短編版「あの日の島」
「ねーパパ、。」「なぁに?」「お魚いっぱいで楽しいね。」「そうだなぁ。」
「ね―ママ。」「なぁに?」「人がいっぱいで楽しいね。」「そうねぇ。」
小さい頃の俺は、よく喋る方の子供だっただろう。あの日までは――。
その日は、夏休みだった。小学一年生の時に味をしめた俺は、二年生ながらに、夏休みが楽しみで仕方なかった。特にその日は、以前から家族全員で計画していた家族旅行の、最終日だった。遊覧船で、両親と一緒に、ジンベエザメやウミガメを見たりした。俺にとってはそのすべてが非日常で、すべてが新鮮で、面白くて――楽しかった。船が沈むまでは。
「島ぁ?そんなところに島なんかあるわけねぇだろ。そんなとこに島なんかあったら、俺ぁ食っていけねぇわ。」
「……そうですか。お時間、ありがとうございました。」
「おう、なんか悪いな。力になれなくて。」
「いえ、そんな事は……。島がないというのも、僕にとっては大事な情報ですから。」
「そうか、早く、探し物が見つかるといいな。」
「そうですね。早く、見つかってほしいな。」
親切な漁師にお礼を言って、そこを離れた。高校二年生の夏休みを使って訪れた、海で有名なこのリゾート地は、九年前に両親と訪れた思い出の地であり、両親と過ごした最後の場所でもある。
「ちょっと休憩っと。」
俺は誰に言うでもなく、そう言って港に設置されたトンブロックに座る。鞄から水筒を取り出して中の水を飲む。午前九時から漁師に聞いて周り、正午まで。およそ三時間歩き回った俺の身体は、猛烈に水を欲していた。
「水がうめぇ」
三時間も飲まずに歩き回ったせいか、ただの水でもものすごく美味しく感じてしまうようになってしまった。これは、ここまでで唯一の成果かもしれない。正直、ショッキングな事件だったはずだが、事件が起きた地域でここまで情報が手に入らないとは、思ってもいなかった。
「おやおや、お兄さん、今日も調査かい?頑張ってるねぇ。」
一人の老婆が、俺にそう話しかけてきた。
「あ、ふみこさん。」
ふみこさんは、俺がここに来て知り合った地元の方で、俺の調査に協力してくれた最初に人だ。ちょくちょく、おにぎりとかもくれたりする。
「知りたいことは、知れたのかい?」
「いえ、それがほとんど情報がなくて……。」
「そうかい。困ったねぇ……。」
絶対に今年見つけなければならないわけではないのだが、そう何度も来れる場所ではないので、困ったかと言われれば、そうだと言うしかない。
「まあ、それなりに。それよりも。」
俺はさっきから気になっていたことを聞く。
「そこの方は、お孫さんですか?」
俺は、そこのと手で示しながら聞く。俺に手を向けられたその子は、――人見知りなのだろう――変な声を出してふみこさんの陰に隠れた。
「ああ、こいつかい?」
ふみこさんはもので言うようにその子の事をこいつと称した。
「こいつ、じゃないですよ。この子、です。」
「こいつ、でいいのよ。」
ふみこさんは気を悪くしたような声でそう訂正した。
「淀、前に出なさい。」
「……。」
淀、と呼ばれた七歳くらいの子供は、ふみこさんに言われ、無言で前に出た。その子は、幼さゆえの体躯に、男の子か、女の子かもわからない見た目をしていた。髪と瞳は日本人でも珍しいほど黒く、肌は南国の人間と思えないほど白かった。ショートで切り揃えられた髪は艶があり、袖の短いシャツから覗く腕は細くジーンズの上からでもわかるほどに脚は細かった。およそ、外遊びなどしたことがないのだろう。日焼けを知らない白い肌は、病的とさえ言えるほどだ。下から、無言で見つめてくるその目は、子供のはずなのに妙な凄みを持っていた。
「淀、自己紹介しなさい。」
「……。」
「早くしないか!」
「淀じゃ、以後よろしく。」
淀じゃ、と名乗ったのは、確かに子供の方だった。つまりは、淀の方だった。方言としてのじゃ、の表記ではなく、老人喋りとしてのじゃ、であった。しわがれた声は、ふみこさんよりも年を感じさせる。ふみこさんがいくつかは知らないが、声だけを聴き比べれば、百人中百人が、淀の方が年寄りだと言うだろう。
「どうした?珍しい犬でも見るような目をして、そんなに儂が珍しのか?」
一度喋りだしたら止まらないのは、年相応のようだが、幼いと言っても差し支えないほどの、見た目とあまりに違う声に、俺の脳は混乱していた。
(多様性の時代だもんな、あまり子供の喋り方についてとやかく言うものでもないか……。)
儂なんて、ふみこさんすら言っていないが。
「いやぁ、珍しい喋り方だなぁって……。」
「珍しい、のう……。柔らかく言ってはおるが、それは世間が変わってしてしまえば意味のないものになるのではないか?儂は、その時にいるかもわからんがのう。」
「?」
「まあ、わからずとも良い……。すぐにわかる。」
淀は視線を少し落とした。俺がそこに疑問を持つまで間もなく、ふみこさんが「よしっ」と言って膝を叩いた。
「私は帰ります。」
ふみこさんはそう言うと、老人とは思えない速さでスタスタと、どこかへ言ってしまった。
「儂らも行こうかの……。」
淀はそう言って、どこへと示すことなく歩き始めた。
「淀、どこへいくんだい?」
「どこって……まぁ、決まってるじゃろう?」
明らかに、決まってはいないだろう。夏休みが始まった日の朝一番の瓶でここに来てかれこれ二週間、手がかりとえばその海域に島はないということだけ。決まっているなら、俺はとうに見つけている。
「あそこは、少し特殊じゃからのう。」
淀は気まずそうに視線をそらして、また歩く。
「だから、あそこってどこだよ。」
「役所じゃ。」
拍子抜けの、あまりにも普通な回答に、俺はこう言った。
「そこはもう探したよ、そんな事故はないってさ。」
どこぞのお偉いさんに都合が悪いらしく、この事実はどういう手を使ったのか、なかったことにされていた。――あったのに、なかったことにされていた。
「ふん、お前ごときと一緒にしてくれるな。儂にかかれば、どんなやつでも事実を吐くにに決まっておる。」
どこからそんな言葉が湧いてくるのか、それも幼さゆえか、俺には豪語できない言葉を、淀は言いきった。自信たっぷりと、胸を張って。アニメだったら、それこそ腰に両手を当てているところだろう。これは現実だから、そんなことはしないが。
「一体どこから、そんな自身が出てくるんだか。」
「まあ、見ておれ。」
小さな島だから、港から島役所まで十分程で着いてしまう。十分間、俺と淀の間に流れていたのは、気まずい沈黙だった。
「淀はなんか好きな食べ物とかあるの?」
「ないの。なんか、食べの物が全て薄っぺらく感じての。」
「そんな事ないだろ?ほら、刺し身とか。」
「それは宮代の好きな食べ物じゃないかの?」
「……正解。」
「いたいけな子供に自分の趣味を押し付ける大人と同じものを感じるのう。」
「うぐっ。」
図星だった。この後にも何度か会話を試みたが、話せば話すほどに自分の汚さを見せられているようで、五分も経つ頃には会話を試みる気力すらも失われていた。なんというか、見たくない自分を見せられているような気がした。そんなのは、気の所為のはずなのに。
「儂に任せておけばよいのじゃ。ゆったりと、大船に乗ったつもりでおりなされ。」
「一体どこからそんな自身が湧いてくるんだか。」
「まあ、見ておれ。」
堂々と、そう言った淀はそれこそ家にでも入るような足取りで、そこに入っていった。眼の前にそびえ立つ、大きな建物に。
「たのもー!」
幼い、少し高い声が役所の一階に響き渡る。何人かの視線が淀に向けられるのが見えた。温かい視線もあれば、目障りなものを見るような視線もある。それは淀が子供であるからこその視線であり、追いかけてきた高校生の俺に向けられる視線は全くをもって異なる。淀に向けられたそれよりも、やや批判を含むような鋭い視線に耐えられなくて、「すいません、すいません」と誰へとなく謝りながら、俺は少し姿勢を低くして淀を追いかける。
「頼むから静かにしてくれ。」
「何故じゃ、なぜ儂が静かにせにゃならんのじゃ。」
「そういう場所なんだよ……。」
「そういう場所ならば、儂以外が静かにしていればよい、儂は儂の道以外を信用してはおらん。」
なんという幼さの狂気か、無邪気な笑顔で淀はそう言った。
「頼むから。」
「むう。」
淀は俺に、自分を連れて窓口へいくように指示した。どういうからくりかは教えてくれないが、淀が見えていれば教えてくれるらしい。
「受付番号二五七番の方〜。一番窓口までお越しください。」
「はい、二五七番です。」
「二五七番じゃ。」
窓口のお兄さんはカチカチとマウスをクリックして、俺の方を見た。少し俺を見て、すぐに視線を少し下の淀に移す。
「淀ちゃん、ふみこさんは、元気かい?」
「ばばあは、今日も元気じゃ。」
ばばあ、というのはなかなか口が悪いが、そこそこ仲が良いと受け取ることもできる。
「ばばあって……。仲良いなぁ。」
暇なのか、サボりたいのか、やたらと淀に絡む。
「今日はどうしたんだい?」
「九年前の沈没事故についての資料が欲しくての。くれんか?」
「金はあるのかい?」
「もちろんじゃ。宮代が出す。」
職員のお兄さんは、ちらりと俺を見た。
「見ない顔だね、新しくこっちにきた人?」
「まあ、そんな感じです。」
「ふぅん……。ちょっと待っててな。」
お兄さんはそう言ってカタカタと、パソコンに打ち込む。
「あった。」
ぱちんとエンターキーを押すと、後ろの印刷機が音を立ててガサガサと紙が落ちる。
「これでいい?」
ホッチキスで用紙の右肩を綴じて、俺に用紙を渡した。俺は渡された用紙をパラパラとめくり、少し目を通す。
「大丈夫です。」
「オッケー。料金は三百円ね。」
俺は、財布からなけなしのお金を少し取り、お兄さんの右手に置く。
「毎度ありー。」
俺と淀は、市役所を後にした。
「なんか新しいこと書かれておるかの?」
「……いや、特には。」
所変わって、市役所の横にある公園のベンチ。俺と淀は仲良く並んで座っていた。淀は字が読めないらしく、隣でつまらなそうに脚を振っている。かと言って、俺が読み聞かせるかと聞いても、いらないと答えるだけなので、俺もできるだけ手間を省きたいのも相まって、淀には引き続き暇でいてもらうことにした。
「そうか、それは残念じゃの。」
「そうでもないぞ。」
「どういう意味じゃ?」
可愛く首をかしげて問う淀に、俺はこういった。
「その時に調査した人の名前が書かれている。この人たちに当時の様子を聞いてみよう。」
「なるほど、なかなか賢いの。」
「そうか?」
「いや、それほど思ってない。お世辞というやつじゃ。」
「どういうタイミングでお世辞言ってんのさ……。」
「天啓があったときじゃの。」
「淀は、神の声でも聞こえてるの?」
「うんうん、聞こえてる聞こえてる。めっちゃ聞こえてる。もうそこらじゅうから聞こえてる。」
「そこら中から聞こえるのはまずいんじゃないのか?」
なんか別の問題がありそうだ。
「日本では神も仏も同じ扱いじゃが、ホントは明確に区別するべきだと思うのじゃ。」
「急にどうした。」
「自分の意見を言うことは大事、と言う話じゃ。」
「ふーん……。そうか?」
「そうじゃ。自分の意見を言えなければ、他人に搾取されるだけでよの。」
「そうか。」
素直に、達観した子供だと思った。自分は十歳のとき、ここまで考えたことがあっただろうか、ここまで、なにかについて思うことがあっただろうか。
ふと、淀をどこか遠くにいる人のように感じた。大して関わってもいないくせに、とても身近に感じていたのだ。俺は心底自分が気持ち悪く感じた。大して関わってもいない人を身近に感じていた、親しく思っていた自分を。そして、身近に感じる淀を。
「次はどこにいくか決まったかの?」
「そうだな……もと検事さんのところに行こうかな。」
「サツに会いに行くのか?」
「何だよ、俺が捕まるとでも思ってるのか?」
「確かに宮代は朝から港をうろついていたことを除けば、ただの男子高校生だけどの。」
「うぐっ。」
そこを突かれると痛い。さっきまで俺は確かに不審者だった。
「まあ、会いたければ行けばいいの。」
「けど、一つ問題があってな……。」
「なんじゃ?」
「住所がわかんない。」
大問題だ。職場、階級は当時のもので、今の階級も状況もわからない。ましてや、住所なんてもってのほかで、一文字も書かれていない。
「なんじゃ、そんなことか。それくらいのこと、気にする必要はないんじゃないかの?」
「どういう意味だ?」
「この島で、家がわからないなんてこと、ないのでの。」
盲点といえば盲点だった。小さい村や島では、地域住民がお互いの住所や職業を把握してることがあるというのは、知識や見聞としては知っていても、やはり感覚というものは拭えず、俺は無意識に、その手段を選択肢から外していた。
「あー……。なるほど?」
場所は変わって元検事、詩史柳の現在自宅前。俺と淀は横並びに立っていた。さすがにもう四時間近く一緒にいるわけで、それなりに打ち解けたと言って障りないだろう。さすがに、そのへんの住民に聞いて家がわかるとは思ってもいなかった。
「どうしたんじゃ、宮代。はよ押さんかい。」
「いやぁ、いざ押すってなるとちょっと尻込みしちゃって。」
「ヘタレってやつじゃのう。」
キャラ的に、小心者のほうがしっくり来るんだけれども、十歳にそこまで求めるのも酷だろう。
「えいっ。」
淀は、まっすぐに腕を伸ばしてチャイムを鳴らした。ピンポンという音の後、少ししてからスピーカーから「どなたでしょうか」と女性の声が聞こえた。
「えっ、あっ」
「はよせい。」
「すー。」
「詩史柳さんのご自宅で間違いないでしょうか?」
「はい。」
「九年前の沈没事故について少しお聞きしたいことがあるんですけど、お時間よろしいでしょうか。」
「……。」
「あのー。」
少しの間をおいて、その返事はきた。
「はい。少しそこで待っててください。」
ドタドタという足音が、玄関の向こう側から聞こえてくるのにそう時間はかからなかった。お世辞にも大きいとは言い難い家だ。大きいというよりも、高いという方が俺にはしっくりくる、三階建ての家だ。ガチャリと開けられたドアからは、老齢の女性が出てきた。門を開けた女性は、中までどうぞと、ドアの方へと誘導した。
「大きい家じゃの、宮代。」
「そうか?」
「まるで城ではないか。」
「まあ、確かに。」
客間だろうか、生活感のない部屋に案内された俺と淀は、椅子に座った。少し、先行の臭がする部屋だった。近くに仏壇でもあるのだろう。
「柳さんはどちらに?」
今思えば、なんとも無神経な質問だったのだろうと思う。避けようのないものだったが。もう少し聞き方はあったのではないだろうか。
「夫は、一ヶ月前に死にました。」
暗い、震えた声で、彼女は言った。
「ご愁傷さまです。」
薄っぺらい言葉だ。俺が一番よく知っている。関係のない人から言われるご愁傷さまですが、もっとも響かない、意味のない言葉だ。
「いえいえ。夫の意思を継いでくれる、あなた達が来てくれたのですから、これで夫も報われます。」
「むく……われる?」
淀はが繰り返した。俺も、同じところに引っかかっていた。死者が報われることなどあるのだろうか。死者の意思は、引き継げられるのだろうか。引き継げるのなら、知ることもできるのだろうか、パパとママがあの日、俺に言いたかったことも、知れるのだろうか。
「お嬢ちゃんには少し、難しかったかしら。」
「そんな訳あるかい。簡単じゃ。」
見栄の張り方は、年相応なのだった。いや、少し幼いくらいか。
「旦那さんも、生前はこの事故の真相を追ってたんですか?」
「ええ、これは事故じゃないとか、どこかのドラマで聞いたことがあるようなセリフを恥ずかしげもなく言ってね。結局、真相よりも先に、寿命がきてしまったけども、やっぱり無念だって、言ってた。」
「無念。」
きっと、俺と彼では事故を追ってる目的が違うから、無念を晴らせるかはわからないが、それでも同志だったのだろう。
「宮代さん、だったかしら。あなたのことも探してたのよ。あの人、少しでも真実に近づきたいって言ってね。彼が一番の被害者なんだって。……あなたに会ったこともないのにね。」
悲しいのか、懐かしいのか、想っているのか、懐っているのか。よくわからない表情だった。
「柳さんが生前に集めた資料はありますか?」
「あるわ。そろそろ、遺品の整理もしなきゃいけなかったから、ちょうどよかった。……上にあるの、ちょっと取ってくるわね。」
彼女はゆっくりと立ち上がり、部屋を出た。
「変な女じゃのう。」
「そうか?確かに、ちょっと元気だなとは思ったけど……。」
パートナーが亡くなった傷は、こんなに早く癒えるものだろうか。まあ、癒えるのだろう。癒えているから、元気なのだろう。
「あいつ、ちょっと遅いのう。」
「そうか?あの年じゃ、階段登るのも一苦労らしいから、これくらいは普通だと思うんだけど。」
「そうなのか。」
その時、何かが階段を転げ落ちる音がした。いや、この表現は適切ではなかったか。何かが、階段から、大きな音がした。俺と淀が見に行って、そにで仰向けになっているあの老女がいた。だから、俺はあの音が転げ落ちる音だったのだろうと思った。
「何じゃろうな。」
「嫌な予感がする。」
俺は立ち上がって階段の方を見た。壁から少しはみ出る形で。老女の上半身が力なく横たわっていた。
「おええぇぇぇぇっ。」
血がゆっくりと広がっていく光景が、薄っすらと消えつつあった地獄のような記憶と重なる。
「落ち着け、宮代。まだ生きておる。」
「生きて……る?」
いつの間にか、淀は老女のそばに寄って。止血を試みていた。無駄だろう。頭からドクドクと流れ出る血の量は、もう輸血しないと助からない量だと見られる。心臓マッサージは、血の流出を手助けすることになる。
「心臓がまだ動いておる。救急車とやらを呼べば、まだ助かるやもしれん。」
「……。」
「え?」
老女が、何かを呟いた。
「随分と可愛らしい死神様だねぇ。あなたが死神様だったのねぇ。」
「私もそっちにいくからねぇ。」
老女はそっと目を閉じた。笑顔だった。この島には救急車がなくて、ドクターヘリが到着したのはそれから二十分後だった。身元を知らないか、とか、老女との関係は、とか。いろんなことを聞かれたけど、俺達に答えられることは何もなかった。何も知らない俺達を、搭乗員の方々は怪しむように俺を見たが、何も聞かずに老女を病院まで運んでいった。
「そのノート?には何が書かれておるんじゃ?」
「んっとねぇ……。」
所変わって、詩史家近くの公園の東屋。淀に聞かれた俺は、改めてノートの表紙を見る。荒波島沖遊覧船沈没事故と几帳面な字で書かれた表紙は、詩史柳と書かれている。ペラペラとノットのページを捲っていくと、とあるページに行き当たった。事故当時の遊覧船会社の社長のページだった。そのページは、事故当時の雑誌の切り抜きがそのまま貼られていた。
「何が書かれているんじゃ?」
「社長、捕まってないんだって。」
「何の?」
「あの会社の。」
「ふぅん……。なんか問題あるのか?」
「警察と癒着……友達だったから、逮捕を逃れたらしい。」
「なるほどの。」
淀は、よくわからないというふうに、脚を前後に振って身体を揺らしている。俺は、そんな淀をよそに、その記事に目を通す。
島中社長、証拠不十分で不起訴処分に。警察と癒着か。事件事故が起きる度にマスコミが騒ぎ立てるための定型文のような決まり文句だ。彼女を知らなければ、ここに驚くことも、ほぼなかっただろう。当時の社長の名前は、島中淀。事故の六年後に、謎の死を遂げている。
「次に行く場所は決まったかの?」
「いやあ、今日はこのノートの中をじっくりみたいかも。」
もし本当に、淀が島中だったなら、このノートの中身を見られていい気はしないだろう。
「そうか。では、儂も帰るとするかの。」
そう言って、淀は公園から出ていった。俺は、公園から出て、マップアプリを開く、ホテルの位置を指すと、アプリのナビ機能が指示を出してくれる。俺は歩きながら、頭を働かせる。
思えば、不思議な点はいくつかあった。ふみこさんは淀のことをこいつと称した。まるでペットや物でも指しているようだった。尊厳がないと思った。だから俺はふみこさんに訂正を要求した。もし、淀が島中淀だったら?――いや、そもそも年齢が合わない。島中淀は当時五十六歳、今では少なくとも六十五歳。淀はどれだけ年を多く見積もっても、十二歳は超えまい。
「四◯七号室の宮代様でございますね。おかえりなさいませ。」
ホテルで受付の人が笑顔で対応してくれる。
「はい。」
ホテルでチェックインした俺は、よくわからない安堵に包まれる。部屋に戻ったときには、全身から力が一気に抜けた。
「とりあえず、風呂……。」
疲れたときにはとりあえず風呂だ。リラックスしなければ。俺は重い体を引きずってキャリーケースを開ける。とりあえず三日で一周するように積み込んだ着替えは、昨日洗濯したばっかりで、綺麗に折りたたまれた状態でケースの中に入っている。
「アメニティ使うか……。」
なんとなく、自分の服を使う気になれなかった俺は、部屋のクローゼットからアメニティの部屋着を取り出す。俺は、ふらふらと風呂の扉を開ける。服を脱ぎ、更衣室のかごに投げ入れる。シャワーの蛇口をひねると、少し温かい程度に調整されたお湯が出てきた。至れり尽くせりだ。島中ホテルの給湯システムは素晴らしい。
「島中……。」
島中という家は、この島でかなりの権力を持っているようだ。公園からホテルまで、島中という名前を冠する建物は少なくとも四軒あった。それだけでも、かなりの大きさであることは想像に固くない。この島の中では、韓国の財閥のようなものなのだろう。
「……。」
ざあざあと、シャワーの水が俺の肌を流れる。この島の水は硬水だから、正直ちょっと痛い。最悪、淀という名前は名前が被っただけかもしれない。これがアニメや漫画だったら、この島の大家たる島中家が事件を事故にしたということになるのだろう。
「そういうことはないと思いたいけど。」
同じ人間として、そういう事はないと思いたい。願いたい。例えば、ただのヒューマンエラーだったら、どれほど楽か。
「湯船は……今日はいいか。」
俺はタオルで身体を拭き、アメニティの部屋着に身を包む。ドライヤーで髪を乾かし、ベッドに倒れ込む。
「明日は何すればいいんだろ……。」
俺はなけなしの気力を絞って詩史柳のノートを開く。丁寧にまとめられたノートは、とても見やすい。その中に、島中家と書かれたページがあった。
「霊媒で名を挙げた島中ふみこが、一代にして島一番の大家に押し上げる。世襲制で経営を引き継ぐ。」
霊媒師だったのか……胡散臭いな。それでも名を挙げるというのは、なかなかにすごいことだ。
「二代目、島中ふみこの娘である島中淀が遊覧船による観光事業を立ち上げる。以降利益の大半を観光事業が占める。」
「様々な事業で島興しの一助となる、島の貢献者でもある。その一方で黒い噂が絶えない一族でもある。」
「二代目、島中淀の代になると、社員を様々な機関に送り始める。始めに島役所、そして次に警察に社員を入れた。」
「以降、様々な事件、事故を消し始める。」
胸糞悪い、という言葉がピッタリと当てはまる。そんな記録だった。俺の事故も、もしかしたら事件だったのかもしれない。俺はページを捲る。このノートを信じるなら、島中家の汚職がこの事件の真相にも必ず関わってくるはずだ。
「さすがに、偶然の一致だよな……。」
あの淀とは、さすがに偶然の一致だろう。
「疲れた……。」
寝よう。良くないことを考えてしまうのは、きっと疲れているせいだ。
ヴー、ヴー。
俺は、スマホの着信音で目を覚ました。既に日が昇っていて、スマホを見ると七時だった。きっと、疲れていたのだろう。まだ眠気の残る。目を擦って着信に出る。
「はい、宮代です。」
「あー宮代くん?今どこにいる?」
スマホの向こうから聞こえた声は、あまり関わり合いになりたくないタイプの人の声だった。
「どちら様でしょう?」
「相手の名前くらい見てから出ようよ。」
「どちら様でしょう?」
「マニュアルでもあるの?玲だよ、クラスメイトの。」
「知ってる。」
玲はクラスの中でも陽キャと言われる部類の入るタイプの人だ。正直、この連絡先だって、クラスのグループチャットから一方的に送りつけられてきた。連絡先だ。昨日までは追加すらされていないような、そんなレベルである。
「知ってるんかい!」
ギャルのノリツッコミである。こんなベタなツッコミを聞いたのは初めてだ。
「どうした?」
「……いや、宮代くんが今いるのって、荒波島だよね?」
「そうだけど。どうかした?」
そういえば、夏休みに入る前に話した気もする。あんなたかだか2,3回話した程度の相手の言葉を覚えているとは、さすがのコミュ力である。
「なんか、島全体が封鎖されてるっぽいよ?」
「え?」
「テレビでやってるんだよね。ま、元気そうだから良かったわ。二学期に話聞かせてね。」
――じゃあねー。
そう言って、玲は通話を切った。マイペースなやつだ。芯があるとでも言おうか。不安にかられた俺は、テレビをつける。どうやら異常事態らしく、どのチャンネルをつけてもこの話題についてだった。イレギュラーであることくらいはわかっていたが、やっぱり現実味を感じられない。
俺は部屋のカーテンを開いてみる。窓から見える景色は、昨日までのそれと何ら変わりない。テレビでは、軍艦のようなものや戦闘機らしきものも写っていたが、やはりでまかせか。俺はカーテンを閉めて、ルームサービスを呼ぼうと受話器を手に取った。
コンコンコン
礼儀正しく、俺の部屋のドアを誰かが三回のノックした。
「誰ですか?」
返事はない。当然だ。この部屋は防音だし、特に大きい声を出そうとも思っていなかった。聞こえるわけがない。
コンコンコン
さっきのノックから、さほど間は空いていないのに、また三回ノックされた。
コンコンコン……、コンコンコン……。
間を置くことなく、忙しなくノックがなり続ける。映画じゃないんだ、こんな謀ったようなタイミングで部屋に来ることなんて、さすがの有権者でもできるわけがない。そうは思っても、何度も間を置かずにノックされ続けることに対する恐怖は拭えない。
「誰ですか……。やめてください……」
恐怖に臆した声など、防音扉の向こうに届くわけがなく。ノックはなり続ける。俺は勇気を振り絞ってドアに近づき、一息にドアを開ける。
「おう、宮代。やっと開けたのう」
待っていたとでも言わんばかりに、小さな鞄を背負ったその子供は俺に笑いかけた。
「なんだ、淀か」
あまりにも出来すぎだタイミングとその異常な行動に、俺は不快感を感じたが、知り合いであったことに少しばかりの安堵を覚えた。
「まあ、部屋に入れてくれんか」
「あ、ああ。どうぞ」
当然という風に、俺の部屋に淀は入った。
「のう、宮代」
「なんだ?」
「この島は今、封鎖されてるらしいのう……」
「ああ、さっき聞いた。よくあることなのか?」
淀の目が少し泳いだ。どういう泳ぎなのだろうか。
「よくあると言えば……ある」
ないと言えばないのだろう。頻度はあまり高くないようだ。
「今回は特別じゃ。島全体を封鎖というのは、これが初めて。何が起こるのかは、儂にもわからん」
この島の住民である淀でも、明らかに特別なこと。昨日の資料を見たばかりに、俺はそのことと関連付けてしまう。自分が主人公気質というつもりはないが、誰だってこんな異常な島に閉じ込められたら、疑り深くもなるし自分の身を守りたくなる。
「淀、なんか知ってるか?」
「知らん。儂はあくまで普通の子供じゃ。子供に機密を教えるような大人は、この世界にいないじゃろう?儂が知っているのは、あくまでそのへんの普通の島民と同じことじゃよ」
その同じことすら俺は知らないのだから、少しでも知っていることは教えてほしいのだが。
「それでもいいから、教えてくれよ」
淀は、少し目を伏せてから視線を戻した。
「島中家がすることには口出しをするな。島中家のやることには目をつぶれ。島中家に関わるな」
島中家というのは、どうやら俺が思っている以上にやばい一族のようだ。こればかりは、俺の気持ちが甘かったというしかないだろう。
「まあ、守る必要はないと思うがの」
「どういうことだ?」
「儂が思うに、島中家はもう滅びてもいい頃じゃろう」
「?」
まるで、神のようなことを言うじゃないか。
「宮代の調査、必ず成功させてやると言っているのじゃ」
淀は悪い笑みを浮かべた。
「島中家をぶっ潰すぞ」
ホテルで意気込んだのはいいものの。朝食を取ってホテルを出た俺達の調査は難航していた。島中家というのは、この島の中では神に等しい権力を持っているようだ。街中から情報が消えるというのは覚悟していたが、まさか人も消えてしまうとは思ってもいなかった。街中から島中の名前はおろか、人も消えてしまうとは――。
「ダメじゃの、ここにも人はおらんわ」
昨日、詩史柳のノートを読んだ公園のベンチで、俺と淀は一息ついた。
「この辺もダメか……」
昨日までの荒波島と、今日の荒波島は、まるで別の島だった。この島は観光地なだけに、まだまだ過疎とは程遠いはずなのに、島中の店はしまり、錆びたシャッターが降りていた。家々の窓はカーテンが硬くかかり、家の中からの音さえ聞こえない。
「みんな引っ越してしまったのかのう……」
年相応の発想に聞こえるが、その考えさえ馬鹿にできないほどに、今の荒波島には人がいなかった。
「そうかもなぁ……」
今日はふみこさんも港に来ていなかったし、島中家の権力はかなりの権力だ。
「しかし、こんな事したら、例え俺が調査を諦めたとしても、国や世間がそれを許さないんじゃないか?」
ふと、疑問に思ってしまった。こんな事、世間が許すはずがない。今の時代は、警察より世間が怖いのだ。島中家だって人間の集まりなのだから、何度もこんな事をして無事なはずがない。
「そこが、島中家の黒い部分じゃ」
「?」
「儂は知らんが、どういうわけか、島中家の連中は警察を掌握しておる。今のこの国で連中が好き勝手できるのも、捕まらない自信があるからじゃ」
これを聞いて許せないと思うほど俺は正義に固執していないが、ただ、気持ち悪いとは思ってしまった。裁けない権力者がこの世界にいていいのか。その善悪を決めれるだけの知識も経験もないが、少なくともかなりのイレギュラーだろう。
「そうそう、言い忘れてたのう」
「何を?」
「儂の名前じゃ」
「淀だろう?」
「苗字を含めた……ふるねぇむだったかの?」
「ああ……、フルネームか」
「それじゃ」
フルネームなんて、今更どうでもいいと思うが。
「島中淀、それが儂のふるねぇむじゃ」
悪趣味な冗談だと思った。淀の目がそうではないことを語っていた。
「じゃあ、お前が島中家の二代目……」
「それは違う。儂はあくまで島中家とは何ら関係のない、ただの子供じゃ」
淀は、「そもそも」と続けた。
「島中、という苗字はこの島では大して珍しくもない。あの島中家が、苗字を社名にしてビジネスしているだけで、この島には彼らに何ら関係のない島中家もたくさんあるのじゃ」
「どれくらい島中って苗字がいるんだ?」
「半分」
「まじで!?」
「うそじゃ。八分の一くらいじゃの」
結構多いな。島の苗字ってそんなものなのか?こんなに被ることなんてあるのか?
「地名姓じゃからの」
荒波島だから荒波とかじゃないのか。島中なのか。
「荒波島の島中は――この島の島中は、島の内側ではなく島の中央の意味じゃ。じゃから、島の周縁部よりも島の中心部に多く島中の苗字は分布している」
そんな風習が続く島が、この令和の時代にまだあったとは……。
「伝統は続いている間よりも続かなくなった時にその意味がわかるものじゃからの」
淀は、小学生らしからぬ達観した口ぶりでそう言った。
「なるほどな。それで、それが今からどう関わってくるんだ?」
俺は、淀に視線を合わせる。
「俺は、今年がダメなら来年受験が終わった後にここ来たら良いと思っていたが、お前の今の話を聞くに、それではダメなんだろう?」
淀は少し、視線をそらした。
「ダメじゃな。宮代はこのままだと、明日で人生が終わる。早ければ今日中じゃな」
殺される、という意味だろうか。
「俺は、殺されるのか?」
「もうすぐの」
殺されるのは……まあいいか。どうせ、生きても最後は死ぬのだ。早いか遅いかの差でしかない。どうせ殺されるなら、最後に何をしたって一緒だろう。
「何をしたら、島中家を潰せるんだ?」
淀の目が、少し輝いたような気がした。
「早いのは、マスコミにリークさせることじゃの。昨日詩史柳のノートをマスコミに渡せば、島中家はしばらく大きくは動けなくなる」
「安全だな」
「じゃが、これは無理じゃの」
「なんで?」
「この島にはマスコミがいない。島の外との通信手段も今はない。昨日の夜までの手段じゃったの」
つまり、今は無理ということか。なぜ言われたのだろう。
「他には?」
「こっちは今日中に島中家を潰す方法じゃな。島中家当主に直談判する」
浅はかな考えだ。悪の親玉みたいな当主に直談判したとして、彼が素直に手を引くだろうか。俺を逃がしてくれるだろうか。
「浅はかに聞こえるかの?」
淀のこちらの考えを見透かしたようなコメントに、俺の背中がピンと伸びた。
「やっぱりの。でも、これが一番現実的であることも、考えるべきじゃ」
淀は背中に背負った小学生らしい小さな鞄を漁って、一冊の紙を取り出した。
「なんだ?それ」
「地図じゃ。この島の島中家の施設とその設計図が載っておる」
一冊の文庫本くらいの大きさのその本には、本当に島にあるすべての島中家が所有する施設の設計図とその位置が載っているようだった。
「どうじゃ、すごいじゃろう」
褒めろと言わんばかりに、淀は胸を張った。
「すごいけど、どうやってこれを手に入れたんだ?」
そこら辺に落ちているものでもないだろう。
「企業秘密じゃ。と、言いたいところだが、今日の宮代には特別に教えてやろう」
「お、おおう。ありがとう」
「単純に、ふみこの部屋から拝借しただけじゃ」
ふみこ、というのはふみこさんの事だろう。
「盗んだ、ってことか?」
「違うの。拝借したんじゃよ。借りたんじゃ。本人から直接の」
ならいいか。いいのか?
「ふみこはああ見えても島中家の初代当主じゃからの。島中家の資料の写しを持っておる」
「へぇ〜」
ふみこさん、人違いであってほしかったが、やはり初代当主だったか。まあ、ふみこさんの代はまだ普通の会社だったようだし、今回の件で何かあることはないだろう。
「それの六八ページに、本社の設計図。七〇ページに本家の設計図が入っておる。――とはいっても、実のところ、同じ場所にあるんじゃがの。……とりあえず、開いてみい」
言われるがままに、俺の指は六八ページを開く。特に高いビルでもないのだろうう。本社という割には、設計図を見る限り二階くらいの建物のようだ。
「社長室は、ここにある」
ここ、と淀が指さした位置は、階段下の小さな部屋だった。
「倉庫じゃないのか?そこ」
「社長室じゃ」
社長室、というにはあんまりな場所見えるそこは、広さが二坪ほどしかなく、とてもじゃないが、社長という役職に相応しい場所には見えなかった。
「社長の仕事は、実際には副社長が行っておるようじゃの。社長は責任を取るだけの人形のような扱いじゃ。傀儡、供物、人身御供――。なんとでも言うがいい」
……それは、さすがに言い過ぎではないだろうか。仮にも社長なんだから、車内においてそれなりの影響力は持っているんじゃ……。
「じゃが」
淀は語気を強めた。
「その影響力だけは本物じゃ。この島において、敵に回してこれほど厄介な相手もおるまい」
淀は一体、この島においてどのくらいの相手を敵に回すつもりなのだろうか。
「ま、その実情は、本社に行けばわかるでの」
淀はそう言い切って、一人で歩き出した。
「ちょ、速いって」
淀が歩くのは、意外と速い。その体の小ささや細さに見合わない速さで歩く。昨日の俺は、衝撃的な事実ではなく、淀の歩く速さに疲れたのではないだろうか。
「ん……。すまんの」
大して悪びれる素振りもなく、淀はそう言った。それもそうだろう。その年で歩く速さを気にする子供は、ほぼいないだろう。
「いや、俺が歩くのが遅いだけかも」
「そういうことにしよう」
「おい」
そこは配慮を見せてくれよ。――小学生に期待するほうが悪いか。
「そうでもないぞ。最近の子供は早熟じゃからの、たまに子供とは思えないことをするぞ」
それを子供が言うか。
「それで、本社ってのはどの方向にあるんだ?」
公園から出たところで、俺は淀に聞いた。
「そこなんじゃよな。儂はふみことかれこれ九年は暮らしているが、本社には一度も行ったことがないんじゃ」
えっと……。つまり、どういうことだ。
「つまり、儂は本社の場所を知らん」
一番の頼り人が、ここに来てあてにならなくなったということか。
「どうすんだ?悪いが俺も二週間前にここに来たばかりだから、詳しい地理は知らないぞ」
せめて外部と連絡さえ取れれば、頼りになる人を知っているのだが。もしそれができるなら、俺はまっさきにこの島から逃げるだろうが。
「チッチッチ」
「それって舌の音でやるからかっこいいんだぞ」
声で言ったら、ただ可愛いだけだ。
「詩史柳のノートを見てみろい」
――きっと、書かれておるわ。
そんな馬鹿な、とは思ったが、なさそうな話でもないので、俺はもう一度ノートを流し読みしてみる。
「ほんとだ」
開いて十二ページほど進んだところに、その地図は張られていた。。市販らしき地図には、島中家が所有する土地や施設に赤く丸が書き込まれており、その中の一つに、『本部』と書かれた場所があった。
「じゃろう」
淀は褒めろと言わんばかりに胸を張って自慢げに鼻を鳴らした。
「でもどうするんだ?」
「何がじゃ?行けばいいんじゃろう?」
俺は地図の赤丸を鉛筆を使って点でつなげてみた。
「本部を中心に、おおむね円形に所有の施設がある」
「それが何か問題にでもなるのかの?」
「それだけじゃない」
俺は更に書き込んでいく。
「本部に行くための道。それらすべてに関所のように施設が置かれている」
これはあくまで想像でしかないが、今朝のニュースで見たこの島の封鎖は、俺もしくは俺達に向けられたものだろう。つまり、向こうは俺達の姿を知っている可能性がある。島の外から来た俺はともかく、淀に関しては顔が割れていると見たほうがいいだろう。
「本部に行くためには、敵勢力である島中家の施設の前、あるいは中をこの人気の無さのまま、通らなければならないわけだ」
「ふむふむ」
淀の顔を見るに、理解できていそうなので、俺はそのまま話を進める。
「さらに、監視の目があるものと思っておいたほうがいいだろう」
「ふむふむふむ」
「かなり無理ゲーじゃないか?」
今どき、脱出ゲームでもこんな無理な造りにはなっていないだろう。
「そんな事ないぞ」
「え?」
「儂を誰だと思っておる」
無名の子供が誰かと問われても、誰なのだろう。
「ふみこの養子じゃぞ」
「……つまり?」
「監視など、あってないようなものじゃ。すべて顔ぱすってやつじゃ」
顔パスなのか、養子だから。なんだか、かっこいいな。顔パスって。
「つまり、宮代は堂々と儂のあとをついてきたらいいのじゃ」
子供のあとについていく高校生は、果たして堂々としているのだろうか。年齢的には、俺が引っ張って歩きたいところだが、いくら顔パスとは言え、さすがに見覚えのない高校生と歩いていたら、止められるだろう。
「じゃあ、そうさせてもらおう」
「……いや、やっぱり儂の横を歩け」
「え?」
「顔パスの意味がないじゃろう?」
最近の小学生は、顔パスの意味まで考えるのか。時代が進んだなぁ。俺が卒業して、まだ五年くらいしか経っていないはずなのに。
「わかった」
とは言っても、島中家の施設もそう多くはないので、施設近辺になったら並んで歩くだけでもいいのだが、淀がそれを許さなかった。
「監視カメラでもついているかもしれんだろう?」とのことだ。
この島は、見てくれがいいばかりに騙されていたが、注意して見てみれば、島中家が所有する施設とそれ以外の見分けが容易だった。五目並べで相手の妨害に注力しているようなものだ。こんな街作りは、彼らにとっては容易だったろう。最低限の数で、相手の石が勝利条件を満たすのを防ぐ。これを街作りで行うならば、辺ではなく交点に石を置くべきだろう。交差点であれば、尚のこと。すべての交点を常に監視することで、反乱分子――危険分子の行動を抑制する。
「人じゃ!」
淀が小声で教えてくれた。それは、確かに人の影だった。とても優しそうな顔をした、体格のいい中年の男性だった。ニコニコと妙な笑みを浮かべながら、まっすぐにこちらに歩いてきている。
「道を変えよう」
淀は俺をひっぱり、道を右にそれた。十字路だからできる選択だった。徐々に迂回しながら、元の道の少し進んだあたりに出てくるようにコースを調整し、おじさんの背中側に出た。もちろん、その頃にはさすがにおじさんもいなくなっていたし、元いた画角の、という意味だ。俺達はさらに歩を進め、もう1ブロック先に進んだ。
「まずいぞ、宮代」
「?」
「察しが悪いやつじゃな」
「ひどい!?」
いきなりの暴言である。さすがにそれはいただけないだろう。確かに、俺は察しが良い方ではないけれども。
「また、交差点じゃ」
「……それが?」
それが、どうしたというのだろうか。特になんの問題もないような気がするが。
「宮代は、本当に高校生なのか?」
「……?」
「はぁ」
あからさまなため息を吐かれてしまった。なんというか、苛つきはしないのだけれど、自分がすごく残念だ。
「また、人がいる。と言ったら、わかるかの?」
「……また、さっきみたいに撒けばいいだけだろ?」
さっきと同じ方向から、同じ人数だけ来ているなら、それで終わりだろう。
「確かに、状況はさっきと同じじゃ」
「だろ?」
「それが、それが、すごくまずいんじゃ」
「?」
どういう意味だ?別に、なんの問題もないだろう。
「交差点には、道の分岐ルートがいくつある?」
察しの悪い俺に、しびれを切らしたのか、淀がそう聞いてきた。
「3つ」
「そうじゃ。そのうち、今の儂らには、いくつの選択肢が与えられておる?」
えーっと、交差点に施設があったとして――。いや、淀が顔パスだから……。
「3つ」
「そうじゃな。では、防犯カメラを考えてみるとしよう。3つの交差点のうち、島中家が、儂らに通ってほしくないのは、どういうルートじゃ?」
防犯カメラだから……。
「少ないほうか、設置されていないルート」
「そうじゃな。では、常に監視しておきたい場合、どういうルートを辿ってほしい?」
「多いルート」
「そのとおり。儂らが、人を避けて通っていくとして、ルート選択を確実にそうさせるためにはどうしたらいい?」
「えっと……。通っていくルートに人を置いて、ルートの選択肢を狭めていけばいい」
「つまり?」
「俺等の行動は筒抜け。島中家に先に手を打たれている」
「よくできたの。褒めて遣わそう」
「いや、それほどでも。大いに褒めて」
「いやじゃ」
「ええ……」
淀と軽口を言い合いつつも、俺の頭の中では禍々しいまでの警報音が鳴り響いていた。さすがに、こういう手が打てれているということは、淀の顔パスも通じないだろう。このままでは、俺達は本社どころか、この道すらも通り抜けられるか怪しい。この懸念は淀も同じなようで、幼い首筋に汗がつたっていた。
「どうする?別のルートがないか探すか?」
俺は鞄の中から地図を取り出した。アプリの地図よりも、やや詳しく描かれているこの地図は、こういう時に大いに役立つのだろう。
「いや、その必要はないんじゃ」
「なんで?」
この状況では、逃げるほうがいいのではないだろうか。
「本来なら、逃げも隠れもする必要がないんじゃ」
どういう意味だろうか。逃げも隠れもする必要がないというのは、顔パスのことを言っているのだろう。確かに、平常時ならそうだったのかもしれないが、この状況では、それを考えるよりも先に、打開策を考えたほうがいいのではないだろうか。
「それに、逃げるにしても、あいつらよりも、儂のほうがよほど道を知っておる。それくらい、あいつらもよくわかっているはずじゃ」
「どういうこと?」
「とてもじゃないが、この状況は、儂を相手にしたものとは思えん。……宮代か――。ならば、策はいくらでもあるの」
淀には、俺の言葉がまるで届いていないように見えた。どうやら思考の柵が壊れているようだ。最初に俺に話しかけてきたのすら、もしかしたら思考の途中だったのかもしれない。
「淀?」
俺がもう一度呼びかけると、淀の耳がピクリと動き、瞳が俺の方を向いた。
「なんじゃ?」
「とりあえず、安全な場所を探そう?」
「その必要もないぞ。この場所は既に安全な場所じゃ」
「そうなの?」
「儂が無作為に走ると思っとったか?宮代は、儂に付いてきてここに来たのじゃろうが」
確かにそうだ。
「周りも見てみい。特に、上の方じゃな」
俺は、少し上を見ながら、視界を一周させる。特にこれと言った特徴のない市街地の一角だ。
「なにか気づいたかの?」
「……いや、特に何も」
俺がそう答えると、淀はあからさまなため息を吐いた。今度は手振りまで付いてきている。
「注意力のないやつじゃな、宮代は」
小学生くらいの子供にそれを言われるのは、なかなかに自分が不甲斐なく感じる。
「それでは、将来立派な犯罪者になれんぞ」
「なるつもり無いから大丈夫だな」
「その目つきで?」
そこまで目つきが悪いつもりはないのだが。
「そこまで目つき悪いかな?」
「好青年って感じじゃの」
「ならいいじゃないか」
好青年的な目つきほどいい目つきも珍しいだろう。
「それで、結局答えはなんなんだ?」
俺がそう聞くと、淀は「上」と言いながら人差し指で右の民家の玄関を指した。
「何がないと思う?」
何が……ない?
「防犯カメラ、か」
「正解じゃ。実力は、名探偵の助手の百分の一ってところじゃの」
一般人にしては高い方……なのか?
「まあ、一般人の十分の一ってところじゃの」
一般人未満だったか。
「じゃから、あと十五分くらいは、ここで話せるかの」
十五分という時間を、今までこれほど頼もしく感じたことはなかった。十五分は、テストなら十分に見直しができる時間だし、検算だってできるだろう。だが、それだけだ。ゲームでは1回の試合時間に満たないことだってあるし、休憩時間としては少なく感じるとこだってある。だが今は、この十五分が何よりも俺を安心させた。
「手短に話しをさせてもらうぞ」
淀は俺にそう言った。
「うん」
「地図を開いて」
俺は淀に言われるがままに、さっき取り出してそのまま手前に入れた地図を、鞄から取り出した。
「現在地は、島の南の側のここじゃ」
淀が指さしたところは、随分と島の中央から遠く、海に近く見えた。
「そして、儂らがいた公園がここ」
淀は、島の東側の場所を指した。この地図には、あの公園は載っていないようだった。公園がある場所には、灰色で土地の存在だけが描かれている。
「随分と遠回りしているんだな」
俺は率直な感想を口にした。
「そうじゃの。逃げることに集中したばかりに、島中家に近づくことを忘れていたようじゃ」
淀は、悔しげな素振りを見せることなく、そう返した。
「そして、防犯カメラがない場所は……」
淀は、そのまま指を移動させた。
「ペン、使う?」
俺は、自分の記憶力に自信があるわけではないので、鞄からペンを取り出して淀に渡した。
「ありがたい」
淀は、俺からペンを受け取り、地図に直接書き込んでいった。
「儂らがいる場所がここ。出発した公園がここ。最終目的地がここじゃ。そして、防犯カメラがない場所がここじゃな」
淀は書き込みながら俺に説明してくれた(とはいっても、ポイントの位置とステータスを言っているだけだが)。
「どう通ったら最適解だと思う?」
淀は、すべてのポイントを書き終わると、俺にそう聞いてきた。
「防犯カメラが移していない場所っていうのは、島中家も把握しているわけだろ?」
「そうじゃな」
「じゃあ、どんなに場所が連続していても、そこを通って島中家に行くっていうのは、リスクが大きいわけだろ?」
「うむ」
「なら、二、三ポイントずつ経由しながら行くのがいいんじゃない?」
淀は、満足そうに大きく頷いた。どうやら正解だったようだ。
「当たった?」
「七十点ってところじゃな」
「おしいか」
「どこがじゃ」
「正確には、次の防犯カメラがないポイントが二つ以上の選択肢があるルートで、防犯カメラがないポイントを経由しながら行くのが、もっとも効果的なはずじゃ」
どうやら、淀は俺よりも頭が良いらしい。こんな短時間で、ここまで考えられるとは。
「どうやってそれをするんだ?」
「儂の後ろについて来たらいい。ただし、姿勢も踏む場所も、できる限り儂の真似をするようにの」
この時の俺は気づかなかったが、十五分が経っていたらしい。淀は田舎に多い、家と家の隙間に体を横にして入っていった。確かに、この方法だったら監視カメラはおろか、人にだって予想はできないだろう。
「どうした宮代、早く来るんじゃ」
「う、うん」
俺は急いで、淀が入っていった隙間に、体を横にして入った。とは言っても、狭いのは入口だけで、中は思ったより幅があり、淀も俺も最後には体を横にすることなく進めた。隙間から出るなり、淀は一言「急ぐぞ」と言って、少し走るようにして道路を渡り、家と家の隙間にまた入っていった。
走ろうようにとは言っても、子供の足幅だから俺は速歩きでついていけた。淀が隙間に入った直後に、俺も隙間に入った。淀は黙々と隙間を進んでいき、俺は必死でついていく。その隙間を抜けると、淀が立ち止まった。
「防犯カメラがないポイントじゃ。次は監視されるぞ」
隙間から出てきた俺に、淀はそう言ってきた。
「また隙間を通っていくのか?」
鞄に付いた汚れを手で払いながら、俺は淀に聞いた。
「いや、次は道路を使う」
淀はそう言うと、躊躇なく道路を走り出した。俺も速歩きで淀のすぐ後ろをついていく。防犯カメラは遠隔で操作できるのか、俺達の動きに合わせて動いているような気すらした。カメラの不気味なレンズが、俺達のことを静かに見つめている。
前を見ると、突き当りの角に、何やら人影のようなものが見えた。
「淀!」
「うるさい!わかっとる!」
淀は語気を強めてそう言うと、軌道を変え、人影に向かって一直線になるようにさらに速く走り出した。
「やあ、お嬢ちゃん、こんなところで何してるのか……」
淀は角にいたおじさんに、全力で体当たりをした。おじさんは腹を抑えてうずくまった。淀は自慢げにこちらを向いたが、恐らくは淀の肩がおじさんの金的に強く当たったことが原因だろう。
「急ぐのじゃ」
淀は方向転換とカメラの死角を駆使して、走り続けた。俺は、その後ろをついていくので精一杯だったが、徐々に相手から誘導される側ではなく、相手を誘導する側になっているような気がしていた。何度も遭遇していた相手を、遭遇する前に感知して、回避すらできるようになっていた。
「着いたぞ」
淀がそう言った時、俺達の前には田舎には似つかわしくない、豪邸と言っても過言ではない建物が目の前にあった。総合体育館が建てられそうなほどの大きさの土地には、二階建ての建物が二つ、並んで建っていた。外観は、よく似ていたが、大きさが、全く違っていた。
アンバランス。この二つの建物を見た時、俺はそう感じた。方や大きく、どこか荘厳さまで感じられるほど。方や小さく、都会の建物に近しいものを感じた。デザインが同じなだけに、そのアンバランスさは際立っていた。二刀流の剣士が、アニメや漫画に出てくるように同じ大きさ、長さの刀を握ることは少ない。大体は攻めの長刀と守りの短刀を使う。大太刀、小太刀の由来だ。その刀を、博物館で見た時のような違和感だ。釣り合っていない。
デザインが違えば、こういう感覚もなくなるのだろうが、その並びは意図的なものさえ感じさせる。
「右が、島中家の本家。左が本社じゃ」
「どっちにいると思う?」
「左じゃな」
俺の問に、淀は即答した。
「なんでそう思う?」
淀は、静かに本社を見つめたまま答えた。
「簡単じゃ。仕事のじかんだからじゃ」
――仕事の時間なら、会社にいるものじゃろう?
子供らしい考えに、俺は思わず笑みが溢れた。
「何じゃ。なんか間違っとるか?」
「いいや?別に」
とにかく――と、淀は仕切り直した。
「社長室に忍び込まないことには、何も始まらん」
その通りだ。今の俺達は、相手から見ればならず者だろう。どうやって中に入ればいいのだろうか。
「どうやって中に入るのじゃ?」
「こっちが聞きたいくらいだよ……」
ここまで来たのはいいが、どうやって中にはいるのかは、何も考えてない。
「どうする?」
「どうすればいいんだろう……」
俺達が十分間話し合って出した答えは……。
「わー!」
「わー!」
本部の門の前で騒ぐ、だった。確かに、騒げば人は出てくるが、悪手に思えてしょうがない。だが、これ以外に手がないのも事実だ。だから、俺達は全力で騒いだ。それはもう……全力で。
「ちょっとちょっと、君達。こんなところで、なんで騒いでるの」
少しの時間も経たずに、警備員らしき人がわらわらと出てきた。
「わー!」
「わーわーわー!」
構わず俺と淀は騒ぐ。
「ああ、もう。君達がこんな事しなければ、俺達は今日、出勤しなくてよかったのに」
警備員さんの一人が、淀の両腕を掴んだ。それを俺が見たのとほぼ同時に、俺は何かで叩かれて気絶した。
「ん……。ん?」
知らない天井だ。いや、天井と言うよりも床なのかもしれない。目の前に広がる人工物を、天井と決めつけるのは、あまりにも早計というものだ。
「起きたようじゃの」
この声は……。
「淀か?」
「正解じゃの」
俺は淀を見ようと体を捻った。その瞬間、体に電流が走ったような痛みを感じた。
「いい忘れておったが、儂らは拘束されておる。儂は、縄で手足を縛られておる。宮代には、逃げられないように、動いたら電気が走る手錠も付けられておるようじゃの」
淀の淡々とした口調に、俺の中で焦りが出てきた。どういうことだ。俺達の狙いは外れたと言うのか?
「儂らの狙いは、概ね成功した」
淀は静かに言った。
「なら、なんで」
俺達は拘束されているんだ?
「じゃが、概ね――じゃ」
淀の声が、少し高くなったような気がした。
「確かに、儂らは道を選び、本部まで概ね危険をおかすことなく辿り着けた。それに、騒いだことで本社の中にも入れた。じゃが、そこで失敗した。宮代が気絶させられたあと、儂は正体を見た」
正体?
「この本社には、人間の闇が集まっておる。この本社を喰っているのは、島中淀でも、副社長でもない」
じゃあ、何だと言うのだ。
「島中ふみこ……霊媒師の失敗作じゃ」
淀は、震える息を大きく吸い込んだ。そして、声を殺して、しかしはっきりと言った。
「島中淀。島中ふみこが人間の闇を使って創った、彼女の人生最大の、そしてこの世界の失敗作じゃ」
「つまるところ、儂自身じゃな」
おどけるように、されど打ちのめされたように、彼女は――いや、淀という化物は、そう言った。
俺は、言葉に困った。彼女に、なんて返すのが正解なのだろう。この場で、俺はなんて答えたらいい?罵るのが正解か。怒るのが正解か。慰めるべきか?いいや、おどけようか。茶化そうか。場を和ませよう。怠けるな。俺が、ここまで来たのは何のためだ。淀に――島中淀に、親を殺されたからだろう?復讐、したかったんだろう?まてまて、親を殺した島中淀と、あいつは、別の人間じゃないのか?
「宮代の親を殺した島中淀は、儂じゃ。……いいや、儂じゃった」
「儂は、自殺した島中淀をベースに作られた、失敗作じゃった」
淀は、感情を押し殺したような声で、俺に言った。
「島中淀という人間は、もういない。島中淀という存在をコピーした失敗作しか、この世にはもういないのじゃ」
淀の震えた、されどささやき声のようにも聞こえる声が途絶え、大きな深呼吸が聞こえた。
「お主の……宮代の怒りは、儂が引き受ける。じゃから、もうこの会社に――この島に関わるのは止めろ。今ならまだ、引き返せるかもしれん」
足音が近づいてきた。かすかな金属音と共に、背中に回された手が自由になった。縄が切れる音と共に、足が自由になった。俺は、淀の方を見る気になれなかった。いいや、見ちゃいけないような気がした。仮にも、仲良くなれた友達だったような気がする。淀の方を今見たら、そのすべてが消えてしまうような気がした。
「淀、縛られてるんじゃなかったのか?」
「嘘じゃ。宮代に嫌われたくなかった」
「そうか」
俺は、そのまま淀の方を見ずに床に寝そべった。
「疲れてるんだよ、お前。ごめんな、こんな事に巻き込んじまって」
「……」
「明日、ふみこさんの所に行こう。淀はもう、一緒にいるべきじゃない」
俺の一言に、淀の空気が変わった気がした。
「ダメじゃ」
「え?」
「宮代はもう、この会社に――島に関わるべきじゃない」
「そんなの……俺の勝手だろ?」
「島中淀が憎いなら、儂にその怒りをぶつけろ。それで終わりにするんじゃ」
淀の断定的な言い方に、俺は苛ついた。俺は、思わず跳ね起きて淀に向いた。淀は、俺のすぐ後ろに立っていた。跳ね起きて、後ろを振り向いたら、すぐに淀がいた。右手には、包丁を持っている。
「この包丁で、儂を刺せ。それで、すべてが終わる」
淀は、包丁の柄を俺に向けて差し出した。
「俺の人生がな」
「いいや。儂はこの世界に存在しないから、宮代の人生には何の障りもでない」
その包丁には、妙な魅力があった。顔が映るほどの光沢があり、よく研がれている。黒く質素に抑えられた柄は持ちやすく、刃は皮膚を撫でただけで裂いた。
「抱きしめろ。宮代」
俺は刃を向けたまま、淀を抱きしめた。子供らしい小さな体躯は、綺麗に俺の胸に収まり、暖かな体温が腕に伝わった。少し骨ばった背中は、未来を感じさせた。
「宮代、またの」
背中を撫でるとすぐに、この子の物ではない、冷たい金属が突き出ていた。さっきまで、俺と一緒に走り回った小さな体は、俺に力なく寄りかかっていた。
その部屋から出るのは、思ったほど難しいものではなかった。物置のような大きさの部屋には、ランドセルと教科書、そしてベッドが置いてあった。だが、教科書はどれも六十年近く前に発刊されたものだったし、島中淀という名前の白黒写真が机の上に置かれていた。生活感はあれど、色褪せた部屋には、何か偏執的なものを感じた。おもむろに見た壁に、運よく部屋の鍵があった。
運よく、というのは言い過ぎだったかもしれない。その部屋は紛れもなく社長の部屋だったのだから。部屋の鍵は内側についていて、その鍵がなければ出られなかっただろう。俺は鍵を挿し、扉を開けて部屋を出た。そこはすぐ横に階段があって、ちょうど社員らしき女声が横を通った。
きゃあと悲鳴をあげ、彼女は荷物を落として俺に駆け寄ってきた。
「大丈夫ですか?」
彼女がかけるべき言葉は、間違っている気もするし、当たっている気もした。ふわふわとまとまらない思考が俺の中を駆け巡って、最終的に俺は彼女に泣きついた。人を殺めてしまったという後悔が、俺の判断力を下げていたのかもしれない。とにかく俺は、彼女の前で泣き崩れてしまった。そんな俺を見かねてか、彼女は「ふみこさんに話されてください」と言って、俺を立たせてふみこさんの所に連れて行ってくれた。
ふみこさんがこの会社のお偉いさんというのは本当だったらしい。豪華な部屋の高そうなソファに、ふみこさんは一人で座っていた。
「やっと来たかい」
そう言って立ち上がったふみこさんは、俺にゆっくり近づき、俺の頭を撫でた。
「疲れたねぇ」
ふみこさんの言葉と頭を撫でてくる手の温もりで、俺は安心しきって、寝てしまった。
結局、俺が覚えているのはここまでだ。終わったことと言えばそうなんだけど、何か釈然としないものがあるのは確かで、でもそれは、きっと人生をかけてもわからないことなんだと思う。それが何なのか、わかる人だっているんだろうし、死ぬまでわからない人もいるんだろう。きっと、俺は死んでもわからないし、わかりたくない。その真実はきっと一つじゃないし、いくつもあるんだろう。けど確かなことは、この結果は俺だけじゃ辿り着けなかったし、淀という確かな協力者と、詩史柳という先駆者がいての結果だ。スポーツじゃないんだ。この結果は褒められるものじゃない。俺は人を殺めたんだ。もっといい結果だってあったんだろう。
分岐する運命があっとして、俺と淀が出会わない世界だってあるはずで、あの会社がない世界だってあったはずだ。この世界に生まれたことを悔やむわけじゃない。でも、それでも両親はいつか死んだんだろうし、俺は淀を殺したんだろう。きっとこれは、どうしようもない決定事項で、言い訳だと言われればそれまでなんだけれども、俺はどうあったって淀を殺してしまったのだろう。
それからの時間は早かった。島中家で眠ったはずの俺は、いつの間にかホテルで目を覚ましていて、気づいたら次の日が来ていた。眠い目を擦ってスマホを見ると、電波が通っていて、俺は急いで船を予約した。シャワーを浴び、服を着替え、部屋に置いてあったカップ麺をすすり、歯を磨いた。荷物をまとめてホテルをチェックアウトして、俺は港に向かった。
「よう、兄ちゃん。島っつーのは見つかったのか?」
昨日話しを聞いた漁師が、そう聞いてきた。
「いえ、島は見つからなかったんですけど、もう帰ります」
「おお、そうか。確かに、昨日は船出れないしな」
漁師の言い方に、俺は引っかかりも覚えた。
「出てない、ではなく?」
「なんだ。知らねぇのか、兄ちゃん」
「はい」
漁師は顎を人差し指と親指で触りながら、何か思い出しながら言った。
「この島には言い伝えがあってな。確か、黄泉の入口とか言ったかな……。年に数回、黄泉の国への入口が開くんだよ」
「何のために?」
「そいつは、俺も知らねぇな。だが、その時には決まって、海が荒れる。不規則にな。例えば、沖の水が大きく沈み込んだり、逆に沿岸の水が膨れ上がったりな」
「……」
俺は、言葉が出なかった。
「年に数回だけだし、陸には何の影響も出ない。だが、それだけに死人が多い。とにかく、島の漁師なら絶対にその日には海に出ない」
「わかるんですか?」
「温かい風が吹くのさ。そのくせ、海の水は冷たい。だから、漁師ならわかる」
なら、なんであの事故は止められなかったんだ……。
「しかし、ふみこさんも不憫だよなぁ……」
「え?」
突然でてきたふみこさんの話に、俺は戸惑う。
「何十年も前だけどな、ふみこさん、黄泉の入口で子供を亡くしてるんだよ」
「……」
「島中淀つってな。あまりにも悲惨な事故でさぁ。受け入れられなかったのか、同じ名前で自分の会社の社長をたてちまった」
俺の中で、何かが蠢いた。
「おっと、今日の獲物が逃げちまう」
そう言って、漁師は慌ただしく船に乗り込んだ。
「ま、兄ちゃん。夏が終わる前に帰るってのは、名案だと思うぜ。じゃあな」
漁師は、船のエンジンをかけ、出港していった。一体、何があるというのか。今の俺には関係ないが。
数十分後、中型のフェリーが港にやってきた。その頃には、色んな人が港に集まってきていて、がやがやと騒がしくなっていた。皆、我先にと言わんばかりに船に乗り込み、どこか満員電車のような鬱陶しさを感じた俺は、列を遠巻きに避け、出港時間ギリギリのタイミングで乗り込んだ。もう人ははけ、港には人もいなくなっていた。俺は急かされながら乗り込みのための階段を上がっていた。
「宮代、またの」
可愛らしい声が、聞こえるはずのない声が、聞こえた気がして俺は振り返った。遠くだが、白い肌のショートの子供が、俺に手を振っていた。
短編版「あの日の島」でした!いかがだったでしょうか?ネットに投稿する作品としては、かなり長くなってしまっていますが、前回と違って今回はかなりよく締められたと思っています。
この短編作品も、総合評価200以上で連載化しようと思っています。連載する時は、この短編の設定をベースに創って行きたいと思っているので、評価とブックマークをお願いします!




