忘却の聖女は、二度目の記憶を消しません ~「お前の記憶を消して従順な人形にする」と言われたので、禁忌のプロトコルごと国を去ります。なお、私が消えたら魔王封印も解けますけど苦情は受け付けません~
「フィオナ。お前の記憶を消す」
王太子アルヴィスの声が、水晶宮の大広間に冷たく響いた。
居並ぶ貴族たちの視線が、断頭台に立たされた罪人を見るように私へ突き刺さる。けれど私は、剣を突きつけられているわけでも、鎖に繋がれているわけでもない。ただ立っているだけだ。
「国家に従順な人形として――新しい聖女ミレイユを補佐せよ」
アルヴィスの隣で、桃色の髪の令嬢が扇の陰でくすりと笑った。ミレイユ・カロンヌ。対抗派閥の公爵令嬢にして、昨日今日『本物の聖女』に祭り上げられた娘だ。
「氷の聖女、なんて呼ばれてもてはやされたのも今日までですわね」
(――なるほど。私を『扱いづらい道具』と判断して、いっそ人格ごと消してしまおう、と。前世でも散々見た顔ですね、これ)
心の中でだけ、私は淡々と状況を整理する。前世――記憶消去技術を研究していた脳科学者だった頃から、私はこういう場面が得意だった。感情を切り離し、事実だけを並べる。
記憶を奪うことは、その人間を殺すことと同じ。
それが私の座右の銘だった。前世でも、この世界でも。
だからこそ、目の前で笑っているこの人たちは、私を殺そうとしているのだと理解している。
「禁忌魔法使いが、記憶を消されて当然の身でありながら、よくもまあ聖女の座に居座ったものだ」
貴族の誰かが嘲笑した。周囲がどっと沸く。
アルヴィスは満足げに顎を上げた。
「お前程度が、王命に倫理を盾に逆らってきた罪は重い。だが安心しろ、フィオナ。人形になれば、そんな面倒な良心も消えてなくなる。代わりはいくらでもいるが――お前の力だけは惜しいのでな」
(お前程度が、ね。惜しいと言いながら殺す。矛盾に気づかないあたり、実に一貫していらっしゃる)
私は、ゆっくりと目を伏せた。
拒否も、抗議も、涙もない。ただ一言。
「……いいですよ」
ざわ、と広間が揺れた。あまりに素直な返答に、アルヴィスさえ一瞬言葉を失う。
「……なに?」
私は顔を上げ、透き通った青灰色の瞳で、まっすぐに王太子を見つめた。
「いいですよ。私の記憶を消して。ただし――」
唇の端が、ほんのわずかに動く。
「消えるのは、私だけじゃありませんけど」
※
「……なんだと?」
アルヴィスの眉がぴくりと動いた。ミレイユの扇が止まる。
私は、あくまで静かに続けた。
「王国最古の禁忌魔法『忘却のプロトコル』。私はそれを、たった一つの目的にだけ使ってきました。魔王封印の維持です」
「知っている。だからこそお前の力が要るのだ」
「では、封印の『鍵』が何か、ご存知ですか?」
沈黙。
アルヴィスの顔に、はじめて不安の影がよぎった。
「……封印の記憶を、要人に分散保存していると――そう報告を受けている」
「ええ。表向きは。ですが本当の鍵は――ここです」
私は自分のこめかみを、そっと指で押さえた。
「私自身の記憶。それが失われた瞬間、封印は解け、魔王は復活します」
広間の空気が凍りついた。
(さて。信じるかしら。……いいえ、賭けるまでもない。この人たちは、絶対に信じない)
案の定、アルヴィスは鼻で笑った。
「はったりだ。命乞いにしては稚拙だな、フィオナ」
「わたくしもそう思いますわ」ミレイユが甘い声で追従する。「記憶を消される恐怖で、でまかせを。みっともない」
(――ああ、やっぱり。前世で研究成果を横取りされた、あの日と同じ。証明するほど、奪われる)
徹夜で積み上げた研究成果を、上司に横取りされたあの日。「君の勘違いだよ」と笑われ、証拠を出しても「感情的になるな」と切り捨てられた。
あの時、私は学んだのだ。
価値を証明しようとするほど、奪われる。
なら――証明などしなければいい。黙って、全部持って、静かに去ればいい。
私は、深く息を吸った。そして、これまでの人生で最も穏やかに微笑んだ。
「わかりました。では、はったりということで結構です」
「ようやく諦めたか」
「いいえ。諦めたのはあなたたちの方ですよ、アルヴィス殿下」
私は一歩下がり、聖女の証である銀の首飾りを、ゆっくりと外した。
「この国のために倫理を曲げるのは、今日でやめます。禁忌のプロトコルは――私が持って、出ていきます」
首飾りが、大理石の床に澄んだ音を立てて落ちた。
「魔王封印も、もろとも」
※
「捕らえろ! フィオナを逃がすな!」
アルヴィスが怒鳴った。衛兵が動く。だが、遅い。
私はすでに、記憶消去の儀式のために用意されたこの祭壇の中央に立っていた。皮肉なことに、彼らが私を『人形』にするために整えた魔法陣が、今、私自身の力を最も増幅させる場所になっている。
「言い忘れていましたが――封印維持のための全プロトコル、その記録文書は、この城のどこにもありません」
「馬鹿な。書庫に厳重に保管して――おい、書記官!」
書記官が青ざめ、震える声で告げた。
「そ、それが……先週、書庫の封印文書がすべて……白紙に……」
「なっ……」
(そう。私が消しました。あの静かな日々は、諦めではなく、証拠を消す作業だったんです)
淡々と職務をこなしていた、あの静かな日々。あれは諦めではなかった。
私以外の誰にも、封印の知識が残らないように。証拠と記憶を、少しずつ、確実に消し続ける作業だったのだ。
「分散保存していたはずの要人たちの記憶も――とっくに。彼らは自分が何を『覚えていたか』すら、もう覚えていません」
私は青灰色の光を、自らの胸に収めた。忘却のプロトコルの全知識が、私の内側で温かく脈打つ。
「あなたたちは、代替不可能な人間を、道具だと思い込んで捨てようとした。それだけのことです」
「フィオナ! 待て、話を――」
「苦情は受け付けません」
光が弾けた。
次の瞬間、私の姿は水晶宮の大広間から掻き消えていた。
残されたのは、床に転がった聖女の首飾りと、ざわめく貴族たち、そして――何が起きたのかまるで理解できていない、二人の若い『支配者』だけだった。
(さようなら、アルデシア王国。私はもう、あなたたちの記憶に、いたくないので)
※
国境を越えた先――隣国イグドラ竜人国。
その将軍執務室で、私は生まれて初めて『冷酷な征服者』と対面していた。
「貴様が、アルデシアから逃げてきた禁忌の聖女か」
二メートル近い長身。漆黒の角と鱗。氷のような無表情。ガレス・ヴォルフガルド将軍――戦場の鬼神、と呼ばれる男だ。
その威圧感は本物だった。並の人間なら失神しかねない殺気。けれど私は、彼のある一点に気づいて、思わず口を開いていた。
「あなた、記憶を失う呪いを負っていますね」
将軍の肩が、びくりと跳ねた。
「……なぜ、それを」
「胸に抱えているそれ。手帳。ページの角が擦り切れている。何度も何度も開いて確認している証拠です。そして――」
私は彼の副官らしき眼鏡の女性に視線を移した。
「彼女があなたに名乗る時、少し悲しそうな顔をする。まるで、昨日も同じことを言ったかのように」
将軍の無表情に、ひび割れが走った。氷が溶けるように。
眼鏡の女性は口を引き結び、何も言わなかった。ただ、その沈黙が肯定だった。
「毎朝、目覚めるたびに――愛する者の顔と名を、忘れているのでは?」
沈黙。
やがて、鬼神と呼ばれた男は――手帳を胸にぎゅっと抱きしめ、震える声で言った。
「……朝、目が覚めると。俺は、いつも一人だ。隣で微笑む者がいても、それが誰なのか、わからない」
「将軍……」眼鏡の女性が痛ましげに呼ぶ。
「書いておくんだ。忘れないように、全部。だが……文字は、心を覚えていてはくれない」
ギャップ、なんて言葉では足りなかった。戦場では鬼神、その内側では、忘却に怯える孤独な子どものような男。
(記憶を、消すのではなく――定着させる。前世からずっと考えていた、あの応用術)
記憶を消す禁忌の力を、記憶を守る救済の力へ。
叶わなかった夢が、今、目の前で助けを求めている。
「ガレス将軍」私は前へ進み出た。「あなたのその呪い、私が解けるかもしれません」
「……本当か」
涙をこらえるその瞳を、私はまっすぐ見返した。
「いいですよ。ただし――一つ、条件があります」
「……で、その条件というのは?」
眼鏡の女性が――セレスティア・ロウと名乗った――一歩踏み出して問うた。記録と論理を愛する実務家の顔だ。
「この国で、記憶を『守る』ための研究所を作らせてください。私が私の意志で、一から。それが条件です」
セレスティアは眼鏡を押し上げ、私をしばらく観察した。それから、静かに頷いた。
「記録は嘘をつきません。……いいでしょう。私が運営を引き受けます。あなたなら、将軍を救えるかもしれない」
前世で、研究仲間に恵まれなかった私に。
初めて、対等に知を語り合える相手ができた瞬間だった。
※
私が去って三日目。アルデシア王国は、地獄になっていた。
――と、後に使者から聞かされた。
封印の鍵たる私の記憶が国外へ持ち去られたことで、魔王の瘴気が国土に溢れ出したのだ。黒い霧が村を呑み、作物が枯れ、家畜が倒れた。
慌てたアルヴィス派は、封印を修復しようと記録を漁った。だが書庫の文書はすべて白紙。要人たちの記憶も空っぽ。
「フィオナ様。アルデシアから、また使者が来ています。……もう三度目ですよ」
セレスティアがため息交じりに告げる。私は研究机から顔を上げた。
通された使者は、床に額をこすりつけた。
「聖女フィオナ様! どうか、どうかお戻りを! このままでは王国が滅びます!」
「……封印の鍵が国外に出て、三日で瘴気が溢れた、と。予定通りですね」
「新聖女ミレイユ様は、プロトコルを一行も読めず……アルヴィス殿下も、崩れ落ちて……!」
聞けば、玉座の間でミレイユは震えるばかりだったという。
『な、なぜですの……わたくしは本物の聖女ですのよ! なのに、プロトコルが、一行も……読めない……!』
器でしかなかった彼女に、禁忌魔法が理解できるはずもない。民衆は気づいた。この娘は、なにも支えていなかったのだと。糾弾の声が、王城を取り囲んだ。
アルヴィスは、崩れ落ちたという。
『私は……唯一の防波堤を、人形にしようと……代わりはいくらでもいると、この私が……』
代わりはいくらでもいる、と嘯いた男が、たった一人の代替不可能な存在を、自らの手で切り捨てたのだ。
「記録は嘘をつきません」とセレスティアが微笑む。「フィオナ様の予告通り、綺麗に因果応報ですね」
私は使者に向き直り、静かに告げた。
「魔王復活の苦情は、受け付けません」
「そ、そんな……!」
「だって私、もうあなたたちの記憶には――いたくないので」
使者が絶望の顔で私を見上げる。
「私が消えたら封印が解ける。そう、ちゃんと言いました。信じなかったのは、そちらです」
私は机の上の術式に視線を戻した。ガレスの呪いを解くための、新しい術式。
「お引き取りを。ここは、私が私の意志で選んだ場所です」
使者が絶望の顔で去っていく。ドアが閉まる。
そして、その翌朝のことだった。
※
術式が完成した夜。私はガレスの額に手をかざし、青灰色の光を、これまでとは逆向きに――消すのではなく、刻むように、静かに流し込んだ。
「これで、記憶が定着するはずです。……上手くいけば、ですが」
「もし、また忘れたら」ガレスが不安げに手帳を握る。「その時は、また名乗ってくれるか」
「何度でも」私は言った。「ですが、たぶん、その必要はありません」
そして、朝が来た。
私は研究所の窓辺で、彼の目覚めを待っていた。心臓が、柄にもなく少し速い。
(覚えているだろうか。それとも、また――柄にもなく、心臓が速い)
前世を含めても、これほど誰かの『目覚め』を祈ったことはなかった。
寝台のガレスが、身じろぎする。
ゆっくりと、瞼が開く。
漆黒の瞳が、天井を映し――それから、窓辺の私を捉えた。
一瞬の、沈黙。
ガレスの唇が、震えながら動いた。
「……フィオナ」
(名を。手帳を見もせずに。当たり前のように)
名を。私の名を、呼んだ。
「おはよう、フィオナ」
鬼神と呼ばれた男の頬を、一筋の涙が伝った。
「覚えて……いる。お前の顔を。名を。昨日の、お前の笑い方を。全部……!」
私は、動けなかった。
(記憶を奪うことは、その人間を殺すことと同じ。……なら、記憶を守ることは、きっと、人を生かすことだ)
記憶を奪うことは、その人間を殺すことと同じ。ずっとそう思って生きてきた。
なら、記憶を守ることは――きっと、人を生かすことだ。
前世で叶わなかった夢が、今、この異世界の朝に、確かな形になった。
「……ええ」
気づけば、私の頬も濡れていた。氷の聖女と呼ばれた私が。
「おはようございます、ガレス。今日のあなたも、ちゃんと私を覚えていますね」
ドアの隙間からセレスティアが覗いて、そっと目元を拭っていた。
「……記録は嘘をつきません。将軍が、初めて手帳に頼らず朝を迎えた日、と。しっかり書き留めておきます」
――アルデシアの魔王を、この先どうするのか。
私の前世の技術が、この世界で何を生むのか。
やるべきことは、山ほどある。
でも、今はいい。
今度こそ、誰かに奪われるためではなく。
私自身の意志で、記憶を『守る』研究を、ここから始めるのだから。
「さあ、忙しくなりますよ、将軍。……ああ、その前に。手帳は、もう無くさないでくださいね」
「善処する」
「善処、じゃ困るんですけど」
その横で、セレスティアがくすりと笑った。
「……で、また手帳を無くしたんですか、将軍」
ガレスは首を横に振り、初めて見る穏やかな声で言った。
「違う。……今日のことは、もう、忘れない」
窓の外、竜人国の空は、どこまでも澄んで晴れていた。
――そして、この澄んだ空の下で、私はまだ知らない。
アルデシアに溢れた魔王の瘴気が、やがてこの国境をも越えて迫ること。そして私の『記憶を守る力』こそが、その魔王を封じる前世未踏の一手になることを。
だが、それはまた別の朝の話だ。
今はただ――彼が私を覚えている、この朝を。
私は、静かに噛みしめた。




