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収穫祭 「私の心臓を掴むあなたの手が冷たくも温かい」  作者: 秦江湖


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10/12

生活・千尋

夕食の支度を終え、私はリビングの静寂に身を置いた。時計の秒針だけが、カチ、カチと乾いた音を刻む。


その音は、まるで私の心臓の鼓動のように、退屈な日常を正確に計測しているかのようだった。


テーブルには、サランラップに覆われた私と明さんの夕食が、まるで絵画のように配置されている。私は、その構図を崩すことなく、古いトマトの観察記録ノートを静かに開いた。


ノートの横には、一華がスクールに通うために用意した、真新しい彫刻刀が置かれている。


「最初は木彫りから始めると良い」と言われて買ったものだ。最初は指先に馴染まなかった硬質な感触も、今ではもう、私の身体の一部のようにしっくりとくる。


ページをめくりながら、私はこの記録をつけていた頃の自分を思い出そうとした。あの頃、私は何を求めていたのだろう。


カチ、カチ……。時計の音に合わせて、私は無意識に彫刻刀の刃先をノートの表紙に立て、引く。


その動作を、まるで瞑想のように繰り返す。結婚はたしかに良い選択だった。


明さんは優しく、経済的にも安定している。しかし、この完璧に管理された日常の、底なしの退屈だけは、どうしようもなかった。この空白の時間を、私はどう埋めればいいのだろう。



ふと時計に目をやると、20時を少し過ぎていた。


「あっ」。明さんが帰ってくる時間だ。


私は立ち上がり、ノートと彫刻刀を片付けるために自室へと向かった。私の「庭」は、常に整っていなければならない。



翌日の午後。私はアートスクールが入るビルの一階のカフェで、スクールの友人たちと時間を過ごしていた。


窓辺に並ぶ三人に春の日差しが降り注ぐ。


「どう?もうスクールは慣れた?」


猫目のきりっとした顔立ちの下島さんが、カップを手に私に問いかける。


三人の中では最年長だが、その落ち着きは年齢以上だ。


「ええ。皆さんにこうして仲良くしてもらっているおかげで、彫刻以外の楽しみも増えました。こうして話すのも新鮮で」


「おかげとかやめてくださいよ!」


ボブカットの斉藤さんが、悪戯っぽく笑いながら手を振る。


三人とも既婚で子どもはいない。


そんな共通点もあってか、私たちはすぐに打ち解けた。家庭のこと、ご近所のこと、最近のドラマ。ケーキをつつきながら、話題はとめどなく変わっていく。


「じゃあ橋本さんって、一華先生と同級生なんだ!」


話題が一華に及ぶ。


「中学のときだけど。それ以来ずっと会っていなくて。再会したら芸術家になっていて、びっくりしちゃった。お二人はどうしてこのスクールに?」


「私は暇だからかな。暇な時間に何か打ち込めるものが欲しかったの。ここの広告を見て」


下島さんの言葉は、私の心の奥底に響いた。私もまた、この底なしの退屈を埋める何かを求めていたのだ。


「私も似たようなもんですけど、それより橋本さん。村重君ってどうですか?」


斉藤さんが身を乗り出す。


「村重君って……村重先生のこと?」


「そうです。村重君。なかなかイケメンじゃない?」


たしかにそう思っていた。


「ここの生徒達の間では人気なんですよ」


「狙っている人もいるしね。ここんとこ橋本さんにつきっきりだから妬みとか気を付けなよ」


「妬みって、私は別に」


「私は橋本さんと村重君、お似合いだと思いますよ」


「もう、やめてください」


私は苦笑するしかなかった。彼らが私をどう見ているか、私は常に観察している。


「あっ、もうこんな時間。授業始まるし、そろそろ行こうか」


三人で席を立ち、スクールへ向かった。一華のスクールに通って二週間。


いつの間にかこうしてカフェで話せる友達もできた。


ご近所とはまた違った人間関係。家にこもったままでは手に入らなかった、新しい「庭」が広がりつつあった。


私はこの新しい日常に、新たな「観察対象」を得たような楽しみを感じていた。



教室では、三人で他愛もない話をしながら、十五センチほどの木を彫っている。


こうして気の知れた相手と作業していると、まるで学生の頃に戻ったような気分だ。そのとき、村重先生が私たちのテーブルに近づいてきた。


「大分慣れてきましたね。上達してますよ」


「そうですか?」


初心者の私には、その言葉がうれしかった。


「村重君、私たちは?」


「お二人もどんどん上達してます」


他愛もないやり取りのあと、彼は私に向き直った。


「橋本さんは、そろそろ次のステップに行きましょう」


「次のステップ?」


「今まで三日で仕上げていた作品を、一日で彫ってみるんです」


「一日なんて無理ですよ」


「大丈夫です。できなければ二日でもいい。ただ、目標を一日に設定するだけです」


「なら安心しました」


二人も「頑張れ」と笑ってくれたとき、教室のドアが開き、一華が入ってきた。


「一華先生こんにちは!」


「皆さんそのまま続けてください」


教室内には「今日も素敵」「憧れちゃう」といった囁きが飛び交う。


彼女は、この「庭」の女王だ。そのとき、一華が村重先生を呼んだ。


「村重君。ちょっと」


「はい」


一華の方へ向かう彼の背中を、私はいつの間にか目で追っていた。彼の「成長」もまた、私の「庭」の一部になる。


スクールが終わり、私が二人とビルを出たときだった。


「千尋!」


背後から、一華の弾む声が聞こえた。


「久しぶりに一緒に帰らない?」


「私たちちょっと用事あったんだ。ごめんね、橋本さん。またLINEするね」


下島さんが斉藤さんを引っ張っていく。彼女たちの「配慮」は、一華の「計画」の一部だろうか。私は静かに観察する。



夕方の街を、久しぶりに一華と二人で歩く。


「こうして千尋と歩いていると懐かしい。中学時代を思い出すわ」


「今は住んでいる場所も違うけど、景色だけ昔のままみたい」


コンビニでコーヒーを買い、イートインに腰かけると、一華が尋ねた。


「ねえ。村重君どうだった?」


「丁寧で優しいし、良い先生だよね。それにイケメンだし」


「でしょう?教えるの上手いからっていうのもあるけど、なにより千尋にはお似合いだと思って彼にしたの」


「えっ」


「ふふ、冗談よ。彼ね、創作のことで悩んでいるの。だから千尋に専属で教えるようにしたら、なにかきっかけになるかなって」


「私にそんな芸術的なこと、無理よ」


「できるわ。千尋なら」


一華に言わせると、『蜘蛛の糸』を作れたのは私と出会ったおかげだという。


だが、あれは彼女自身の才能だと、私は思っている。私は、その「花」が咲くための「土壌」を整えただけだ。



個展の話などをしながら、私たちはまるで学生のように語らった。


錯覚とわかっていても、懐かしく楽しい。


一華はどうなのだろう?昔のような屈託のない笑顔を見せる一華を見ながら、私はふと思った。彼女の「花」は、今まさに満開を迎えようとしている。



買い物の時間になり、私たちはコンビニを出た。


「今度、私の家へ遊びに来てよ。お礼もしたいし」


「それじゃあどんどん先になっちゃう。時間を作って行くわ。千尋の誘いだもの」


その言葉に、私の心に小さな「芽」が芽生えた。



一華は近所のスーパーまで車で送ってくれて、日程はLINEすると言って帰っていった。



夕日の向こうに消えていく車をしばらく眺めていると、センチメンタルな気分になっている自分に気づいた。


私の「庭」は、確実に広がっている。



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