第一章 黎明編 第三話 灰狼の突撃
夜明け前。
ウィービア地峡には、奇妙な静けさが漂っていた。
雪は止み、
空には青黒い雲が流れている。
海風だけが、細い地峡を吹き抜けていた。
兵たちは震えていた。
寒さではない。
恐怖だった。
遠くから聞こえてくる。
地鳴り。
ドドドドドド――。
北方騎馬軍。
バガロ族。
二千騎。
まだ姿は見えない。
だが大地が揺れていた。
若い兵士が呟く。
「来る……」
その声は半分泣いていた。
弓兵たちは矢を握る手を震わせ、
農民兵は槍を落としそうになっている。
ウィービア郷長ガレスは、顔面蒼白だった。
ウィービアは小さな郷だ。王国ですらない。
豊かで平和な、イムーリア中央の政治闘争からも隔離された小さな郷だ。
しかし人口は多い、それは豊かな水田が多くの民を養えるからだ。
逆に、
水田以外何もないウィーヴィアが水田の血を失ったら、水田を耕す人々を失ったら、どうなるのか。
そして相手はバガロ族、話の通じる相手ではない。
逃げる?どこへ?逃げた先で待っているのは惨めな死だ。
わかっている、この勇ましい青年のいうとおりなのだ、わかっている、しかし、、、
「……本当にやるのか」
隣のセブは静かだった。
「ええ」
「四百で?」
「四百いるなら十分です」
「十分……?」
セブは前を見たまま答える。
「狭いですから」
やがて北方の霧の向こうから、黒い影が現れ始めた。
馬。
無数の馬。
黒い毛皮。
狼旗。
鉄弓。
バガロ族だった。
彼らは咆哮しながら地峡へ突入してくる。
しかし先頭の騎兵たちは、途中で速度を落とした。
「……狭いな」
左右は海。
正面は一本道。
横展開できない。
後続が詰まり始める。
その時だった。
セブが右手を上げる。
「まだ」
弓兵たちは息を止める。
バガロ族はさらに前進する。
百騎。
二百騎。
三百騎。
細い地峡へ押し込まれていく。
「まだ」
さらに後ろから馬が押し寄せる。
密集。
圧迫。
逃げ場がない。
そして――。
「今だ」
火矢が飛んだ。
地面へ。
次の瞬間。
轟音。
地峡に撒かれていた油へ火が走った。
炎が一気に広がる。
馬が悲鳴を上げた。
前列が止まり、
後列が突っ込み、
騎兵同士が激突する。
「伏兵!?」
「止まれ!」
「押すな!!」
混乱。
そこへウィービア軍の矢が降り注いだ。
狭い。
逃げ場がない。
馬が暴れ、
兵が踏み潰され、
炎の中で隊列が崩壊していく。
オルダンは後方から怒鳴った。
「左右へ開け!」
だが開けない。
海と崖しかない。
その時だった。
セブが馬へ飛び乗る。
灰色の毛並みの小柄な馬。
彼は槍を握り、背後の四十騎を見る。
皆、顔が青かった。
誰一人、実戦経験がない。
セブは短く言った。
「我は今から英雄になる」
誰も笑わなかった。
「我について来い」
そして――。
灰狼騎兵が走った。
四十騎。
だが狭い地峡では十分だった。
彼らは炎と混乱で止まったバガロ族の側面へ突っ込む。
農耕民の騎馬隊など、
誰も想定していなかった。
「なっ――」
最初の敵兵が槍で落馬する。
続いて二人。
三人。
暴れる馬がさらに混乱を広げる。
セブは叫んだ。
「止まってる奴を狙え!!」
灰狼騎兵は駆け抜けた。
速さではない。
恐怖だった。
「南にも騎馬軍がいる!」
その誤解が、バガロ族を崩した。
狭い地峡で、
後続は何が起きているか分からない。
前列は燃え、
中央は押し潰され、
横から騎兵が来る。
誰かが叫んだ。
「包囲だ!!」
その瞬間。
恐怖は伝染した。
バガロ族は後退を始める。
だが後ろにはまだ千騎以上が押し寄せている。
潰し合いだった。
馬が倒れ、
人が叫び、
海へ転落する者まで出た。
オルダンは初めて理解した。
――負ける。
この狭い土地で。
農耕民に。
彼は舌打ちすると、撤退角笛を吹かせた。
低い音が雪空へ響く。
黒い騎馬軍は崩れながら北へ退いていった。
地峡には、
炎と死体だけが残った。
ウィービア兵たちは呆然としていた。
勝った。
本当に。
二千騎に。
やがて誰かが叫んだ。
「勝ったぞ!!」
歓声が爆発した。
泣き崩れる者。
槍を掲げる者。
抱き合う者。
その中でセブだけは静かだった。
彼は北を見ていた。
雪の向こう。
遠ざかるバガロ族。
「……また来る」
誰にも聞こえない声だった。
だがその瞳には、奇妙な光が宿っていた。
防衛では終わらない。
追わなければならない。
北へ。
その思想こそが、
後にイムーリア全土を飲み込む、
軍事帝国ウィーヴィアの始まりだった。




