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収穫祭 「私の心臓を掴むあなたの手が冷たくも温かい」  作者: 秦江湖


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深淵への招待・千尋

一華の退院から数日後、私は彼女の邸宅へと招かれた。


都心から離れた森の奥に佇むその家は、家というよりは、一つの巨大な「温室」のようだった。



高い塀に囲まれ、外部の視線を拒絶するその空間は、一華という芸術家の狂気を純粋培養するための揺り籠だ。


「いらっしゃい、千尋」


出迎えた一華は、漆黒のラウンジウェアを纏い、彫刻のような美しさを湛えていた。彼女の背後には、ルイという名の美しい青年が控えている。



「私のパートナーよ。パリから連れてきたの」


一華の言葉に、ルイは人懐っこい、しかしどこか虚無を湛えた笑顔を見せた。


家の中に足を踏み入れると、そこには一華の「作品」たちが所狭しと並んでいた。


壁に掛けられた巨大な絵画——『サバト(魔女の宴)』。炎に照らされ、狂喜乱舞する女たちの肉体。それは、一華が内に秘めた破壊衝動が、キャンバスの上に溢れ出したかのようだった。



「これは……」


「私の祈りよ、千尋。異質なものを排除しようとする『正気の者たち』への、ささやかな復讐」


一華の声は、心地よい音楽のように私の鼓膜を撫でる。



アトリエの奥には、彼女の原点だという『蜘蛛の糸』が鎮座していた。


忘れもしない。彼女が中学のときに作って、全国コンクールで最優秀賞を獲得した、一華の芸術的才能が爆発したきっかけの作品。


無数の手が、天から垂れる一本の糸を掴もうと、互いを踏みつけ、引き裂きながら伸びている。その鬼気迫る造形に、私は自分の心臓を直接掴まれたような戦慄を覚えた。



「ねえ、千尋。私のアートスクールに通ってみない?」


昼食の席で、一華が唐突に切り出した。


「スクール?」


「ええ。あなたの内側にある『殻』を破る手伝いをさせてほしいの。あなたは、もっと自由に、もっと美しく羽ばたけるはずよ」


一華はエッグスタンドからゆで卵を取り出すと、驚くほど優雅な手付きで、その白い殻を剥き始めた。


「殻を脱ぎ捨てた後の中身が、どれほど芳醇で、残酷な美しさを持っているか……私はそれを知りたいの」



剥き出しになった滑らかな白身を見つめる一華の瞳は、捕食者のそれだった。


私は、自分の内側で何かが小さく、しかし決定的に壊れる音を聞いた。


退屈な日常。優しいけれど、私の深淵には決して届かない夫・明。


私は、一華が差し出す「毒入りの果実」を、自ら望んで口にしようとしている自分に気づき、密かな悦びに身を震わせた。



「ええ、喜んで。一華、私を……あなたの好きなように『剪定』して」



私たちの視線が重なり、火花が散る。



その夜、夫の明と交わした抱擁は、かつてないほど激しく、空虚だった。


私の心はすでに、あの森の奥の温室へと、一華という名の狂気の腕の中へと、完全に囚われていたのだから。




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