警部補 瀧川隆一
当初、警視庁捜査一課全体を震撼させた「同窓会薬物混入事件」は、無差別テロの可能性を孕んだ重大案件として色めき立っていた。
だが、刻が経つにつれ、本部の熱気は急速に冷え込んでいく。
犯行声明は一向に届かず、使用薬物も致死性とは程遠い。被害者たちの症状も数日の不快感で済む程度だった。
「大規模テロの予行演習」という懸念こそ残るものの、主流は「悪質な悪戯」へと傾きつつあった。
だが滝川隆一だけは、その凪いだ空気の中に、得体の知れない澱みを感じ取っていた。
これはテロではない。しかし、単なる悪戯でもない。
もっと個人的で、執拗で、そして「芸術的」なまでの完成度を目指した何かが、この事件の背後で脈打っている――そんな感覚が拭えない。
滝川は嫌悪感と共に、捜査の継続を志願した。
事件の焦点は、現場で薬物を所持していた高橋智花だ。
彼女は一貫して否認している。
容器からは指紋一つ検出されず、防犯カメラにも、彼女がスープに近づく映像はない。
何者かが彼女のバッグに「仕込んだ」と考えるのが自然だった。
しかしその直後、ネットには「犯人は高橋智花だ」と断定する精巧な動画が流布され、彼女は社会的に抹殺される形で忽然と姿を消した。
周辺を洗ううちに浮かび上がったのは、奇妙な符合だった。
智花を含め、中学時代の同級生がすでに三人も失踪している。そして、その全ての中心に、あの美しい芸術家――小川一華がいた。
橋本千尋の自宅での聞き込みを終えた滝川は、後輩の佐山が運転する車の助手席で、窓の外を眺めていた。
向かう先は豊島区の目白署。
十三年前、小川一華の父親が失踪し、母親が自殺した事件の記録を確認するためだ。
「滝川さん。本当に、あの薬物事件と三人の失踪が繋がっていると考えているんですか?」
佐山がハンドルを握りながら、訝しげに問う。
「可能性の問題だ。同窓会という特異な場で、出席者のうち三人が消えている。偶然で片付けるには出来過ぎている」
「でも本部は小川一華をシロと見ています。薬物事件では彼女自身が被害者ですし、他の二人が失踪した時、彼女はパリにいた。物理的に不可能です」
「ああ、常識的にはな」
滝川は淡々と答えた。
「だが、高橋智花の失踪時、彼女は日本にいた。それに、たとえ自分で手を下していなくても、そこに『意志』が介在している可能性は捨てきれない。一つずつ、その可能性を潰していく必要がある」
彼の脳裏には、先ほど対面した橋本千尋の姿が焼き付いていた。
完璧に管理された菜園。
脇芽一つ残さない異常なまでの調和。
そして、人当たりの良い微笑み。
最初の印象は「美しい主婦」だったが、二度目に彼女の「庭」を目にした瞬間、滝川の深淵はざわついた。
健康的な美しさの裏に潜む、「完全過ぎる」不自然さ――あんな人間を、彼はこれまで見たことがなかった。
「小川一華は、留学以来一度も帰国していなかったそうだな」
思考を切り替えるように、滝川は佐山に問う。
「ええ。祖父母が亡くなるまで送金はありましたが、本人が日本の土を踏んだのは葬儀の時だけです。それも、事務手続きを済ませるとすぐパリに戻っている。日本という場所に、よほど酷い思い出しかないんでしょうね」
「それなのに、なぜ今になって、わざわざ日本に拠点を構えた?」
悲惨な過去を捨て、新天地で成功を収めた芸術家が、なぜ忌まわしい記憶の眠る故郷へ戻り、邸宅を建てたのか。帰国は同窓会の一ヶ月前。その後の動き――そこには、周到に準備された「舞台」の匂いがした。
目白署の会議室。
滝川たちを待っていたのは、当時、小川美沙の自殺を担当した小野寺昇というベテラン刑事だった。
短く刈り込んだ白髪混じりの頭、がっしりとした体躯。
その瞳には、長年現場を踏んできた者の重みがある。
「小川博之の失踪、そして美沙さんの自殺……。あれを調べに来るとは、一課も物好きですな」
小野寺は苦笑しながら、古い資料を広げた。
「失踪届が出されたのは、博之氏がいなくなってから二週間後。遅すぎると思いませんでしたか?」
滝川の問いに、小野寺は頷く。
「ええ。ですが理由は単純でした。母娘は、人がいなくなったら警察に届けるという『常識』すら知らなかったんです。学校で友達に教えてもらうまで」
「友達……矢島千尋ですね」
「そうです。彼女たちが警察に来たとき、受付は驚いたそうです。小川母娘は、行政の支援も警察の役割も、自分たちの世界には『存在しないもの』だと思い込んでいた。それほどまでに閉ざされた環境だった」
父の博之は日雇い同然で、家庭内暴力とネグレクトの常習犯。美沙も実家と絶縁し、母娘は社会から完全に孤立していたという。
「……だが、私が本当に『嫌なもの』を感じたのは、美沙さんが自殺した時でした」
小野寺のトーンが一段低くなる。
「現場にいた娘の一華さん。母親を亡くした子供としての感情が、一切読み取れなかった。まるで、人間と話している気がしなかったんです。そして、一緒にいた矢島千尋。この子が、あまりにも不自然だった」
「不自然?」
「現場は凄惨でした。ですが彼女は我々に対し、人を魅了するような笑顔を見せた。その場に全くそぐわない、ちぐはぐで、それでいて完璧な笑顔を。放心状態の一華さんを抱きしめ、現場保存を指示したおかげで捜査はスムーズでしたが……中学生が、あそこまで冷静に『管理』できるものでしょうか」
また「完全過ぎる」という言葉が、滝川の胸を刺した。
「動機は、ネットでの誹謗中傷による心労とされました。夫の失踪を『妻による殺害』だと決めつけ、実名で叩き、実生活でも嫌がらせを繰り返した者たちがいた。書き込んだのは、一華さんをいじめていた三人――高橋智花、小田茉莉、田島紅音です。自分たちの悪行が露見するのを恐れ、先手を打って母親を追い詰めたんです」
「小川一華は、それを知っていた?」
「ええ。ですが恨み言一つ言わなかった。済んでしまったことはどうにもならない、と。達観というよりは、空虚。そんな印象でした」
実の母親を死に追いやった者たちに対し、無反応を貫く少女。
そして、その傍らで「完璧な現場保存」を行う親友。十三年前のあの瞬間から、彼女たちの「庭」は静かに作り上げられてきたのではないか――滝川はそう感じた。
帰り際、小野寺が玄関先で足を止めた。
「母親の死後、我々は一華さんに精神的ケアを勧め、専門医を紹介しました。ですが彼女はそれを受けなかった。自分で信頼できる相手を見つけたから、と。中学生の彼女が、一体どこで、どんな『セラピスト』を見つけたのか……今となっては、それだけが心残りです」
滝川は礼を述べ、署を後にした。車に乗り込む際、彼は空を見上げる。
――小川一華が自ら選んだセラピスト。
それは、公的な医療機関ではない。
彼女の壊れた心を「調和」させた存在。その正体に、滝川も同じように引っかかっていた。




