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妖異譚 あれが過ぎると申します

あれが過ぎると申します 䨮

掲載日:2026/02/10

 雪が積もった。

 雪はわたくしに通勤手段の変更を余儀なくさせる。すなわち、自転車で片道二十分のところが、一時間以上もの徒歩を強いられてしまう。

 何時もより三十分程早く、朝五時半頃家を出た。もちろん辺りはまだ暗いのだが、闇の中に一面の雪がほのかな光をたたえている。その雪景色をわずかに冒しているのは、ただに二種類の足跡、一匹の犬だか狐だか、それと一人の人間と思われる足跡のみである。

 私よりも少し早い時間にここを通った個体——無論その個体は、生命を宿しているものであろうが、それが二つあったらしい。

 私はそこに三番手として、自らの存在を刻みつけながら歩く。長靴の裏が、空気を含んだ真新しい雪の堆積を、ぎゅっぎゅっと圧搾していく。


 おそらく夜半を過ぎてから降り始めた雪だが、まだ降り止まない。次から次へと落ちては積み重なっていく。やがて個々の粒子が累積して圧倒的な団塊となり、万物を覆っては埋め尽くすほどに横溢する。しかるに、その表面をよくよく観察すると、依然として粒子の形態が独立して保たれており、やや遠目には粉を吹いたように見える。

 私の頭上に拡げた傘にも、みるみるうちに雪が積もっていく。そうして、零下の寒気のため、毫も溶けることなくさらさらに乾いた堆積は、何かの拍子で傘を傾けるたびにざざっとこぼれ落ちご破算となる。傘上さんじょううずめる試みは、また一からやり直しである。


 街灯の下に至る。闇の中、そこだけ場違いな眩しさ——降りしきる雪の粒子が、闇から出でて光中に存在をうつし、人の眼にも顕現することとなる。

 猛烈なまでの光に射られた沢山の細かな粒子の乱舞は、一粒一粒例外なく積もった雪の表面に投影され、さながら銀幕上の影絵である。その影という影が渦巻くように走り回っている。それは何やら、大発生した羽虫の群のようにも見える。

 雪は、自らの影を目掛けて宙より降り来たり、近付き、決して間違えることなく、己の影の上に己自身を重ね合わせ着地する。まあ、当然といえば至極当然のことではあるが、実に美しくも果敢はかない、天然てんねん自然じねんの幻燈は無限の時間を繰り返すかに見える。

 しかしながら、俗世のかせにしっかりと繋がれたわたくしに、そうした幻想風景を満喫する余裕はない。時計を気にしながら、一歩一歩、自らを職場へと運び続けなければならないのである。


 やがてわたくしは、随分と道幅の広いところに出た。この道には、まだ誰の足跡も付いていない。私が先陣である。何とはなしに、顔がほころびる。一体、大人の分別に於いて通勤の不便を迷惑がりながらも、一方では訳もなく単純に雪を喜ぶような、妙に子供じみたところが私にはある。

「雪の降る街を、雪の降る街を………」

 歌を口ずさみながら、雪面に足形を刻む。しかし思えば、私の通勤途上にこのような広々とした道があっただろうか。いささかいぶかりながらも、見慣れない景色を、積もった雪のせいにして、あまり深く疑うことなく黙々と足を進めていく。


 どうしたことか、ものを考えるのがひどく面倒くさい。


 そうして歩いていると、私の目の前に、雪の中からひょっと頭を出したものがある。その頭はすぐにまた雪の中に潜り、しばらくすると今度は全然見当違いのところにひょっこりと出てきた。

 どう見ても、あれはかいつぶりに相違ない。おそらく冠鳰かんむりかいつぶり——しかし、(ゆき)かづく鳰があるだろうか。

 何だかどうも片付かない。

 それでも、逃げるように、或いは誘うように、七、八(けん)先の雪中を右に左に、鳰は浮きつ潜りつしながら進んでいく。その様子に私はふと斑猫はんみょうを思い出す。なるほど、かいつぶりこそは、鳥の中の斑猫とも称すべきものだ。冬ともなれば、恒温ならぬ斑猫は凍えて到底生きてはおられまいが、鳰であれば――何となれば鳥の体温は人より高いと聞く――寒中に斑猫の役割を託されたとて大丈夫だろう。

 果たしてそういうわけだったか。私は鳥の導きに従ってずんずんと歩いていく。雪はしんしんと降りしきる。


 ふと、何かが私の頭上に被さって来る心持ちがした。

 傘を外して見上げると、拡がっているのは漆黒の闇である。随分と長い時間を歩いてきたように思われるが、いまだ夜明けまでには間があるらしい。闇の奧から雪片が私を包むようにゆっくりと降りてくる。その幾万の雪片の向うに、私の目は意外なものの存在を認めた。


 橋である。橋が頭上前方に被さっている。


 見覚えがある特徴的な欄干の意匠―――そうだ。何時もならばあの橋の上を職場に向かうのである。その橋を、今は下から呆然と見上げている。

 どういうことだろう?

 あれは陸橋ではない。川にかかる橋のはず——

 何だか気持がうまく纏まらない。どうやら、現在自分が立っているところは、道などではなく、川の真中らしいのである。


 なるほど、ここが川だとすると――そうか、そういうことだったか。


 川面が凍結し、その上に雪が堆積すれば、その雪中に住みつく魚があると聞いた気がする。慥か、あの魚は――冰魚ひのをとか言った。そうだ、冰魚でしかあるまい。そうだ、きっとそうなのだ。

 川面が悉皆凍りつくとなると、氷上にある雪の堆積に冰魚ひのをが住みつくのは道理でこそあれ、疑うべくもない。それを冰鳰ひにほが追いかけているのに決まっているのである。

 そんな話は、慥かに子供の頃に聞いて知っていたはずなのに、迂闊にも今の今までそれを忘れていた。かかる常識に気づかず、私は、雪に覆われた川を、道だと誤認して歩いてきたらしい。

 とにかく岸に上がらなければならない。このまま行けば海へと出てしまう。危ない、危ない。

 しかし、辺りを見回したところ、両岸は混凝土コンクリートの護岸が崖となって屹立し、そこから上にあがる術は無さそうである。

 仕方がない、きびすを返してもと来た方向へと戻るしかなかろう。


 それにしても、先程の冰鳰ひにほは何所に行ったのだろうか、もう姿が見えなくなっている。

 その代りに、何だか容易ならざる気配が漂ってくる。空気の密度が急激に濃くなる。


 四囲が迫って空が重い。


 私の脳は痛みを覚えるほどに冷えつつ、これまでに無く明晰になったように感じられる。

 もうすぐ何か、致命的なことを悟ってしまう予感がする。

 そうだ。そうに違いない――しかし、悟ってしまってはいけない。


 ―――突然、背後から水を浴びたようにぞっとした。

 はっと振り返る。その視線の先、橋の上に人影がある。私によく似た人相の男がこちらを向いて立止っている。

 ドッペルゲンゲル?

 いや、よくよく見るとあれは―――

 あれは、もしかすると若い頃の私の父親かも知れない。

 色褪せた写真でしか見たことのない父親の、何十年も昔の姿と思われてならない。


 男と目が合う。


 無表情だったその貌が、ぎょっとなった。遠目ながらもありありと判る。

 そうして、欄干から身を乗出すようになりながら、物凄い形相で私を見つめている。半ば開きかけた唇がわなないている。それが、こんなに離れた位置からでも、手に取るように判る。

「お、お、お………」

 絞り出すような声の断片が、降雪のあわいの闇をすり抜け私の鼓膜に届く。

 頭の芯がわんわんとなる。男の咽喉のどから吐き出された声の厭な響きに、私の脳髄が呼応し共鳴しているかに思われる。撞いたばかりの梵鐘の中に頭を突っ込んだように、堪えがたいばかりの不愉快な余韻が鳴り響く。


 聞いてはならない!

 この厭な音をこれ以上聞いてはならない。剰え、この声が言葉として意味を成すのを聞いてはならない。


 慌てて手袋をしたままの手で両耳をふさぐ。その拍子に傘を取落してしまった。湾曲した上面がひっくり返しに落下し、開いたままの姿で雪の上に小さく跳ねて転がる。椀状の内側に、舞い落ちる雪がひたひたと降り積もる。


 この傘は、一体誰の傘だったのだろう。


 頓着してはならない。あの聲を聞いてはならない。

 傘など打ち捨て、耳をふさいだまま橋を背に先を急ぐ。凍って雪に覆われた川の、上流へ、上流へ、自分が付けてきた足跡を、反対に辿って戻る。離れなければ、離れなければ――


 やがて、目の前に灰色の影が現れはっとなる。

 気づけば、青鷺である。一本足ですっくと立っている。

 鷺のわきには、先程自分が付けた足跡がまっすぐ向うの方に伸びている。冰鳰ひにほを追ってさっきもこの辺りを通ったはずだが、そのときには姿を見なかった。あとからいつの間にかに飛んで来たものとみえる。まあ、この場所が川であるからには、鷺が居たとしても辻褄は合う。この鳥も冰魚ひのをを狙っているのか。


 鳥の片目がじろりとこちらを睨む。


 いや—— なるほど、そうか。

 そうやって何十年、何百年も前から、この鳥は私を待ち構えていたのやも知れぬ。


「お前の番だ」


 思わず呟いた。

 我知らずに、胸の奥から吐き出された声。

 聞き覚えのある、重くしわがれた聲。厭な聲——

 果たしてわたくし自身のものなのか、それとも鷺か?

 或いは――


    !



 ああ、解ってしまった。


 解ってはいけなかった――





                         <了>





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