表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
収穫祭 「私の心臓を掴むあなたの手が冷たくも温かい」  作者: 秦江湖


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

8/14

来訪者・千尋

一華の屋敷を訪れてから、一ヶ月が経った。その間に電話でアートスクールに通う旨を伝えると、彼女は幼子のように喜んだ。


「嬉しいわ、千尋。でも、一ヶ月だけ待って。個展の準備で、今はアトリエが少し……『散らかって』いるの」


怯えはどこにもなく、陶酔した芸術家の熱だけが声に宿っていた。


私はその熱を電話越しに愛おしく感じ、「楽しみにしているわ」と、最高の苗木に注ぐ水のような言葉を贈った。


しかし、その平穏な日々に、小さな波紋が広がっていた。同窓会の数日後、果歩から連絡が入った。あの薬物混入事件で、智花のバッグからスープに使われたものと同じ薬品が見つかったという。



「智花が犯人だなんて、信じられないわよね」


震える声に、私は穏やかに答えた。


「そうね。でも、智花なら……やりかねないと思われても仕方ないのかもしれないわね」


智花は犯人ではないという噂も耳にしたが、私にはどちらでもよかった。大切なのは、庭の雑草が自ら絡まり合い、勝手に枯れていくという事実だけだ。





来週からはいよいよ一華のスクールが始まる。その前に、今日は近所の石坂さんの「カウンセリング」の日だった。


お昼過ぎ、リビングに招き入れた石坂さんは、見る影もなくやつれていた。


「……もう、限界なの、橋本さん」


差し出した紅茶にも手をつけず、震える指でティッシュを握りしめている。


週に一度、夫への愚痴と、隠れて服用している睡眠薬の告白を聞くのが、私の日課になっていた。


新参者の私だけに心を開く彼女を、私は慈しみを持って観察する。肌の艶は失われ、髪はパサつき、かつての虚栄心は剥げ落ちていた。そこには「絶望」という名の良質な肥料が蓄積されている。



「最近はどう? 薬の量は?」


傷口に触れる外科医のように、私は慎重に問う。


「……減ってきたわ。あなたに話すと、心が洗われる気がするの」


「そう。でも、旦那様が変わらなければ、根本的な解決にはならないわ。克服しなければ」

私は彼女の手をそっと握った。冷たく湿っている。


「離婚しても、彼が生きている限り、あなたのトラウマは消えない。彼がどこかで息をし、あなたを憎んでいるかもしれない、という妄想が一生あなたを追い続けるわ」


「……じゃあ、どうすればいいの?」


縋るような目が向けられる。


「自分の手で、今の状況を『打開』したという確かな証が必要なの。今のあなたを殺して、新しく生まれ変わるための儀式が」


私は「可能性」といった曖昧な言葉を使わず、断定的な救いだけを与えた。彼女が望んでいるのは、実現可能に見える「残酷な希望」なのだ。


「自分の声に耳を傾けて。心の奥底で、あなたは何を望んでいるの?」


微笑みかけると、石坂さんの瞳に、一瞬だけ昏い火が灯った。


彼女が帰った後、私は「観察記録」に一行書き加えた。


――石坂さん。収穫まで、あと少し。





石坂さんを見送った後、私は庭へ出た。ホースから放たれた水が午後の光を孕み、小さな虹を作る。トマトの実は、私の完璧な管理下で、瑞々しく、そして毒々しいほど赤く熟れていた。


「……もうすぐね」


独り言ちた瞬間、インターホンが鳴った。


モニターに映っていたのは、同窓会の会場にいた刑事――滝川警部補だった。その後ろには、猟犬のような若い刑事、佐山が控えている。


私は静かな高揚感を胸に、ドアを開けた。


「お忙しいところ、申し訳ありません。警視庁の滝川です」


「いえ……何か進展があったのでしょうか?」


私が首を傾げると、滝川の視線は私を通り越し、背後の庭へ向けられた。


「素晴らしい菜園だ。……脇芽が一つも残っていない。完璧に『管理』されている」


その一言に、私の背筋を心地よい震えが走った。彼は私の顔を見る前に、私の作った「世界」の本質を見抜いたのだ。


「今日は別件です。高橋智花さんが、失踪しました」


「……えっ」


私は驚いた表情を「着飾った」。


だが滝川は、瞳孔の動きや喉の僅かな震えを計測するように、無機質な視線を外さない。


「彼女だけではありません。一年前には小田さん、半年前には田島さん。失踪した三人には共通点がある。……全員、あなたの中学時代の同級生です」


「智花さんたちとは、卒業後も交流が?」


「いいえ。地元で見かけることはあっても、連絡を取り合うことはありませんでした」


私は淀みなく答えた。滝川はスッと目を細める。それは疑いというより、何か美しい数式を解いた時のような目だった。


「……そうですか。お忙しいところ、失礼しました」


彼は一礼し、去り際にもう一度だけ庭のトマトに目をやった。


「滝川さん」


呼び止めると、彼は振り返る。


「何か気づいたことがあれば、連絡したほうがよろしいですか?」


「ええ、ぜひ。あなたの『観察眼』なら、私たちが気づかない小さな変化にも気づけるはずですから」


不純物を取り除いた硝子のような瞳。その透明さゆえに、刃のように鋭い。


彼らが去った後、ペンを握る手がわずかに汗ばんでいることに気づいた。



「滝川さん……」


その名を口の中で転がす。十三年前、我が家を訪れた小野寺は、湿った泥のような執念を持っていた。だが、この滝川は違う。私の「庭」に現れた、最高に手入れのし甲斐がありそうな標本だ。


「滝川さんのトマトも、作ってみようかしら」


恐怖より先に、胸の奥で甘い疼きが走った。私の「収穫祭」に、これほど素晴らしい『客』が招かれるなんて。



虹の消えた庭を見つめながら、私は静かに、深く微笑んだ。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ