その後の二人の仕事風景
月曜日のオフィス。
朝の光が窓から差し込み、書類の白やパソコン画面の青を淡く照らす。
浅見は資料を広げつつ、心の片隅で週末のことを思い返していた。
「浅見さん、これ手伝ってもらっていい?」
明るい声に振り返ると、隣のデスクの同僚・吉田が笑顔で手を差し伸べていた。
「はい、もちろんです」
軽く頷き、資料を受け取る。手を伸ばした瞬間、ふと指先がスマホの感触を思い出す。
(週末のあの人……駅でのあの瞬間……)
デスクの向かいでは、青木さんがコーヒーを入れながら声をかけてくる。
「浅見さん、休日どうだったの?リフレッシュできた?」
「え、あ、はい……ちょっと」
微かに赤くなった頬を手で隠しながら答える。声は自然に出たが、心の中はまだ街の灯りと城崎くんの表情で満たされていた。
浅見が資料をチェックしていると、吉田がふと笑みを浮かべる。
「なんだか、ちょっと楽しそうな顔してるね」
「えっ、そ、そうですか……」
慌てて顔を伏せるが、心の奥で微かに笑みがこぼれる。
「(まずい、集中…)」
午後になり、オフィスは和やかな雰囲気。
浅見は資料に目を落としつつ、ふと窓の外を見上げる。青空の下、街の雑音が遠くに流れる。
「(……あの時の手の温もり……次に会うとき、また感じられるかな…)」
隣の青木さんが資料を広げ、浅見に軽く視線を送る。
「この数字、浅見さんの意見聞きたいんだけど」
「はい、えっと……」
言葉を選びながら答える浅見。頭の中では、土曜の夜のファーストデートの光景が小さく再生されている。
視線が資料と同僚の顔を行き来するたびに、心拍がほんの少し高鳴る。
吉田がふと笑い、軽く肩を叩く。
「浅見さん、なんだか今日は顔色いいね。」
「はい……ちょっと、嬉しいことがありました」
自然にこぼれる声に、自分でも驚く。
机上のペンを握る手が少し震える。
窓際の光が資料の文字に反射し、浅見の頬を柔らかく照らす。
資料をまとめる手は止まらないが、頭の中では、次に会う城崎くんの顔や、駅で交わした視線の温かさがくるくると回る。
「……次は何食べよう……」
小さな独り言を零す。声はほとんど聞こえないけれど、心は静かに、だけど確かに高鳴っている。
同僚たちは和やかに仕事を続け、浅見も混ざりながら資料を整理する。
だが胸の奥では、週末の余韻が消えることはなく、机上の資料と城崎くんのことが、柔らかく交差していた。
城崎は図面に目を落とし、鉛筆で寸法を書き込みながら、工事現場の進捗確認資料を整理していた。朝からの打ち合わせと現場確認で、机の上は紙の山とタブレット、そして資料フォルダで埋まっている。
「城崎さん、この書類、確認してもらえますか?」
女性職員の小さな声に手を止め、顔を上げる。笑顔で差し出された資料に、いつもの穏やかな視線を送る。
「ん、助かる」
手渡された書類を受け取りながら、ふと脳裏に浮かんだのは土曜の夜、浅見さんと一緒に歩いた駅前の通りだった。
「(…少し、焦っちまった)」
彼女の些細な初めてを少しづつ俺で染まっていく。それに胸の奥に疼いたのを今でも覚えてる。
手を繋いだだけで照れて見てくれないのも、触れる度に反応してくれるのも、時たま見せる素のところも…あまりの初々しさに俺の方が悶えそうになる。
…流石に顔には出さねぇけど。
けれどふと思っちまった。もしあの先を望んだら、あの人はどう答えるのだろうか。
ただの好奇心じゃない。他のやつのことも悪く言えねぇ…俺にしか見せないあの初々しさに噛み付いて、真っ赤にしてやりたいという欲望的な探究心。
「(初デートでそれは有り得ねぇだろ)」
ほんの一時。彼女と別れる間際に思い描いてしまった、望もうとしていた自分に腹が立つ
頭では現場の進行や安全管理を優先しているのに、心の片隅で彼女の笑顔や小さく頬を染めた仕草がちらつく。資料に書き込みを入れながらも、ペンの動きが一瞬止まることもある。
「城崎さん、これ、どうしますか?」
また声をかけられる。今度は別の女性職員で、仕事の話題を淡々と進めてくる。城崎は一呼吸置き、手元の資料と頭の中の浅見さんのイメージを交互に切り替える。
「この仕様で進めて大丈夫。現場には午後に行く予定だから、直接確認してくる」
答えながら、軽く目配せ。その瞳には普段の刺々しさはなく、周囲の女性陣も安心させる柔らかさを持っていた。
「(次は、もっとたらふく食わせよう)」
城崎はふと、書類にメモを書き込みながら、頭の中で土曜のデートの続きを思い描く。彼女と向き合うときの距離感、会話の間合い、そして視線のやり取り……それらが、自然に日常の中で彼のモチベーションになっていた。
「城崎さん、昼休み、書類整理手伝いますよ」
女性陣の声に引き戻され、彼は小さく頷き、再び現実に意識を戻す。
「…ん」
仕事に集中しながらも、頭の片隅で浅見さんとの次の時間を考える城崎。プロフェッショナルとしての顔と、心の奥の小さな期待が、静かに混ざり合っていた。
事務所の空気は朝の忙しさの中でひそやかにざわめいていた。書類の束を片手に、城崎は現場報告書のチェックをしている。普段は淡々として、必要以上に感情を表に出さない彼の表情に、ふと柔らかさが滲んだ瞬間があった。
「ねぇねぇ、城崎さん、なんか変わったよね!?」
隣の女性職員が小声で囁く。
「前は凄い素っ気なかったのに、なんか優しい!」
別の女性が続ける。
「さっき少し笑ってくれたよ!」
三人目も頷きながら顔を輝かせる。
普段は冷静で近寄りがたい印象の城崎が、今日はちょっとした雑談に笑みを見せていたのだ。報告書に目を落とすその横顔は、緊張やピリピリした空気を感じさせず、むしろ周囲を安心させるような柔らかさがあった。
「……うん、なんか、前と違うかも」
女性たちは顔を見合わせ、嬉しそうに小さく囁き合う。普段とは違う、少し優しい城崎の姿に、自然と笑顔がこぼれる。
「そうそう、話しかけやすくなったよね」
「うん、今日なんて仕事のことで意見も言いやすいし」
城崎はその会話に気づかず、真剣に書類を確認しながらも、第三者から見れば、彼のその姿勢や口元の微かな柔らかさが、確かに変化の兆しを示していた。
職場の女性陣の間で、城崎への評価はひそやかに変わり始めている。以前なら緊張感に圧倒されて近寄れなかった存在が、少しずつ、彼らの間に親しみやすさをもたらしていた。
▼午前中の現場は、足場の鉄骨がぎしぎしと音を立て、コンクリートの匂いが微かに漂う。城崎はヘルメットをきっちりかぶり、書類と図面を抱えながら歩く。腕の筋がぴくりと動き、視線は常に周囲の安全と作業の進行を追っていた。
「ここ、仮設の支持金具、もう一度確認したほうが……」
作業員に指示を出す声は低く、しかし確実に届く。簡潔で無駄のない指示のひとつひとつに、職人たちの動きが変わる。
その真剣な背中に、女性職員たちは目を奪われる。事務所から応援で来た三人組が、ヘルメット越しに城崎をちらりと見やる。
「ねぇ、見てよ……あの集中力、すごくない?」
「うん、なんかカッコいい。仕事してるときは別人みたい」
「それに、手元に目をやる仕草とか、細かいところまでちゃんと見てる……尊敬しちゃう」
城崎は声をかけるタイミングや書類の手渡しも的確で、無駄がない。女性陣の視線を意識する余裕などなく、ひたすら現場の安全と進行だけに意識を向けているその姿が、かえって魅力を増して見えた。
「城崎さん、あの確認お願いできますか?」
「ん」
一人が書類を差し出すと、城崎は軽く頷き、作業の手を止めずに図面に目を落とす。その動作は自然で、強引さがまったくない。
女性陣は互いに目を合わせ、小さく息を吐く。
「……普段あんなにクールなのに、こういうときだけ見せる表情って反則だよね」
「ね、近くで見てると、なんかドキドキする……」
城崎は知らない。自分の背中に注がれる視線が、静かなざわめきになっていることを。
それでも、彼の動作や仕草から、周囲の空気は自然と整い、女性陣は思わず彼の後ろ姿に見惚れる。
午後の日差しが斜めに差し込む現場で、城崎は今日も真剣そのものだ。
仕事の手を止めることなく、しかしその集中の中で、彼の背中が職場の人間たちに与える影響は、確かに温かく、魅力的だった。
▼昼休み、給湯室に漂う甘い香りと、電子レンジの温め音。その中で、浅見の名前がぽつりと出た。
「最近さ、浅見さん、なんか雰囲気変わったよね」
カップに紅茶パックを沈めながら、佳奈が小さく笑う。
「分かる。前はもっと、こう……お固めだったじゃん?」
真理子がパンの袋を開けながら相槌を打つ。
「なのにさ、昨日の会議、やたら意見言ってなかった?」
「ね。しかも服装変わったよね。前は同じようなのばっかりだったのに」
言葉の端々に、うっすらとした棘が混じる。
あの夜、合コンで見た浅見の顔が、ふたりの頭をよぎる。
緊張気味に笑っていたはずの彼女が、あの場の終盤には自然に会話に溶け込み、時折、視線を送っていたあの人──。
「ま、別にいいんだけどさ」
理沙が、わざとらしく肩をすくめる。
「でもなんか、急に自信つけたみたいでさ。何かあったのかなって」
「……ねぇ」
真理子は笑う。その笑みは、親しさよりも観察者の温度に近かった。
給湯室を出ていく背中を見送りながら、ふたりは小さく視線を交わす。浅見の変化は、明らかに“何か”をきっかけにしている──そしてそれが、彼女たちの知らない場所で起きたことだという事実が、妙に面白くなかった。
▼川端は、その日の午後も机に向かいながら、視界の端で浅見をとらえていた。
笑顔が増えた。髪もメイクもさりげなく整えている。
そして──何より、時々、ふっと遠くを見る横顔。
「 (あれは……誰かと絶対会ってる)」
確信に近い予感が胸をかすめる。
昼休み、浅見がスマホを見て唇の端を緩めるのを、川端は見逃さなかった。
その柔らかい表情を、彼女は合コンの夜に一度だけ見ている。向けていた相手は──城崎。
「(それしかないでしょ)」
カレンダーの数字をぼんやり眺めながら、川端は指先でスマホを回した。
結局あの日、二次会まで言ったものの進展はなかった。一番のお目当てだった城崎に強く言われ、その後は無理やりテンションを上げるのが精一杯だった。
「(…でもさおかしくない?どう考えたってどんなに化粧して身だしなみ整えてもあの程度でアラサーの女より、私の方が若いし可愛いし愛嬌だってある。)」
きっと城崎くんは浅見さんが物珍しいだけなのよ。そりゃ男の気配ゼロの合コン初心者アラサーって珍獣でしょ。でもそんなのは一瞬。私のことをもっと知ってもらえれば、きっと気持ちは変わるはずよ
浅見の変わった様子が腑に落ちない川端。彼女の心の中はぐるぐると苛立ちと嫉妬で渦巻いていて。
「………」
ふと思い出すのは、あの夜のもう一人の男性──伊藤。
城崎の友人で、軽い調子で話しかけてくれた彼。
人当たりが良く、そしてきっと、友人の近況にも明るいタイプ。
「(伊藤くんなら、城崎くんと会える口実作れるかも)」
指先が連絡先をスクロールして、彼の名前で止まる。
しばらく画面を見つめ、送信する文面を考える。
「久しぶり」にも、「合コンの時はありがとう」にも、温度の差がある。
〈元気? この前のメンバーでまた集まらない?〉
一度打っては消し、もう少しだけカジュアルにする。
〈伊藤くん、最近どうしてる? 今度軽く飲まない?〉
送信。
既読がつくまでの間、川端は資料のページをめくるふりをした。
心の奥では、すでに次の一手を組み立て始めている。
伊藤が来れば、その向こうに城崎がいる──そして、その先に浅見の秘密も。その二人の秘密を呑み込んでやろうと、川端は密かに笑った