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【第8話】この手が離れないように

 木曜日。今日は──白雪優奈と、水族館へ出かける日だ。

 朝、目が覚めた瞬間から、心の奥がそわそわと落ち着かなかった。

 自然といつもより早く布団から抜け出し、顔を洗い、歯を磨き、髭も念入りに剃る。保湿も丁寧に済ませたあと、鏡の前に立つ。

 ───問題は、服だ。

 暑すぎず、でも涼しげで。カジュアルすぎず、かといって気取りすぎてないやつ。

 何着かシャツとパンツを取り出しては、鏡の前で組み合わせてみる。


「……いや、これはちょっと子供っぽいか?」

 これじゃ公園に遊びに行く中学生じゃないか。やりすぎると浮くけど、手を抜くのも違う気がする。

 結局、普段はほとんど意識したことのない「女子ウケ」という言葉が頭にちらついていた。そんな自分に気づいて、思わず苦笑する。

 最終的に、清潔感を重視した白の開襟シャツに、落ち着いた色合いのスラックス。足元もそれなりに小綺麗なスニーカーを合わせた。

 そして、手を出したことのなかったヘアセット。数日前、コンビニで買ってきたワックスとスプレーを使って、何度も鏡の前で練習した成果を発揮する。


「……よし。崩れないように、スプレーも……。よし、いい感じ」

 見慣れない髪型に、少しだけ気恥ずかしさを覚えつつも、鏡越しの自分に小さく頷いた。

 ────そのときだった。

 バタン、と勢いよく開いた部屋のドアから、妹の美春が乱入してきた。


「優希兄ちゃん、どーしたの?なんか今日はやたら身だしなみ気にしてるじゃん」

「ん、いや……ちょっと出かけるだけだって」

「ふーん? あっ!さては女の子とお出かけでしょ? デートじゃんそれ!」

「なっ……ち、ちげーよ」

 否定した声に説得力がなかったのは、自分でも分かっていた。

「いや絶対そうでしょー。しかも今日めちゃくちゃ気合入ってるし。誰誰?その子可愛い?どこ行くの?水族館?動物園?水族館っぽいよね」

「落ち着け美春!尋問かよ!」

「はいー確定ー!デートだね!リア充爆発しろー。にぃにの女たらし〜」

「お前なぁ……」

 いつものように、騒がしい妹に振り回される朝。でも今日は、それすら少しだけ嬉しく感じた。

 理由は、言うまでもない。

 今日会う彼女を思うと、どうしても、顔が緩んでしまいそうになる。

 前日の夜。約束した集合時間は朝の10時。水族館のある街の駅までは各自電車で移動し、そこで合流する流れとなる。

 

 朝食を食べに一階のダイニングへ降りると、母さんがいつものように朝ごはんを用意してくれていた。

 今日は、サバの味噌煮にポテトサラダ、そして具だくさんの味噌汁。まさに“ザ・和食”なラインナップだ。


「多分、9時15分くらいには出るよ」

 席につきながらそう伝えると、母さん──篠宮奈津子は味噌汁のお椀を置きながら穏やかに頷いた。

「ふふ、分かったわ。楽しんでらっしゃいね」

「ああ、せっかくの機会だし」

 そこまでは、いつもの朝のやりとりだった。

 けれど──母さんは次の瞬間、ふっと声のトーンを変える。

「優希、女の子と出かけることはね、もう立派な“デート”なのよ」

「で、デート……!?そ、そうか……?」

 思わず箸を止めて顔を上げると、母さんはにこやかに微笑んだまま、さらなる言葉を重ねてきた。

「そうよ。相手が誰であっても、女の子と一緒に時間を過ごすってことは、ね。相手が不安にならないように、あなたがしっかりエスコートしてあげなさい」

「エスコートって……具体的には?」

「たとえば、歩くときはなるべく車道側に立ってあげるとか、疲れてないか気遣うとか。あとは、相手のペースに合わせて歩いてあげるのも大事よ。男の子って、無意識に早足になりがちだから」

「な、なるほど……気をつける」

 そんな細かいこと、これまで気にしたこともなかった。

 でも、母さんの言葉はどれも説得力があって、メモでも取りたい気分になる。


「あとね、優希。女の子と出かけるときは、なるべく相手のいいところをたくさん見つけて、素直に言葉にしてあげなさい」

「お、おう……それって、つまり……褒めるってことか?」

「そう。外見のことでも、仕草でも、話の内容でもいいわ。『ちゃんと見てくれてるんだ』って思えるような言葉は、きっと嬉しいものよ」

 母さんはそう言って、にっこりと目を細める。その笑みはどこか──“全部分かってますよ”という余裕すら感じさせた。

「ま、でも……無理して褒め言葉探すより、“ちゃんと見てる”って姿勢が大事よ。気づいて、伝えようとしてるだけでも、伝わるものだから」

「……なんか、今日の母さん、説得力すごいな」

「当たり前でしょ? 母親ですもの」

 味噌汁を一口飲むと、優しい出汁の香りがふわりと鼻に抜ける。けど、それよりも今は、母さんの言葉が胸にじんわりと染み込んでいた。

 ──デート。

 そんな大げさなものじゃない、と思っていたけれど。

 でも、少しずつ、実感が湧いてきていた。


 集合時間に遅れるなんてことだけは絶対に避けたかった。だから俺は、少し早めに家を出て、電車で待ち合わせ場所の駅へと向かう。

 車内ではスケジュールアプリを何度も開いて、今日の予定を頭の中で繰り返した。

 水族館に行くだけでもきっと楽しいはずだけど──それだけで彼女は本当に満足してくれるだろうか。

 会話が途切れてしまったら?思ったより早く見終わってしまったら?

 ……そんな不安もあって、俺は昨日のうちにある程度のプランを組み立てておいた。

 まずは駅で合流したら、水族館へ直行。

 そのあと近くのレストランで昼食を取り、帰り際にカフェで少し休みつつ話す時間を作る。

 堅すぎず、緩すぎず。でもしっかり“ふたりの時間”を意識した流れにしたつもりだ。

 ──優奈にはまだ伝えていないけど、きっと賛同してくれる。根拠のない自信だけは、なぜかあった。


「……よし、ここの駅で降りればいいんだよな」

 少し混み合う車内からホームへ降り、改札を抜ける。

 まだ時間はある──時計を確認すると、集合時間よりも二十分も早かった。


「……さすがに、早く来すぎたか」

 遅刻するよりはマシだと、念には念を入れた結果がこれだった。

 まあ、待つ分には問題ない。俺は駅の柱にもたれながらスマホを取り出した。

 ──それから数分。ふと、周囲が妙にざわつき始めていることに気づく。

 視線の先に何があるのかと目を向けると、駅構内の一角に人だかりができていた。

「あの子、めっちゃ可愛くない?モデルかと思った」

「俺もう無理、惚れた」

「え、誰?アイドル?スカウトされてそう」

「しかも白髪!えぐい、白髪であの美人ってどういうこと?」

 耳に入ってきた言葉に、俺の背筋がぴんと伸びる。

 白髪の、圧倒的美少女。

 ──まさか。

 人波をかき分けて視線を先に走らせた俺の目に映ったのは──ひときわ存在感を放つ女の子。

 端正な顔立ちと、ふわりと揺れる銀白の髪。何気ない仕草すらも人目を引く、完璧な美少女。

 白雪優奈。

 それが彼女の名であることを、俺は誰よりもよく知っている。

「……やば」

 思わず小さく呟く。

 今の彼女は、完全に“見つかっている”。このままじゃ、あと十分もすれば取り囲まれてしまいそうな勢いだ。

「──優奈さん!」

 思い切って声を上げると、彼女はすぐにこちらを見つけ、ぱっと表情を輝かせた。

「あっ!優希くーん!いたいたー!」

 周囲の視線も気にせず、彼女は嬉しそうに小走りでこちらに駆け寄ってくる。

 まるで、迷子の子猫が飼い主を見つけたかのような安心した顔。

 ……その一瞬で、あたりの空気が変わった。

 彼女に注がれていた憧れや熱気が、そのまま俺に向けられる。

「え、彼氏いたの……?」

「マジか、ショック……」

「あの男……死ぬほど羨ましい」

 嫉妬やため息、ざわめき。

 そんな雑音を背に、俺は何とか平静を保ちながら、彼女と向かい合った。


「ごめんなさい、早く着きすぎました」

「ううん!私も早く来たくて、すっごく急いできたの。……会えてよかった」

 そう言って見せた微笑みに、駅の騒がしさがふっと遠のいた気がした。


「……ていうか、その……」

 合流して歩き出してから数秒。ふと、優奈の姿に視線が吸い寄せられた。

 白く透けるようなノースリーブのブラウスに、淡い水色のロングスカート。

 足元は涼しげなベージュのサンダルで、小さなストローハットが手にぶら下がっている。

 肌を見せすぎず、けれど夏らしさはしっかりと伝わるその服装は、優雅で上品。

 街を歩いていれば目を引くのも納得の仕上がりだった。

 けれど、本人はそんなこと気にもしていないようで──

 俺の隣で、くるりとスカートの裾を揺らしながら、少しだけ嬉しそうに歩いている。


(……そうだ。お母さん、言ってたよな)

 『女の子と一緒に出かける時には、相手のいい所をたくさん見つけて、たくさん褒めてあげなさい』

 そんな助言が、急に頭をよぎった。

 ──いや、でも。褒めるって、どこから?どうやって?

 いざ実行しようとすると、言葉が詰まりそうになる。

 けど、せっかくの機会だ。ここで何も言わなかったら、男がすたる。


「……優奈さん、その、今日の服……すごくお似合いですよ」

 ひどく緊張した声だった。間違いなく顔が熱い。

 優奈は歩みをぴたりと止め、ぱちくりと瞬きをした。

「……えっ」

「いや、その、夏っぽいけど落ち着いてて……その、いつもよりちょっと柔らかい雰囲気っていうか……なんていうか……」

 ダメだ、何を言ってるんだ俺は。説明しようとするほど言葉が迷子になる。

 だけど──

「…………」

 横目に見れば、彼女はほんのりと頬を染めて、視線を下に逸らしていた。

 そして、きゅっとスカートの裾をつまんで、小さく笑う。

「……ありがとう。優希くんにそう言ってもらえると……うれしい、かも」

 その言葉がどれほど破壊力を持っていたか、当の本人はきっと知らない。

 柔らかく笑ったその顔が、眩しいくらいに可愛かったから──俺はもう、まともに直視できなかった。


 ふと横目で彼女を見ようとしたその瞬間、優奈はくすっと笑って、唇の端をほんの少しだけ上げた。

 その笑みはどこか意地悪で、けれど甘くて、俺の胸の奥をくすぐってくる。

「優希くんも……今日の服、すっごく似合ってるよ。……それに、髪の毛セットしてるの、初めて見たかも。かっこいい……」

「……っ……」

 直撃。

 完全にカウンターを喰らった。さっき俺が照れながら放った褒め言葉──それに対する、破壊力抜群のお返し。

 急に心臓がドクンと跳ねた。いや、ちょっと待て。反則だろ、それは。

 しかも、あろうことか、そんな爆弾を涼しい顔で投げてくるんだから恐ろしい。

 ただでさえ可愛いのに、こんなふうに攻めてくるとか、反則しかない。


「…………あ、ありがとうございます……」

 なんとか敬語で誤魔化したけれど、声が震えていたのは自覚がある。

 必死に平静を装ったものの、頬の熱はごまかしようがなくて、口角も今にも上がりそうになるのを必死に抑え込む。

 そんな俺の様子を、彼女はすぐに見抜いた。


「……ふふ、やっぱり。照れてるでしょ?」

「……っ、いえ、別に……そんなことは……」

「ううん、絶対照れてる。さっき、恥ずかしくなること言われたから……その仕返し。大成功、ってね♪」

 優奈は目を細めて、得意げに笑う。

 その顔は、まさに「してやったり」と言わんばかりの満足そうな顔で──だけど、どこか照れているような、そんな微妙な揺らぎがあって。

 ……なんなんだよもう。可愛すぎるだろ、ほんと。


「……ずるいですよ、そういうのは……」

 小さくぼやく俺に、優奈はふわっとスカートの裾を揺らして、にこっと笑った。


「おあいこ、でしょ?」

「あ、まぁ……そうですね……」

 そう答えるしかなかった。悔しいけど、可愛いからもう何でも許せる。

 すると彼女は、少しだけ視線を上げて俺を見てきた。


「なんか、家事サポートの時とは、ちょっと雰囲気違うね」

「そ、そうですか?……あまり変えないように意識してたんですけど……」

「ううん、なんかね。……新鮮」

 ふっと微笑む彼女の横顔が、やけに眩しく見えた。

 そんな甘い空気をまといながら、俺たちは水族館へと足を進めていく。

 もちろん、母さんのアドバイスを思い出しながら、俺はさりげなく車道側を歩いた。

 何気ないその一歩が、彼女の笑顔を守れるなら──その程度の気遣いはいくらでもする気だった。


 水族館に無事到着した。

 お互い想定よりも早めに着いたこともあり、混雑を避けてスムーズに入館できそうだ。

「2人です、お願いします」

 俺がそう言ってチケットを渡すと、受付のスタッフが笑顔で応対してくれる。

「はい、ペアチケットですね。ありがとうございます。どうぞごゆっくりお楽しみください。こちらパンフレットです」

 パンフレットを受け取った優奈は、すぐにその中を開いて興味深そうに目を通していた。

「では、早速行きましょうか」

「うん…そうだね」

 まず最初に向かったのは、入り口すぐの大水槽エリア。

 イルカやシャチといった大型の海洋哺乳類が悠々と泳ぐその姿は迫力満点で、照明を落とした館内に青い光が差し込む様子はまるで海の中にいるような錯覚を起こす。


「わぁ……!可愛いっ!!あ、こっち来た!!シロイルカこんなに可愛いんだぁ…!」

 優奈が水槽に顔を近づけて、きらきらと目を輝かせている。その瞳には大きなシロイルカがゆっくりと近づいてくる様子が映っていた。

 ──というか。目の前のシロイルカも可愛いには可愛いが、それに夢中になっている優奈の方が、何倍も破壊力がある。

 俺はその事実を胸の奥にしまいながら、彼女の隣で静かに頷いた。


 その後も、水族館の展示を順番に見て回る。

 次のエリアは、カラフルな熱帯魚が泳ぐ珊瑚礁の再現水槽だ。


「わぁ…ここすごい……色が、絵本みたい」

「確かに……現実の魚って、こんな色してるんですね」

 青、黄色、赤、紫──信じられないほど鮮やかな魚たちが、水中をひらひらと舞うように泳ぐ。

 中でも優奈が気に入ったのは、やたら顔が平べったい黄色い魚で、彼女はその子に「ぺったんちゃん」と名前を付けていた。


「なんか、この子だけやたら必死に泳いでる気がする……可愛い」

「愛称つけてるの、もしかして他にも……?」

「え、バレた?」

 そんなやり取りが自然に交わせるのも、心地よい空間だからこそなのかもしれない。

 続いて向かったのは、深海エリア。

 照明はさらに落とされ、不気味ともいえる薄暗さの中に、発光するクラゲやチョウチンアンコウが展示されていた。


「……うわぁ、幻想的」

「なんか、海の底って静かなんだろうなって感じがします」

 クラゲの水槽の前で、優奈はしばらく無言で見入っていた。

 ふわふわと光りながら揺れるその姿は、まるで音楽に合わせて踊っているみたいで。


「見てると落ち着くね……この感じ、ずっと見ていられそう」

「俺もです。寝そうですけど」

「ふふっ、寝るの早いでしょ、まだ昼前だよ」

 さらに進んだ先では、ペンギンやアザラシの展示エリアもあって、優奈は何度も足を止めては歓声を上げていた。

 特に、氷の上で滑りそうになってこけるアザラシには腹を抱えて笑っていたし、餌を食べる時に他の子を押しのけようとするペンギンには「ちょっと強欲だね、この子」なんてコメントも飛び出した。


 とにかく、彼女がどの展示でも新鮮な反応を見せてくれるおかげで、俺の方まで楽しくなってくる。

 普段のクールな印象とは違う、素直な驚きや感動を見せてくれる彼女を見ているだけで、胸がふわっと温かくなる。

 そんな中、館内アナウンスが響いた。

『まもなく、11時よりイルカショーが始まります。ご観覧をご希望の方は、会場までお越しください』


「……イルカショー、だって」

「行きましょうか。せっかくですし」

「うんっ。早く行こ!」

 そう言って駆け出しそうになる優奈を、俺は思わず軽く腕で制した。

「ちょ、あんまり急がなくても大丈夫ですから……ちゃんと見つけます、席」

「……えへへ、楽しみでつい」

 笑顔でそう言う彼女の横顔は、まるで小さな子供のように無邪気で。それでいて、弟の悠真くんと少し似てるものがあって。

 その隣にいられることが、なんだか嬉しかった。


「なんか…この貰ったレインコート暑いよね…」

「そうですね。ですが、こうしないと服がびしょ濡れになりますよ」

 俺たちは運良く、ステージに近い前列の席を確保することができた。

 すでに開演を待つ客席には、同じようにレインコートを着込んだ来場者たちが並び、色とりどりの透明ビニールが風にふわりと揺れている。

 座席に置かれていたビニールカバーで靴も包み、見た目は完全装備といったところ。けれど、レインコートの中は蒸し暑く、じんわりと汗が滲む。

 それでも、今この瞬間の期待感の方がずっと強かった。


『皆さま、お待たせいたしました! まもなくイルカショーがスタートいたします! お手元の飲み物などはおしまいくださいね。それでは、ごゆっくりお楽しみください!』

 館内アナウンスの明るい声が響くと、客席からわっと歓声が上がった。

 観覧スペースの前方、水の張られた大きなプールの向こう側から、スタッフたちが手を振って姿を現す。


『さあ、本日の主役たちの登場です! まずは元気いっぱい、ジャンプパフォーマンスからいってみましょう!』

 スタッフの笛の合図に合わせて──

 ――バシャァンッ!!

 水しぶきを高々とあげながら、2頭のイルカが水面から飛び上がった。


「わぁ……!」

 優奈が思わず声を漏らす。

 イルカのジャンプは想像以上に高く、滑らかで美しかった。太陽の光が水滴に反射して、空中にきらきらとした弧を描く。

 着水のたびに拍手が巻き起こり、イルカたちは次々と別のパフォーマンスを披露していく。フープをくぐったり、尾ひれで逆立ち泳ぎをしたり──まさにスターの舞台だった。


「すごいね……! こんなに器用なんだ……」

 優奈が目を輝かせている。その様子に、俺もつられて笑ってしまう。

 普段見せる少し控えめな彼女とは違って、こういうときの優奈は驚くほど感情豊かで、いちいち表情がくるくると変わる。


『さて! 次のコーナーは──お待ちかね、水しぶきタイムですっ!! 前の方の皆さんは、しっかりレインコートを着て、備えてくださいねーっ!』

 アナウンスの声に、客席がざわめく。

 ついに来た、例のやつだ。

 スタッフの合図とともに、イルカたちがステージ手前まで近づいてくる。その巨体が水面を滑るように泳ぎ──

 ───バッシャァアアアアア!!


「……きゃっ!!!」

「うぉっ!!」

 強烈な水しぶきが前列を直撃した。透明なカーテンのように水が降りかかり、レインコートのフードがばさっと揺れる。

 その瞬間──

 隣にいた優奈が、俺の手をぎゅっと握った。

 びっくりしたのか、咄嗟に縋るようなその手には、しっかりとした力が込められていた。

 俺は思わず振り返る。優奈は少し目を見開いて、でもすぐに恥ずかしそうに笑っていた。


「……ご、ごめん。ちょっと……びっくりして……」

「いえ、大丈夫です」

 そう言いつつも、彼女は手を離そうとはしなかった。

 俺が少し手をずらそうとした時…その手を握る力が少し強まった気がする。それはまるで───まだ手を繋いでいて欲しいとお願いするようで。

 そのまま、イルカたちの水掛けショーはさらにヒートアップしていく。

 水飛沫が舞い、観客たちはキャーキャーと笑い声を上げる中、俺たちはしっかりと手を繋いだまま、レインコート越しに指先のぬくもりを感じていた。


「ここの席…っ!めっちゃ水かかるねっ!」

「当たり前じゃないですか…っ!ほぼここは最前列で───うおっ!?」

 連続でぶつけられる水の水圧は、滝行の数倍もの威力だ。これに耐えるレインコートも大したものである。


『はーいそこまで!皆さんありがとうございました!イルカたちもそろそろ休憩の時間でーす!』

 それから数十分、その場の勢いでシャチのショーまで鑑賞すると、俺たちふたりは大満足で会場を後にした。

 隣にいる優奈は、先程の手を握ったことを引きづってるのか、少しだけ頬を赤らめている。

「ご、ごめんね!その…びっくりしてつい…手握っちゃった」

 優奈がそう言って、顔を赤くしながら俯く。

 けれど、その仕草も、表情も──俺の目には、ただただ可愛らしく映っていた。

「いえいえ。お気になさらず。びっくりしたのなら、仕方ないですよ」

「うんっ……ありがと……」

 ホッとしたように小さく笑う彼女の声が、どこかくすぐったい。


「でも、まさかイルカショーで、優奈さんがあんなにびっくりするとは思いませんでした」

「……そ、それは……! びっくりするよ普通! あんな勢いで水かけられるなんて思わないしっ」

 勢いよく抗議する声も、頬を膨らませる表情も、全部が可愛い。

 水しぶきを浴びて驚いた時のリアクションも、咄嗟に俺の手を握ったことも──全部含めて。


「案外、イルカショーやシャチのパフォーマンスって、これくらいは普通なんですよ」

「も、もう! じゃあ……私だけビビってたみたいじゃん!」

 頬を赤らめながらむくれる彼女に、思わず口元が緩んだ。

 普段の落ち着いたクールな彼女からは想像もつかないほど、今の優奈は感情豊かで、生き生きとしている。

 その変化の一つ一つに、俺の目は自然と引き寄せられていた。

 ──こんな表情、もっと見ていたい。そう思った。


「そうでした。そろそろ昼食にしましょうか」

「あ、たしかに! でも……このあたりに食べる場所あったっけ?」

「それなら大丈夫。行こうと決めてた場所があるんですよ。ついてきてくれますか?」

「うん!」

 優奈が嬉しそうに頷いてくれる。

 こういう時のために、ちゃんと調べておいたスケジュールがようやく役に立った。

 館内を抜けて移動を始めると、並んで歩く俺の横で──ふいに、また彼女の手がそっと触れてきた。

 驚いて振り向くと、優奈は恥ずかしそうに視線を逸らしながら、少しだけ指先を重ねてくる。

 俺はその手を、今度はそっと、でもしっかりと握り返した。

 彼女の温もりが、静かに指の隙間を伝ってくる。

 何の言葉も交わさなくても、それだけで通じ合えている気がした。

 ──この手が離れないように。

 そんな風に思いながら、俺たちは次の場所へと歩き出した。


 少し歩いた先、水族館の敷地を出ると、周囲には観光地らしく、いくつかのお土産屋や軽食の並ぶフードコートが軒を連ねている。

 その一角──特に評判が良く、写真だけでも空腹を誘ってくる、とある店の前で足を止めた。

 そこは、有名なオムライス専門店だった。

 ふわとろの卵が包丁一つで開かれ、ライスの上にとろけるように乗る、あの演出が人気の名店。

「着きましたよ。ここです」

「ここ……オムライスのお店?」

「はい。味の評判も良かったので」

「へぇ……なんか、すごくオシャレな雰囲気……」

 優奈は目を丸くして、店構えをじっと見つめる。

 大きな窓からは厨房の一部が見え、奥ではシェフが手際よく卵を巻いている様子が垣間見えた。


「オムライスは、好きですか?」

「うん! 大好きだよ!」

 即答だった。

 それから少し照れくさそうに視線を泳がせ、ぽつりと続ける。

「昔、家で夕飯に出てくるとすっごく嬉しくて……子どもみたいに喜んでたかも」

 その言葉に思わず笑みがこぼれる。

 彼女の、普段は見えない幼い一面に触れた気がして、なんだか胸が温かくなる。


「それは良かった。じゃあ、ぜひ今日も喜んでもらえるように選んでおきました」

 そしてもう一つ──

 これは最初から決めていたことだ。

 この昼食は、俺が全て奢る。

 ただの見栄かもしれない。今回誘ってくれたのは優奈だが、こういう場面ではきちんとしたい。

 男として、かっこよく見せたいという想いも、少なからずあった。

 店内に入り、通された席に着くと、まずはメニューを開く。

 ページをめくるたび、ふわふわの卵に濃厚なソース、溢れるチーズ、ジューシーなチキン──視覚だけで満腹になりそうな飯テロ写真のオンパレードだった。


「……これ絶対、やばいくらい美味しいやつだよね……」

「ですね。さっきから、空腹が拍車をかけてきます……」

 ふと向かいを見ると、優奈もじっとメニューを見つめたまま、小さくゴクリと喉を鳴らしていた。

 普段クールなその表情が、食に全力な今は完全に無防備で、つい吹き出しそうになる。

「おすすめとかある?」

「個人的にはこの、“とろけるチーズのデミグラスオムライス”が……いや、こちらのシーフードクリームも捨てがたいですね……」

「うーん、どうしよっかな……あ、でもこの、半熟卵を目の前でカットしてくれるやつ、気になるかも……!」

「では、ライブカットオムライスですね。せっかくですし、それにしましょうか」

「うん! じゃあそれにする!」

 そう言って笑う優奈は、まるで子供のように嬉しそうだった。

 この顔が見られるなら、なんだって奢りたくなる──そう思えてしまうくらいには、彼女は今、とびきりの笑顔を浮かべていた。


「注文、俺がまとめますね」

「あ、ありがと」

 注文を終えると、再び会話が自然と始まる。

 今まで見てきた魚の話や、イルカショーでの水しぶきの話。

 「食っしっかりビニールで隠したのになんか濡れたんだけど!」と文句を言いながら笑う優奈に、俺もつられて笑った。

 

 それから間もなくして、料理が運ばれてくる。

 目の前でシェフが丁寧に包丁を入れると、ふわふわの卵がスッと割れ、とろけるようにライスの上に広がっていく──

「……うわぁ……これ……絶対おいしいやつ……!」

 思わず手を合わせて、「いただきます」と優奈が嬉しそうに言った瞬間、俺の心にも同じような満足感が広がっていた。


「んーっ!美味しぃ〜!」

 一口目を食べた優奈が、思わず体を小さく揺らしながら、満面の笑みを浮かべた。

 その頬がほんのり染まっているのは、きっと照れでも誇張でもなく、純粋な喜びの表れなのだろう。

 俺もスプーンを手に取り、オムライスを口へ運ぶ。

 ふわとろの卵が舌の上でとろけ、コクのあるデミグラスソースが全体を優しく包み込む。なるほど、これは確かにレベルが違う。


「……これは、さすがプロの味ですね。卵の半熟具合も、ソースの濃厚さも、絶妙です」

「うんっ、ほんとそれ。こんな美味しいお昼ごはん、なんか申し訳なくなっちゃうよ……私も、お金ちゃんと出すからね?」

 優奈はそう言いながら、少しだけ困ったように笑う。

 けれど───その申し出は丁重にお断りだ。

 ここは最初から、俺が全額出すつもりだった。


「あ、いえ。ここは俺が出しますよ」

「えっ……?」

 意外そうに瞬きをする彼女に、俺は笑顔を返す。

「せっかくの機会なんですし、優奈さんはただ楽しんでくれれば。それに、俺がまとめて払った方が会計も楽ですしね」

 もちろん、裕福な家の彼女に見栄を張ったところで、金銭的な差なんて埋まるものじゃない。

 でもそれでも、今日だけは──少しくらい格好つけさせてほしいと思った。

 奢ることを当然とは思っていない。けれど、こういう場面で“男としての意地”を張るのも、時には悪くない。

 言葉を交わすうちに、優奈の表情がふっと和らいだ。


「……ほんと、優しいんだね。ありがとう」

「いえ。こちらこそ、楽しんでもらえて良かったです」

 そして、彼女はふと視線を落としながら、まるで何気ない風を装って、こう呟いた。


「──じゃあ、今度は私が奢る。それでどう?」

 その一言に、スプーンを持つ手がふと止まった。

 “今度”──その言葉が、胸の奥に心地よく染み込んでくる。


「今度……ですか」

 俺はわざと考え込むふりをして、唇の端を少しだけ上げた。

「まぁ……考えなくもないですね」

「ふふっ、何それ。偉そうじゃん」

「そんなことは……ないはずですけど」

 言葉を交わすたび、どこかぎこちなかった距離が少しずつほぐれていく。

 この食事も、たった一度きりのイベントではなくなるかもしれない──

 そんな未来を、俺は少しだけ期待していた。


 食事を終えた俺たちは、帰路の途中にあるカフェへと足を運んだ。

 カフェと言っても、駅前にあるようなチェーン店ではない。少し路地を入った、知る人ぞ知る穴場のような、小さな喫茶店。看板は控えめで、通り過ぎれば気づかないかもしれないくらいだ。

 理由は単純だ。人目を気にせず、落ち着いて会話できる場所がいいと思ったからだ。

 今日の駅前で感じたことだが、優奈に向けられる視線は、数を数えるのも面倒なくらいだった。彼女が目立つ存在であることは、今さら言うまでもない。


「こんなところにお店があるなんて……全然知らなかった」

「母に連れてきてもらったんです。中学生の頃に一度だけですが。その時に食べたスコーンの味が忘れられなくて」

「スコーンかぁ……おしゃれすぎない?」

「内装も素敵ですよ。木の香りと照明の暖かさが、すごく落ち着くんです」


 優奈はふっと微笑むと、ちらりと俺の顔を見上げて、すぐに目を逸らした。その頬が少しだけ赤い。

 水族館で手を繋いだことで、少し意識し合ってしまっているのはたぶん俺だけじゃない。

 けれど、それが心地悪いわけじゃなく、どこか、くすぐったくて、温かい。


「いらっしゃい、二名さまだね」

「はい。窓側、いいですか?」

「好きな席にどうぞ。注文決まったら声かけて」

 迎えてくれたマスターは、落ち着いた低音のダンディな声。外見も雰囲気も、歳を重ねた渋さがあった。世間では“イケおじ”って呼ばれるタイプなんだろう。

 カウンター越しには、スコーンやケーキが陳列されたガラスケース。コーヒーの香りと焼き菓子の匂いが鼻をくすぐる。

 俺たちは窓際の席に腰を下ろす。

 二階にある店内の窓からは、海の青がのぞき、さっきまでいた水族館の屋根も見える。木目調のテーブルと、程よい照明の暖かさが、時間の流れを少しだけ緩やかにしてくれる。


「素敵だね、こういうところ……落ち着く」

「気に入ってもらえてよかったです」

 注文したのは、抹茶ケーキとカフェオレ。優奈も同じものを選んだ。味の好みが似ているのは、ちょっとした偶然だけど、嬉しい。

 料理が届くまでの間、自然と会話が続く。

 家事サポートのバイトで作ったカッペリーニの話とか、最近の軽音部の練習メニュー、琴音のギターの音作りに神谷先輩が口を出しすぎて一悶着あった話とか。

 気取らない話題が続くこと自体、今ではもうすっかり自然になっていた。


「そういえばさ……」

 優奈が、少しだけ声を落とす。

「うん?」

「次に……またこんな機会があったら。遊園地とか……行ってみたいなって」

 少し照れたように、指先でカップの取っ手をなぞりながら、視線を逸らす。

 その頬は、きれいに赤らんでいて、思わず見とれてしまった。


「遊園地ですか」

 俺は笑顔を返しながら、心の中でちょっとだけ葛藤していた。

(よりによって遊園地か……)

 実は、俺は絶叫系がものすごく苦手だ。

 バランスを取るのは得意だし、運動神経も人並み以上だと思っている。けれど、重力のいたずらには、まるで勝てない。あの浮遊感は、正直無理だ。

 高さ自体は大丈夫なタイプなのだが、内蔵が浮く感覚がどうも慣れない。


「……俺、絶叫系はちょっとだけ、苦手なんですよ」

「えっ……そうなの!?」

 ぱちぱちと瞬きを繰り返しながら、優奈は思わず笑っていた。

「そんな完璧人間っぽい優希くんにも、そういう弱点あるんだね。ちょっと親近感わいちゃった」

「人には誰でも……弱点があるんですよ」

「ふふ、でもちょっと楽しみ。私、ジェットコースターとか大好きなんだ」

「無理やり乗らせようとしてます?」

「えっ?ま、まぁ……遊園地って……そういう場所だし……?」

 目を輝かせて話す優奈に、俺は苦笑いを返しつつも──ちゃんと答える。


「なるほど。……苦手でも……優奈さんとなら、挑戦してみてもいいかもです」

「……え?」

「滅多にない機会ですしね。次も一緒に出かけられるの、俺も楽しみにしてますから」

 その瞬間、優奈の表情がふっと柔らかくなって、照れたような、でもどこか安心したような笑みを浮かべた。

 何でもないような会話。でもそれは、確かに“次”へと繋がる一歩だった。


「ほんと?じゃ、じゃあ……また遊園地行く日決めておかないと」

「はい。まぁ、日程はもう少しゆっくりで大丈夫ですよ」

「そうだね」

 二人の会話の中で、自然と時間が流れていく。

 1時間というのはあっという間で、カフェでリラックスしながら世間話で盛り上がると、気がつけば夕方になっていた。けど…疲れが何も感じないほど、この時間そのものが心地よかった。


**


(やばいやばい!もしかして次もデートするの決まったの!?どうしよっ!落ち着けわたしー!)

 私───白雪優奈は、念願の、篠宮優希くんとの初デートを満喫している。

 水族館での出来事は、あまりにもその場の勢いに任せすぎた。けど──後悔なんてしてない。

 だって、手を繋げたんだよ?優希くんと、ちゃんと。あんな自然な流れで、心臓が爆発するかと思ったけど、もう一生の宝物にしていいレベル。

 でも……想定外のことが、起きちゃった。


(しれっと遊園地デート確定演出になってない!?)

 いやいや、嬉しいよ?嬉しいに決まってるけど、でも、こんな自然に流される形で次のデートが決まるなんて、予想外すぎて脳の処理が追いつかない!

 しかも──

(絶叫系、苦手なタイプだったの……!?それはそれでギャップ萌えするんだけど……)

 外見も中身も完璧人間みたいな優希くんに、そんな弱点があるなんて。なんか、すごく……可愛く見えちゃう。

 だけど、根が真面目すぎるところあるし……もしかして私が遊園地行きたいって言ったせいで、無理させちゃってる?

 そう思うと、ちょっとだけ胸がちくっとした。

 ──でも。

(私は、信じてみるって決めたんだ)

 恋なんて、もうしないって思ってた。

 人を信じることに臆病になってた。

 でも、優希くんの言葉や優しさに触れるたび、少しずつ、少しずつ、心が溶かされていく。


(優希くんが、無理してないって……信じたい)

 そんなふうに思っていた時だった。ふいに隣の彼が、静かに口を開いた。

「優奈さんと一緒にいると……不思議と時間の流れが早く感じます。なんででしょうか」

 ……っ!

 優希くんっ!?

 でた……ド天然トラップ。今の、今のやつ……!反則級すぎるってば……!

 心臓が跳ねた。跳ねて跳ねて、喉まで飛び出しそう。呼吸の仕方すら忘れそうになって、なんとか声を絞り出す。


「……っ…わ、私も……だよ」

 顔が熱い。

 というか絶対、耳まで真っ赤になってる。落ち着け、私。いつものクールぶってる白雪優奈を、今こそ思い出して──


(……って無理だってばー!)

 ああもう、この人……。

 天然すぎて、優しすぎて、不意打ちばかりで……ずるいよ、ほんと。

 でも、だからこそ。

 だからこそ、私は、この人になら、もう一度……心を預けてもいいって、思ってしまうんだ。

 

(……一日中、ずっと優しかった)

 水族館のチケットを受け取ってくれた時も、待ち合わせのときに自然と歩幅を合わせてくれたときも。

 展示を見ながら「楽しいですか?」って何度も、私の顔を見てくれたときも。

 イルカショーでは、ふいに私の手を取ってくれて……その手は、思っていたよりも、ずっと温かかった。まぁ、正しく言えば…その場の勢いで手を握っちゃったんだけど。

 そのあと、昼食をして、カフェに来て。

 静かな空間で、窓の外の海を眺めながら、さっきの話の続きをして、笑いあって。

 彼の過去の思い出──お母さんと来た時のことを聞いて、意外な一面を知った気がして。

 そして、気づいたら……次のデートの話までしていて。


(なんか……ほんとに夢みたい)

 ここまで来て、ようやく気づく。

 私、今日、ずっと楽しかった。

 緊張もしたし、何度も心臓が壊れそうになったけど──それ以上に、心が温かくて、安心できてた。


(……こんな気持ち、いつぶりだろう)

 胸の奥に、ずっと沈めていたものが、ふと揺れる。

 あの日の出来事。

 信じてたものが、嘘だったと知って……全部が崩れて、自分の価値さえ分からなくなった。

 大好きな人が、私に見せる笑顔も、言葉も、視線も、全部がいじめから逃れるための演技だったなんて思いたくなかった。でも──それが現実だった。

 それから、私は人を信じることをやめた。

 傷つくくらいなら、最初から心なんて開かないほうが楽だって。誰にも期待しなければ、裏切られることもないって。

 ……そうやって、距離を置くようになった。いつしか、それが私の普通になってた。


 だけど。

 ……今日の私は、どうだろう。

 優希くんと話して、笑って。

 小さなことで顔が熱くなって、ドキドキして。

 繋いだ手のぬくもりが、ずっと離れなくて。

 そんな私がここにいる。

 中学生の頃の、恋愛に憧れる女の子に、戻れてる気がする。

 

(いつか──)

 もし、いつか。

 この私が抱えている過去のことを、彼に話す日が来たとしたら。

 私が何を信じて、何を失ったのか……本当は、どれだけ怖かったのか。どれだけ傷ついていたのか。

 ひよりや両親みたいな、私を心から理解してくれる人以外には、絶対言えなかったその全部を、彼に伝える日が来たら。


 ──その時、彼は、どうするんだろう。

 私の過去に拒絶する? 否定する? 呆れる? 距離を置く?


(……いや)

 今日の彼を見ていたら、そんな想像が、少しずつ遠ざかっていく。

 きっと彼なら、驚くだろうけど……それでも、私の言葉を最後まで聞いてくれる。

 その目で、まっすぐに向き合ってくれる。

 優希くんなら、きっと、逃げない。

 私から、目を逸らしたりしない。

 ……そう思える自分が、少しだけ信じられないくらい。

 でも、そうやって未来のことを思い描けるようになったのは、他でもない、彼が今日くれた優しさの積み重ねのおかげ。


(だから……信じてみたい)

 まだ怖い。

 過去の影が、完全に消えたわけじゃない。

 でも、それでも──彼の隣にいる未来を、ほんの少しでも思い描けたことが、今の私には何よりの希望だった。

 ふと視線を横に向けると、優希くんは、何か考えごとをしているような顔で、外の景色を見ていた。

 まだ彼は、私の過去を何も知らない。

 私のことも、過去のことも、これからの不安も、全部──まだ何一つ、伝えてない。

 でも、それでいい。今は、それでいい。


(そのうちきっと、話すよ。いつか……ちゃんと、話せたらいいな)

 そう思いながら、私はそっと、テーブルの下で自分の手を握りしめた。

 ──これは、最初の一歩。

 心を開くことが、こんなにも怖くて、こんなに信頼がいるなんて。

 だけど、知らなかった私に、今日、初めてそれを教えてくれたのは──篠宮優希くんだった。


「優奈さん、考え事ですか?」

 その言葉にふっと我に返る。

「えっ? ごめん、ちょっとぼーっとしちゃった」

 慌てて返す私に、彼はすぐにふわりと微笑んでくれた。


「……ふふ、なんとなくわかります。このカフェ、静かで落ち着くから……ふと、心の奥のことまで浮かんできたりしますよね」

 柔らかく、静かな声。それでいて、どこか包み込むようなあたたかさがある。

 けど──その後に続いた言葉は、まるで心の奥に直接触れてくるみたいで、私は息を呑んだ。


「優奈さんが何を考えてたかまでは分かりませんけど……もし、その想いが少しでも重たいものだったら……俺の前では、無理しなくていいんです。優奈さんが沈んでる顔、僕はあまり見たくないですからね」

 ───え、待って。

 そんなの、ズルいって……。

 何気なく見える言葉に、どれだけ私のことを想ってくれてる気持ちが込められてるんだろう。

 優しすぎて、泣きそうになる。

 ……私、こんなふうに言われたの、初めてかもしれない。


「……っ……あ、ありがと。優希くんって、ほんと……優しいよね」

「意識して優しくしてる訳では無いんです。人は皆、何かしら過去を持つのですから。その痛みを抱えたまま過ごすのは、ただ辛くなるだけです」

 優希くんは続ける。

「だから、こうして優奈さんが誘ってくれた貴重な機会に、楽しむ以外の選択肢はないんです。だから、笑顔でいて欲しいんですよ」

 ……っ。

 心臓、ほんとに止まらせるつもりで言ってない?

 ずるい。もうほんと、ずるい。

 自然体でそんなこと言わないで……こっちはどれだけドキドキしてると思ってるの。

 でも、それだけじゃない。

 前にひよりと話したとき、私は気づいてた。

 私は──彼に、恋をしてるんだって。

 それを自覚してから、ほんの少しだけ、自分の中で変わったところがある。

 最初より、言葉に詰まらずに話せる瞬間が増えた。

 緊張しすぎずにいられる時間が、少しずつ、だけど確実に伸びてる。


 けど……優希くんには変わらないものもある。

 彼の抱擁力ある優しさ。

 こちらが何も言わなくても、そっと受け止めてくれるような、あの安心感。

 彼といると、胸の奥がずっとポカポカしている。

 きっと、彼は私だけじゃなくて、いろんな人にも、同じように優しくできる人だ。

 そういう人なんだって、分かってる。

 でも……でも…

 それでも、願ってしまう。

 いつか、その優しさが、私だけのものになる日が来たらって──。


(……そうなったら、きっと、幸せなんだろうな)

 カフェの落ち着いた空気の中で、向かい合って過ごす時間。

 ゆっくりと流れていくこの時間が、いつまでも続けばいいのにと思ってしまう。

 彼の穏やかな眼差しを見つめているうちに、ずっと高鳴っていた鼓動が、少しずつ落ち着いていくのを感じた。


(……優希くん、ほんとずるいよ)

 知らないうちに、また一歩、彼に惹かれてしまう。

 優しくて、さりげなくて、私のことをちゃんと見ていてくれる。そんな人、他にいなかった。

 もしこれが、誰かを惹きつけるための計算だったとしても……私は嫌じゃなかった。

 いや、むしろ──そんな風にでもいいから、私だけを見てほしいって思ってしまう自分がいる。

 こんなふうに、誰かを強く想ったのは初めてかもしれない。


 ……彼と、もう少しだけ、そばにいたい。

 デートの終わりが近づいてる気がして、名残惜しさが胸の奥を掻き立てていく。

 夕暮れの静かな光の中、時間だけがゆっくりと流れていて、だけどその一秒一秒が、どこか切ない。

 心の内に秘めた「好き」が、静かに、でも確かに広がっていくのを感じる。


「そろそろカフェを出ましょうか」

「……そうだね」

 頷いたけれど──本当はもっと、ここにいたかった。

 だから私は、小さな勇気を振り絞って、最後のわがままを口にする。

 彼が、きっと受け止めてくれるって……そう信じて。


「ねぇ、優希くん」

「はい」

「最後……家に帰るまで、一緒に来てくれる?」

「……はい、もちろん」

 その返事があまりにも自然で、やさしくて、心にすっと沁み込んでくる。

 ……良かった。

 今、この瞬間の幸せを逃したくなかった。

 彼と歩くこの帰り道が、今日という日の終わりを、もっと特別なものにしてくれる気がした。


 夏の夕暮れ、まだ少し熱の残る空気の中、私たちは並んで歩き出す。

 背中を押すように吹いた風さえ、優しく感じられた。

 目に映る風景が、どこか違って見える。世界が少しだけ綺麗に思えた。

 こんなふうに、誰かと並んで歩けることが、こんなに幸せだったなんて。

 心が、少しずつ、ほんのりあたたかく満たされていく。


 今日一日、私はずっと、彼の優しさに包まれていた。

 笑い合ったことも、照れたことも、手を繋いだことも、全部が私の宝物になっていく。

 ……優希くんとは、これからもこうして歩いていきたい。

 恋人とか、そういう言葉だけじゃ言い表せない、“大切な人”として。

 そう願いながら、私は心の奥に、そっと想いをしまい込んだ。

 この気持ちが、いつかちゃんと届きますようにって──願いながら。


**


 優奈の家まで、自然と同行する流れになった。

 ──けれど、それは想定の範囲内だったし、むしろ、最初から送るつもりだった。

 夕暮れに染まりはじめた街を、彼女と肩を並べて歩く。そんな何気ないひとときが、妙に胸に残る。


 最近、自分の中で優奈さんを意識する時間が増えている。

 その事実に、気づかないふりをするのが段々難しくなってきた。

 けれど同時に──思ってしまう。

 自分は、彼女にとって釣り合うような存在なんだろうか、と。

 だから、俺は彼女に対しても敬語を崩さない。

 どこか線を引いたまま話すのは、無意識のブレーキだ。

 近づきすぎたら、その先にあるものが怖くなるから。

 でも──それでも、今のこの距離は、何よりも愛おしい。


 今日みたいな日は、特にそう思う。

 仕事としてではなく、純粋な休日の中で、彼女は俺を誘ってくれた。

 それはたぶん、ほんの少しだけ……彼女が心を許してくれたから、なんだと思う。

 無理に背伸びせず、自然な笑顔で隣にいてくれる姿が、今日の彼女にはあった。

 風が吹くたびに、優奈さんの白くて柔らかな髪がふわりと揺れる。

 その横顔に、思わず目を奪われた。

 これは、お世辞でもなんでもない。ただ、事実として──彼女は、誰よりも美しい。

 歩くたび、街の灯りが彼女の輪郭をやわらかく照らし、その度に鼓動がひとつ、強くなる。


「優奈さん、今日は……楽しめましたか?」

 自分でも少し唐突だと思った。

 だけど、聞きたかった。ちゃんと、彼女の口から。

 同級生の女の子と出かけるなんて、今まで一度もなかった。

 だからこそ、失敗だけはしたくなくて、水族館の展示内容からカフェの混雑時間まで、調べられる限り調べて臨んだ今日だった。

 優奈さんは、少しだけ目を丸くしたあと、やわらかく笑った。


「とっても楽しかったよ」

 その笑顔がまっすぐ俺に向けられたことに、胸の奥がじんと熱くなる。


「そ、そうですか……」

 嬉しいはずなのに、照れが先に出るのが情けない。

 それでも、今だけはちゃんと目を見て話してくれる彼女がいて、その視線が、どこかあたたかい。

 沈黙が流れても、不思議と気まずくはなかった。むしろ、その静けささえ心地いいと感じられる時間だった。


「今度の遊園地……いつ行きましょうかね」

「そうだね……。今度バイトでまたうちに来た時に、時間あれば話さない?」

「そうですね、それがいいかもです」

 そう言う彼女の頬が、うっすらと赤く染まっている。

 どこか寂しげで、でも確かに今の幸せを感じている表情。

 俺はその横顔を、何度も記憶に焼きつけたくなる衝動に駆られた。

「……なんだか、今は何も考えず、余韻に浸りたくて」

「……確かに、それは一理ありますね」

 その言葉に、ふと気づく。

 彼女は過去に、何かを抱えているのでは無いかと。

 笑顔の奥にある沈黙や、ふとしたときに見せる伏し目がちの表情。それらはすべて、ほんのわずかな違和感として、心に残る。

 きっと、まだ俺には語れない痛みがある気がする。

 けれど──もし、いつかそれを打ち明けてくれる日が来たら。

 俺はそのすべてを、受け止めたいと思っている。

 無理に踏み込まない。でも、逃げもしない。

 この気持ちは、ただの優しさなんかじゃない。

 もっと深く、もっと強い“何か”になっていることを、自分でもうっすらと感じていた。

 

 彼女が持つその過去に、俺は触れるつもりはない。

 でも──もし、彼女が一歩踏み出そうとするその時が来たら。

 その手を、何も言わずに握ってやれる自分でいたいと思う。

 夏の夕暮れは、すっかり深まっていた。

 空の色も街のざわめきも、すべてが一日の終わりを告げているのに、俺の胸の奥は、まだ温かいままだった。

 この道が終わっても、俺たちの関係は、終わらない。

 その確信だけが、今の自分を少しだけ強くしてくれる気がした。


**


 電車を乗り継ぎ、住宅街を歩く。

 家事サポートで歩き慣れた道を進み、今はもう見慣れつつある白雪邸の門前までたどり着いた。

 あれから数十分移動した。だけど、その移動の中にあった沈黙さえも、今日は不思議と心地よく感じられた。

「ありがとう、ここまで送ってくれて」

「いえ、当然のことをしたまでですよ」

 お母さんに言われたことをふと思い出す。───エスコートは最後まで。礼儀としてではなく、気遣いとして、しっかりと届けること。

 今なら、その意味がわかる気がした。


「本当に楽しかった。その……優希くんは、今日を楽しめた?」

「はい、もちろん。すごく楽しかったですよ」

「……ほんと? ふふ、良かった」

 もちろん、自分も今日一日を心から楽しんだ。

 まさかこんな日が来るなんて思ってもなかった。

 この最後の最後まで、お互い一人になるのを少し名残惜しく感じている。

 そう思えるほどに、この時間が特別で、温かくて、愛おしかった。


「今日は本当にありがとう。優希くん、ゆっくり休んでね」

「はい、ありがとうございます。こちらこそ、今日一日、本当に楽しかったです」

「うん……。じゃあ、またね」

「はい、次のバイトかバンド練の時に、また会いましょう」

「そうだね……」

 ───それで、終わるはずだった。

 けれど、どちらともなく、その場に立ち尽くす。

 優奈さんは門の前で足を止めたまま、俺はその隣で帰るタイミングを探せずにいた。

 時間にすれば、たった数秒かもしれない。けれどその空白が、なぜだか惜しくて、もどかしくて───。


「……あ、そうだ」

 優奈さんが、ふと何かを思い出したように顔を上げた。


「水族館で一番楽しかったの、どこだった? 優希くん的に」

「え?」

「ううん、変なこと聞いちゃったかな。でも……最後に、もう少しだけ話したかったから」

 ───そう言って、優奈さんは小さく笑った。

 その笑みが、今日一日でいちばん優しくて、綺麗で、何より嬉しかった。

 きっと、俺と同じで、別れたくなかったんだ。


「うーん……やっぱり、イルカショーですかね」

「へぇ。理由は?」

「なんか、あそこだけ時間の流れが違って見えたんです。優奈さんが笑ってて、声出して喜んでて……本当に楽しそうだったから」


「……そっか」

 優奈さんは、ほんの少し目を伏せて、でもすぐにもう一度顔を上げた。

「私も、あそこが一番好きだった」

 そう言ってくれるその表情が、ずっと目に焼きついて離れない。

 この人の隣にいる未来が、あるのかもしれない───

 そんな予感すら、胸の奥に静かに灯った。


「それじゃ、またね」

「はい。おやすみなさい、優奈さん」

 名残惜しさを一歩踏み越えて、ようやく言葉にできた別れのあいさつ。

 手を振る代わりに、そっと目を合わせて、ゆっくり背を向けた。

 心地よい疲れと、ほんの少しの寂しさと、抑えきれない幸せを抱えて───俺は、夜の街へ歩き出した。

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