【第7話】初恋
私は結局、あの後ゆっくり眠ることはできなかった。
ひよりと電話をしていたのは、確か夜の十一時ごろ。でも、実際に眠りについたのは──二時を過ぎていたと思う。
頭の中が騒がしくて、静かになる時間がなかった。何度も枕をひっくり返しては、寝返りを打った。
目を閉じれば、ひよりの「覚悟」って言葉だけがぐるぐると反響して、心を落ち着けるどころじゃない。
朝。
アラームがなる前に目が覚めた。窓の外がほんのり明るい。私はのろのろと体を起こし、カーテンを引く。
肌寒い春の風が、ほんの少しだけ部屋に入り込んでくる。
「んっ……っはぁ……眠すぎ……うーわ……髪の毛ぐしゃぐしゃなんだけど……」
ベッドから立ち上がり、フラつく足取りで姿見の前に立つ。
鏡に映る自分の顔は、少し目の下に影がある。でも、どこかそわそわした気持ちが抜けきらず、ぼんやり笑みすら浮かびそうになる。
……いや、笑ってる場合じゃない。今日は、その「答え」を聞く日。
ひよりが「明日、会って話す」って言ったことには、きっと意味がある。
私がこの胸のざわめきをどうしても言葉にできないでいるのを、ちゃんと分かってるからこそ、ひよりはそれを教えてくれるつもりなんだ。
でも、あの子は言ってた。「覚悟がいる」って。
何の覚悟? 怖い。けど知りたい。
私の中に渦巻く、この感情に──もし名前があるなら、それを知ることで、何かが変わってしまう気もしている。
「やば……ほんと、私こんなテンパってんの……?」
いつも通りの朝のはずなのに、全然違う。
今日の私、いつもと違う。
ひよりの言葉ひとつで、こんなにも心を揺さぶられてる。
──違う。ひよりだけじゃない。
この心のざわつきの原因は……きっと、もっと別のところにあるんだ。
「あら、今日は早起きね、優奈」
パジャマのままリビングに降りると、キッチンから漂ういい匂い。ママがテーブルに器を並べているところだった。
普段は、私が朝食を担当することが多いけど……今は違う。
「今日も、優希くんの作り置きの……?」
「そうよ。余ってた食材で朝ごはんの作り置きをたくさんしてくれたのよ。ほら見て」
テーブルの上には、彩り鮮やかな朝ごはんがずらり。
ひじきと枝豆の炊き込みご飯、さつまいもの甘煮、だし巻き卵に、ほうれん草のおひたし。それに小さなタッパーにはラタトゥイユまで入っていて──完全にカフェメニューだった。
「うわぁ……美味しそう……。バランス完璧じゃん……」
思わず呟いた声が、ちょっと恥ずかしいくらいに素直だった。
何度か彼の作るご飯は食べてるけど、やっぱり何度でも驚く。この人、どれだけ料理できるの……?逆に知らない料理あるの……?
「最近、優希くんの作り置きばっかりに頼っちゃって、ママの腕が心配だわ。一応、私も主婦なのにね?」
「ふふ……ママも、頼る分にはいいと思うよ。だって、本当に美味しいもん」
「もう、優奈も優希くんに胃袋、掴まれてない?」
「そ、それは……そんなことないもん」
「うふふっ」
ママの笑いに、なんだか胸がくすぐったくなる。
でも、この感覚は……なんだろう? 料理が美味しいだけじゃ、きっと説明つかない気がする。
「──あ、今日、ひよりとちょっと出かけてくるから」
「ひよりちゃんと?結構久しぶりに会うんじゃない?」
「うん、最近あんまりゆっくり話せてなかったから……。なんか、色々話したいこともあるし」
「そう。ひよりちゃん、いい子よね。優奈ったら、ずっと頼りっぱなしだもんね」
「……うん、ほんとにそう。ありがたいなって思う」
口にして、自分で少し驚く。
このところ、ひよりの存在がいつにも増して大きく感じる。きっと今日、その理由も分かるのかもしれない。
「行ってらっしゃい。ちゃんと朝ごはんは食べていきなさいよ?」
「うん、ちゃんと食べるよ。──いただきます」
私は席に着いて、優希くんの作ってくれた炊き込みご飯を一口。
ふわっと鼻に抜けるだしの香りに、自然と目を閉じた。
優しい味。だけど、今の私の気持ちには少しだけずるいかもしれない。
だって、こんな味を作る人のこと、嫌いになれるはずがないのだから。
少しすると、弟の悠真が、寝ぼけた顔でリビングに現れた。
「お姉ちゃん……おはよぉ……」
「悠真、おはよ。今日ね、私、ひよりと出かけてくるから、ママといい子にしてるのよ?」
そう言った瞬間、彼の眠気がどこかへ飛んでいったのが分かった。
「えっ、ひよりねぇちゃん!?いいなぁー!僕も連れてってー!」
「だめよ、今回は絶対だめ」
「え〜なんで〜〜〜っ!」
テーブルの端で小さく地団駄を踏む悠真が可笑しくて、思わず笑ってしまう。
「ふふ、確かにひよりは悠真のこと気に入ってるけど……今日は私とふたりで会う約束なの。ね?」
「むぅ……わかったよ……」
口を尖らせてスプーンをくるくる回してるけど、素直に引き下がってくれた。
助かった……正直、今日の相談に悠真が同席なんてことになったら、混乱しかない。
ちなみに、悠真とひよりは昔から仲良し。
ひよりがよく我が家に遊びに来ていた頃、悠真はまだ幼稚園に通っていて、ひよりはその元気で面倒見のいい性格から、すぐ彼の懐に入っていた。お絵描き、鬼ごっこ、おやつタイム──全部ひよりのペースで、全部悠真が楽しそうだった。
だからこそ、今日くらいは大人だけの時間にしておきたかった。
朝食を終える頃には、少しだけ胸の重さが和らいでいた。優希くんの味がそうさせたのか、それとも家族との何気ないやり取りが、背中を押してくれたのか。
「じゃ、ちょっと準備してくるね」
私は席を立ち、自室に戻る。
ドアを閉めて、部屋の空気に包まれた瞬間、深呼吸を一つ。
――今日、私は何を聞かされるんだろう。
そして、何を、気づくんだろう。
クローゼットから、少しだけ気合いを入れたワンピースを取り出す。淡いクリーム色の生地に、細かい花模様の刺繍が入った、柔らかい印象の一枚。いつもなら選ばないけど、今日はひよりと、そして──もしかすると、自分自身と向き合う日だから。
「……このくらい、いいよね」
着替えて、姿見の前に立つ。
ふわりと広がるスカートに、自然と気持ちも少し前向きになった。
メイクも、ナチュラルだけど丁寧に。目元のラインを少しだけ強調して、大きな瞳がほんの少しでも自信を持てるように。髪も軽くアイロンで整えて、ブラシでツヤを出す。
───完了。だけど、胸の鼓動はまだ落ち着かない。
バッグに財布とスマホを入れて、扉に手をかける。
もう一度だけ、深呼吸。
そして、自分に言い聞かせる。
「大丈夫。今日は、ちゃんと……答えを見つける日だから」
階段を下りて、ママにひと声かけて靴を履く。
「行ってきます」
「行ってらっしゃい。ひよりちゃんにもよろしくね」
玄関の扉を開けた瞬間、柔らかな日差しが差し込んだ。
春の空気に背中を押されるように、私は歩き出す。
10時。いつものカフェ。
そこで、何かが始まる。そう思うと、少しだけ足取りが速くなった。
カフェに着いたのは、約束の15分前だった。
早く答えを知りたい──ただそれだけで、いつの間にか歩くペースが速くなっていたんだと思う。
そのせいで、ひよりの姿はまだない。少し火照った頬を風で冷ましながら、私は店の前の日陰に立ち、スマホを見たり空を見上げたりして時間を潰した。
待つこと数分。約束の時間の5分前になった頃、遠くからひよりが手を振りながら小走りで近づいてくる。
「早いなぁー!久しぶり〜優奈〜!」
「ひより、オフの日に会って話すのって結構久しぶりだよね」
「だよね!学校では毎日のように話してるけど、こうやってプライベートでゆっくり会うのはいつ以来だろ……下手したら中学ぶり?」
「そんな前だっけ?……って、あ、文化祭の準備の時とかに一緒にカフェ行ったかも?」
「あっ、あったあった!あの時、私だけパンケーキ追加して食べすぎて太ったやつだ!」
「ふふ、懐かしい」
そんなくだらないやり取りが、少しだけ気持ちを落ち着かせてくれる。
でも、やっぱり気になるものは気になる。
「ねぇ、そろそろ中に入ろ?話……あるんでしょ?」
「ふふ、焦らない焦らない。ちゃんと私、昨日徹夜して、優奈にどう伝えるかめっちゃ考えてきたんだから」
「ほんと、気合い入れすぎだよ……」
「だって、今日の優奈には“覚悟”が要るって、そう言ったからにはしっかりとぽいこと言わないとなって!」
その言葉に、また少し胸が高鳴った。
やっぱり、今日は“何か”が変わる日なのかもしれない。
私たちは並んでカフェに入り、窓際の小さな丸テーブル席に腰を下ろす。天井から下がるペンダントライトが、ほんのりと琥珀色の影をテーブルに落としていた。
「何頼む?」
メニューを開いたひよりが、私の方を覗き込む。
「うーん……迷うけど……やっぱり、カフェラテと、チーズトーストのセットにしよっかな。定番だけど、間違いないよね」
「あ、それ私も全く同じの考えてた!」
「……ひより、こういうときよく被るよね、前もあったし」
「うん、なんか一緒にいると食の趣味もシンクロしてくるんだよ。じゃあ、カフェラテとチーズトースト×2で!」
店員さんにオーダーを伝えながら、ひよりが小さくウィンクする。
「ねえ、こういうちょっとした偶然って、嬉しくない? 今日が特別な日って感じがするよね」
「……特別な日、かぁ」
私はその言葉を小さく反復して、そっと心の中にしまう。
そう思えるようになれたら──たぶん、私はもう一歩踏み出せる気がする。
「で、昨日から言ってた“覚悟”って、何なの?」
「ふふ、焦らないの。まずは腹ごしらえしてからね。空腹じゃ、心も整わないんだから」
「またそれ言う〜……」
けど、不思議と嫌じゃなかった。
ひよりと一緒にいれば、たとえ不安なことでも、ちゃんと向き合える気がする。
ふたりの前に運ばれてきた、同じメニューのプレートとラテカップ。
香ばしく焼けたチーズトーストの香りと、ふんわりミルクの泡に包まれながら、私は深く息をついた。
──さあ、ここからが本番。
ひよりが教えてくれる“答え”に、私は、きっと出会うんだ。
食事も進んで少しすると、ひよりはひとつ咳払いした。
「コホン、じゃあ、まずは事の全容を整理しましょう」
そんな真面目な口調で言いながらも、どこか楽しげな笑みを浮かべる。
「優奈は、同じ部活で出会った篠宮優希くんと知り合い、最初の挨拶から不思議と、他の男子に感じるような警戒心や恐怖感が芽生えなかった」
「……うん」
「んで、その後も何度か話すうちに、優希くんの言葉や行動に、優奈がちょっとずつ感情を揺さぶられるようになっていき──」
「……それって、そんな単純な話かな」
「最後まで聞いて。で、極めつけには夏休みになって、家事サポートで彼が優奈の家に出入りするようになる。最初は“手伝い”だったのが、気づけば会話も自然に増えて、行動も、距離感も、心の距離も、徐々に縮まっていって──最終的には目を合わせるのが恥ずかしくなるくらいにまでなった、と」
「……」
「こんな感じでどう?だいぶ核心突いてると思うけど」
「……まぁ、その通り、ではあるけど……」
私は、ラテカップのふちにそっと唇を寄せたまま、視線だけを窓の外へと逃がす。
ひよりはそんな私の様子を見て、少し声のトーンを落とした。
「じゃあ、まずは質問ね。なんで、彼と目を合わせられなくなったの?」
「……それは……よく分からないというか……。なんか、恥ずかしくて」
「ふむふむ、その“恥ずかしい”っていう感情の、ターニングポイントはどこ?」
「ターニング……ポイント?」
「そう。別に、何も意図がないのに恥ずかしくなることって、あんまりないと思うんだよね。だって、私の話はちゃんと目を見て聞いてくれてるじゃん、今も」
「……それは……」
返す言葉に詰まった。
視線が合わないのは“男子だから”と、自分に言い聞かせてきた。
でも──ひよりには、そんな理屈は通用しない。
「たとえばさ、急に“女の子”として見られてるって自覚しちゃったとか、なんかされて“ドキッ”とした瞬間があったとか……何か思い当たること、ない?」
「……」
あの時のことが、頭をよぎる。
気を失いかけた私を、優希が──腕で抱き上げてくれた、あの瞬間。
でも、それは──言えない。
「……分かんない。たぶん……いつの間にか、そうなってたのかも」
「ふうん……」
ひよりは、ストローでアイスラテをくるくるとかき混ぜながら、視線を外に向けた。
「じゃあ、聞き方を変えよっかな」
「うん」
「優奈さ、自分でも気づいてないうちに、誰かに“特別”って感情、持ったことってある?」
「特別……?」
「そう。『この人には、他の人と違う気持ちになる』みたいな。安心する、緊張する、嬉しい、でもちょっと怖い……なんか、いろんな感情が混ざっちゃう感じ」
「……」
思い当たる人は、いる。
でも、そんな風に考えたことはなかった。
“誰か”じゃなく、“彼”だから、なんとなく安心できた。
“誰か”じゃなく、“彼”だから、ちょっと恥ずかしくなった。
──それって。
「……それって、もしかして……」
ぼそっと呟いた私に、ひよりは視線を戻して、にこっと笑った。
「もしかして?」
「……いや、なんでもない」
言葉にするのが怖かった。
自分の中の何かが、変わってしまいそうで。
「ふふ……優奈、いま“自分で気づいちゃった”って顔してる」
「ち、違うもん……」
「違わない。そっか、そっかぁ……」
ひよりはどこか嬉しそうに微笑んで、椅子の背にもたれた。
「優奈ってさ、根っこはほんと素直だよね。だから、こういう話してても、無理にごまかそうとしない。……そういうところ、私、好きだよ」
「からかわないでよ……」
「からかってないもん。むしろ羨ましいくらいだよ」
「……え?」
その一言に、私は思わずひよりを見た。
でも彼女は、それ以上何も言わず、またストローを回していた。
「それって───優希くんへの恋心だと思うよ、優奈」
その言葉を聞いた瞬間、まるで胸の奥を静かに衝かれたような気がした。
私はラテの香りがまだ残るカップを両手で包み込みながら、ただ、黙っていた。
心臓が、少しだけ速くなる。
「えっ……。ほんと……に……?」
絞り出すような声になってしまった。
信じたくないわけじゃない。ただ、怖かった。
認めた瞬間、何かが大きく変わってしまいそうで。
「うん。私が今まで優奈の話を聞いてきた感じから言うなら……これはもう、立派な恋心だと思うよ」
「そ、そんな……認めたくないよ……」
自然と、声が掠れた。
心の奥にある何かがぐらりと揺れて、言葉の形をうまく保てなかった。
「なんで?」
ひよりは責めるでも、茶化すでもなく、ただ静かに問いかけてきた。
その声は、私の中にある迷いを、そっと掬い上げるようだった。
「別に……認めた方が楽だとは思うよ。自分の気持ちが分からないまま振り回されるより、少しは前に進めるし」
「……でも……私、一目惚れなんて、信じないって決めたの。だから……こんな風に理由も分からず好きになるなんて、変じゃない……?それに私には、あの……トラウマが……」
目を伏せて、無意識に膝の上のハンカチを握りしめていた。
過去の痛みが、まだ胸の奥に残っていて──きっとそれが、私の心にブレーキをかけている。
「変じゃないよ」
ひよりの声は、どこまでも優しかった。まるで、すべてを分かってくれているように。
「むしろ、優奈がそうやって悩んでるのが、私にはよっぽど“優奈らしい”って思う」
「らしい……?」
「うん。優奈って、恋に対してすごく慎重だもん。ちゃんと考えて、納得して、確信が持てないと、自分の感情を信じようとしない。でもね、恋愛って……理屈より先に心が動くものなんだよ」
「……」
「優奈、前にも誰かに心を向けたことがあるでしょ? あのときも、頭で考えるより先に、胸がきゅってなってたんじゃない?」
「…………うん」
その記憶を口にすることはしなかったけれど、確かに、そうだった。
「“しっかりしたきっかけがないから違う”って言ってたけど……それ、ほんとにないのかな?」
「え……?」
「クラス一のイケメンで、成績はトップ、家事までできるっていう完璧男子がいて──その人が、優しく接してくれて……気づいたら一緒に過ごす時間も増えてて、夏休みには家事サポートで家に来るようになって……。それって、もう十分きっかけになると思わない?」
「……」
「ラブコメ漫画だったら即堕ち展開のフルコースだよ」
確かに──きっかけはあったのかもしれない。
でも私は、それに気づかないふりをしていた。
……いや、気づくのが怖かっただけ。
そんな私の沈黙を破るように、ひよりがふっと声をかけた。
「ねぇ、優奈」
「……なに?」
「私に──優希くんのこと、紹介してくれない?」
「───えっ!?」
一瞬で、全身の神経が跳ね上がった。
ひよりの言葉の意味を理解した瞬間、喉がきゅっと締まる。
「いいじゃん。私、優希くんがどんな人なのか見てみたいの。話してみたいし、どんな風に優奈と接してるのかも知りたいなぁって」
だめ───それは……それだけは……!
ひよりは社交的で、優しくて、誰にでも好かれる。
私なんかより、よっぽど……恋愛に向いてる。
もし、そんなひよりが優希くんと話したら……
もし、少しでも心が通じ合ったら……。
「それは……ダメだよ────」
「……え?なんでダメなの?」
「それは……だって……そんなことしたら──」
「──盗られる」
「……っ!」
「私に、優希くんを“盗られる”って、思ったでしょ?」
「……」
言い返せなかった。
息が詰まって、喉の奥が熱くなっていく。
胸の奥にあった何かが、不意に引きずり出された気がした。
「……ほら、やっぱり」
ひよりはそう言って、ふっと微笑んだ。
まるで、私の気持ちを最初からすべて分かっていたかのように。
「その優奈のリアクションはね、立派な“独占欲”だよ」
「独占欲……」
聞き慣れたはずの言葉が、胸の中で妙に響いた。
「彼のことを大切に思ってる証拠。だから、誰かに取られるかもって思うだけで、こんなにも不安になるんだよ」
「…………」
胸の奥が、じんわりと熱くなる。
言葉にできない気持ちが、波のように押し寄せてくる。
「優奈、もう素直に認めていいんじゃない?誰かを好きになることって、別に悪いことじゃないんだよ」
「……私は……」
言いかけて、止まる。
何度も、何度も。
心のどこかでまだ、恐れている自分がいた。
──また裏切られたらどうしよう。
──信じた先に、また絶望があったら。
でも。
それでも。
ここで立ち止まりたくなかった。
そして、彼を──篠宮優希という人を──信じたいと思っていた。思い始めていた。
そんな風に誰かを想える気持ちを、もう否定したくなかった。過去の痛みを乗り越えたいと、自然に思えた。
だから、私は───
「……優希くんのことが……す、すき……なんだ……」
やっとの思いで、そう言葉にした瞬間、顔から火が出そうなくらい恥ずかしくなった。
心臓が、跳ねるように脈打っている。
でも。
不思議と、どこかすっきりしていた。
「よく言えたね。偉いよ、優奈」
ひよりが優しく笑ってくれる。
その笑顔に、胸が少しだけ温かくなった。
──私は、優希くんのことが好き。
そう、自分で認めた今、その想いは確かにここにある。
隠そうとしても、もう隠せない。
これはもう、事実だった。
「……」
けれど、ふと頭をよぎるのは、やっぱり──あの過去。
「……裏切られるかもしれないって思うよね、優奈。でもね」
ひよりの声は、どこまでも優しかった。
「マイナスな気持ちだけで恋を遠ざけるのって……きっと、自分を一番苦しめると思う」
「……やっぱり……そう、かな……。私にも……人を好きになる資格、あると思う……?」
「あるに決まってるじゃん」
ひよりは、はっきりと即答してくれた。
「優奈の人生なんだから。誰を好きになってもいいし、何を信じてもいい。それを否定する権利なんて、誰にもないよ」
その言葉に、胸が静かに、でも確かに揺れた。
私の中にずっとあった“縛り”を、そっと緩めてくれるような……そんなあたたかさがあった。
「ねえ、ひより。……私、これから、どうしたらいいんだろ」
ふと漏れたその言葉に、ひよりは静かに微笑んだ。
「“どうしたらいい”って、どういう意味?」
「だって……好きって分かっちゃったら、もう……止められない。話したくて、会いたくて、もっと近づきたくて……。頭の中、全部、優希くんで埋まっちゃうんだもん……」
思わず唇を噛んだ。
自分で言っておいて、情けないほどにまっすぐだった。
「そうだね。恋をしたら、そうなるのが自然。優奈は今、その真っ只中にいる」
「……止まれないよ……。もう、何でもいいから、優希くんと関わっていたいの。話せるなら話したいし、用事がなくても声かけたくなっちゃう」
その気持ちは、本物だった。
でも、口にすればするほど、自分でも少し怖くなる。
すると、ひよりが静かに手を取った。
「でもね、優奈」
「……うん」
「だからこそ、一度だけ深呼吸して。焦って近づくと、距離を詰めすぎちゃう。特に、優奈みたいに“本気で人を想う”タイプはね、気づかないうちに気持ちが溢れちゃうから」
ひよりの言葉は信じたい。だって、彼女は恋愛においては本当にプロ。
「……どうすればいいの?」
「ゆっくり、信頼を育てるの。好きになったからって、すぐに全部の気持ちを渡さなくていい。少しずつ、一つずつ、ちゃんと確認して、積み重ねていくの。……私の元カレとも、最後までそうだったよ。別れる時に、お互いありがとうって言い合える仲だった」
「……ひよりは、やっぱりすごいな」
「違うよ。私も、いっぱい悩んできた。いっぱい失敗して、泣いて、それでもやっと分かったことがあるの。──“本気の恋ほど、相手の歩幅に合わせることが大事”って」
その言葉は、まっすぐに優奈の胸に刺さった。
だからこそ、簡単には答えが出せなかった。
「……でも、どうしたら優希くんの歩幅を知れるの……?怖いよ。踏み込みすぎるのも、離れすぎるのも……」
「うん、分かるよ。そのために──これ」
ひよりは、ポーチから一枚の封筒を取り出した。
小さく、でも品のいい水色の封筒。その中から、何かをスッと差し出してくる。
「……え、これって……」
「水族館のペアチケット。毎年親戚がくれるんだけど、今年は時間が合わなくてさ。優奈にこれを渡そうかなって。──私の“必殺カード”です」
「なにそれ……!」
思わず笑ってしまった。けれど、指先が震える。
このチケット一枚が、世界を変えてしまうかもしれない──そんな気さえして。
「大事な人と、ちゃんと“向き合いたい”と思った時にだけ使うカード。私はこれで、最後のデートも、最初の告白もした。……優奈にも、今だからこそ渡したいって思った」
「でも、こんな大切なもの……私が使ってもいいの?」
「いいの。むしろ、優奈になら使ってほしいと思った。焦らなくていい。恋って、勢いじゃなくて、誠実さで近づくものだから」
「じゃ、じゃあ……さ。このデートに誘って……そのまま告白───」
「こらこら、焦りすぎ。デート1回で優希くんの気持ちを理解するのは至難の業だよ」
「……うぅ、はい」
焦った私を、制止してくれるひより。上手く彼と付き合うには、きっと彼女のアドバイスは信じた方がいいと思っている。
ひよりの言葉は、心をすっと包んでいく。
暴走しそうだった感情が、少しずつ落ち着いていくのが分かった。
「……ありがとう、ひより。私、ちゃんと歩幅を見つけてみる。……このチケット、無駄にしないから」
「うん。優奈の恋が、ちゃんと“信頼”に繋がりますように。応援してるよ」
優しく手を握られながら、私は静かに頷いた。
この手の温かさが、恋を始める私の心に、そっと灯りをともしてくれているようだった。
カフェを出ると、太陽がいつの間にか高く昇っていた。
ビルの隙間から射す光が、通りを照らしている。
行き交う車と人の流れの中、ひよりと別れた私は、ふと足を止めて空を見上げた。
「……そっか、私……また恋をしたんだ」
ひとつひとつの言葉が、自分の中で確かな重みを持って響いた。
思えば、前の恋は一方通行だった。信じた分だけ、裏切られた。
優しい言葉も、あたたかな時間も──全部、嘘だった。
だから私は、恋なんて二度としないって決めた。
それでも今、また心が誰かに引かれている。優しく、強く。
──ならば今度こそ、この想いを壊したくない。
好き。篠宮優希くんが。
彼といると、気持ちが落ち着いて、でもどこかくすぐったくて。あのまっすぐな言葉や優しさに、何度も救われた。
今度こそ、自分の気持ちに、ちゃんと向き合ってみたい。
信じてみたい。もう一度だけ。
「……よし。次、家事の手伝いに来てくれるとき……誘おう。水族館。ううん、絶対誘う。行きたいって、言ってみるんだ……」
きっと優希くんなら、時間を合わせてくれる。
無理に合わせるんじゃなくて、自然とそうしてくれる。
そんなふうに、私は彼を信じたい。
あの頃の私は、恋を“信じること”が怖かった。
でも今は違う。心の奥に小さな灯りが灯って、世界が色づいて見える。
「……恋って、本当に不思議だね」
すれ違う人たちの笑顔さえ、どこか愛おしく感じた。
雲ひとつない青空が、まるで背中を押してくれているみたいだった。
絶対に、誘う。
絶対に、できる。
水族館に行こうって言ってみる。なんなら、連絡先も……聞いてみよう。
大丈夫。焦らなくていい。ひよりも言ってた、ちゃんと歩幅を合わせればいいって。
「……私なら、できるよね。白雪優奈なんだから」
ふわりと風が吹いた。前髪を揺らし、心の靄をさらっていった。
──好きだと気づいただけで、こんなにも世界が明るくなるなんて。
恋って、やっぱり……素敵。
**
今日は三回目の白雪家でのバイト。土日に二日連続で入ることになっていて、すっかり生活の一部になりつつある。
家事の作業にも、少しずつ慣れてきた。でも──慣れないことも、ひとつだけ。
白雪優奈という存在は、やっぱりどこか特別だ。
彼女の仕草や言葉、ふとした笑顔に、どうしても目がいってしまう。
もしこれが“仕事”じゃなかったら──そんなことを考えるたび、胸の奥がむず痒くなる。
「……行くか」
ピンポーン。
インターホンを鳴らすと、すぐに反応があった。
「優希くんだね、今向かうよ」
「はい、ゆっくりで大丈夫ですよ」
モニター越しに見える優奈の声は、少しだけ柔らかい。
間もなくして門が開き、彼女と弟の悠真くんが顔を出す。
「いらっしゃい、優希くん。その……昨日ぶりだね」
「はい、そうですね」
「今日も家事手伝い、よろしくね。……今、ママは在宅でお仕事中で、パパは外出中なの。だから、家のことができるのって、私くらいしかいなくて」
「なるほど。それなら、なおさら僕の出番ですね」
「ふふ……頼りにしてる」
その微笑みは、まだほんの小さなものだったけど──
彼女が、俺に向けて初めて見せた気がした。
昨日よりも少しだけ柔らかい声色。ほんの一歩、距離が近づいたような気がして、思わず胸が温かくなる。
「じゃあ、お邪魔します」
「うん。今日はね、お風呂とキッチンの掃除と、夕飯の下ごしらえを……お願いできたら」
「了解です。まずは、お風呂掃除から取りかかりますね。案内、お願いできますか?」
「わかった。こっち」
優奈の後ろを歩いて廊下を進むと、リビングの一角で仕事中の白雪梨花さんと目が合った。
「あら、いらっしゃい優希くん」
「お邪魔しています。今日も家事手伝い、頑張らせてもらいますね」
「助かるわ。ちょっと今、立て込んでて……詳しいことは優奈に聞いてね」
「はい、お気遣いなく」
軽く会釈を交わして、再び優奈の後ろに続く。
昨日までは感じなかった、ほんの少しの“気軽さ”が、二人のあいだに流れている気がした。
この変化が、俺にとっても、彼女にとっても──悪くないものなら、いいなと思う。
「こっちだよ、ここがお風呂場」
優奈に案内された先で、俺は思わず足を止めた。
「……うぉ……これは凄い……」
淡いグレーの石材で統一された床と壁、ガラス張りのシャワーブースの奥には、深くて広いバスタブ。
壁面には縦に並んだ深緑のタイルが整然と並び、ホテルライクな照明が柔らかく反射している。
さらに、大きな窓から差し込む光が観葉植物を照らし、この空間をまるで雑誌の中の世界のように演出していた。
「ふふ、なかなかこんなお風呂、見ないでしょ?」
「はい……ビックリしました。これは、掃除のしがいがありますね」
そう言うと、俺はバッグから掃除用のゴム手袋と専用ブラシ、そして持参の重曹スプレーを取り出した。
「じゃあ、ここをとにかく綺麗にするわけですね。分かりました」
「──あの……私、しばらくここにいていい?」
「えっ? まぁ、それは構いませんよ。もし俺の仕事ぶりに指摘があるなら……遠慮なく言ってくださいね」
「……う、うん」
優奈は少し照れたようにうなずいて、入口近くの壁にもたれるようにして立ったまま俺の方を見ていた。
よし、と気合を入れて、まずはシャワーブースのガラス面から取り掛かる。
手持ちのスクイージーと専用洗剤で、細かい水垢や指紋を拭き取り、表面を均一に磨いていく。
次に、バスタブの縁や内部の水垢を確認。重曹とクエン酸のペーストを自作してこすり落とし、念入りに磨く。
そして排水溝。蓋を開け、中のネットを取り替え、周囲を専用ブラシで洗浄。臭いやぬめりを抑えるために、アルコール除菌スプレーで仕上げる。
こういう作業は人によっては嫌がるけど、俺はむしろ“整える”こと自体が好きだった。
見えない部分にこそ手をかけるのが、何よりの信頼に繋がると思っているから。
「……ふふ、なんか、本当にプロみたい」
優奈がぽつりと呟いた。
「いえいえ、ただの家事好きな高校生ですから。お風呂掃除は、水を扱う分だけ工程も多いですけど……終わったあとに空間が“澄んだ”感じになるの、好きなんですよ」
「……分かる、かも。今も、見てるだけで気持ちいいもん」
嬉しそうに微笑む優奈の声は、今日もどこか軽やかで──その変化が、俺にとって何よりのご褒美だった。
掃除の途中、俺が使った掃除グッズを水で洗い流していると、背後から不意に声がかかった。
「あのさ! 優希くん……」
その呼びかけに、俺は手を止めて振り返る。
「はい、なんでしょうか?」
優奈は手をぎゅっと握りしめて、落ち着かない様子だった。
視線は泳いでいて、いつもの落ち着いた態度とはまるで違う。そんな彼女の様子に、俺は少しだけ驚きつつも、その不安を和らげるようにやわらかく微笑んでみせた。
「……その……なんというか──」
「……?」
彼女は言葉に詰まり、目を伏せる。けれど、そこに浮かぶ頬の赤みは、今まで見たことがないほどの色だった。
「……ご、ごめん。あたふたしちゃって。えっとさ……。うぅ……。す、すい、水族館……! 今度一緒にどう……?」
「えっ……? 水族館ですか……?」
唐突な単語に一瞬きょとんとする。けれど、彼女の手元を見てすぐに合点がいった。
握られていたのは、見覚えのある水族館のチケット──街の中心にある、有名なアクアリウム施設のペア券だ。
「えっと! その! 友達からもらっちゃったんだけどね! 行く相手どうしようって考えたら……思い浮かんだのが優希くんだったっていうか……!」
早口でまくし立てるように説明する優奈。けれどその言葉の端々には、どこか恥じらいや緊張がにじんでいた。
俺は口元が思わず緩んでしまいそうになるのを、なんとか堪える。
「あ! いや、その……無理なら無理で大丈夫だよ! わ、私が勝手に言い出したことであって───」
パニック気味に言い募る彼女。
でも、その様子がなんだか可愛らしくて──俺は自然と少しだけ考えたフリをしてから、静かに頷いた。
夏休みの課題はすでに終わらせてあるし、バイトの入っていない平日なら時間はある。
それに──もし、これが彼女なりの“勇気”だとしたら、断る理由なんてどこにもなかった。
「ゆ、優希くん……その……やっぱり私じゃ───」
「いいですよ、水族館。一緒に行きましょう」
「──えっ……?」
優奈の目が、驚いたように見開かれる。
「夏休み、こうして家事手伝いでここに来れたことも、何かの縁ですし。それに──」
「……それに?」
「俺は、白雪さんからのお誘いを受けて──素直に嬉しいですから」
「……っ!? も、もう……変なこと言わないでよっ」
ぷいっと顔を背けた優奈の頬は、耳まで真っ赤だった。
その反応に、今度こそ俺は少し笑ってしまった。
「じゃあ……日程の相談、しないとですね。俺、土日はまたこちらでバイトなので、平日だったら大丈夫ですけど──」
「あ……うん、そっか。じゃあ、平日で空いてる日、あとで……」
言いかけて、優奈はふと口をつぐんだ。それから、勇気を振り絞るようにこちらを見つめて言う。
「……ねぇ、優希くん。あのさ──」
「はい?」
「その……よければ、連絡先、交換……しない?」
少しだけ震える声。でも、目は真剣だった。
「もちろん、喜んで」
俺がスマホを取り出すと、優奈もすぐに自分のスマホを手に取り、顔を近づけてQRコードを読み取る。
無事に連絡先が登録され、お互いの画面に名前が表示された瞬間、どちらからともなく少し照れたように目をそらした。
「……じゃあ、また後で日にち考えましょうか」
「……うん。楽しみにしてる」
バスルームの照明が、優奈の頬の赤みをほんのり照らしていた。
その横顔は、どこか緊張と安堵が入り混じったようで──でも確かに、嬉しそうに見えた。
連絡先を交換し、優奈が満足げに部屋へ戻っていった後──俺は次のリビング掃除に取りかかった。
手早くグッズを片付けてから、リビングの掃除機がけ、拭き掃除、そして窓のサッシをざっと磨く。だいたいのルーティンはもう体に染みついている。
と、ふと気づくと、視線を感じた。
顔を上げると、リビングの入口。そこから、こっそり覗いている優奈と、その後ろにくっついている悠真の姿があった。
「……あれ、どうかしました?」
「な、なんでもないっ!た、ただ……ちょっと、すごいなって思っただけ」
「ほんとだよー!お兄ちゃん、お掃除のプロなの?」
「いや、そこまでじゃないけど……まあ、慣れただけかな」
笑ってそう答えると、悠真がリビングへ駆け込んでくる。
「ねぇ、ぼくも手伝っていい? 拭き掃除とかできるよ!」
「ありがとう、じゃあタオル持ってきてくれる?」
「うんっ!」
悠真が元気よく走り去っていくのを見ながら、優奈が苦笑するように言った。
「……なんか、こうやって見てると、ほんと“うちの人”って感じがする」
「“うちの人”……?」
「あっ……い、今のは、なんでもないっ!」
言ってから顔を真っ赤にし、手をブンブン振って否定する優奈。
けれどそこにちょうど現れた白雪梨花さんが、タイミングよく口を挟んだ。
「ふふっ、そうねぇ。なんならもう、このままずっと“うちの人”でいてもらってもいいんじゃない?」
「ま、ママっ!? ほんと、またそういうこと言うっ……!」
「あらあら、だって実際そう見えるんですもの。優希くんがこの家にいると、空気があったかくなるのよね」
「…………っ」
耳まで真っ赤になって俯く優奈を横目に、俺は少しだけ照れながらも、苦笑して返した。
「ありがとうございます。でも、まだまだ修行中なので……今日の夕飯は前よりは少し手抜きになるかもしれません」
「全然構わないわ。うちは手間ひまより、愛情よ。ね?」
「そっちも恥ずかしいんですけど……」
そう言うと、梨花は含みのある笑みを浮かべ、微笑み返す。その微笑みが、何か俺に対する期待のように読み取れた。
夕方になる頃。
今日の夕飯は、少しだけ手間を省いた家庭メニューにした。
主菜は鶏の照り焼き。副菜にさっぱり系のほうれん草とツナの和え物。あとは味噌汁とご飯。
簡単だけど、食べ応えと彩りはある。材料も冷蔵庫にあるもので十分まかなえた。
「ねぇねぇ、これ、タレの匂いすっごくいいよ!」
「ほんとだ……なんか、おなか空いてきたかも」
悠真と優奈が並んでキッチンカウンターから覗き込んでくる。
ふたりとも目がキラキラしていて、そう言ってもらえると、作る側としてもやりがいがある。
「じゃあ、もう少しで盛りつけ入るから、テーブルの準備お願いしていい?」
「うん! ぼく、お箸並べる!」
「私もお皿出すね」
テキパキと動き出す二人の背中を見送りつつ、俺はふと思う。──この空気、悪くない。
あくまでこれは「バイト」で、「家事の手伝い」で、「たまたまの縁」だと分かってはいる。
でも今この瞬間だけは、それ以上の何かを、少しだけ感じてしまう。
「できたよー!」
「いっただっきまーす!」
そんな賑やかな食卓の声の中で、俺もようやく席についた。
誰かの「いただきます」に、俺の「どうぞ」が重なって──この家に、小さな笑い声があふれていた。
**
「今日はこの辺りで。終了時間ですからね」
リビングの時計を見て、手にしていた掃除道具を片付ける。汗をぬぐいながら顔を上げると、優奈が小さく微笑んでいた。
「優希くん、暑いのに今日もお疲れ様」
「いえ、白雪さんこそ。お手伝い、ありがとうございました。ずいぶん助かりましたよ」
「ふふ、ありがと」
その声に、どこか名残惜しさのようなものが滲んでいる気がしたのは、気のせいだろうか。
俺はキッチンの蛇口を閉めながら、ふと水族館のことを思い出す。
「その……日程のことは、どうしますか?」
外に出ると、俺はふとその事を聞いた。
ペアチケットの件。予定を調整しようにも、俺は基本的に土日は家事手伝いが入っている。となると、行けるとすれば平日のどこかだ。
「……それは……。後で連絡するよ。今ここで話してたら、帰るの遅くなっちゃうでしょ?」
そう言った彼女の横顔は、どこか言いにくそうで、けれど嬉しそうでもあった。
なんとなく、その感情のどこに比重があるのかまではわからない。けれど──俺はそれを否定しないでいた。
「あ、あのね……。水族館に誘ったのもね、えっと……その、そろそろオープンスクールの中庭ライブがあるでしょ?だから……それも兼ねて」
「──兼ねて?」
「……もっと仲良くなりたいの。バンドメンバーとしても……ね」
なるほど。そう言われれば、俺たちはまだ、そこまで深く言葉を交わす機会もなかった。
けれど、それだけじゃないような──どこか、彼女の言葉には含みがあるような気もする。
だが、それをそのまま問い返すのは、なんだか野暮な気がした。
むしろ、今この場で「仲良くなりたい」と言ってくれたことだけで、胸の奥がほのかに温かくなる。
「白雪さん……」
彼女の視線が逸れる。けれど、まるでそこに確かな何かを込めていたような気がした。
「……あのさ、家に着いて、時間できたら……私のLINEに連絡してくれない?」
「はい、いいですよ」
自然な流れだった。だけど、どこか特別な意味を持つような響きがあった。
連絡先を交換してすぐのやり取り。彼女から、こうして“連絡をくれるように”と言われるのは、初めてだ。
「あとさ……。その……仕事中でも、私に対して──そんなに丁寧に接してくれなくてもいいよ……もっとラフな感じで、さ」
「……それは……気持ちは嬉しいですけど……」
苦笑いしながら、俺は正直な思いを口にした。
「仕事である以上、それは崩せないかなって。やっぱり線引きというか、メリハリは大事だと思うので」
「……最近、バンド練の時も私に対して敬語じゃん」
「……えっ?そ、そうでしたっけ……」
そう言われると、少しだけ心当たりがあった。
最初のうちはもっとくだけて話していたかもしれない。けれど、優奈の雰囲気が“触れてはいけない何か”を抱えているように見えて、自然と距離感を探ってしまっていたのかもしれない。
俺が少し言葉に詰まると、優奈は静かに息を吐いて──笑った。
「……ふふ、まぁね。まぁでも……やっぱり大丈夫。優希くんが接しやすいやり方でいいよ」
「……そうですか」
その笑顔は、どこか安心しようとしているようにも見えた。
言いたいことがあるのに、言わずに留めたような──でもそれを俺が気づくことはない。
優奈の中で、何かが止まったのだとしたら、それは俺には見えない境界線だ。
ただ一つ、俺の中にあったのは──
また彼女と話したい、もっとちゃんと知りたい、という漠然とした気持ちだけだった。
**
「ふぅ……水族館、かぁ……」
部屋に戻って制服を脱ぎ、冷たい麦茶を一口飲んだ後、俺はベッドに腰を下ろしてひと息ついた。
今日一日を振り返ると、浮かんでくるのはやっぱり、白雪さんのことだった。
掃除を手伝ってくれたこと、片付けの合間にふと交わした会話。
そして──水族館のペアチケットのこと。
あれは、どういう意図だったんだろう。
ただのバンドメンバーとしての交流?それとも……それ以上の意味があるのだろうか。
「いや、まさか……」
苦笑しながら、頭を振る。
彼女が俺に好意を持っている?──そんなはずはない。もし仮にそうなら、もっと早い段階で、何かしら気づくきっかけがあったはずだ。
白雪さんは、いつだって落ち着いていて、大人びていて──俺なんかとは釣り合わない。
「……まずは、連絡するか」
そうだ。今日の約束は、帰宅したらLINEを送ることだった。
スマホを手に取り、白雪優奈のトーク画面を開く。未読のままの画面が目に入って、妙に緊張している自分に気づく。
「家着きましたよ」
短く、いつも通りの文面。送信ボタンを押して数秒も経たないうちに、既読マークがついた。
『ほんと?じゃあ、早速日にち決めたいけど……何日がいい?』
軽やかな文体。その語尾の柔らかさに、さっきまでの落ち着いた彼女の印象が、少し崩れる。
文字越しの優奈は、どこかくだけていて、素の表情が見えそうな気がする。
俺はスケジュールアプリを開き、空いている日を確認した。バイト、バンド練習、そして習い事の空手。
その中で、一番自由が利くのは──木曜日。
「木曜日ならいつでも行けますよ」
送るとすぐに、また返信が来た。
『木曜日か…。じゃあ、来週はどう?』
「いいですよ」
『やった!じゃあ、来週お願いね』
なんだろう。テンポよく続くやり取りが、思っていた以上に心地いい。
スマホを見ながら、自然と口元が緩んでいるのに、自分で驚いた。
「はい」
その一言を送った直後、さらに一通のメッセージが届いた。
『楽しみに待ってるね♡』
その文の末尾。
……ハートマーク。
──一瞬、時が止まったような気がした。
それは何気ない装飾なのか、それとも。
でも、深く考えるのは違う気もする。過剰に受け取ってしまって、勝手に意識して、それで勝手に裏切られる──そんな未来が少しだけ、怖かった。
「……気にしすぎだ」
小さく、独りごちる。
ただ、それでも。スマホの画面に浮かぶ「♡」を、何度も見返してしまう自分がいた。
──来週、白雪さんと二人で出かける。
その事実だけが、今の俺の中で、妙に現実味を帯びてきていた。
**
「はぁっ…はぁっ……決まっちゃったよ……!」
息が上がるほどの動揺。スマホをベッドに放り投げて、私はそのまま枕に顔を埋めた。
体がぽかぽかする。いや、それどころじゃない。顔は真っ赤に火照って、胸の鼓動はもう自分でも制御不能。早すぎて過呼吸になりそう……。
──だって、決まっちゃった。
優希くんとの、水族館デートが。
「来週の……木曜日……っ。うわ、ほんとに決まっちゃった……!」
声に出してみると、ますます現実味が増して、布団の中でもう一度身を縮めたくなる。
ついさっきまでは、「バンドメンバーとして仲を深めたい」なんて、自分に都合のいい理由をつけていた。
でも、いざこうして決まってしまえば──それだけじゃ済まない気持ちが、胸の中で暴れ出す。
「ど、どうしよう……どんな服着てけばいいんだろ……。ていうか、水族館って……何時集合?やばい、決め忘れちゃった!?いやそれより、デートってことは、手繋いだりとか……!」
頭の中があっという間にパニックで埋まる。とにかくいろんな想像が浮かんでは、恥ずかしさに顔を熱くさせた。
──落ち着け、白雪優奈。暴走しないって、ひよりと約束したでしょ。
ひより。そう、こういう時はまず彼女に相談だ。
今のこの、恋に浮かれてる自分を、ちゃんと冷静に見てくれる大事な親友に。
私は慌ててスマホを拾い上げ、連絡先を開いて通話ボタンを押す。
「もしもし……」
『はいはーい、報告?』
予想通り、ひよりの第一声は軽やかだった。
「察し良すぎでしょ……」
『当たり前よ〜。でで、水族館デートには誘えた?』
「頑張って……誘ったよ。来週木曜日に決まった!」
嬉しさがこみ上げて、自然と声が弾む。
まるで誰かに褒めてほしくてたまらない子供みたいに。
『おー!さっすが!やっぱり優希くんは乗っかってくれたんだね〜』
「そ、それでね!その……次は私、何すればいいのかなって。なんか、緊張してきちゃって……もう、落ち着かなくて……!」
電話の向こうで、くすくすと笑う声がした。
『あはは!テンパリすぎ!一旦深呼吸!吸ってー、吐いてー』
「すぅ……はぁ……」
言われたとおりに呼吸を整える。少しずつ、頭の中が落ち着いてきた気がする。
『よしよし。じゃあ次のステップね。水族館デートで、どんなアクション起こしたいのか、一旦聞いてみよっかな?』
「えっ?そりゃ……もっと関係深めたいよ。その……手繋いだりとか……」
言ったあとで、自分でも恥ずかしくなって、顔がまた熱くなる。
『手を繋ぐかぁ……さーすがに攻めすぎだよ?』
「えぇっ!?手を繋ぐのもダメなの?」
思わず大きな声が出る。でも、それだけ本気なんだ。今度のデートで、何か少しでも進展させたい。そう思ってる。
でも──それが「焦り」に変わってはいけないことも、私はどこかでわかってる。
『落ち着きなって~、まだ始まったばかりなんだからさ』
ひよりの声は、笑い混じりだけど、ちゃんと優しくて。私の暴走気味な気持ちを、柔らかく引き戻してくれる。
『手を繋ぐのがダメってわけじゃないけどさ。ほら、いきなりガツガツ行っちゃったら、逆にびっくりさせちゃうかもしれないじゃん?』
「……そっか。でも、ほんのちょっとでも距離、縮めたくて……」
自分の言葉に、自分で驚く。こんなことを口にするなんて、私なら絶対に考えられなかった。
あの裏切られたトラウマがあって───。
誰にも心を開かず、誰にも期待せず、距離を詰めることを恐れていた私が──いま、勇気を出して、再び誰かに近づこうとしてる。
『うん、それはすっごく伝わってきてるよ。優奈、ほんと頑張ってるもん』
「うぅ……ありがと……」
電話越しなのに、ひよりの言葉が胸にあったかく沁みてくる。
『でもね、スタートダッシュはもう十分バッチリ決めてるから。今はそれで満点。あとは、ひとつひとつ、少しずつでいいんだよ』
「……うん」
『当日はさ、無理に“進めよう”って思うより、“一緒に楽しもう”って気持ちで行けば、それがちゃんと伝わるから』
「……楽しむ、かぁ」
口にしてみると、少しだけ心が軽くなった気がした。
『優希くん、優奈と一緒に水族館行けるだけで、きっと嬉しいと思うよ』
そう言ってくれるひよりの声が、どこまでも真っ直ぐで、私の背中をそっと押してくれる。
「……うん。ありがと、ひより。私……ちゃんと、楽しんでくるね」
『うんうん。いい報告、待ってるから!……あ、でも暴走しそうになったら、私の顔思い出して!ブレーキ担当なんだから!』
「ふふっ……わかった。ちゃんと、頭の中に浮かべておくよ」
『あとあんた、変な男に絡まれんようにしなよ。可愛すぎるんだから、すぐ変な男を引きつけるし』
「は、はぁ!?それは…どうしようも無いでしょ……」
『ふふ、冗談冗談。楽しんでおいでよ、私の必殺カードなんだし!』
そうして私は、やっとスマホを胸の上に置いて、大きく深呼吸をした。
来週の木曜日、きっと私はまた緊張して、心臓バクバク言わせながら出かけるんだろう。
でもそのときは──今日よりも、ほんの少しだけ前に進んでる自分で、いたいな。
また彼と会える。
その事実が、胸の奥をじんわりと温めてくれる。なんでもない夜が、なんだか特別な時間に思える。
早く会いたい。早く話したい。
彼の声をもっと聞きたいし、彼の笑顔をもっと近くで見たい。
──もし、もしも。
優希くんと付き合えたら。
そしたら、今よりもっと、世界がきらきらして見えるのかもしれない。
……ううん、見えるじゃなくて、絶対に見せたい。
過去の痛みに縛られたままじゃ、前に進めない。だからこそ今は、信じたい。彼の優しさも、笑顔も、全部。
「……よしっ」
心の中でそっと拳を握る。
信頼するって、きっと勇気がいる。でも、私はもう一度、恋をした。
だったら今度こそ、自分の手でつかまなくちゃ。
──だからこそ、今は焦らずに。ひよりの言葉を胸に置いて、丁寧に距離を縮めていく。
水族館デートを、きっと最高の思い出にするために。
私はスマホの画面をそっと伏せて、布団を引き寄せた。
あたたかな気持ちに包まれながら、目を閉じる。
優希くんのことを想いながら眠る夜は、こんなにも穏やかで、優しい。
──これは、二度目の恋。
だけど、きっと初めて本当の「好き」を信じられる恋。
だから私は、もう迷わない。
この気持ちを、絶対に嘘にはしない。