救世主・千尋
私が本格的に疑われていると実感したのは、警察署に連れていかれてからだ。
「少し参考にお話を」と呼ばれ、捜査に協力するつもりで応じたのに、通されたのはドラマで見るような取調室。そこで初めて、あの惨状の詳細を聞かされた。
ホテルが出した三種類のスープのうち一つに薬物が混入されていたこと。
そのスープのテーブルのそばに、倒れた人たちがよそいに来た時間帯、私と一華が長くいたというクラスメイトの証言があったこと。一華は飲んで倒れた被害者側だが、必然的に「残るのは私」になるという理屈だった。
もちろん、薬物など入れていない。私は否認した。あの惨状を見たせいか、自分でも驚くほど落ち着いていた。倒れた人たちの症状も軽く、すでに回復しているというのもあった。
それでも、刑事たちはなかなか私を信用しなかった。困り果てていたとき、ドアが開き、一人の若い刑事が入ってきて私の前にいた刑事に耳打ちした。
「橋本さん。ご協力ありがとうございました。どうぞお帰りください」
そう言われた瞬間、全身から力が抜けた。
取調室を出ると、廊下にさきほどの若い刑事が立っていた。
「私がお見送りします」
年配の刑事が、彼に恭しく頭を下げる。若い方が上司らしい。
「今回の事件を担当しています。警視庁の滝川です」
きちんとした身なり、背筋の伸びた姿勢、真っ直ぐ結ばれた唇。第一印象は、実直な人間だということだった。
「どうもご迷惑をおかけしました」
彼が頭を下げるので、かえって申し訳なくなる。
「いえ……そういうお仕事ですものね」
「どうして急に、私の嫌疑が晴れたんですか?」
そこが気になった。
「証言があったからです」
「証言?」
「小川一華さんです。同窓会で倒れた彼女が、“ほとんどの時間、橋本さんと一緒にいた”と。被害者たちがスープを取る直前にも、一緒にいたと証言しました。防犯カメラにも、それに近い時間帯に二人で映っている映像が残っていま「なにかわかったら、ご連絡した方がいいですか?」
「はい、ぜひ」
名刺を受け取る。「警視庁捜査一課 警部補 滝川隆一」とある。
「もしかしたら、相談したいことも出てくるかも……」
自分でも意外な言葉が口をついたが、すぐに首を振った。
「いえ、なんでもないです。なにか聞いたら必ず連絡しますね」
「はい」
端正な顔は、ほとんど崩れなかった。
*
署の玄関を出ると、明さんと一華が立っていた。
「千尋!」
「明さん、一華」
「橋本さん、ご協力ありがとうございました」
滝川は一礼して中に戻っていった。
「千尋、大丈夫か?」
「平気よ。ただ、ちょっと疲れたかも」
「警察から電話が来たときは驚いたよ……受付で話してたら、小川さんが声をかけてくれてね。詳しい話を教えてもらったんだ」
「千尋。素敵な旦那様ね。仕事を置いて、こんなに汗かいて来てくれるなんて」
「一華、あなたこそ。こんなところにいて大丈夫なの? 体は?」
「私なら大丈夫。本当は明日まで寝てなさいって言われたけど、千尋が心配で。それに、いろいろ忙しいの」
「一華。私を助けてくれて本当にありがとう。あなたの証言がなかったら、どうなってたか」
「そんなこと。それに防犯カメラの映像を見ればすぐにわかることよ。私が証言しなくても、千尋はすぐに帰れたわよ」
一華はそう言うが、私は首を振った。
「私が千尋に受けた恩を考えたら、これくらい当然だよ。クラスで孤立していた私を気にかけて助けてくれたのは、千尋だけだった」
「いいのよ、そんな昔のこと」
「千尋、小川さんにお礼をしないと」
「そうね。一華、今度日を改めて食事でもどう?」
「それなら、今度は私の家に遊びにおいでよ」
「それではかえって気を遣わせてしまいます」
「明さん、気にしないで。それじゃあね、千尋。また連絡する」
一華はタクシーに乗り込み、去っていった。
「僕らも行こうか」
「ええ……」
歩き出そうとしたとき、ふと視線を感じて振り向いたが、誰もこちらを見てはいなかった。疲れて過敏になっているだけだと自分に言い聞かせ、明さんの車に乗り込んだ。
家へ向かう車の中で、本当に心の底から解放感がわき上がってきた。
「千尋、さっきの話だけど」
「なに?」
「小川さんが言っていた、“君に助けられた”っていうのは? なにかあったの?」
「中学のときの話。一華はいじめられていて……同じクラスだったから、それを止めたの」
「そうか。勇気があって、正義感が強いんだな。なかなかできることじゃないよ」
「そんな立派なものじゃないわ。ただ、それ以来、一華とは仲良くなって。転校するまで、いつも一緒だった」
「いい友達を持ったね」
「うん。一華は私の親友なの。だから明さんも、一華と仲良くしてね」
「ああ」
一華。
あのとき、私はあなたのことを考えていた。私にはこうして新しい家族がいる。あなたには、新しい家族がいるのだろうか。両親を突然失い、私の前から消えた後、どうやって生きてきたのだろうか――そんなことを、ずっと。




