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収穫祭 「私の心臓を掴むあなたの手が冷たくも温かい」  作者: 秦江湖


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白銀の剣・小川一華

この指先は、かつて私を蹴り飛ばしたあの足首の一部だった。

今ではこんなに静かで、美しい。まるで精巧な磁器のように滑らかな肌触り。

私はそっと、その骨の感触を確かめるように作品を撫でた。



すべては、13年前のあの『収穫』から始まったのだ。 饐えた埃の匂いと、安物の煙草の煙。それが私の実家の色だった。


13年前、私はその泥濘の中で死ぬのを待っていた。家でも学校でも、私は常に最下層の存在だった。


人の心の奥底に渦巻く感情が、まるで粘りつくような黒い油の塊となって、足元から這い上がってくる感覚。胃の底がせり上がり、喉の奥で酸っぱいものが弾ける。


そんな身体的な不快感から逃れるため、私は自分自身に魔法をかけた。


「私の心は決して折れない白銀の剣」


私は強い。だからどんなことも耐えられる。


そう、幼い頃に見たアニメのヒロインが、自分に言い聞かせるように。


それは、この世の嫌いなものに対抗する、私にとって唯一の手段だった。



私が他者の感情をはっきりと自覚したのは、多分、小学校五年生のころ。母親の新しい恋人が、新しい父親のように家に居座るようになってからだ。


私に向けられる、口では言い表せないようなねっとりとした感情に触れたとき、自分の中が真っ黒に染まっていくような感覚に襲われた。


足元から広がる真っ黒いねばねばしたものが、ぬめぬめと波打ち、ミミズのように私の体にまとわりついてくる不快感。


母親もまた、尖った針先のような感情を私にぶつけてきた。子供ながらに「これが悪意というものか」と感じた。



家は汚れ、私にとって食事も風呂も贅沢なものだった。嬲られないときは放置され、そんな生活がずっと続いた。


もともと人付き合いが苦手な私は、学校でも孤立していった。

それは当然だろう。髪はぼさぼさで何日も洗っていない。制服も汚れ、私からは絶えず異臭が漂っていた。


心に壁を作り、顔を伏せて過ごす私は、学校でも「異質な存在」だった。そして人間は「異質な存在」に容赦しなかった。


悪意と攻撃が言葉になって、毎日、私の耳の奥にねじ込まれた。

言葉だけでなく、その裏に隠された感情までが、私の皮膚を突き破って中に入り込んでくる。そのうちの一人が、私の背中を蹴飛ばした。物理的な暴力は楽だ。皮膚の外で終わってくれる。中まで入ってくることはない。


そんな私を、他のクラスメイトは見て見ぬふりをした。

「いじめられるほうに原因がある」と、言わんばかりの冷たい視線が突き刺さる。

私にとって「悲惨」というものは、もはや日常の風景だった。



この日常は卒業まで変わらないだろう。そう思っていた。


そんなある日、私は人気のない場所に呼び出された。クラスメイトの一人が、私の顎を掴み、嘲るように言った。


「綺麗にしてあげるから、服を脱げよ」


こういうことが、そのあと何に繋がるのか、私は嫌というほど知っていた。裸の写真をアプリに投稿して買い手を見つける。要は売春だ。彼女たちはどうか知らないが、私は性的な関係は、こうなる前にすでに体験していた。


相手は母親の恋人だ。だが、そんなことはそのときの私にとって、どうでもいいことだった。意に反した相手とのセックスは、なんの苦痛にもならない。


私の精神は、セックスで干渉されるタイプの構造を持ってはいないからだ。

そんなことは些事にすぎない。

そうと知らずに、私に苦痛を与えていると思い込み、悦に浸っているこいつらが滑稽だった。 私は強い。


私の心は決して折れない白銀の剣。


今日二度目の魔法を自分にかける。



こいつらは哀れで貧相なカエルだ。いつでも殺せる弱い存在。だから私は醜い哀れなカエルに対して寛容でいられる。


強者は弱者に対して寛容でなくてはならないからだ。


そう自分を戒めても、私とて完璧人間ではない。だから心の中では何度となく殺戮する。加害する。


爪を剥がして、口から焼けた鉄を流し込む。ジュッ、という湿った音と共に、彼女たちの傲慢な肉体が内側から崩壊していく。

食道も胃も腸も焼け溶かして、灼熱の鉄が下半身から地面に垂れて「ジュ―ッ」という音と煙を立てながら濁った銀色の塊になる。そこに慈悲はない。


醜いカエルの手足を釘で刺して木に磔にする。そうして白い腹を切り裂くのだ。


頭の中でイメージしながら、物理世界では命じられるまま制服を脱ごうとした、その時だった。一人の女生徒が、その場に現れた。


「なにしてんの?」


私に向けられていた悪意が、一瞬で凍り付いたような気がした。


そこに現れたのは矢島千尋。クラスでも華やかで常に周りに人が絶えない、バスケ部のエースで、同級生や下級生からも人気が高い、絶対的な影響力を持つ存在だった。


千尋は制服を脱ごうとする私の手を掴み、もう一度、その言葉を繰り返した。


「なにしてんの?」 私は答えることができなかった。ただ固まってしまって、なにも言えなかった。


こんなことは初めてだったから。私がこういう場にいて、誰かが入ってきて止める、ということが。


「もうこんなことしなくていいから」そう言った千尋の笑顔は、この場には似つかわしくないほど明るかった。


しかし、その瞳の奥は、光をすべて吸い込み、反射させない暗黒の淵のように見えた。私はその淵に、自ら飛び込みたいと願ってしまった。


千尋は私をいじめていたクラスメイトに顔を向けると、「くだらないこと、止めようよ」と、声を荒げるでもなく、冷たい無機質な口調で言った。


いじめていたクラスメイトは困惑し、若干の怯えを滲ませたようにその場から去っていった。

今思い出しても感じるのは、そのときの千尋の口調は人間的なものではなかったということだ。

有無を言わせぬような威圧感から私が感じたのは、まるでカエルの群れに毒蛇が現れたような、絶対的な捕食者の空気だった。



「行こうか」


振り向き、満面の笑みで私に手を差し出す千尋は、まぶしいくらいに輝いていた。


私に初めてさした陽の光が、千尋だった。私はその手を、迷うことなく掴んだ。


それから私は千尋に連れられて学校の中庭に連れて行かれた。「座ろう」と促され、ベンチに腰掛けた私は、千尋が隣に座ってから自然と口が開いた。


「ありがとう……助けてくれて」


私を救ってくれる人がいるなんて、今まで思いもしなかった。


「気にしないで。ああいう幼稚ないじめって嫌いなの」


私はそう言う千尋の顔をまじまじと見てしまった。


手入れが行き届いた艶やかな黒髪。小さな顔に大きな瞳。人形のように整った顔立ち。清潔で白い肌は色艶もいい。それらが内から出る生気で殊更に輝いているように見えた。


眩しかった。


千尋は私にはないものをたくさん持っているように感じた。


「どうしたの?」 目を奪われていた私は千尋の声で我に返った。


私は千尋に変なヤツと思われるかと感じて言葉に詰まった後に、「でも仕方ないのかも……家には親ほとんどいないし、私も人のことわからないっていうか、苦手で……」と、言ってしまった。今思えばとても能無しな発言だと思う。


「私もわからないよ。人のことなんて。でもそんなのみんな一緒じゃない?気にしてもしょうがないよ」


千尋はあっけらかんと言った。なぜか千尋に言われたこの言葉が、私の心の奥底にすとんと落ちてきた。


「ねえ。私たち、友達になろうよ」

「矢島さんと私が?」

「私の目の前に他に誰がいますか?それに親しい人は千尋っていうの」


私を見つめ微笑む千尋につられて、自然と口許がゆるんだ。笑顔になったのはいつ以来だろう。愛想笑いはしても、本当に自然と笑みがこぼれたのは久しぶりだった。


私の防御魔法は、千尋の魅力の前にもろくも崩れ去った。


千尋が私の中に入ってくる。

それは今までと違って、ちっとも不快ではない。

千尋の「生命の美」に、私の心臓が焼かれていく。でもそれは苦痛とは無縁のものだった。




私をいじめから救ってくれた矢島千尋。彼女はいろんなアドバイスを私にくれた。私は彼女に夢中になった。千尋一色になったと言ってもいい。


千尋が私で、私が千尋。混ざり合う度にその思いは強くなった。


私が編み出した、この世で一番強い魔法。内に千尋を住まわせる。千尋になれば何でもできる。




ある日私は、千尋が出ているバスケの試合を応援していた。残念ながら試合は負けてしまったが、私は千尋を見て違和感を抱いた。


「あれ……?」


悔し泣きしているチームメイトの輪にいながら、千尋だけが普段と変わらない笑顔。


あの顔を見たときが最初だった。彼女が、矢島千尋がもしかしたら私に近い人間なのではと思ったのは。


私とは種こそ違うものの、異質な存在。そう思うと余計に私は惹かれていった。


似たような異質でも、彼女は私にないものをたくさん持っている。


私は千尋にどんどんのめりこんでいった。



おして13年。私は彼女になるために、この庭を耕し続けてきた。そして今日、ようやく収穫の時期が来たのだ。



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