来訪者・千尋
一華の屋敷を訪れてから、一ヶ月が経った。その間に電話でアートスクールに通う旨を伝えると、彼女は幼子のように喜んだ。
「嬉しいわ、千尋。でも、一ヶ月だけ待って。個展の準備で、今はアトリエが少し……『散らかって』いるの」
怯えはどこにもなく、陶酔した芸術家の熱だけが声に宿っていた。
私はその熱を電話越しに愛おしく感じ、「楽しみにしているわ」と、最高の苗木に注ぐ水のような言葉を贈った。
しかし、その平穏な日々に、小さな波紋が広がっていた。同窓会の数日後、果歩から連絡が入った。あの薬物混入事件で、智花のバッグからスープに使われたものと同じ薬品が見つかったという。
「智花が犯人だなんて、信じられないわよね」
震える声に、私は穏やかに答えた。
「そうね。でも、智花なら……やりかねないと思われても仕方ないのかもしれないわね」
智花は犯人ではないという噂も耳にしたが、私にはどちらでもよかった。大切なのは、庭の雑草が自ら絡まり合い、勝手に枯れていくという事実だけだ。
*
来週からはいよいよ一華のスクールが始まる。その前に、今日は近所の石坂さんの「カウンセリング」の日だった。
お昼過ぎ、リビングに招き入れた石坂さんは、見る影もなくやつれていた。
「……もう、限界なの、橋本さん」
差し出した紅茶にも手をつけず、震える指でティッシュを握りしめている。
週に一度、夫への愚痴と、隠れて服用している睡眠薬の告白を聞くのが、私の日課になっていた。
新参者の私だけに心を開く彼女を、私は慈しみを持って観察する。肌の艶は失われ、髪はパサつき、かつての虚栄心は剥げ落ちていた。そこには「絶望」という名の良質な肥料が蓄積されている。
「最近はどう? 薬の量は?」
傷口に触れる外科医のように、私は慎重に問う。
「……減ってきたわ。あなたに話すと、心が洗われる気がするの」
「そう。でも、旦那様が変わらなければ、根本的な解決にはならないわ。克服しなければ」
私は彼女の手をそっと握った。冷たく湿っている。
「離婚しても、彼が生きている限り、あなたのトラウマは消えない。彼がどこかで息をし、あなたを憎んでいるかもしれない、という妄想が一生あなたを追い続けるわ」
「……じゃあ、どうすればいいの?」
縋るような目が向けられる。
「自分の手で、今の状況を『打開』したという確かな証が必要なの。今のあなたを殺して、新しく生まれ変わるための儀式が」
私は「可能性」といった曖昧な言葉を使わず、断定的な救いだけを与えた。彼女が望んでいるのは、実現可能に見える「残酷な希望」なのだ。
「自分の声に耳を傾けて。心の奥底で、あなたは何を望んでいるの?」
微笑みかけると、石坂さんの瞳に、一瞬だけ昏い火が灯った。
彼女が帰った後、私は「観察記録」に一行書き加えた。
――石坂さん。収穫まで、あと少し。
*
石坂さんを見送った後、私は庭へ出た。ホースから放たれた水が午後の光を孕み、小さな虹を作る。トマトの実は、私の完璧な管理下で、瑞々しく、そして毒々しいほど赤く熟れていた。
「……もうすぐね」
独り言ちた瞬間、インターホンが鳴った。
モニターに映っていたのは、同窓会の会場にいた刑事――滝川警部補だった。その後ろには、猟犬のような若い刑事、佐山が控えている。
私は静かな高揚感を胸に、ドアを開けた。
「お忙しいところ、申し訳ありません。警視庁の滝川です」
「いえ……何か進展があったのでしょうか?」
私が首を傾げると、滝川の視線は私を通り越し、背後の庭へ向けられた。
「素晴らしい菜園だ。……脇芽が一つも残っていない。完璧に『管理』されている」
その一言に、私の背筋を心地よい震えが走った。彼は私の顔を見る前に、私の作った「世界」の本質を見抜いたのだ。
「今日は別件です。高橋智花さんが、失踪しました」
「……えっ」
私は驚いた表情を「着飾った」。
だが滝川は、瞳孔の動きや喉の僅かな震えを計測するように、無機質な視線を外さない。
「彼女だけではありません。一年前には小田さん、半年前には田島さん。失踪した三人には共通点がある。……全員、あなたの中学時代の同級生です」
「智花さんたちとは、卒業後も交流が?」
「いいえ。地元で見かけることはあっても、連絡を取り合うことはありませんでした」
私は淀みなく答えた。滝川はスッと目を細める。それは疑いというより、何か美しい数式を解いた時のような目だった。
「……そうですか。お忙しいところ、失礼しました」
彼は一礼し、去り際にもう一度だけ庭のトマトに目をやった。
「滝川さん」
呼び止めると、彼は振り返る。
「何か気づいたことがあれば、連絡したほうがよろしいですか?」
「ええ、ぜひ。あなたの『観察眼』なら、私たちが気づかない小さな変化にも気づけるはずですから」
不純物を取り除いた硝子のような瞳。その透明さゆえに、刃のように鋭い。
彼らが去った後、ペンを握る手がわずかに汗ばんでいることに気づいた。
「滝川さん……」
その名を口の中で転がす。十三年前、我が家を訪れた小野寺は、湿った泥のような執念を持っていた。だが、この滝川は違う。私の「庭」に現れた、最高に手入れのし甲斐がありそうな標本だ。
「滝川さんのトマトも、作ってみようかしら」
恐怖より先に、胸の奥で甘い疼きが走った。私の「収穫祭」に、これほど素晴らしい『客』が招かれるなんて。
虹の消えた庭を見つめながら、私は静かに、深く微笑んだ。




