3/19 14:25 『戦場へ降り立つ人々』
気が付いた時には、彼は仙台に来ていた。
たまたま時間が取れた、というのもある。たまたま友人から使っていないモトクロス用のバイクが借りれた、というのもあった。
道中の本屋で東北の地図を手に入れ、取るものとりあえず、仙台へと向かったのだった。
封鎖されている福島を迂回し、下道で仙台へと入った彼が見た物は、意外な光景だった。
街中を普通に人々が歩いている。
店舗こそほとんど開いていないものの、そこで見る街の風景は、東京とあまり変わらない様子だった。
しかも、コンビニも一つだけ開いていた所もあった。
(……予想と違うな……)
確かに所々で見かけられる崩れた店舗や塀などを見ると、地震の大きさを垣間見る事ができ、少なからず衝撃を受けたのだが、それ以外はさしてニュースで報道されているような悲惨な光景はどこにも無かった。
なので彼は被害の大きいという石巻市へと向かう事にした。
仙台空港に近い方面へと向かい、海岸線沿いを石巻へと走る。すると、世界が一変した。
(う、わ……っ!)
海岸線を走っている高速道路を潜った瞬間から、辺りは戦場と化していた。
『焼け野原』。彼がまず最初にイメージした言葉である。
彼は戦場に行ったことはないが、おそらくこれに近いものなのだろう。見渡す限りの瓦礫が地面を覆っていた。
建物と言う建物は崩れ、流され、めちゃくちゃに壊されている。
ありえない場所に車が展示してあるかのように、ぽつんと取り残されている。
まるでレーシングゲームのように、道の真ん中に船が飛び出て邪魔をしていた。
大分片付けられてはいるが、道の端には津波が運んできたらしい泥が残っており、潮に混じってヘドロのような汚水の臭いが充満している。
空には多少雲がある程度だったが、何だかやけに暗い気がした。
都心でも良く見るチェーン店のガラスは全て割れ、中の棚などが散乱している。
建物の側には車やトラックが重力を無視した体勢でそびえ立っており、海や川沿いの一部ではまだ冠水している所もあった。
思ったよりは車は走っており、そのタイヤが巻き上げる砂が乳白色に視界を染める。
折れた電柱や垂れ下がっている電線も未だそのままだった。
しばらくそのまま走っていると、アスファルトの所々に断層があり、赤いコーンが設置されていた。おそらく自衛隊が置いた物だろう。
場所によってはアスファルトすら無くなって砂利道になっていたり、土や瓦礫によって断層が埋められ、辛うじて車が通れるようにしてある場所なども目立っていた。
さすがにそんな風景が一時間も続くと慣れては来たが、ついに石巻市へと着いた時、また更なる衝撃を受けることとなった。
街が、滅んでいる。
バイクを降り、呆然と辺りを見回すしかできなかった。
彼はニュースの映像でしか津波を見たことが無かったが、やはり液晶越しに見る景色と実際の目で見る景色には、例えようの無い溝が存在していた。
……彼は、この地震の凄まじさを初めて肌で感じたのだった。
押し流されてきた木材や鉄骨、車や家などの瓦礫は、ドミノ倒しのように次々と民家を飲み込んで行き、呆気なく文明を崩壊させた。
今では何とか自衛隊が道を作っていたので、辛うじて地形なども分かるが、そうでなければ全く現在地がどこだか分からなかったに違いない。
津波が訪れた当初の状況など、想像しただけで鳥肌が立つぐらい悲惨だったに違いなかった。
急に彼は体が震えだし、思わず両手で自分の体を抱きすくめた。
こんなもの、人間が何とかできるんだろうか……。果てしない無力感が彼の全身を駆け巡っていた。
時に、自然は人間の無力さを嘲笑うかのような試練を与えてくる。
……まさに目の前の景色がそれだった。
「こんなの……どうしろってんだ……!?」
無我夢中でここまで来てみたものの、その先のことは考えていなかった。
例え考えていたとしても、この景色を見てしまってはこれ以上どうする事もできなかっただろう。
……こんなもの、俺が来た所でどうにもなるわけが無い……。
考えたくない事だったが、おそらくあれらの瓦礫の下には、まだ下敷きのままになっている遺体もあるに違いなかった。
彼の頭の中は、目の前にある灰色の地獄に覆い尽くされていた。
来てみれば、きっとそこには誰かが居て助けを求めているだろうから、何かができるのではないか?と思っていた。
だが、自然の猛威を生まれて初めて目の当たりにした彼には、この絶望という名が付けられた地域を前に、ただ涙を流す事も忘れて佇む事しかできなかった。
こんなちっぽけな余所者一人に、一体何ができるのか……?
「こんなの……地獄じゃないか」
グルグルと頭の中を巡っている言葉に酔い潰されて、絶望に膝を折りそうになった時だった。
ふと気付いた時には後ろに人の気配があり、その辺りから静かで涼しげな声が彼の耳に届いてきた。
「地獄……ね」
「……!?」
驚いて振り返った彼の前には、迷彩柄のズボンに厚手のダウンジャケットを着て、黒っぽいスポーツキャップを被った若い男が立っていた。
若いとは言っても彼よりは年上のようで、おそらく見た目からすると30代半ばから後半といった所だろう。
少し離れた後ろには、四駆の軽自動車が停まっており、その側には同年代と思われる女性も控えていた。
「人間は、地獄で絶望するほどヤワじゃないよ」
あくまで軽く、しかしその奥には途方も無いような重みを含んだ台詞が彼の元へと届けられた。
いつの間にか現れた若い男は、この光景を見てもその瞳から輝きが消える事は無かった。
足は震えてなどおらず、しっかりと泥の上を踏みしめてその場に留まっていた。
言葉は静かで深く、それでいて力強さとたくましさを兼ね備えていた。
灰色に染まりかけていた彼の思考が、男の言葉によって再び脈動し始める。
彼は吸い込まれるように男の真っ直ぐな瞳を見つめていた。
男は彼を見つめ返し、離れている女性にも聞こえるような声で宣言する。
「始めよう。……ASAPだ」
……これが、彼の人生を一変させる出会いとなった。
第二部 『ASAP』 開幕。