地下水道の追跡
ピチョン……ピチョン……。
暗く広大な下水道内に、どこかで水滴の落ちる微かな音が、静かにこだましている。
スランの街の地下に網の目のように広がる下水道の中でも、ユーマ達が今居るこの水路は、街で出された汚水を外へと排出させるため、街中の細い水路から汚水が集まってくる、いわば本流に当たる部分だ。
その為、水路の幅は広く、天井も二階建ての建物くらいの空間がある。
さながらまるで巨大な地下迷宮にいるの様な気分だ。もっとも、ユーマを含めパーティーの誰も地下迷宮などには立ち入った事は無いのだから、あくまでそんな気分になると言うだけの話だ。
当然、明かりなどは設置されておらず、下水道内を唯一照らし出しているのは、淡い魔術の明かりだけだ。
その明かりは、魔術師であるギルが、杖の先端に灯して片手に持ち、ユーマの少し後方から照らされている。
急な仕事だったため、ほとんど何の準備も無しに来てしまったが、こういう時、魔術というのはまったく便利な物だ。
水路の両脇に備えられた、犬走りの様な細い通路に身を伏せる様に腰を屈めて、じっと息を殺しながらユーマは改めて思った。
汚水が流れて来る水路の上流、魔術の明かりも届かない更にその先の暗闇を見据える。
予定では、別の水路で分かれた仲間が、標的をこちらへ追い込んでくる手筈になっている。
どこの水路からだろうと最終的にはここに出てくる事になる。逆に言えば、ここでターゲットを取り逃せばその後の追跡はほぼ不可能だろう。
それに、体力も集中力もそろそろ限界にきている。
今朝方、急にこの仕事の依頼が舞い込んで来て、街中を駆け回り、ようやく見つけ出した標的に、あと一歩のところで下水道に逃げ込まれたのが、すでに日が傾き始めた頃。
それから後を追ってこの下水道内を延々探し歩き、どれだけ時間が経っただろうか。そろそろ地上は日が登る頃のはずだ。ほとんど丸一日歩き詰めという事になる。
勿論、その間ろくに食事も休憩も取れてはいない。
それだけならまだしも、下水道の中は、じっとりと湿った空気と、汚水から発する悪臭が充満している。
最初こそ、鼻の奥にこびりつく様な悪臭に顔をしかめる程度だったが、今では鼻は完全に麻痺してジンジンと痺れるような痛みになっている。
当分この臭いは残るだろう。服に着いた匂いも、洗って落ちればいいが、そうでなければ捨てて買い換えなければならないだろう。
これのどこが『オイシイ仕事』だ……。ユーマは思わずこの依頼を持ってきたヴァルに対して胸中で毒づいた。
この場にヴァルが居れば直接言ってやりたいところだが、ヴァルは随分前にもう1人の仲間であるバズと、別の方向へと別れてしまって居た。
本当なら、ろくに仕事の回ってこない駆け出しパーティーに、昔の伝手で仕事を持って来てくれたヴァルに対して感謝すべきところだ。本当なら文句も言いたくはないのだが、どうしても、さっきから頭に浮かんでくるのは、仕事が終わったらヴァルに言ってやるつもりの文句ばかりでしょうがない。
もっとも、どうせヴァルに口で勝てるわけもなく、実際に文句を言ったところで、いつもの調子に口先三寸でやり込められるのは自分でも分かってはいるのだ。
冒険者としては同じ新米とはいえ、ヴァルの方が年は随分上だし、その分色々と知識も経験も豊富だ。
冒険者になる以前は、魔術師の学院で短い期間ではあるが、教鞭をとっていたと言うから、頭も口も良く回るのも納得出来るというものだ。
今溜め込んでいる文句を口にしたところで、最終的には、依頼を引き受ける事を決めたリーダー、つまりユーマの責任であるという様な話になるのは、言う前から分かっている。
それならそれで、ヴァルがリーダーをやれば良いのに、とは正直思う。
最初にパーティーを組んだ時、メンバーはユーマとギル、そしてバズの三人だけだった。
その時は取り敢えずユーマがリーダーを引き受けた。ギルもバズもやりたがらなかったし、メンバーが増えて正式にパーティー登録する時に改めて決めればいいと思っていたからだ。
そのすぐ後でヴァルがパーティーに加わったが、向いていないし、後からメンバーになった自分がやるよりユーマがやった方が良いと説き伏せられて、結局パーティーで最年少にもかかわらずユーマが現在もリーダーをやっている次第だ。
そう考えると、もともとリーダーを決める段階でギルがリーダーになるべきだったのではとさらに思う。ギルは面倒臭いの一言で切り捨てたが、その時は三人の中で一番年上だったし、何より頭がイイ。
そう思って、恨みの込もった視線を、すぐ後ろに控えているギルの方へ向けた。
ところが、視線を向けられたギルは、こちらの視線など居に介さず、目の前の空間に視線を向けて、しきりに手を動かしている。
よく見れば、ギルの目の前には薄ぼんやりと光る文字が浮かんでいる。
ギルが、まるで空中に文字を書くような仕草で素早く指を動かすと、新たな文字が浮かび、それに呼応するかのように、今度はギルが何もしていないのに新たな文字が浮かんでくる。
今だに慣れない不思議な光景だが、これが魔術師同士の一般的な交信の魔術らしい。空中に描いた文字を、離れた場所にいる者同士が、お互いに転送し合い――この、転送という言葉もいまいちユーマには理解できていないのだが――まるで短い手紙のやり取りでもするかの様に連絡を取る事ができるらしい。
神に仕える僧侶達が、遠く離れた相手にでも心で会話できるというのは聞いた事が有ったが、魔術師にもこんな交信の方法が有ったというのは、実際に目にして初めて知った。
浮かんでいる文字は、魔術師独自の文字らしく、ユーマには内容は分からないが、このタイミングで交信する相手はヴァルしかいない。
どうやら会話が済んだらしく、軽くてを払って空中に描き出された文字を消し去ると、ギルが視線をあげて目があった。
「待たせたな。ヴァルから連絡があった。ターゲットをこっちに追い込んだらしい。後は俺たちの出番だ」
表情はいつも通り軽薄な笑顔を浮かべているが、その顔色は真っ青で、今にも倒れてもおかしくなさそうだ。
無理もない。駆け出しとはいえ、戦士であり体力にはそこそこ自信のあるユーマが参っているのだ。見るからに貧弱な魔術師のギルには、とうに体力の限界が来ているのだろう。
それでも強がっていつも通りに振る舞おうとしているのは、ギルなりに経験の浅いリーダーを気遣っての事だろう。
その様子に、今まで胸に抱えていた愚痴が全て消えさった。ここは自分が頑張らねば。なり行きでも、嫌々でも、仮にもリーダーなのだから。
無言で、だが力強く頷くユーマ。
集中し、意識を再び水路の向こうへと向ける。
いくらも立たないうちに、小さな生き物の走る音が聞こえて来た。
ギルが小さな声で呪文の詠唱に入るのが後ろから聞こえて来る。
同時に、標的が闇から飛び出して来た。
ぱっと見は少し大きなトカゲだ。ただし、足が全部で8本あり、全体的なシルエットも鋭角で、頭部に冠を思わせるトサカがある。
これが今回の依頼の標的。
魔術師ギルドが実験によって産み出したバジリスクの幼生だ。
まだ産まれたばかりでさして大きくない上に、人工的に創り出したため、本物のバジリスクの様な強力な毒は持っておらず、それほど危険は無いのだが、人工の生物、ましてや魔獣を創り出したとなると、その事が明るみに出れば、教会はもとより街の人々からどんな糾弾をうけるかわからない。
そういった意味で、秘匿性の高い重要な仕事なのだが、そんな仕事を回してもらえたのも、ひとえにヴァルの魔術師ギルドからの信頼が高いお陰だろう。元助教授の肩書きは伊達では無いらしい。
こちらに駆けてくるバジリスクとの距離が徐々に詰まってくる。
バジリスクの方でもユーマ達の存在に気付いた様で、警戒して動きを止める。こちらからは視線を外さず、8本の足を小刻みに動かして、進むべきか引き返すべきか、迷っているようだ。
その好機を見逃さず、ユーマが駆け出した。
十分に引き絞った弓から放たれた矢のごとく、幅の狭い足場をまるで意に介さず、一瞬でバジリスクへと距離を詰める。
たが、ユーマの突き出した腕は虚しく空を切った。バジリスクはその8本の足を巧みに動かし、一瞬早く横に飛び、そのまま壁伝いにユーマをやり過ごす。
しくじった。――そう思いながらも崩れかけたバランスを立て直し、その勢いで振り返る。
その時、計ったようなタイミングでギルの呪文の詠唱が終わった。同時に、ギルが、杖を持たない左手を、何かをすくい上げるような動きで下から上へと大きく振るう。
その動きに呼応して、穏やかに流れる水路の水が、まるで壁の様に噴き上がった。
その光景には、流石にユーマもたじろいで動きを止める。
水壁は、流れに対して垂直にそそり立つと、まるで生き物のように大きくうねって方向を変え、バジリスクに向かって崩れるように倒れていった。
叩きつけるような水の奔流に襲われ、なす術もなく飲み込まれるバジリスクの幼生。
水はその勢いのまま、バジリスクを水路へ連れ去ろうとする。
「ユーマ、いけ!」
ギルの声を聞くまでもなく、ユーマは再び駆け出していた。
バジリスクは水に囚われ、もがきながら流されて行こうとしている。このままではそのまま水路を流され、外へと運ばれてしまう。
躊躇する事はなかった。
ユーマは力強く地を蹴り、バジリスク目掛けて水流の中へ飛び込む。
大きな音が飛沫と共に、下水道内にこだました。