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【第9話】忘れられない手の温もり

 帰宅後、夕食を済ませ、そのまま風呂に入った。

 服を着替えてベッドに寝転がると、ようやく今日一日が終わった実感が湧いてくる。

 ふとした瞬間に、優奈の笑顔や仕草がフラッシュバックしてきて、そのたびに顔が緩んでしまう自分がいた。

 ──そんな夜に、スマホが振動する。

 画面には「黒川蓮」の名前。

 ……正直、少しだけがっかりしたのは、まあ、言わないでおこう。


「もしもし、どうしたんだよ」

『いや〜なんかさ、急にお前の声が聞きたくなってさぁ』

「うん、きもちわる。じゃ、切るわ」

『ちょ、待て待て、今のは冗談!冗談だって!』

 通話を切るふりをして遊んでやると、数秒後にはまた着信がかかってきた。


「……で?何か用?」

『最近どうなのよ。てかさ俺、今日さ、陸上部のマネージャーの子とLINE交換したんだよ!ちょっと可愛かったんだぜ? どう?どう?』

「俺にどう反応してほしいのか分からんが……とりあえずその数秒、返してくれ」

『ノリ悪っ!まあまあいいじゃん。で?お前は?白雪さんとどうなった? 家事手伝いのバイトだっけ?あの後は家行ってないのか?』

「いや、続いてるよ」

『……は?マジ?てか、まだあの家行ってんの?やばくないそれ』

「まあ……それだけじゃないんだけどな」

『ん?』


 黒川の話にかぶせるように、わざと気だるげな声で言ってやる。

「今日、白雪さんと……水族館、行ってきた」

『…………え?』

 唐突な報告に、黒川の声が完全に止まる。


『ちょ、ま、ちょい待て、え、今なんて?白雪……白雪優奈さんと、水族館?二人で!?』

「そうだけど」

『うそだろ!?あの“鉄壁”白雪さんだぞ!?お前なんかした!?催眠術とか!?』

「失礼すぎるだろ」

『まじでか……え?なにそれ、付き合ってんの?いや、付き合ってないとしても、それってほぼ勝ちじゃん……』

「さあ、どうだろうな。まあ、楽しかったよ」

 黒川が思考停止しているのを感じながら、俺はつい口元を緩めてしまった。


『ちょ、それってさ!お前から誘ったんか!?』

「いや、向こうから誘われた」

『は!?向こうから!?……そんな展開、あんのかよ……』

「何が不満なんだよ。誘われたから、俺は乗っただけだ」

『いやいや〜、照れてんじゃねーよ優希さ〜ん』

「次それ言ったら切る」

『さーせんでした……』

 くだらない言い合いをしながらも、どこか楽しげに茶番を終える。

 ふと、黒川が少しだけ真面目なトーンに変わった。


『でもさ、お前すげーよな。向こうからって、どう考えても脈アリじゃね?』

「そうか? 友達からチケットもらって、行く相手がいないとか言ってたけど」

『だからこそだよ! 行く相手いない中で“お前を選んだ”って、それ、もう十分意識してるっしょ』

「……そうなのかな」

『鈍感すぎて泣けてくるわ。でも、まあ……もしお前がその路線で行くんなら、俺は白雪さんのこと、諦めるかな〜』

「は? なんでだよ」

『だって、お前が相手なら、俺が入り込んだってどうにもなんねーもん』

「……まあ、それはそうかもな」

『あ〜地味に傷つくから、それ、もうちょい言い方考えてくれや……』

 珍しい。

 あの諦めの悪い黒川が、自分から一線を引くなんて。

 こいつなりに、察してるのか。俺と白雪さんの間に、何か変化があったってことを。


『ま、とにかく──ビビったけど、報告ありがとうな。そんだけ上手くいってるなら安心したわ』

「お前、何様だよ」

『いやいや〜、恋も勉強もバランスよくこなす、これぞ“完璧系主人公”ってやつだな〜』

「……褒めてんのか、馬鹿にしてんのか、どっちだよ」

『どっちもだ!』

 くだらない。

 でも、なんだか少し気が楽になった。


『まぁでもさ、なんかあれば教えろよ? お前、恋愛初だろ?』

「決めつけんな」

『いやいやいや!その顔は絶対好きなやつじゃん!』

「ったく……もう切っていいか?」

『ダメっす!せっかく繋がったんだから!』

「じゃあその話題やめろ」

『ほいほい、了解っす〜』

「それでいいんだ」

 少しだけ笑いそうになったのを、なんとか堪える。

 黒川のこういう調子の良さは、相変わらず変わらない。


『でもさ、そうなると、夏休み中もけっこう会うってことだろ?』

「そうだな。バンドの練習もあるし、家事サポートも継続するから、たぶん会う機会は多い」

『うわー、青春だなぁ。……でもな、真面目な話、そういうのって案外気を遣うもんだぞ?』

「……なに急に保護者目線」

『いやいやマジで言ってるって!ちょっとでも対応間違うと、女子ってすぐ冷めたりするからな。下手すりゃ噂回るし』

「……まぁ、気をつけるよ」

 黒川にしては、妙に真剣な声だった。

 初対面の頃から軽口叩いてばかりのやつが、たまにこうして真面目なこと言うから少し引っかかる。


『俺さ、中学んとき、めっちゃ好きだった子がいたんよ。でも結局、想いを伝える前に終わっちゃってさ』

「お前にもそんな過去あったんだな」

『一応な。……だから、言いたいのは、いざ告白するにしても、それまでの空気の作り方って大事だぞって話』

「ちょっと待て。訂正させろ。なんで付き合う前提みたいになってんだよ」

『だって〜、その流れでいくと、もう付き合う以外ある? 俺の勘がそう言ってんだわ』

「……その“勘”って信用ならんのよ」

『いやいや!今回はガチで当たるって!』

 本気か冗談かは分からない。けど。


「あと、この件は、なるべく外部に言わないで貰えると助かる」

 少しだけ声に力を込めた。

「正直、それで誤解が広まるのはごめんだ」

『あーね、分かったよ』

 黒川にしては素直な返事。少しだけ拍子抜けする。

『けど、その代わりに進展あったら教えろよ。この交換条件でどうよ?』


「ま、まぁ……それくらいなら」

 なんだかんだ言っても、こういうとき頼れるやつだ。


『おけいー』

 いつもの軽さが戻ってきた黒川の声に、自然と口元が緩んだ。


「そろそろ寝るか?」

『そうしっかなー。俺、明日も朝から部活だし』

「じゃあ尚更やばいじゃん。早起きしないと」

『だなー。じゃあ、今日はこの辺にしとくかー。おつー』

「はいはい、お疲れ様」

『報告、待ってるぞい』

 ───ツー…。

 通話が終わったあと、スマホを顔の横に投げるように置く。

 そして、ベッドの上でふたたび仰向けになった。天井を見つめながら、ゆっくりと息を吐く。

 恋愛。

 その言葉が、今夜ほど近くに感じたことはなかったかもしれない。

 ……やっぱり、そうなのかな。

 あのとき、隣を歩く優奈さんの横顔を見て、胸が高鳴ったのは事実だ。

 でも、もし仮に俺が、彼女に好意を持っていたとして───それは、果たして“正しい”ことなんだろうか。

 俺にとって優奈さんは、あくまで仕事先の「お客様」だ。

 家事サポートの依頼人として知り合った相手。

 言ってしまえば、店員が客に恋するようなものだ。

 そんなの、線引きとしておかしい気もする。

 ……なのに。

 それでも期待してしまう自分がいる。

 あの手の温もりを思い出しては、何度も心がざわめく。

「次会うのは───バイトの時か」

 ポツリとこぼしたその言葉が、なぜかやけに胸に響いた。

 彼女とまた会える。それだけで、少し未来が楽しみに思える自分がいるのが、不思議だった。

 目を閉じる。

 眠気はまだ遠いけれど、今日は色々ありすぎた。

 ───恋愛に無縁だった生活。

 その日々は、今日を境に、もう戻ってこない気がした。

 

**


「はぁ……すごい余韻……」

 パジャマに着替えて、ベッドの上でごろりと仰向けになった。

 優希くんと別れてから、まだそんなに時間は経っていないはずなのに、胸の奥がぽかぽかして、今でも心臓の音がやけに響いてくる。

 ……こんなの、久しぶり。

 布団をぎゅっと抱きしめながら、私は今日一日の出来事をゆっくりと反芻する。

 水族館に行って、たくさんの魚を見て、シロイルカに笑って──イルカショーで拍手して。

 おしゃれなカフェで優しい時間を過ごして、最後には家まで送ってもらって……。

 仕方ないもん。

 今日の優希くん、いつもに増して、ほんっとうにかっこよかったんだから。

 無言で車道側を歩いてくれたあの一瞬。

 予定をしっかり組んでくれた頼もしさ。

 それに、無理やりじゃなく自然に奢られてしまったカフェでのやりとり。

 どれもこれも、胸の奥を優しく撫でてくれるような、柔らかな思い出になっていた。

「最後まで……私を送ってくれた」

 ぽつりとこぼした言葉が、部屋の静けさに溶けていく。

 あの時、彼の背中を見送るだけじゃなくて、ずっと一緒にいたかった──なんて。

 そう思ってしまった自分がいたことに、少しだけ頬が熱くなる。

 ───これが、恋。

 そうだ。

 あの日、あの出来事で壊れてしまった“初恋”が、今日の思い出で少しだけ色を取り戻した気がする。

 こんなふうに、誰かを思って胸が高鳴って、触れた手の温かさにドキドキして、別れ際に寂しくなって……。


「……やっぱり、私、優希くんが好きなんだ」

 誰に聞かせるでもなく呟いたその言葉は、自分の心にだけ届く確かな音だった。

 まだ、怖さがないわけじゃない。

 でも、それ以上に、今は──彼と距離が近づいていくのが、ただただ嬉しい。

 そうだ、ひよりに話そう。

 今日のこと、全部。

 楽しかったことも、ドキドキしたことも、今感じてる余韻も。

 なんだかんだ、ひよりには全部話してきた。だから、きっと今日も。

 私はスマホを手に取って、少しだけ迷ったあと、発信ボタンを押した。


『もしもしー!待ってたよー!さぁ、進捗のほど、聞かせてもらおうかな?』

 電話越しに聞こえるひよりのテンションはいつも通り元気で、でも今日はそれがなんだか特別に頼もしく思えた。


「すごく……楽しかった。それと…優希くんがめっちゃかっこよかった……」

『あらぁ〜尊いなぁ!もっと優希くんのこと好きになっちゃった?』

「……うんっ」

 思わず声が弾んでしまう。

 止められない。いまの私は、完全に“恋する女の子”なのだ。


『いいね!もう、恋する乙女〜って感じの声色だし、本当に楽しめたんだなって事が声でわかるよ』

「……うん、ほんとに、幸せだった」

『で?で?で? 今日はどんな感じだったの? 順番に聞かせてよ、そりゃもう、細かいとこまで全部!』

 来た。ひよりの全力モード。

 分かってたけど、いざ話すとなると少し照れくさい。だけど、話したくてたまらない気持ちも本当だった。


「じゃあ、最初から話すね……」

 私は一度深呼吸して、今日の始まりを思い出す。


「まず、集合場所の駅に私、ちょっと早めに着いちゃって」

『うんうん』

「そしたらさ……なんか、周りの人からやたら見られてて。多分、制服でもないし、浮いてたのかな……。それに、男の人たちの視線とか、なんかひそひそ話とかも聞こえちゃって、ちょっと居心地悪くて」

『あーそれは……うん、優奈だと絶対目立つよね、超可愛いし。てか想像つくわ、何着てたの?可愛い系?清楚系?』

「ひより、今それはいいでしょ」

『ごめんごめん、つい。で?』

「そのとき……優希くんが呼びかけてくれたの」

『おお、ナイス登場!』

「声かけてくれて、私の隣に自然に立ってくれて……それだけで、周りの視線がすって引いてった感じだった」

『いいね〜初手からかっこいいね……!』

「うん……ちょっと、安心しちゃった」

 思い出しながら話すたびに、胸の奥がほんのり熱くなる。

 ひよりは電話越しでも表情が見えるくらい反応が分かりやすいから、つい調子が出てくる。


「そのあと、水族館まで歩いたんだけど……」

『うん?』

「さりげなく、私を車道側から遠ざけるように歩いてくれたの。何も言わずに、ね」

『え?無意識ま!? なにその無自覚騎士ムーブ!?』

「でしょ……?私も、ちょっとドキッとしちゃって……」

『私でも惚れる自信あるわそれ…。でで、水族館では何したの!?まだ終わらないでしょ!』

「うん、ちゃんと色んな展示見たよ。シロイルカの前では、つい夢中になっちゃった」

『あー想像つく〜。優奈ってシロイルカ大好きだよね』

「シロイルカはほんと可愛いもん。まぁでも、クライマックスはイルカショーだったかも……」

『え、何があったの?』

「イルカが、水かけてきて……反射的に、手、握っちゃったの」

『うんうん……ってちょ、まって!?!?!?初手からぶっ飛ばしてきたね君!?なに!?ナチュラルに手を繋いだの!?』

「う、うん……!ちゃんと指、絡んでて……優希くん、何も言わずに握ってくれて……!」

『尊すぎ……!破壊力がすごい!それでそれで!?』

「しばらく離したけど……内心、心臓バクバクだった……」

『そりゃそうでしょ!てかそれ、もう完全にデートのハイライトじゃん!?』

「うん……でも、そこからもちゃんと楽しめた。昼ごはんもごちそうになっちゃって」

『え!?奢られたの!?』

「うん、私が財布出そうとしたら、せっかくの機会だしって言って───」

『あーやばい、イケメンの極み……』

「それだけじゃなくて、帰り道に“ちょっと寄り道しない?”って言われて……」

『んんん!?まだあるのね?』

「おしゃれなカフェに連れて行ってくれて……二人でカフェラテ飲みながら、ゆっくりおしゃべりして」

『やばいね〜濃すぎる……』

「うん。ほんとに……夢みたいだった」

『っていうかさぁ、優希くん、なんでそんな完璧ムーブできるの!?なんなの!?』

「分からないよ……でも、そういうとこ全部、優希くんなんだよね」

 話していくうちに、ひよりがどんどんテンションが上がってく。でも、共感してくれるのは凄く嬉しい。

 

『いやでもさあ……マジで今日の流れ、少女漫画でもやりすぎって怒られるレベルだったよ!?』

「そ、そんなに……?」

『うん、ガチ。だってまず駅で目立ちまくってたヒロインを颯爽と回収して、そのまま自然に車道側歩くとか、どこの連載作品だよって話よ』

「言い方……」

『で極めつけは水族館でイルカに水ぶっかけられて、反射で手繋ぐとか……もう優奈、それ初手でラスボス倒してるよ?』

「倒してないよ……!」

『いや倒してる。少なくとも私の乙女心は死亡した』

 そこまで言って、ひよりは少し息をつく。

 興奮で喋り倒した分、少し深呼吸して、今度は少しだけ落ち着いたトーンになった。


『でもさ、ここからが本番なんだよね。まぁ、手を繋ぐのはだいぶ攻めてるけど、少し慎重に動かないとね』

「……うん」

『正直、今の時点で優希くんはかなり“好感度MAX”近いと思う。でも、それってまだ“優奈がいい子だな”“一緒にいて楽しいな”ってラインじゃん?』

「うん……たぶん、そう」

『だからこそ、ここから先は“女の子として意識させる”フェーズに入るの』

 その言葉に、少しだけ息をのむ。

 優希に好かれたいと思う気持ちは、確かにある。

 でも、“意識させる”なんて、そんなことが……私にできるの?


『優奈はきっと、自分がどう見られてるかとか、すごく慎重に考えるタイプでしょ?』

「……うん」

『でもね、ちょっとだけでいいから、揺らしてみて?たとえば視線を外さずに見つめるとか、ふとしたときに名前を呼んでみるとか』

「それだけで……いいの?」

『“それだけ”がね、男の子にとってはすっごい意味深に見えるんだってば。それとか、あえて距離を置いてみるとかもありだよ』

 ひよりの声は、妙に説得力があって。

 自分では気づけない角度から、私の背中をそっと押してくれる。


『あとね、ひとつだけ大事なこと言っていい?』

「うん……なに?」

『恋はね───競争なの』

「競争……」

『優希くんみたいな子なら、放っておいてもそのうち誰かに好かれる。ていうかもう、好かれてる可能性だってある』

「……っ」

 胸が小さく、きゅっと痛む。

 考えたくなかった。でも、確かにその可能性はある。

 優希のあの優しさや、さりげない気遣いは、誰にだって好かれてもおかしくないものだ。


『もちろん、無理に急ぐ必要はないよ?でもね、ちゃんと“自分も走ってる”って見せなきゃ、ゴールは遠のくばかりなんだ』

「……うん」

 私だって、優希くんと一緒にいたい。

 この距離をもっと縮めたい───恋を、終わらせたくない。

 なら、怖がってばかりじゃいられない。


『優奈なら、できるよ。ちゃんと向き合ってきたじゃん。だから、自信持ちな?』

「……うん。ありがとう、ひより」

『よしよし、泣くな泣くな〜。私はいつだって全力で応援してるから!』

 電話越しに響くその声が、なんだかあったかくて。

 まるで冬の日の毛布みたいに、心に染み込んでくる。


「ねえ、ひより」

『ん?なに?』

「次に会った時、ちょっとでいいから……“可愛い”って思ってもらえるように、頑張ってみる」

『……っはぁ〜〜〜!!!きたきたきた!その意気だよ優奈、そういうの待ってた!!』

「ちょ、声、大きい……!」

『うるさくていい!恋に本気な親友が世界一可愛いって今、確信した!!』

 笑いながらも、どこか熱いものがこみ上げてきて。

 私はそっと目を閉じた。

 ───明日も、頑張れそうな気がした。


 ツーツー……。

 通話が切れても、しばらくスマホを耳元から離せずにいた。

 じんわりと指先に残る温もりは、ただの機械の熱じゃない。

 きっと───あの時、手を繋いだ瞬間のぬくもりが、まだ私の中に生きている。


「はぁ……」

 小さく吐いたため息は、幸せの余韻そのもの。

 眠らなきゃと思うのに、心が落ち着かなくて、布団の中で何度も寝返りを打ってしまう。

 あの笑顔、あの声、あの手の感触───全部、忘れたくない。忘れられない。

 ひよりの言葉が、頭の中に繰り返し響いていた。

『少しずつ、優希くんに、優奈の魅力に気づいてもらえるようなアプローチ、頑張ってみて』

 うん……告白を焦る必要はない。

 その代わり、彼に“好きになってもらえる私”になれるように───一歩ずつ、前へ。

 軽音部のバンドメンバーとして。

 彼の家事サポートでのお客さんとして。

 そして今日は、一人の女の子として。

 私は確かに、彼と“特別な時間”を過ごした。

 どんどん大きくなる気持ちに、胸が苦しくて。

 でも、こんなに誰かを好きになれることが、ただ幸せだった。


「……好きだなぁ、ほんと」

 声に出すと、なんだか急に照れくさくなって、枕に顔を埋める。

 こんな気持ち、いつぶりだろう。

 いや、たぶん───初めてかもしれない。

 薄暗い部屋の中、私は小さくつぶやく。


「おやすみ、優希くん」

 その瞬間、自分で言った言葉に顔が熱くなって、思わず布団に潜り込んだ。

「……なに言ってるの私……恥ずかし……」

 でも、ふふっと笑ってしまう。

 だって、どうしようもないくらい嬉しかったから。

 好きな人のことを想いながら眠りにつける夜。

 それだけで、こんなにも心が満たされるなんて───知らなかった。

 ぎゅっと枕を抱きしめて、私は静かに目を閉じる。

 夢の中でも、彼に会えますように───。

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