愛すべき友人・一華
千尋が去った後の邸宅は、不自然なほどの静寂に包まれていた。
私は、スポンサーが用意した個展の打ち合わせを淡々と済ませる。
日本での本格的な活動再開。それは、私の「作品」たちが、この国の無垢な土壌に毒を撒き散らすための、壮大な舞台装置に過ぎない。
「あれが、千尋さんか」
遅めの夕食時、ルイがボルドーのグラスを傾けながら呟いた。
「思っていた通りだよ。どこにでもいる、『普通の幸せ』に飼い慣らされた女だ。夫に媚び、隣人に微笑み、自分の深淵には蓋をして生きている。つまり、退屈な素材だ」
「千尋を、そんな言葉で括らないで」
私は冷たく言い放った。ルイには、フランスにいる頃から千尋の動向を監視させていたが、彼には本質が見えていない。
千尋は、誰にも媚びない。
彼女は、ただ世界を「剪定」しているだけなのだ。その庭師の慈悲深さが、凡庸なルイには「普通」に見えるだけのこと。
夕食を終え、私はルイに命じた。
「シャワーを浴びて、私の部屋へ来なさい。あなたのその空虚な肉体で、私を慰めて」
二階の寝室。
ラタンチェアに深く腰掛け、窓の外に広がる森を見つめる。
私の記憶は、13年前のあの放課後へと、吸い込まれるように戻っていく。
「一華。あなたは、わかりすぎて処理できなくなるから、『人のことがわからない』と言っているんじゃない?」
中庭のベンチ。
千尋のその一言は、私の魂の核心を正確に射抜いた。
当時の私は、周囲の人間の浅ましい悪意や、いじめっ子たちのドロドロとした優越感に共鳴し、自分自身が誰なのかも分からなくなっていた。
「あなたの強い共感力は、同時に強烈な想像力でもあるのよ」
千尋は私の手を取り、その温かな指先で、私の絶望を優しくなぞった。
「鏡は、他人の醜さを映すためのものじゃない。自分の中にある『最高の自分』を映し出すためのもの。一華、私と一緒に歩きましょう。私が、あなたの鏡になってあげる」
あの瞬間、千尋は私の「庭師」になったのだ。
彼女は、雑草にまみれた私の精神を剪定し、狂気という名の肥料を与え、私を「芸術家」へと育て上げた。
「手をつないで歩く?」
差し出された彼女の手。それを握った瞬間、私の地獄は、光に満ちた聖域へと変わった。
以来、私にとって千尋以外の人間は、すべて背景——私の成長を彩るための、あるいは排除されるべき「肥料」に過ぎなくなった。
思考を現在に戻す。 ルイが部屋に入ってきた。
月明かりに照らされた彼の肉体は、一見すると美しい。だが、その中身は空っぽだ。
私はルイをベッドに押し倒し、獣のような本能で彼を貪る。
ルイの顔を、千尋の夫・明の顔と重ね合わせる。
千尋は、あの男とどのような交わりを持つのだろう。あの実直そうで、退屈な男。
千尋が明に抱かれる瞬間を想像し、その嫉妬と憎悪が、私の身体を激しく震わせる。
「……千尋、千尋……」
ルイの耳元で、私は彼女の名前を喘ぐ。
絶頂の瞬間、私の脳裏に浮かんだのは、千尋の夫を「剪定」し、彼女の人生から完全に排除する光景だった。
ルイが眠りについた後、私はベッドを抜け出し、廊下の突き当たりにある「聖域」へと向かった。
そこは、壁一面に千尋の写真が貼られた、私の真のアトリエ。
再会した日に撮った、千尋と明が並ぶ写真。私はその明の顔を、鋭利なナイフで執拗に切り裂いた。
「千尋……愛している。絶対に、許さない」
私は分厚いノートを開き、今日、私の指先が触れた千尋の肌の質感、彼女が放っていた微かな香りを、狂気的な執着で記録していく。
下腹部が熱を帯び、嗚咽のような声が漏れる。
「あなたの中には、私だけがいればいい。私の中には、あなただけがいればいい」
燃える心臓を互いに食らい合い、私たちは一つになる。
その「収穫の時」は、もうすぐそこまで来ている。
私はノートを閉じ、暗闇の中で静かに、しかし狂おしく微笑んだ。




