が痛み呻き声をあげると、それだけでマーガレットの顔が泣きそうに歪む。

僕は彼女のそんな顔が見たくなくて、それ以降は一生懸命に呻き声を耐えた。


「ふむ。骨は折れておりませんな。しばらく安静にしていれば痛みも引くでしょう」


「それはよろしゅうございました」


宰相はホッとしたように息を吐く。


「それでーーーわしは引退を延ばさねばならんのかの?」


医師は宰相を見ていった。

そんな医師に宰相は口の端をあげる。


「話が早くて助かります」


それを聞いた医師はふーっと息を吐くと、自分の孫を見るような優しい目で僕を見た。


「ま、他ならぬ王子殿下のためじゃ。それも致し方なかろう」


僕はそれを聞いて頭にハテナマークを浮かべる。


余談だが、それ以降、僕の専属医師はこの老齢の医師になり、新しくやってきた中年の医師はまったく姿を見せなくなったのだった。


それとともに、なんとなく毎日けだるかった体の調子が元に戻っていった。



***



医師が帰った後、しばらく安静にという言葉通りそのまま宰相の執務室のソファで横になっていると、テーブルの上に無造作に置かれた紙袋に気づいた。


マーガレットは僕の目線をたどって僕がそれを見ていることに気づくと、パッとそれを手にとって彼女の小さな背中に隠した。


なんだろう、と思っていると彼女がたどたどしく言葉を紡ぐ。


「これは、その、地面に落ちちゃったの!だから、あ、新しいのまた作ってくるから!」


マーガレットはそう言うと落ち込んだように肩を落とす。


(そういえば、先ほどから焼き菓子の匂いがしていると思っていたけど、その袋から匂っていたのか)


僕はその袋の中身がなんなのか大体想像がついた。

そしてその次にはそれがたまらなく欲しくなる。


別にとりわけ菓子が好きなわけではない。

彼女が作ってきたその菓子が欲しかったのだ。


せっかく作ってきたものを地面に落としてしまいショックだったのだろう。

とても落ち込んだ様子で紙袋を背に隠している彼女が痛ましかった。


さっきの言い方からして、おそらく僕に渡そうと作ってきたのだろうと思ったが、もし勘違いだったら恥ずかしいので一応確認する。


「もしかして、それは僕に?」


僕がそう聞くと、彼女はちょっとためらった後コクンと素直に頷いた。

その瞬間、歓喜が僕の体を満たす。


「じゃあもらってもいい?」


「でも地面に落ちちゃったし」


「かまわない。落ちたのは袋だけだから中身は無事だ」


そう聞いた彼女はパッと僕を見ると顔を輝かせた。


「本当?もらってくれるの?」


僕が頷くと、彼女は袋についた草を丁寧にはらって僕にそれを差し出しだ。

僕がそれを受け取ると、彼女はパァッと花が咲くように笑った。


「ありがとう!」


自分が言うはずのお礼を彼女に先に言われてしまい言葉に詰まる。

彼女の眩しい笑顔をまっすぐ見ていられなかった僕は視線をそらすとつぶやくように言った。


「ありがとう」



***



僕は腹の痛みが治まるのを待って、マーガレットからもらった焼き菓子の袋を大切に抱えると宰相の執務室を後にした。

僕の両脇をしっかりと護衛騎士が固めている。


くれぐれも一人で出歩かないようにと宰相にきつく言い含められた。

僕はその言葉に不本意ながらも渋々うなずいた。


なぜなら他の大人たちと違って、宰相が僕のことを本気で心配していることがわかったからだ。

この人は信用できる。

僕はその時直感的にそう思った。

別にマーガレットが可愛かったからではない。

断じて。……たぶん。


そして自室に戻り侍女が下がった夜更け。

僕は引き出しにしまっておいた焼き菓子の袋を取り出してそれをニマニマと眺めた。

開けてみると中身はクッキーだった。

食べたいけど食べたくない。

そうやって葛藤していた僕は、結局我慢できずに一枚食べた。

王宮の菓子職人が作るような味ではなく、素朴なとてもやさしい味がした。


昔、母が厨房にこっそり入って焼いてくれたクッキーの味を思い出した。

クッキーを噛み締めている僕の目から知らないうちに涙が溢れてこぼれおちる。


ーーーその日、僕は数ヶ月ぶりに笑い、そして数年ぶりに泣いた。



***



次の日、僕は護衛を連れて宰相の執務室を再び訪れた。


「昨日はありがとうございました」


そう言う僕に宰相は微笑むと僕をソファへと促した。


「礼には及びません。当然のことをしたまでです」


そう言って手ずからお茶の用意をして僕に出す。

宰相は自分の分も入れると先にカップに口をつけた。


おそらく何も入っていないと僕に示すためだろう。

彼の心遣いに感謝しながら僕も目の前にあるカップに手を伸ばす。


「お体の調子はいかがですか?」


そう聞く宰相に僕は頷いて答える。


「おかげさまでずいぶん良くなりました」


僕の腹の青あざをみて古参の侍女が悲鳴をあげていたが、それはまあ言う必要はないだろう。


「それはよろしゅうございました」


宰相は安心したように微笑んだ。


「・・・」


二人の間に沈黙が流れる。

僕がここにきた本当の理由は、マーガレットにお礼がしたくてそれを宰相に相談しようと思ったからだ。


だが普段から口下手な僕はなんと切り出していいかわからない。

そんな僕の様子を見ていた宰相が何か察したのか、彼から口を開いた。


「マーガレットならまた三日後に来る予定です。あの子も殿下に会いたがっていましたよ」


そう言った宰相にうつむいていた僕はパッと顔を上げる。


「そうですか!」


そんな僕を見て宰相は微笑む。


あまりにも自分の行動がわかりやすかっただろうかと、僕は顔が熱くなった。


「えっと・・・彼女にお礼がしたいのですが」


それを聞いた宰相は目をまたたく。


「お礼をいただくほどのものではございませんよ」


宰相はクッキーのことを言っていると思ったのだろう。


「いえ、クッキーもですが、彼女には危ないところを救われました」


そう僕は五歳の少女に救われたのだ。

彼女があの時、自分の危険を顧みず悪漢に立ち向かってくれたからこそ僕はさらわれずに済んだ。

感謝してもしきれない。


それを聞いた宰相は、ああと納得したように頷く。


「臣下の娘として殿下をお助けするのは当然のことではありますが・・・」


それでは僕の気持ちが収まらないことはわかっていたのだろう。

彼はそう前置きした後、彼女の好きな花を僕に教えてくれた。

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