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【第7話】初恋

 私は結局、あの後ゆっくり眠ることはできなかった。

 ひよりと電話をしていたのは、確か夜の十一時ごろ。でも、実際に眠りについたのは──二時を過ぎていたと思う。

 頭の中が騒がしくて、静かになる時間がなかった。何度も枕をひっくり返しては、寝返りを打った。

 目を閉じれば、ひよりの「覚悟」って言葉だけがぐるぐると反響して、心を落ち着けるどころじゃない。


 朝。

 アラームがなる前に目が覚めた。窓の外がほんのり明るい。私はのろのろと体を起こし、カーテンを引く。

 肌寒い春の風が、ほんの少しだけ部屋に入り込んでくる。


「んっ……っはぁ……眠すぎ……うーわ……髪の毛ぐしゃぐしゃなんだけど……」

 ベッドから立ち上がり、フラつく足取りで姿見の前に立つ。

 鏡に映る自分の顔は、少し目の下に影がある。でも、どこかそわそわした気持ちが抜けきらず、ぼんやり笑みすら浮かびそうになる。

 ……いや、笑ってる場合じゃない。今日は、その「答え」を聞く日。

 ひよりが「明日、会って話す」って言ったことには、きっと意味がある。

 私がこの胸のざわめきをどうしても言葉にできないでいるのを、ちゃんと分かってるからこそ、ひよりはそれを教えてくれるつもりなんだ。

 でも、あの子は言ってた。「覚悟がいる」って。

 何の覚悟? 怖い。けど知りたい。

 私の中に渦巻く、この感情に──もし名前があるなら、それを知ることで、何かが変わってしまう気もしている。


「やば……ほんと、私こんなテンパってんの……?」

 いつも通りの朝のはずなのに、全然違う。

 今日の私、いつもと違う。

 ひよりの言葉ひとつで、こんなにも心を揺さぶられてる。

 ──違う。ひよりだけじゃない。

 この心のざわつきの原因は……きっと、もっと別のところにあるんだ。


「あら、今日は早起きね、優奈」

 パジャマのままリビングに降りると、キッチンから漂ういい匂い。ママがテーブルに器を並べているところだった。

 普段は、私が朝食を担当することが多いけど……今は違う。


「今日も、優希くんの作り置きの……?」

「そうよ。余ってた食材で朝ごはんの作り置きをたくさんしてくれたのよ。ほら見て」

 テーブルの上には、彩り鮮やかな朝ごはんがずらり。

 ひじきと枝豆の炊き込みご飯、さつまいもの甘煮、だし巻き卵に、ほうれん草のおひたし。それに小さなタッパーにはラタトゥイユまで入っていて──完全にカフェメニューだった。


「うわぁ……美味しそう……。バランス完璧じゃん……」

 思わず呟いた声が、ちょっと恥ずかしいくらいに素直だった。

 何度か彼の作るご飯は食べてるけど、やっぱり何度でも驚く。この人、どれだけ料理できるの……?逆に知らない料理あるの……?

「最近、優希くんの作り置きばっかりに頼っちゃって、ママの腕が心配だわ。一応、私も主婦なのにね?」

「ふふ……ママも、頼る分にはいいと思うよ。だって、本当に美味しいもん」

「もう、優奈も優希くんに胃袋、掴まれてない?」

「そ、それは……そんなことないもん」

「うふふっ」

 ママの笑いに、なんだか胸がくすぐったくなる。

 でも、この感覚は……なんだろう? 料理が美味しいだけじゃ、きっと説明つかない気がする。


「──あ、今日、ひよりとちょっと出かけてくるから」

「ひよりちゃんと?結構久しぶりに会うんじゃない?」

「うん、最近あんまりゆっくり話せてなかったから……。なんか、色々話したいこともあるし」

「そう。ひよりちゃん、いい子よね。優奈ったら、ずっと頼りっぱなしだもんね」

「……うん、ほんとにそう。ありがたいなって思う」

 口にして、自分で少し驚く。

 このところ、ひよりの存在がいつにも増して大きく感じる。きっと今日、その理由も分かるのかもしれない。


「行ってらっしゃい。ちゃんと朝ごはんは食べていきなさいよ?」

「うん、ちゃんと食べるよ。──いただきます」

 私は席に着いて、優希くんの作ってくれた炊き込みご飯を一口。

 ふわっと鼻に抜けるだしの香りに、自然と目を閉じた。

 優しい味。だけど、今の私の気持ちには少しだけずるいかもしれない。

 だって、こんな味を作る人のこと、嫌いになれるはずがないのだから。


 少しすると、弟の悠真が、寝ぼけた顔でリビングに現れた。

「お姉ちゃん……おはよぉ……」

「悠真、おはよ。今日ね、私、ひよりと出かけてくるから、ママといい子にしてるのよ?」

 そう言った瞬間、彼の眠気がどこかへ飛んでいったのが分かった。


「えっ、ひよりねぇちゃん!?いいなぁー!僕も連れてってー!」

「だめよ、今回は絶対だめ」

「え〜なんで〜〜〜っ!」

 テーブルの端で小さく地団駄を踏む悠真が可笑しくて、思わず笑ってしまう。


「ふふ、確かにひよりは悠真のこと気に入ってるけど……今日は私とふたりで会う約束なの。ね?」

「むぅ……わかったよ……」

 口を尖らせてスプーンをくるくる回してるけど、素直に引き下がってくれた。

 助かった……正直、今日の相談に悠真が同席なんてことになったら、混乱しかない。

 ちなみに、悠真とひよりは昔から仲良し。

 ひよりがよく我が家に遊びに来ていた頃、悠真はまだ幼稚園に通っていて、ひよりはその元気で面倒見のいい性格から、すぐ彼の懐に入っていた。お絵描き、鬼ごっこ、おやつタイム──全部ひよりのペースで、全部悠真が楽しそうだった。

 だからこそ、今日くらいは大人だけの時間にしておきたかった。

 朝食を終える頃には、少しだけ胸の重さが和らいでいた。優希くんの味がそうさせたのか、それとも家族との何気ないやり取りが、背中を押してくれたのか。


「じゃ、ちょっと準備してくるね」

 私は席を立ち、自室に戻る。

 ドアを閉めて、部屋の空気に包まれた瞬間、深呼吸を一つ。

 ――今日、私は何を聞かされるんだろう。

 そして、何を、気づくんだろう。

 クローゼットから、少しだけ気合いを入れたワンピースを取り出す。淡いクリーム色の生地に、細かい花模様の刺繍が入った、柔らかい印象の一枚。いつもなら選ばないけど、今日はひよりと、そして──もしかすると、自分自身と向き合う日だから。


「……このくらい、いいよね」

 着替えて、姿見の前に立つ。

 ふわりと広がるスカートに、自然と気持ちも少し前向きになった。

 メイクも、ナチュラルだけど丁寧に。目元のラインを少しだけ強調して、大きな瞳がほんの少しでも自信を持てるように。髪も軽くアイロンで整えて、ブラシでツヤを出す。

 ───完了。だけど、胸の鼓動はまだ落ち着かない。

 バッグに財布とスマホを入れて、扉に手をかける。

 もう一度だけ、深呼吸。

 そして、自分に言い聞かせる。


「大丈夫。今日は、ちゃんと……答えを見つける日だから」

 階段を下りて、ママにひと声かけて靴を履く。


「行ってきます」

「行ってらっしゃい。ひよりちゃんにもよろしくね」

 玄関の扉を開けた瞬間、柔らかな日差しが差し込んだ。

 春の空気に背中を押されるように、私は歩き出す。

 10時。いつものカフェ。

 そこで、何かが始まる。そう思うと、少しだけ足取りが速くなった。


 カフェに着いたのは、約束の15分前だった。

 早く答えを知りたい──ただそれだけで、いつの間にか歩くペースが速くなっていたんだと思う。

 そのせいで、ひよりの姿はまだない。少し火照った頬を風で冷ましながら、私は店の前の日陰に立ち、スマホを見たり空を見上げたりして時間を潰した。

 待つこと数分。約束の時間の5分前になった頃、遠くからひよりが手を振りながら小走りで近づいてくる。


「早いなぁー!久しぶり〜優奈〜!」

「ひより、オフの日に会って話すのって結構久しぶりだよね」

「だよね!学校では毎日のように話してるけど、こうやってプライベートでゆっくり会うのはいつ以来だろ……下手したら中学ぶり?」

「そんな前だっけ?……って、あ、文化祭の準備の時とかに一緒にカフェ行ったかも?」

「あっ、あったあった!あの時、私だけパンケーキ追加して食べすぎて太ったやつだ!」

「ふふ、懐かしい」

 そんなくだらないやり取りが、少しだけ気持ちを落ち着かせてくれる。

 でも、やっぱり気になるものは気になる。


「ねぇ、そろそろ中に入ろ?話……あるんでしょ?」

「ふふ、焦らない焦らない。ちゃんと私、昨日徹夜して、優奈にどう伝えるかめっちゃ考えてきたんだから」

「ほんと、気合い入れすぎだよ……」

「だって、今日の優奈には“覚悟”が要るって、そう言ったからにはしっかりとぽいこと言わないとなって!」

 その言葉に、また少し胸が高鳴った。

 やっぱり、今日は“何か”が変わる日なのかもしれない。

 私たちは並んでカフェに入り、窓際の小さな丸テーブル席に腰を下ろす。天井から下がるペンダントライトが、ほんのりと琥珀色の影をテーブルに落としていた。


「何頼む?」

 メニューを開いたひよりが、私の方を覗き込む。

「うーん……迷うけど……やっぱり、カフェラテと、チーズトーストのセットにしよっかな。定番だけど、間違いないよね」

「あ、それ私も全く同じの考えてた!」

「……ひより、こういうときよく被るよね、前もあったし」

「うん、なんか一緒にいると食の趣味もシンクロしてくるんだよ。じゃあ、カフェラテとチーズトースト×2で!」

 店員さんにオーダーを伝えながら、ひよりが小さくウィンクする。


「ねえ、こういうちょっとした偶然って、嬉しくない? 今日が特別な日って感じがするよね」

「……特別な日、かぁ」

 私はその言葉を小さく反復して、そっと心の中にしまう。

 そう思えるようになれたら──たぶん、私はもう一歩踏み出せる気がする。


「で、昨日から言ってた“覚悟”って、何なの?」

「ふふ、焦らないの。まずは腹ごしらえしてからね。空腹じゃ、心も整わないんだから」

「またそれ言う〜……」

 けど、不思議と嫌じゃなかった。

 ひよりと一緒にいれば、たとえ不安なことでも、ちゃんと向き合える気がする。

 ふたりの前に運ばれてきた、同じメニューのプレートとラテカップ。

 香ばしく焼けたチーズトーストの香りと、ふんわりミルクの泡に包まれながら、私は深く息をついた。

 ──さあ、ここからが本番。

 ひよりが教えてくれる“答え”に、私は、きっと出会うんだ。


 食事も進んで少しすると、ひよりはひとつ咳払いした。

「コホン、じゃあ、まずは事の全容を整理しましょう」

 そんな真面目な口調で言いながらも、どこか楽しげな笑みを浮かべる。

「優奈は、同じ部活で出会った篠宮優希くんと知り合い、最初の挨拶から不思議と、他の男子に感じるような警戒心や恐怖感が芽生えなかった」

「……うん」

「んで、その後も何度か話すうちに、優希くんの言葉や行動に、優奈がちょっとずつ感情を揺さぶられるようになっていき──」

「……それって、そんな単純な話かな」

「最後まで聞いて。で、極めつけには夏休みになって、家事サポートで彼が優奈の家に出入りするようになる。最初は“手伝い”だったのが、気づけば会話も自然に増えて、行動も、距離感も、心の距離も、徐々に縮まっていって──最終的には目を合わせるのが恥ずかしくなるくらいにまでなった、と」

「……」

「こんな感じでどう?だいぶ核心突いてると思うけど」

「……まぁ、その通り、ではあるけど……」

 私は、ラテカップのふちにそっと唇を寄せたまま、視線だけを窓の外へと逃がす。

 ひよりはそんな私の様子を見て、少し声のトーンを落とした。

「じゃあ、まずは質問ね。なんで、彼と目を合わせられなくなったの?」

「……それは……よく分からないというか……。なんか、恥ずかしくて」

「ふむふむ、その“恥ずかしい”っていう感情の、ターニングポイントはどこ?」

「ターニング……ポイント?」

「そう。別に、何も意図がないのに恥ずかしくなることって、あんまりないと思うんだよね。だって、私の話はちゃんと目を見て聞いてくれてるじゃん、今も」

「……それは……」

 返す言葉に詰まった。

 視線が合わないのは“男子だから”と、自分に言い聞かせてきた。

 でも──ひよりには、そんな理屈は通用しない。


「たとえばさ、急に“女の子”として見られてるって自覚しちゃったとか、なんかされて“ドキッ”とした瞬間があったとか……何か思い当たること、ない?」

「……」

 あの時のことが、頭をよぎる。

 気を失いかけた私を、優希が──腕で抱き上げてくれた、あの瞬間。

 でも、それは──言えない。

「……分かんない。たぶん……いつの間にか、そうなってたのかも」

「ふうん……」

 ひよりは、ストローでアイスラテをくるくるとかき混ぜながら、視線を外に向けた。


「じゃあ、聞き方を変えよっかな」

「うん」

「優奈さ、自分でも気づいてないうちに、誰かに“特別”って感情、持ったことってある?」

「特別……?」

「そう。『この人には、他の人と違う気持ちになる』みたいな。安心する、緊張する、嬉しい、でもちょっと怖い……なんか、いろんな感情が混ざっちゃう感じ」

「……」

 思い当たる人は、いる。

 でも、そんな風に考えたことはなかった。

 “誰か”じゃなく、“彼”だから、なんとなく安心できた。

 “誰か”じゃなく、“彼”だから、ちょっと恥ずかしくなった。

 ──それって。

「……それって、もしかして……」

 ぼそっと呟いた私に、ひよりは視線を戻して、にこっと笑った。


「もしかして?」

「……いや、なんでもない」

 言葉にするのが怖かった。

 自分の中の何かが、変わってしまいそうで。

「ふふ……優奈、いま“自分で気づいちゃった”って顔してる」

「ち、違うもん……」

「違わない。そっか、そっかぁ……」

 ひよりはどこか嬉しそうに微笑んで、椅子の背にもたれた。

「優奈ってさ、根っこはほんと素直だよね。だから、こういう話してても、無理にごまかそうとしない。……そういうところ、私、好きだよ」

「からかわないでよ……」

「からかってないもん。むしろ羨ましいくらいだよ」

「……え?」

 その一言に、私は思わずひよりを見た。

 でも彼女は、それ以上何も言わず、またストローを回していた。


「それって───優希くんへの恋心だと思うよ、優奈」

 その言葉を聞いた瞬間、まるで胸の奥を静かに衝かれたような気がした。

 私はラテの香りがまだ残るカップを両手で包み込みながら、ただ、黙っていた。

 心臓が、少しだけ速くなる。


「えっ……。ほんと……に……?」

 絞り出すような声になってしまった。

 信じたくないわけじゃない。ただ、怖かった。

 認めた瞬間、何かが大きく変わってしまいそうで。


「うん。私が今まで優奈の話を聞いてきた感じから言うなら……これはもう、立派な恋心だと思うよ」

「そ、そんな……認めたくないよ……」

 自然と、声が掠れた。

 心の奥にある何かがぐらりと揺れて、言葉の形をうまく保てなかった。


「なんで?」

 ひよりは責めるでも、茶化すでもなく、ただ静かに問いかけてきた。

 その声は、私の中にある迷いを、そっと掬い上げるようだった。


「別に……認めた方が楽だとは思うよ。自分の気持ちが分からないまま振り回されるより、少しは前に進めるし」

「……でも……私、一目惚れなんて、信じないって決めたの。だから……こんな風に理由も分からず好きになるなんて、変じゃない……?それに私には、あの……トラウマが……」

 目を伏せて、無意識に膝の上のハンカチを握りしめていた。

 過去の痛みが、まだ胸の奥に残っていて──きっとそれが、私の心にブレーキをかけている。


「変じゃないよ」

 ひよりの声は、どこまでも優しかった。まるで、すべてを分かってくれているように。


「むしろ、優奈がそうやって悩んでるのが、私にはよっぽど“優奈らしい”って思う」

「らしい……?」

「うん。優奈って、恋に対してすごく慎重だもん。ちゃんと考えて、納得して、確信が持てないと、自分の感情を信じようとしない。でもね、恋愛って……理屈より先に心が動くものなんだよ」

「……」

「優奈、前にも誰かに心を向けたことがあるでしょ? あのときも、頭で考えるより先に、胸がきゅってなってたんじゃない?」

「…………うん」

 その記憶を口にすることはしなかったけれど、確かに、そうだった。


「“しっかりしたきっかけがないから違う”って言ってたけど……それ、ほんとにないのかな?」

「え……?」

「クラス一のイケメンで、成績はトップ、家事までできるっていう完璧男子がいて──その人が、優しく接してくれて……気づいたら一緒に過ごす時間も増えてて、夏休みには家事サポートで家に来るようになって……。それって、もう十分きっかけになると思わない?」

「……」

「ラブコメ漫画だったら即堕ち展開のフルコースだよ」

 確かに──きっかけはあったのかもしれない。

 でも私は、それに気づかないふりをしていた。

 ……いや、気づくのが怖かっただけ。

 そんな私の沈黙を破るように、ひよりがふっと声をかけた。


「ねぇ、優奈」

「……なに?」

「私に──優希くんのこと、紹介してくれない?」

「───えっ!?」

 一瞬で、全身の神経が跳ね上がった。

 ひよりの言葉の意味を理解した瞬間、喉がきゅっと締まる。

「いいじゃん。私、優希くんがどんな人なのか見てみたいの。話してみたいし、どんな風に優奈と接してるのかも知りたいなぁって」

 だめ───それは……それだけは……!

 ひよりは社交的で、優しくて、誰にでも好かれる。

 私なんかより、よっぽど……恋愛に向いてる。

 もし、そんなひよりが優希くんと話したら……

 もし、少しでも心が通じ合ったら……。

「それは……ダメだよ────」

「……え?なんでダメなの?」

「それは……だって……そんなことしたら──」

「──盗られる」

「……っ!」

「私に、優希くんを“盗られる”って、思ったでしょ?」

「……」

 言い返せなかった。

 息が詰まって、喉の奥が熱くなっていく。

 胸の奥にあった何かが、不意に引きずり出された気がした。


「……ほら、やっぱり」

 ひよりはそう言って、ふっと微笑んだ。

 まるで、私の気持ちを最初からすべて分かっていたかのように。


「その優奈のリアクションはね、立派な“独占欲”だよ」

「独占欲……」

 聞き慣れたはずの言葉が、胸の中で妙に響いた。

「彼のことを大切に思ってる証拠。だから、誰かに取られるかもって思うだけで、こんなにも不安になるんだよ」

「…………」

 胸の奥が、じんわりと熱くなる。

 言葉にできない気持ちが、波のように押し寄せてくる。

「優奈、もう素直に認めていいんじゃない?誰かを好きになることって、別に悪いことじゃないんだよ」

「……私は……」

 言いかけて、止まる。

 何度も、何度も。

 心のどこかでまだ、恐れている自分がいた。

 ──また裏切られたらどうしよう。

 ──信じた先に、また絶望があったら。

 でも。

 それでも。

 ここで立ち止まりたくなかった。

 そして、彼を──篠宮優希という人を──信じたいと思っていた。思い始めていた。

 そんな風に誰かを想える気持ちを、もう否定したくなかった。過去の痛みを乗り越えたいと、自然に思えた。

 だから、私は───

「……優希くんのことが……す、すき……なんだ……」

 やっとの思いで、そう言葉にした瞬間、顔から火が出そうなくらい恥ずかしくなった。

 心臓が、跳ねるように脈打っている。

 でも。

 不思議と、どこかすっきりしていた。

「よく言えたね。偉いよ、優奈」

 ひよりが優しく笑ってくれる。

 その笑顔に、胸が少しだけ温かくなった。

 ──私は、優希くんのことが好き。

 そう、自分で認めた今、その想いは確かにここにある。

 隠そうとしても、もう隠せない。

 これはもう、事実だった。

「……」

 けれど、ふと頭をよぎるのは、やっぱり──あの過去。

「……裏切られるかもしれないって思うよね、優奈。でもね」

 ひよりの声は、どこまでも優しかった。

「マイナスな気持ちだけで恋を遠ざけるのって……きっと、自分を一番苦しめると思う」

「……やっぱり……そう、かな……。私にも……人を好きになる資格、あると思う……?」

「あるに決まってるじゃん」

 ひよりは、はっきりと即答してくれた。

「優奈の人生なんだから。誰を好きになってもいいし、何を信じてもいい。それを否定する権利なんて、誰にもないよ」

 その言葉に、胸が静かに、でも確かに揺れた。

 私の中にずっとあった“縛り”を、そっと緩めてくれるような……そんなあたたかさがあった。

 

「ねえ、ひより。……私、これから、どうしたらいいんだろ」

 ふと漏れたその言葉に、ひよりは静かに微笑んだ。


「“どうしたらいい”って、どういう意味?」

「だって……好きって分かっちゃったら、もう……止められない。話したくて、会いたくて、もっと近づきたくて……。頭の中、全部、優希くんで埋まっちゃうんだもん……」

 思わず唇を噛んだ。

 自分で言っておいて、情けないほどにまっすぐだった。

 

「そうだね。恋をしたら、そうなるのが自然。優奈は今、その真っ只中にいる」

「……止まれないよ……。もう、何でもいいから、優希くんと関わっていたいの。話せるなら話したいし、用事がなくても声かけたくなっちゃう」

 その気持ちは、本物だった。

 でも、口にすればするほど、自分でも少し怖くなる。

 すると、ひよりが静かに手を取った。

「でもね、優奈」

「……うん」

「だからこそ、一度だけ深呼吸して。焦って近づくと、距離を詰めすぎちゃう。特に、優奈みたいに“本気で人を想う”タイプはね、気づかないうちに気持ちが溢れちゃうから」

 ひよりの言葉は信じたい。だって、彼女は恋愛においては本当にプロ。

「……どうすればいいの?」

「ゆっくり、信頼を育てるの。好きになったからって、すぐに全部の気持ちを渡さなくていい。少しずつ、一つずつ、ちゃんと確認して、積み重ねていくの。……私の元カレとも、最後までそうだったよ。別れる時に、お互いありがとうって言い合える仲だった」

「……ひよりは、やっぱりすごいな」

「違うよ。私も、いっぱい悩んできた。いっぱい失敗して、泣いて、それでもやっと分かったことがあるの。──“本気の恋ほど、相手の歩幅に合わせることが大事”って」

 その言葉は、まっすぐに優奈の胸に刺さった。

 だからこそ、簡単には答えが出せなかった。

「……でも、どうしたら優希くんの歩幅を知れるの……?怖いよ。踏み込みすぎるのも、離れすぎるのも……」

「うん、分かるよ。そのために──これ」

 ひよりは、ポーチから一枚の封筒を取り出した。

 小さく、でも品のいい水色の封筒。その中から、何かをスッと差し出してくる。


「……え、これって……」

「水族館のペアチケット。毎年親戚がくれるんだけど、今年は時間が合わなくてさ。優奈にこれを渡そうかなって。──私の“必殺カード”です」

「なにそれ……!」

 思わず笑ってしまった。けれど、指先が震える。

 このチケット一枚が、世界を変えてしまうかもしれない──そんな気さえして。


「大事な人と、ちゃんと“向き合いたい”と思った時にだけ使うカード。私はこれで、最後のデートも、最初の告白もした。……優奈にも、今だからこそ渡したいって思った」

「でも、こんな大切なもの……私が使ってもいいの?」

「いいの。むしろ、優奈になら使ってほしいと思った。焦らなくていい。恋って、勢いじゃなくて、誠実さで近づくものだから」

「じゃ、じゃあ……さ。このデートに誘って……そのまま告白───」

「こらこら、焦りすぎ。デート1回で優希くんの気持ちを理解するのは至難の業だよ」

「……うぅ、はい」

 焦った私を、制止してくれるひより。上手く彼と付き合うには、きっと彼女のアドバイスは信じた方がいいと思っている。

 ひよりの言葉は、心をすっと包んでいく。

 暴走しそうだった感情が、少しずつ落ち着いていくのが分かった。


「……ありがとう、ひより。私、ちゃんと歩幅を見つけてみる。……このチケット、無駄にしないから」

「うん。優奈の恋が、ちゃんと“信頼”に繋がりますように。応援してるよ」

 優しく手を握られながら、私は静かに頷いた。

 この手の温かさが、恋を始める私の心に、そっと灯りをともしてくれているようだった。

 

 カフェを出ると、太陽がいつの間にか高く昇っていた。

 ビルの隙間から射す光が、通りを照らしている。

 行き交う車と人の流れの中、ひよりと別れた私は、ふと足を止めて空を見上げた。

「……そっか、私……また恋をしたんだ」

 ひとつひとつの言葉が、自分の中で確かな重みを持って響いた。

 思えば、前の恋は一方通行だった。信じた分だけ、裏切られた。

 優しい言葉も、あたたかな時間も──全部、嘘だった。

 だから私は、恋なんて二度としないって決めた。

 それでも今、また心が誰かに引かれている。優しく、強く。

 ──ならば今度こそ、この想いを壊したくない。

 好き。篠宮優希くんが。

 彼といると、気持ちが落ち着いて、でもどこかくすぐったくて。あのまっすぐな言葉や優しさに、何度も救われた。

 今度こそ、自分の気持ちに、ちゃんと向き合ってみたい。

 信じてみたい。もう一度だけ。


「……よし。次、家事の手伝いに来てくれるとき……誘おう。水族館。ううん、絶対誘う。行きたいって、言ってみるんだ……」

 きっと優希くんなら、時間を合わせてくれる。

 無理に合わせるんじゃなくて、自然とそうしてくれる。

 そんなふうに、私は彼を信じたい。

 あの頃の私は、恋を“信じること”が怖かった。

 でも今は違う。心の奥に小さな灯りが灯って、世界が色づいて見える。


「……恋って、本当に不思議だね」

 すれ違う人たちの笑顔さえ、どこか愛おしく感じた。

 雲ひとつない青空が、まるで背中を押してくれているみたいだった。

 絶対に、誘う。

 絶対に、できる。

 水族館に行こうって言ってみる。なんなら、連絡先も……聞いてみよう。

 大丈夫。焦らなくていい。ひよりも言ってた、ちゃんと歩幅を合わせればいいって。


「……私なら、できるよね。白雪優奈なんだから」

 ふわりと風が吹いた。前髪を揺らし、心の靄をさらっていった。

 ──好きだと気づいただけで、こんなにも世界が明るくなるなんて。

 恋って、やっぱり……素敵。

 

**


 今日は三回目の白雪家でのバイト。土日に二日連続で入ることになっていて、すっかり生活の一部になりつつある。

 家事の作業にも、少しずつ慣れてきた。でも──慣れないことも、ひとつだけ。


 白雪優奈という存在は、やっぱりどこか特別だ。

 彼女の仕草や言葉、ふとした笑顔に、どうしても目がいってしまう。

 もしこれが“仕事”じゃなかったら──そんなことを考えるたび、胸の奥がむず痒くなる。


「……行くか」

 ピンポーン。

 インターホンを鳴らすと、すぐに反応があった。


「優希くんだね、今向かうよ」

「はい、ゆっくりで大丈夫ですよ」

 モニター越しに見える優奈の声は、少しだけ柔らかい。

 間もなくして門が開き、彼女と弟の悠真くんが顔を出す。


「いらっしゃい、優希くん。その……昨日ぶりだね」

「はい、そうですね」

「今日も家事手伝い、よろしくね。……今、ママは在宅でお仕事中で、パパは外出中なの。だから、家のことができるのって、私くらいしかいなくて」

「なるほど。それなら、なおさら僕の出番ですね」

「ふふ……頼りにしてる」

 その微笑みは、まだほんの小さなものだったけど──

 彼女が、俺に向けて初めて見せた気がした。

 昨日よりも少しだけ柔らかい声色。ほんの一歩、距離が近づいたような気がして、思わず胸が温かくなる。


「じゃあ、お邪魔します」

「うん。今日はね、お風呂とキッチンの掃除と、夕飯の下ごしらえを……お願いできたら」

「了解です。まずは、お風呂掃除から取りかかりますね。案内、お願いできますか?」

「わかった。こっち」

 優奈の後ろを歩いて廊下を進むと、リビングの一角で仕事中の白雪梨花さんと目が合った。


「あら、いらっしゃい優希くん」

「お邪魔しています。今日も家事手伝い、頑張らせてもらいますね」

「助かるわ。ちょっと今、立て込んでて……詳しいことは優奈に聞いてね」

「はい、お気遣いなく」

 軽く会釈を交わして、再び優奈の後ろに続く。

 昨日までは感じなかった、ほんの少しの“気軽さ”が、二人のあいだに流れている気がした。

 この変化が、俺にとっても、彼女にとっても──悪くないものなら、いいなと思う。


「こっちだよ、ここがお風呂場」

 優奈に案内された先で、俺は思わず足を止めた。


「……うぉ……これは凄い……」

 淡いグレーの石材で統一された床と壁、ガラス張りのシャワーブースの奥には、深くて広いバスタブ。

 壁面には縦に並んだ深緑のタイルが整然と並び、ホテルライクな照明が柔らかく反射している。

 さらに、大きな窓から差し込む光が観葉植物を照らし、この空間をまるで雑誌の中の世界のように演出していた。

「ふふ、なかなかこんなお風呂、見ないでしょ?」

「はい……ビックリしました。これは、掃除のしがいがありますね」

 そう言うと、俺はバッグから掃除用のゴム手袋と専用ブラシ、そして持参の重曹スプレーを取り出した。

「じゃあ、ここをとにかく綺麗にするわけですね。分かりました」

「──あの……私、しばらくここにいていい?」

「えっ? まぁ、それは構いませんよ。もし俺の仕事ぶりに指摘があるなら……遠慮なく言ってくださいね」

「……う、うん」

 優奈は少し照れたようにうなずいて、入口近くの壁にもたれるようにして立ったまま俺の方を見ていた。

 よし、と気合を入れて、まずはシャワーブースのガラス面から取り掛かる。

 手持ちのスクイージーと専用洗剤で、細かい水垢や指紋を拭き取り、表面を均一に磨いていく。

 次に、バスタブの縁や内部の水垢を確認。重曹とクエン酸のペーストを自作してこすり落とし、念入りに磨く。

 そして排水溝。蓋を開け、中のネットを取り替え、周囲を専用ブラシで洗浄。臭いやぬめりを抑えるために、アルコール除菌スプレーで仕上げる。

 こういう作業は人によっては嫌がるけど、俺はむしろ“整える”こと自体が好きだった。

 見えない部分にこそ手をかけるのが、何よりの信頼に繋がると思っているから。


「……ふふ、なんか、本当にプロみたい」

 優奈がぽつりと呟いた。

「いえいえ、ただの家事好きな高校生ですから。お風呂掃除は、水を扱う分だけ工程も多いですけど……終わったあとに空間が“澄んだ”感じになるの、好きなんですよ」

「……分かる、かも。今も、見てるだけで気持ちいいもん」

 嬉しそうに微笑む優奈の声は、今日もどこか軽やかで──その変化が、俺にとって何よりのご褒美だった。


 掃除の途中、俺が使った掃除グッズを水で洗い流していると、背後から不意に声がかかった。

「あのさ! 優希くん……」

 その呼びかけに、俺は手を止めて振り返る。

「はい、なんでしょうか?」

 優奈は手をぎゅっと握りしめて、落ち着かない様子だった。

 視線は泳いでいて、いつもの落ち着いた態度とはまるで違う。そんな彼女の様子に、俺は少しだけ驚きつつも、その不安を和らげるようにやわらかく微笑んでみせた。


「……その……なんというか──」

「……?」

 彼女は言葉に詰まり、目を伏せる。けれど、そこに浮かぶ頬の赤みは、今まで見たことがないほどの色だった。


「……ご、ごめん。あたふたしちゃって。えっとさ……。うぅ……。す、すい、水族館……! 今度一緒にどう……?」

「えっ……? 水族館ですか……?」

 唐突な単語に一瞬きょとんとする。けれど、彼女の手元を見てすぐに合点がいった。

 握られていたのは、見覚えのある水族館のチケット──街の中心にある、有名なアクアリウム施設のペア券だ。


「えっと! その! 友達からもらっちゃったんだけどね! 行く相手どうしようって考えたら……思い浮かんだのが優希くんだったっていうか……!」

 早口でまくし立てるように説明する優奈。けれどその言葉の端々には、どこか恥じらいや緊張がにじんでいた。

 俺は口元が思わず緩んでしまいそうになるのを、なんとか堪える。


「あ! いや、その……無理なら無理で大丈夫だよ! わ、私が勝手に言い出したことであって───」

 パニック気味に言い募る彼女。

 でも、その様子がなんだか可愛らしくて──俺は自然と少しだけ考えたフリをしてから、静かに頷いた。

 夏休みの課題はすでに終わらせてあるし、バイトの入っていない平日なら時間はある。

 それに──もし、これが彼女なりの“勇気”だとしたら、断る理由なんてどこにもなかった。


「ゆ、優希くん……その……やっぱり私じゃ───」

「いいですよ、水族館。一緒に行きましょう」

「──えっ……?」

 優奈の目が、驚いたように見開かれる。

「夏休み、こうして家事手伝いでここに来れたことも、何かの縁ですし。それに──」

「……それに?」

「俺は、白雪さんからのお誘いを受けて──素直に嬉しいですから」

「……っ!? も、もう……変なこと言わないでよっ」

 ぷいっと顔を背けた優奈の頬は、耳まで真っ赤だった。

 その反応に、今度こそ俺は少し笑ってしまった。


「じゃあ……日程の相談、しないとですね。俺、土日はまたこちらでバイトなので、平日だったら大丈夫ですけど──」

「あ……うん、そっか。じゃあ、平日で空いてる日、あとで……」

 言いかけて、優奈はふと口をつぐんだ。それから、勇気を振り絞るようにこちらを見つめて言う。


「……ねぇ、優希くん。あのさ──」

「はい?」

「その……よければ、連絡先、交換……しない?」

 少しだけ震える声。でも、目は真剣だった。

「もちろん、喜んで」

 俺がスマホを取り出すと、優奈もすぐに自分のスマホを手に取り、顔を近づけてQRコードを読み取る。

 無事に連絡先が登録され、お互いの画面に名前が表示された瞬間、どちらからともなく少し照れたように目をそらした。

「……じゃあ、また後で日にち考えましょうか」

「……うん。楽しみにしてる」

 バスルームの照明が、優奈の頬の赤みをほんのり照らしていた。

 その横顔は、どこか緊張と安堵が入り混じったようで──でも確かに、嬉しそうに見えた。


 連絡先を交換し、優奈が満足げに部屋へ戻っていった後──俺は次のリビング掃除に取りかかった。

 手早くグッズを片付けてから、リビングの掃除機がけ、拭き掃除、そして窓のサッシをざっと磨く。だいたいのルーティンはもう体に染みついている。

 と、ふと気づくと、視線を感じた。

 顔を上げると、リビングの入口。そこから、こっそり覗いている優奈と、その後ろにくっついている悠真の姿があった。


「……あれ、どうかしました?」

「な、なんでもないっ!た、ただ……ちょっと、すごいなって思っただけ」

「ほんとだよー!お兄ちゃん、お掃除のプロなの?」

「いや、そこまでじゃないけど……まあ、慣れただけかな」

 笑ってそう答えると、悠真がリビングへ駆け込んでくる。


「ねぇ、ぼくも手伝っていい? 拭き掃除とかできるよ!」

「ありがとう、じゃあタオル持ってきてくれる?」

「うんっ!」

 悠真が元気よく走り去っていくのを見ながら、優奈が苦笑するように言った。

「……なんか、こうやって見てると、ほんと“うちの人”って感じがする」

「“うちの人”……?」

「あっ……い、今のは、なんでもないっ!」

 言ってから顔を真っ赤にし、手をブンブン振って否定する優奈。

 けれどそこにちょうど現れた白雪梨花さんが、タイミングよく口を挟んだ。


「ふふっ、そうねぇ。なんならもう、このままずっと“うちの人”でいてもらってもいいんじゃない?」

「ま、ママっ!? ほんと、またそういうこと言うっ……!」

「あらあら、だって実際そう見えるんですもの。優希くんがこの家にいると、空気があったかくなるのよね」

「…………っ」

 耳まで真っ赤になって俯く優奈を横目に、俺は少しだけ照れながらも、苦笑して返した。


「ありがとうございます。でも、まだまだ修行中なので……今日の夕飯は前よりは少し手抜きになるかもしれません」

「全然構わないわ。うちは手間ひまより、愛情よ。ね?」

「そっちも恥ずかしいんですけど……」

 そう言うと、梨花は含みのある笑みを浮かべ、微笑み返す。その微笑みが、何か俺に対する期待のように読み取れた。


 夕方になる頃。

 今日の夕飯は、少しだけ手間を省いた家庭メニューにした。

 主菜は鶏の照り焼き。副菜にさっぱり系のほうれん草とツナの和え物。あとは味噌汁とご飯。

 簡単だけど、食べ応えと彩りはある。材料も冷蔵庫にあるもので十分まかなえた。

「ねぇねぇ、これ、タレの匂いすっごくいいよ!」

「ほんとだ……なんか、おなか空いてきたかも」

 悠真と優奈が並んでキッチンカウンターから覗き込んでくる。

 ふたりとも目がキラキラしていて、そう言ってもらえると、作る側としてもやりがいがある。


「じゃあ、もう少しで盛りつけ入るから、テーブルの準備お願いしていい?」

「うん! ぼく、お箸並べる!」

「私もお皿出すね」

 テキパキと動き出す二人の背中を見送りつつ、俺はふと思う。──この空気、悪くない。

 あくまでこれは「バイト」で、「家事の手伝い」で、「たまたまの縁」だと分かってはいる。

 でも今この瞬間だけは、それ以上の何かを、少しだけ感じてしまう。


「できたよー!」

「いっただっきまーす!」

 そんな賑やかな食卓の声の中で、俺もようやく席についた。

 誰かの「いただきます」に、俺の「どうぞ」が重なって──この家に、小さな笑い声があふれていた。


**


「今日はこの辺りで。終了時間ですからね」


 リビングの時計を見て、手にしていた掃除道具を片付ける。汗をぬぐいながら顔を上げると、優奈が小さく微笑んでいた。


「優希くん、暑いのに今日もお疲れ様」

「いえ、白雪さんこそ。お手伝い、ありがとうございました。ずいぶん助かりましたよ」

「ふふ、ありがと」

 その声に、どこか名残惜しさのようなものが滲んでいる気がしたのは、気のせいだろうか。

 俺はキッチンの蛇口を閉めながら、ふと水族館のことを思い出す。


「その……日程のことは、どうしますか?」

 外に出ると、俺はふとその事を聞いた。

 ペアチケットの件。予定を調整しようにも、俺は基本的に土日は家事手伝いが入っている。となると、行けるとすれば平日のどこかだ。


「……それは……。後で連絡するよ。今ここで話してたら、帰るの遅くなっちゃうでしょ?」

 そう言った彼女の横顔は、どこか言いにくそうで、けれど嬉しそうでもあった。

 なんとなく、その感情のどこに比重があるのかまではわからない。けれど──俺はそれを否定しないでいた。


「あ、あのね……。水族館に誘ったのもね、えっと……その、そろそろオープンスクールの中庭ライブがあるでしょ?だから……それも兼ねて」

「──兼ねて?」

「……もっと仲良くなりたいの。バンドメンバーとしても……ね」

 なるほど。そう言われれば、俺たちはまだ、そこまで深く言葉を交わす機会もなかった。

 けれど、それだけじゃないような──どこか、彼女の言葉には含みがあるような気もする。

 だが、それをそのまま問い返すのは、なんだか野暮な気がした。

 むしろ、今この場で「仲良くなりたい」と言ってくれたことだけで、胸の奥がほのかに温かくなる。


「白雪さん……」

 彼女の視線が逸れる。けれど、まるでそこに確かな何かを込めていたような気がした。

「……あのさ、家に着いて、時間できたら……私のLINEに連絡してくれない?」

「はい、いいですよ」

 自然な流れだった。だけど、どこか特別な意味を持つような響きがあった。

 連絡先を交換してすぐのやり取り。彼女から、こうして“連絡をくれるように”と言われるのは、初めてだ。


「あとさ……。その……仕事中でも、私に対して──そんなに丁寧に接してくれなくてもいいよ……もっとラフな感じで、さ」

「……それは……気持ちは嬉しいですけど……」

 苦笑いしながら、俺は正直な思いを口にした。

「仕事である以上、それは崩せないかなって。やっぱり線引きというか、メリハリは大事だと思うので」

「……最近、バンド練の時も私に対して敬語じゃん」

「……えっ?そ、そうでしたっけ……」

 そう言われると、少しだけ心当たりがあった。

 最初のうちはもっとくだけて話していたかもしれない。けれど、優奈の雰囲気が“触れてはいけない何か”を抱えているように見えて、自然と距離感を探ってしまっていたのかもしれない。

 俺が少し言葉に詰まると、優奈は静かに息を吐いて──笑った。


「……ふふ、まぁね。まぁでも……やっぱり大丈夫。優希くんが接しやすいやり方でいいよ」

「……そうですか」

 その笑顔は、どこか安心しようとしているようにも見えた。

 言いたいことがあるのに、言わずに留めたような──でもそれを俺が気づくことはない。

 優奈の中で、何かが止まったのだとしたら、それは俺には見えない境界線だ。

 ただ一つ、俺の中にあったのは──

 また彼女と話したい、もっとちゃんと知りたい、という漠然とした気持ちだけだった。

 

**


「ふぅ……水族館、かぁ……」

 部屋に戻って制服を脱ぎ、冷たい麦茶を一口飲んだ後、俺はベッドに腰を下ろしてひと息ついた。

 今日一日を振り返ると、浮かんでくるのはやっぱり、白雪さんのことだった。

 掃除を手伝ってくれたこと、片付けの合間にふと交わした会話。

 そして──水族館のペアチケットのこと。

 あれは、どういう意図だったんだろう。

 ただのバンドメンバーとしての交流?それとも……それ以上の意味があるのだろうか。


「いや、まさか……」

 苦笑しながら、頭を振る。

 彼女が俺に好意を持っている?──そんなはずはない。もし仮にそうなら、もっと早い段階で、何かしら気づくきっかけがあったはずだ。

 白雪さんは、いつだって落ち着いていて、大人びていて──俺なんかとは釣り合わない。


「……まずは、連絡するか」

 そうだ。今日の約束は、帰宅したらLINEを送ることだった。

 スマホを手に取り、白雪優奈のトーク画面を開く。未読のままの画面が目に入って、妙に緊張している自分に気づく。


「家着きましたよ」

 短く、いつも通りの文面。送信ボタンを押して数秒も経たないうちに、既読マークがついた。


『ほんと?じゃあ、早速日にち決めたいけど……何日がいい?』

 軽やかな文体。その語尾の柔らかさに、さっきまでの落ち着いた彼女の印象が、少し崩れる。

 文字越しの優奈は、どこかくだけていて、素の表情が見えそうな気がする。

 俺はスケジュールアプリを開き、空いている日を確認した。バイト、バンド練習、そして習い事の空手。

 その中で、一番自由が利くのは──木曜日。

「木曜日ならいつでも行けますよ」

 送るとすぐに、また返信が来た。

『木曜日か…。じゃあ、来週はどう?』

「いいですよ」

『やった!じゃあ、来週お願いね』

 なんだろう。テンポよく続くやり取りが、思っていた以上に心地いい。

 スマホを見ながら、自然と口元が緩んでいるのに、自分で驚いた。

「はい」

 その一言を送った直後、さらに一通のメッセージが届いた。

『楽しみに待ってるね♡』

 その文の末尾。

 ……ハートマーク。

 ──一瞬、時が止まったような気がした。

 それは何気ない装飾なのか、それとも。

 でも、深く考えるのは違う気もする。過剰に受け取ってしまって、勝手に意識して、それで勝手に裏切られる──そんな未来が少しだけ、怖かった。


「……気にしすぎだ」

 小さく、独りごちる。

 ただ、それでも。スマホの画面に浮かぶ「♡」を、何度も見返してしまう自分がいた。

 ──来週、白雪さんと二人で出かける。

 その事実だけが、今の俺の中で、妙に現実味を帯びてきていた。

 

**


「はぁっ…はぁっ……決まっちゃったよ……!」

 息が上がるほどの動揺。スマホをベッドに放り投げて、私はそのまま枕に顔を埋めた。

 体がぽかぽかする。いや、それどころじゃない。顔は真っ赤に火照って、胸の鼓動はもう自分でも制御不能。早すぎて過呼吸になりそう……。

 ──だって、決まっちゃった。

 優希くんとの、水族館デートが。

「来週の……木曜日……っ。うわ、ほんとに決まっちゃった……!」

 声に出してみると、ますます現実味が増して、布団の中でもう一度身を縮めたくなる。

 ついさっきまでは、「バンドメンバーとして仲を深めたい」なんて、自分に都合のいい理由をつけていた。

 でも、いざこうして決まってしまえば──それだけじゃ済まない気持ちが、胸の中で暴れ出す。


「ど、どうしよう……どんな服着てけばいいんだろ……。ていうか、水族館って……何時集合?やばい、決め忘れちゃった!?いやそれより、デートってことは、手繋いだりとか……!」


 頭の中があっという間にパニックで埋まる。とにかくいろんな想像が浮かんでは、恥ずかしさに顔を熱くさせた。

 ──落ち着け、白雪優奈。暴走しないって、ひよりと約束したでしょ。


 ひより。そう、こういう時はまず彼女に相談だ。

 今のこの、恋に浮かれてる自分を、ちゃんと冷静に見てくれる大事な親友に。

 私は慌ててスマホを拾い上げ、連絡先を開いて通話ボタンを押す。

「もしもし……」

『はいはーい、報告?』

 予想通り、ひよりの第一声は軽やかだった。

「察し良すぎでしょ……」

『当たり前よ〜。でで、水族館デートには誘えた?』

「頑張って……誘ったよ。来週木曜日に決まった!」

 嬉しさがこみ上げて、自然と声が弾む。

 まるで誰かに褒めてほしくてたまらない子供みたいに。

『おー!さっすが!やっぱり優希くんは乗っかってくれたんだね〜』

「そ、それでね!その……次は私、何すればいいのかなって。なんか、緊張してきちゃって……もう、落ち着かなくて……!」

 電話の向こうで、くすくすと笑う声がした。

『あはは!テンパリすぎ!一旦深呼吸!吸ってー、吐いてー』

「すぅ……はぁ……」

 言われたとおりに呼吸を整える。少しずつ、頭の中が落ち着いてきた気がする。

『よしよし。じゃあ次のステップね。水族館デートで、どんなアクション起こしたいのか、一旦聞いてみよっかな?』

「えっ?そりゃ……もっと関係深めたいよ。その……手繋いだりとか……」

 言ったあとで、自分でも恥ずかしくなって、顔がまた熱くなる。

『手を繋ぐかぁ……さーすがに攻めすぎだよ?』

「えぇっ!?手を繋ぐのもダメなの?」

 思わず大きな声が出る。でも、それだけ本気なんだ。今度のデートで、何か少しでも進展させたい。そう思ってる。

 でも──それが「焦り」に変わってはいけないことも、私はどこかでわかってる。


『落ち着きなって~、まだ始まったばかりなんだからさ』

 ひよりの声は、笑い混じりだけど、ちゃんと優しくて。私の暴走気味な気持ちを、柔らかく引き戻してくれる。

『手を繋ぐのがダメってわけじゃないけどさ。ほら、いきなりガツガツ行っちゃったら、逆にびっくりさせちゃうかもしれないじゃん?』

「……そっか。でも、ほんのちょっとでも距離、縮めたくて……」

 自分の言葉に、自分で驚く。こんなことを口にするなんて、私なら絶対に考えられなかった。

 あの裏切られたトラウマがあって───。

 誰にも心を開かず、誰にも期待せず、距離を詰めることを恐れていた私が──いま、勇気を出して、再び誰かに近づこうとしてる。


『うん、それはすっごく伝わってきてるよ。優奈、ほんと頑張ってるもん』

「うぅ……ありがと……」

 電話越しなのに、ひよりの言葉が胸にあったかく沁みてくる。


『でもね、スタートダッシュはもう十分バッチリ決めてるから。今はそれで満点。あとは、ひとつひとつ、少しずつでいいんだよ』

「……うん」

『当日はさ、無理に“進めよう”って思うより、“一緒に楽しもう”って気持ちで行けば、それがちゃんと伝わるから』

「……楽しむ、かぁ」

 口にしてみると、少しだけ心が軽くなった気がした。


『優希くん、優奈と一緒に水族館行けるだけで、きっと嬉しいと思うよ』

 そう言ってくれるひよりの声が、どこまでも真っ直ぐで、私の背中をそっと押してくれる。


「……うん。ありがと、ひより。私……ちゃんと、楽しんでくるね」

『うんうん。いい報告、待ってるから!……あ、でも暴走しそうになったら、私の顔思い出して!ブレーキ担当なんだから!』

「ふふっ……わかった。ちゃんと、頭の中に浮かべておくよ」

『あとあんた、変な男に絡まれんようにしなよ。可愛すぎるんだから、すぐ変な男を引きつけるし』

「は、はぁ!?それは…どうしようも無いでしょ……」

『ふふ、冗談冗談。楽しんでおいでよ、私の必殺カードなんだし!』

 そうして私は、やっとスマホを胸の上に置いて、大きく深呼吸をした。

 来週の木曜日、きっと私はまた緊張して、心臓バクバク言わせながら出かけるんだろう。

 でもそのときは──今日よりも、ほんの少しだけ前に進んでる自分で、いたいな。

 

 また彼と会える。

 その事実が、胸の奥をじんわりと温めてくれる。なんでもない夜が、なんだか特別な時間に思える。

 早く会いたい。早く話したい。

 彼の声をもっと聞きたいし、彼の笑顔をもっと近くで見たい。

 ──もし、もしも。

 優希くんと付き合えたら。

 そしたら、今よりもっと、世界がきらきらして見えるのかもしれない。

 ……ううん、見えるじゃなくて、絶対に見せたい。

 過去の痛みに縛られたままじゃ、前に進めない。だからこそ今は、信じたい。彼の優しさも、笑顔も、全部。


「……よしっ」

 心の中でそっと拳を握る。

 信頼するって、きっと勇気がいる。でも、私はもう一度、恋をした。

 だったら今度こそ、自分の手でつかまなくちゃ。

 ──だからこそ、今は焦らずに。ひよりの言葉を胸に置いて、丁寧に距離を縮めていく。

 水族館デートを、きっと最高の思い出にするために。

 私はスマホの画面をそっと伏せて、布団を引き寄せた。

 あたたかな気持ちに包まれながら、目を閉じる。

 優希くんのことを想いながら眠る夜は、こんなにも穏やかで、優しい。

 ──これは、二度目の恋。

 だけど、きっと初めて本当の「好き」を信じられる恋。

 だから私は、もう迷わない。

 この気持ちを、絶対に嘘にはしない。

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