【第6話】専属契約
「やらかしたぁー!俺の愛し続けていたドラムスティックがぁー!!」
「うわぁ……マジっすか部長。完全に昇天してる……」
「あはは!神谷先輩、スティックが仏になった?」
「やった……先っちょぶっ飛んだわ。もう、供養案件」
「ありゃ……それは大変ですね……」
バチンという軽快な音と共に、神谷部長のスティックの片方が真っ二つになったのは、まさに演奏が乗ってきたタイミングだった。
その場にいた俺と琴音がつい笑いながらツッコむのは、部長のリアクションがあまりにも芝居がかっていたからだ。
──あのバイトから、数日が経っていた。
午後には、家事サポートのバイトが入っているが、今はこうしてバンド練習に参加している。
結局あれ以来、優奈の家のスタジオはバンド練に使っていない。優奈自身が「ちょっと今は使えないかも」と言っていたからだ。
今俺たちが練習しているのは、学校近くの時間貸しの音楽スタジオ。普段より狭いけど、機材は十分で、練習には困らない。
優奈は今日は「少し用事がある」とグループLINEにだけ一言残してお休みしていた。
「マジかぁ〜……俺、この13ミリのスティック、予備ないんだけどー。14でやるかぁ……手の感覚ズレるけど、しょうがねぇ」
部長は割れたスティックを名残惜しそうに見つめながら、バッグから太めの予備を取り出している。
「てか、めっちゃ疲れたくない?」
「わかる〜先輩、ちょっと休憩しましょ」
琴音が椅子に腰かけてペットボトルの水を手に取りながら言うと、俺もそれに倣う。
スティックは消耗品だ。そうは言っても、長く使っていたものほど手に馴染むし、突然の別れにはやっぱり寂しさがある。
部長がへにゃりとした顔でスティックの断面を撫でている姿に、俺もつい苦笑する。
「午後のバイト、どこだったっけな……」
ふと、スマホの通知を確認しながら呟く。依頼先はまだ通知されていない。まあ、いつも直前に送られてくるから慣れている。
「ん?優希くんもバイトしてんだ?」
水を飲みながらつぶやいた俺の独り言に、琴音がすかさず反応した。意外と耳がいいらしい。
振り向けば、彼女は興味津々な顔でこちらを覗き込んでいる。
「あぁ、一応ね。小遣い稼ぎ程度だけど」
「へぇー!なんのバイトしてるの?私は近所のカフェでホールやってるよ〜。時給安いけど、まかないが神なんだ」
「それは羨ましいな……俺は、家事手伝いサービスのバイトしてる」
「えっ、家事手伝い?それって、よく聞く家事代行みたいなやつ?」
「まあ、そんな感じ。急に家の中が大惨事になったときとか、どうしても人手が足りない家庭のサポートに行くって感じのやつ」
口に出して説明しながら、少し気恥ずかしさもあった。けれど、隠すようなバイトでもないし、普通に答える。
「すごーい! 優希くん家事できるんだ!」
──来た。予想通りの反応だ。
「まぁ、一応はな。得意ってほどでもないけど、必要な分くらいは」
「いやいや、それでも凄いよ!私、洗濯機すら怪しいもん。たまに服の色移して大惨事になるし」
「そういう時のための家事手伝いバイトなんだろ、それ」
と、神谷部長が笑いながら割り込んでくる。
「しかしお前、料理もできて勉強もできて、しかも家事までこなすって……どこの家庭科王子だよ」
「いや、王子とかじゃないですって。誰でもやれば覚えるもんですよ」
そう答えると、部長が「謙虚すぎて逆に怖ぇな」と笑い、琴音は「……あっ、もしかして彼女いたりする?」と冗談っぽく聞いてきた。
「いないよ。いたらこんなバイトしてないって」
「えー、でもモテそう……」
琴音が何気なく口にするその言葉に、神谷部長がわざとらしく咳払いする。
「琴音、お前なぁ。バンドメンバーに色目使うの禁止って言ったろーが。そもそも、今も彼氏いるんだろ?」
「いや、色目じゃないし!ただの事実確認だし!てか彼ピとはもうだいぶ冷めてるし!」
「ほうほう、これは色目でないと」
「違うってば!」
いつもの他愛ないやり取り。だけど、どこか居心地がよかった。
こうして笑い合える時間が、バンドっていう場所の良さでもある。
スマホにふと視線を落とせば、通知が一件届いていた。
バイト先の情報が……今、更新されたらしい。
──まさか、今日のバイト先って。
いやいや、まさか。まさか、な。
俺は一度目を閉じて、気を取り直しながらスマホを手に取った。画面には新しい通知が表示されている──次の家事手伝いの現場についてだった。
ふと目に飛び込んできた住所に、心臓がひとつ小さく跳ねる。どこかで見覚えのある文字列。いや、見覚えどころじゃない。つい最近も、この住所の区画を目にしたばかりだ。
「ねぇねぇ、なになに?通知ってバイトの?」
琴音が、横からのぞきこむように顔を寄せてきた。表情はやわらかく、どこか好奇心に満ちている。
「あ、うん。次の仕事先が決まったって」
「へぇ〜。どこのお宅に行くの?」
やばい、と思った。これは見せたらいけないやつだ。特に今は。
「琴音さん……顧客情報は、機密事項ですので」
「え〜、そんな堅いこと言わなくてもいいじゃん?私が手伝いに行くわけじゃないしさ〜」
くすっと笑いながら、琴音はやんわり食い下がる。けれど俺は、そこに乗る余裕はなかった。
「そ、そういう問題じゃなくて。あの……規則なんで……」
軽く会話を濁しながら、俺はもう一度スマホの通知に視線を落とす。
表示された住所の冒頭──それはあの時、俺が自転車で向かった、あの高級住宅街のエリアと一致していた。
この郵便番号……まさか。
背中に、じわりと汗がにじむ。
あのバイトから、まだ日が浅い。ということは、あの家が再び依頼してきた可能性が──いや、まだ確定ではない。でも、こんなタイミングで、またあの区域だなんて。
偶然であってほしい。けれど、どこかで覚悟している自分もいた。
**
───まさか、もう一度あの白雪家から依頼が来るなんて、そんなことあるはずがない。
「……なんて思ってた時期が、俺にもありました」
バンド練を終え、汗を拭いながら向かった先。指定された住所に着いた俺は、門の前でそっと深呼吸をした。
夏の陽射しは強く、額に浮いた汗が視界にじわりと滲む。だが、それ以上に心をにじませるのは、目の前の現実だった。
──白雪家。あの豪邸。
間違いじゃないかと、スマホを何度も確認する。表示された住所はどう見ても同じ場所。そして──今回の依頼内容を改めて開いた瞬間、目に飛び込んできた一文が俺をフリーズさせた。
「……専属契約、ですか……」
──専属契約。
その響きが、ずしりと重たく胸にのしかかる。
いやいや、ちょっと待て。
専属って……そんなの、もっと切羽詰まった状況の人が申し込むやつだろ?たとえば、長期入院中の家族がいて家事に手が回らないとか、育児と介護が重なってパンクしてるとか──そういう、“日常が崩壊しかけてる”レベルの非常事態に使われる制度のはずだ。
なのに──なんであの白雪家が?
立派すぎる門構えに、目がくらむような外壁の白さ。思い出すのは、あの静かな高級住宅街の一角で見た非現実のような生活空間。
高級車が止まり、きちんと整えられた庭が広がり、リビングのソファなんて俺の部屋全体より高そうだった。
──そんな家が、なぜ?
そもそも、誰が専属契約を申し込んだ?
あの時いなかった白雪さんの両親?それとも──
……いや、まさか、優奈さんが?
いやいやいや、ないだろ。いくらなんでも。
確かに前回は手伝ったけど、むしろ「もう来ないでくれ」くらいに思われててもおかしくないんじゃ──
「……わからん。マジでわからん……」
俺は門の前でスマホを見つめながら、軽く額を押さえる。頭の中で疑問がぐるぐるとループし、答えが出ないまま、ただ時間だけが進んでいく。
ひとつだけ確かなのは──今日はもう、引き返せないということだった。
───ピーンポーン
緊張を押し殺すようにして、俺はインターホンを押した。押した指がわずかに震えるのを自覚する。でも、ここからは仕事だ。気を引き締めるしかない。
「専属契約、ありがとうございます。家事手伝いサポートの件で伺いました」
なるべく丁寧に、落ち着いた口調でそう告げると、すぐに柔らかく落ち着いた女性の声が返ってきた。たぶん──優奈さんの母親、白雪梨花さんだ。
『あら、来てくれたのね。今向かうから、少し待っててちょうだい』
しばらくして門が開き、ふわりとしたワンピースに身を包んだ梨花さんが現れる。前回、顔は合わせていたが、こうして“家事サービスの担当”として対面するのは初めてだ。
「来てくれてありがとう。暑い中、お疲れ様ね」
「いえ、大したことではありません」
「ふふっ、でもその額の汗が物語ってるわよ。さ、中は涼しくしてあるから遠慮なく入ってちょうだい」
「はい、失礼します」
通されたキッチンは、前回とは打って変わって整然としていた。清掃も片付けも済んでいて、どこを見ても無駄がない。俺の手が入る余地なんてあるのか?とすら思えるほどで。
──ほんとに、なんで専属契約なんだ……?
「お兄ちゃん!」
声の方を振り返ると、ぴょこんと悠真くんが顔を覗かせた。その後ろからは、優奈さんもそっと顔を出す。
「あ…。優希くん……お疲れ様」
「優奈さん。はい、ありがとうございます」
短い言葉のやり取り。でも、なんとなく前よりも優奈さんの声がやわらかい。……気のせいだろうか。
「優奈から聞いてるわよ?この前は本当に助かったって、ずいぶん嬉しそうに話してたの」
梨花さんが、にこっと悪戯っぽい笑みを浮かべて言う。
「ま、ママっ!?そんなこと言わなくていいから……っ」
優奈さんの顔がぱっと赤くなって、思わず後ろに引いた。うわぁ、すごい動揺っぷり……こんな姿、学校じゃ絶対見せないだろうに。
「ふふっ、でも本当に頼りになるって褒めてたのよ?“気が利くし、変に馴れ馴れしくもないし、安心できる”って」
「も、もうっ……やめてってば!」
優奈さんがキッチンのテーブルに顔を伏せてぶんぶんと首を振る。そんな様子を見ながら、梨花さんは更にとんでもない火力を投下してきた。
「こんなに家事もできて気遣いもできる子なら、家督の座を譲ってもありだと思うわ。いっその事、婿入りしてくれてもいいのよ?」
「……っっ!!?」
「……梨花さん…」
優奈さんの全身がピクリと硬直した。真っ赤な顔のまま、カウンターの陰に隠れるように後退していく。
「ま、ママぁっ!!なんでそういうこと言うのっ!?!?」
「あら、ごめんなさい?でも、ママもパパも優希くんのこと、すごく気に入ってるのよ?」
「パパも!?なんでっ……!?」
思わず笑ってしまいそうになるくらいに取り乱す優奈さんを見て、俺はただひとつ思った。
──この家、やっぱりすごい。
セレブとかそういうの以前に、火力が桁違いだった。
少しして、改めてスマホの画面を確認し、依頼内容に目を通す。
「今回は、夕飯の調達と、リビングの窓拭きのご希望で大丈夫ですか?」
「えぇ、よろしくね、優希くん」
白雪梨花さんはいつも通り優しい声色で頷いた。その柔らかな笑みだけで、少し緊張していた心が和らぐ。
すると、俺の足元にぴったりとくっついてくる小さな影が現れた。
「お兄ちゃん!僕も手伝う!」
元気よく言ってくれたのは、弟の悠真くん。目をキラキラさせながら俺を見上げている。
「ありがとう、悠真くん。それじゃあお願いしようかな。……お姉さんに言って、雑巾を持ってきてくれる?」
「はーい!いってくる!」
勢いよく走っていく悠真くんの背中を見送りながら、俺は梨花さんの案内で掃除道具の置き場所へ向かう。大きな窓用のバケツを借りて、いくつかの洗剤を選び取った。
──それにしても、リビングの窓、でかいな……。
壁一面を覆うように広がるガラス窓。これを綺麗に保つのも、なかなか大変だろう。
窓拭き掃除においては、これが揃っていれば大丈夫、という鉄板の組み合わせがある。それは、中性洗剤を薄めたぬるま湯とマイクロファイバークロス、それからスクイージー。
中性洗剤を入れたぬるま湯で汚れを浮かせ、マイクロファイバーで軽く拭き取る。
その後、スクイージーを使って水気をしっかり切ることで、拭きムラや水垢を防ぐ。基本だけど、これが一番仕上がりに差が出る。
「それ、全部使うの?」
背後から小さな声がして振り返ると、さっき悠真くんに頼まれたらしい雑巾を手に、優奈さんが立っていた。
優奈と手を繋いだ悠真は不思議そうに眺めている。
「はい。窓って意外と手間かかるんですよ。水だけで拭くとムラになっちゃうので」
「……へぇ。ほんとに、家事慣れてるんだね」
優奈さんはそう言って、どこか嬉しそうに視線をそらした。少しだけ、頬がゆるんでるようにも見える。
──そういう顔を見せられると、また頑張ろうって思えてしまうから困る。いや、頑張ろうと思えた方がいいのか。
身長よりも遥かに高い窓を掃除するため、脚立をしっかりと立て、延長用のワイパーとスクイージーも準備する。こんな大きな窓、普通の家庭なら専門業者に頼むレベルだが──
俺は迷うことなく、淡々と作業に取りかかった。
まずは、中性洗剤をぬるま湯で薄めた液をスプレーでまんべんなく吹きかけ、専用のモップで大きな円を描くように広げていく。表面のほこりや花粉、そして雨風に晒されて蓄積した薄い泥膜。ぱっと見は綺麗でも、細かい汚れは意外としぶとい。
けれど──こういう作業、嫌いじゃない。
「お兄ちゃーん、これでいい?」
悠真が、俺の横に雑巾を差し出してくれた。どうやらしっかり濡らして、絞ってきてくれたらしい。
「ばっちり。じゃあ、その雑巾で下の隅のとこ、軽くなでるみたいに拭いてみて」
「うんっ!」
小さな手が懸命に窓を拭いているのを確認しながら、俺は上の方の作業に戻る。
高い位置は、ワイパーにスクイージーを装着して、角度をつけながら水気を切っていく。力を入れすぎず、けれど確実に。
「……慣れてるんだね」
ふと背後から声がして振り返ると、優奈が少し驚いたような表情で立っていた。
「これくらいなら。何回かやればコツ掴めますよ」
優奈はそのまま俺の動きをじっと見ていたが──少しだけ、口元が緩んでいた。
「悠真、やりすぎて濡らさないようにね。そっちは乾いたタオルで仕上げようか」
「えー?じゃあお姉ちゃんも手伝ってー!」
「えっ、私?……まあ、少しくらいなら」
渋々と言いながらも優奈は近くに寄ってきて、悠真に渡された乾いたタオルを受け取る。
「じゃあここを、優しく拭き上げてもらえれば。あんまり力入れすぎないように。布が毛羽立ってたら、窓に繊維が残るんで」
「……わかってる。けど、ちょっとだけ説明が細かすぎ」
ぷいっとそっぽを向きながら、優奈は小さく笑ったように見えた。
豪邸の大きな窓ガラス。かつては緊張しかしなかったこの場所で──今は少し、穏やかな空気が流れていた。
数時間かけて、内側も外側も丁寧に仕上げた窓ガラスは、まるでそこに存在しないかのような透明さを放っていた。反射する光すら、どこか誇らしげに見える。
「まぁ〜!凄くピカピカになったわね!」
梨花さんの感嘆の声に、優奈も続く。
「すごい…ここまで大きな窓、きっと疲れたでしょ?」
「ありがとうございます。でも、大したことじゃないですよ。お客様のご依頼ですから」
俺はにこりと笑って頭を下げた。
「そんな畏まらなくてもいいのよ?もっと砕けた感じに接してくれてもいいのに」
梨花さんはおっとりとした口調でそう提案してくれる。でも──
「いえ、俺はここに仕事で来ているんです。ですから、丁寧な対応は絶対だって思っていますから」
冗談めかして微笑みながら返すと、梨花さんは「真面目ねぇ」と小さく笑った。
「……確かに、優奈が褒めるのも納得ね♪」
「ママ、余計なこと言わないの」
優奈が即座に制止を入れる。その頬はほんのりと赤く染まっていた。
「ふふっ、はいはい。じゃあ、夕飯の準備もお願いね。あ!そうそう、ハンバーグ食べたわよ。とても美味しかったわ!」
「ほんとですか?喜んでいただけで嬉しい限りです」
「まさに高級店の味だったわ。悠真もまた作って欲しいって言ってるものだから、また作ってあげてね」
「はい、もちろんです」
「じゃあ、準備お願いね。あ、冷蔵庫のストック足りるかしら?」
「そうですね…。まずは、冷蔵庫の中を確認して、あるものでメニューを考えますよ」
俺がそう言うと、梨花さんは頷いて、キッチンの方へ俺を案内してくれる。
開けられた冷蔵庫の中には、ある程度の食材が整っていたが──主菜になるような肉類がほとんど残っていない。
「ちょっと肉系が少ないですね……」
俺が独りごちると、すぐに後ろから悠真が顔を覗かせる。
「じゃあ、お兄ちゃんとお買い物いきたいー!」
「えっ、ダメよ。外は暑いし、邪魔になるだけよ」
優奈がすかさず止めに入るが、悠真はぷくっと頬を膨らませた。
「やだ!お兄ちゃんといくー!」
そのやりとりを、梨花さんが楽しそうに見守っていたかと思えば──
「それなら、優奈も一緒に行ってきたら?二人で悠真を見てあげて。道中で何か飲み物でも買ってきたらいいし」
「ママ!?なんで私まで──」
「だって……ね?優希くんにばかり任せるのも悪いし」
絶妙に軽やかな口調で、しかし有無を言わせない雰囲気を含ませながら、梨花さんはにっこりと微笑む。
優奈は何か言いたげだったが、結局、諦めたように肩を落とした。
「……分かったわよ。分かったけど…優希くんに迷惑かけちゃダメよ?」
「やったー!」
悠真は元気に手を挙げて、嬉しそうに走り出した。
俺はというと、心の中で小さくため息をつきながらも、口元には笑みが浮かんでいた。
──これから少し、賑やかな買い出しになりそうだ。
今日の夕飯に限らず、専属契約である以上は多少多めに買っておいた方が良いかもしれない。
そんなことを考えていた矢先──さすがと言わざるを得ないほどの買い物代を、梨花さんからぽんと手渡された。財布の厚みに躊躇いが生まれるレベルで。
(これ、一般家庭なら一週間は保つぞ……)
と思わず内心でつぶやくが、ここは白雪家だ。感覚のスケールが違うのだろう。
夕飯のメニューについて、俺一人で決めるのは違う。独断はしない、というのは暗黙のマナーだ。だからまずは、目の前にいる三人に声をかける。
「今日の夕飯は、どういったものが食べたいですか?」
優奈、悠真、梨花さん──誰にでも届くように尋ねると、最初に答えたのは梨花さんだった。
「そうね……今日はすごく暑いでしょう? だから、さっぱりしていて食べやすいものがいいわね。それでいて、しっかり満足感のあるような」
「なるほど……確かに、夏にピッタリな料理が良さそうですね」
「もう、優希くんに全部お任せしちゃっていいかしら?」
「もちろんです。任せてください」
湿気の多さと照りつける日差しが容赦なく体力を奪っていく季節。そうなると、どうしても食欲が落ちるというのは、誰にとっても“あるある”だ。だが、問題はそれだけじゃない。
足元を見れば、悠真くんが俺のかごを覗き込んでくる。小学生──特に今くらいの成長期は、しっかりと食べさせてあげたい年頃だ。
──さっぱり。でも満足感あり。大人も子供も喜ぶもの。しかも、暑さにやられた体を少しでも癒せるような優しい味付けを……。
ふと、脳内にひとつの料理が閃く。
「よし、決まりました。今日の夕飯は──冷製カッペリーニと、スモークチキンと夏野菜のマリネサラダ、そして桃とモッツァレラのカプレーゼでいきましょう」
そう口にすると、当然のように三人の視線が俺に集中する。
「……カッ、カッペリーニ……?」
と、頭の上に「?」マークを3つほど浮かばせて優奈が話しかけてきた。確かに、日本では聞き馴染みが無い料理かもしれない。
俺は即座に切り替えて説明する。
「簡単に言えば、冷たいパスタのことです。イタリアでは夏場によく食べられるもので、細い麺を冷水で締めて──例えばトマトやバジル、オリーブオイルを合わせるんですよ。今日はちょっとアレンジして、レモンとハーブを利かせたジュレソースにしてみようかと」
「……なんかもう、お店じゃない……?」
優奈がぽつりと呟き、悠真は純粋な目で「お兄ちゃん、レストランの人なの?」と尋ねてくる。
「違うよ。でも、ご飯を作るのは好きだからね」
「すごいなぁ……僕も大きくなったらそれやりたい!」
「じゃあ、作り終わったら作り方また教えてあげるからね」
軽く笑いながら言うと、悠真は目を輝かせて頷く。
一方で──優奈はというと、なぜか少し視線を逸らしていた。
**
「お姉ちゃーん!まだ準備できないのー?」
「こらこら悠真、急かさないの」
玄関先でじたばたする悠真に声をかけながら、優奈がようやく支度を終えて小走りにやって来る。
そのまま俺たちは連れ立って、近くのスーパーへと向かうことになった。
外に出ると、午後四時過ぎだというのに、空気はまだじっとりと肌にまとわりつくような暑さを残していた。日陰のアスファルトからわずかに風が抜けるが、焼け石に水といったところだ。
それでも悠真は元気いっぱいで、足取りも軽い。
「お兄ちゃん!あとでアイス買ってー!」
「悠真くん、それじゃあさ、買い物中、ちゃんといい子にしてたら買ってあげる」
「うん!まかせて!」
満面の笑みでサムズアップしてくる悠真に、優奈は苦笑いを浮かべた。
「ふふ……悠真って、ほんとに世話がやける子でしょ?」
「あはは……でも、元気でやんちゃですけど、とってもいい子だと思いますよ」
そう答えると、優奈はふと何かを思い出したように、横目でこちらを見てくる。
「そういえば……優希くんにも妹さん、いたよね?」
「まぁ、そうですね……。ただ、俺的には悠真くんとはまた違う意味で、世話が大変な子です」
「前も言ってたけど…可愛がってるイメージだったから意外」
「いやいや、それが本当に面倒なタイプでして。どんなに無視しても絡んでくるし、ほっといたら勝手に部屋に入ってくるし、最近は“兄離れ”の気配すらないですから」
自分でも驚くほどに愚痴が自然と口をついて出てきた。だがこれでも相当オブラートに包んでる。
美春の話になると、何かと“まともな妹の皮をかぶった兄離れしないブラコン”という評価がついて回るから油断できない。
「それはそれで大変そう……」
「えぇ、ほんとに。こっちの都合なんてお構いなしですからね」
そんな話をしているうちに、やがて道の先にスーパーの看板が見えてきた。大通りから一本入った場所にあるその店舗は、外観こそこぢんまりとしているが、中は意外と品揃えが良く、地元民には評判の店らしい。
「お、ついたついた。じゃあ、さくっと必要なものを買いましょうか」
悠真が「アイス売り場行っていい?」とまた言い出しかけるが、それを察知した優奈が「後!」と即座に牽制。なんだかんだでこの姉弟のやり取り、見ていて飽きない。
俺は、買い物リストを頭の中に浮かべながら、入口の自動ドアをくぐった。
スーパーの入口をくぐると、優奈と悠真が左右に並び、俺は買い物カゴを持って真ん中を歩くような形になった。
「じゃあ……まずは冷製カッペリーニの材料からいきますか」
「うん。カッペリーニって初耳だったけど、優希くんはなにで知ったの?」
「昔親が作ってくれたカッペリーニがとても美味しくて。そこから、親に伝授してもらったってとこですよ」
「へぇ……やっぱり詳しいんだ」
優奈の素直な感嘆の声に、思わず目を合わせて軽く笑う。
「ま、仕事ですからね」
パスタ売り場でカッペリーニをカゴに入れると、次はトマトのコーナーへ。パスタに使うフルーツトマトは家になかったので、形の整ったものを選んで手に取る。
「トマトって……この前買ったやつちょっとすっぱくて、微妙だったなぁ」
「色だけで選ぶとハズすこと多いですね。触ってみて、皮に張りがあって、ヘタの緑がしっかりしてるやつを選ぶと甘いことが多いですよ」
言いながら、1個ずつトマトを手に取り、選別していく。優奈もそれを真似して、隣で黙々とチェックしている。
「……なんか、真面目に見てるとプロの料理人みたいに見えるね」
「……また褒めてます?」
「だってほんとにそう思っただけ」
優奈がこそっと視線を逸らす。俺はその仕草に気づいたが、変に突っ込むのも違う気がして、ただ笑ってごまかした。
続いては桃とモッツァレラのカプレーゼ用に、冷蔵庫に無かったモッツァレラチーズとバジルを手に取る。
「バジルはフレッシュな葉を選ぶと香りが段違いです。傷んでるとすぐ黒ずむから、茎がシャキッとしてるやつが狙い目ですね」
「へぇ……そんなの知らなかった。ねぇ、私もそういうの、少しずつ覚えた方がいいのかな」
「え?」
「……ほら、その……今後も、優希くんと一緒に料理する機会があるかもしれないし……」
一瞬、意味を飲み込めずにいた俺の代わりに、爆弾を抱えた天使が横から笑顔で突っ込んできた。
「ねぇお姉ちゃん、お姉ちゃんって、もしかしてお兄ちゃんのこと好きなの?」
「ぶぇっ──!?」
優奈が一歩後ずさり、顔がみるみる赤く染まっていく。
「ち、ちがっ……! そ、そんなんじゃっ……!」
「へぇ〜? でも、さっきからいっぱい褒めてたし、ちょっと照れてるしー」
「悠真っ!今度変なこと言ったらアイス抜きにするからねっ!」
「えー!ごめんなさーい!」
店内に響くくらいのやり取りに、俺は思わず笑いを噛み殺しながら、次のコーナーへ移動する。
「……悠真くん、凄い爆弾を……」
「……もう知らない。ほんとに……もう……」
優奈は俯いたままぶつぶつ呟いていたが、耳の先まで真っ赤だった。
気を取り直して、夏野菜のマリネ用にズッキーニとパプリカもチョイス。どちらも冷蔵庫には無かったし、彩りのアクセントにもなる。
「ズッキーニは小ぶりで重みがあるやつが柔らかくておすすめです。あと、パプリカはヘタの周りがしっかりしてて、表面が艶やかなやつが当たりですね」
「……うん、じゃあこのズッキーニがよさそう……かな? ど、どう?」
「完璧です」
「……ふふ、やった」
そんなやりとりを経て、あとはオリーブオイルとレモン、安かった鶏むね肉のパック、そして冷製スープ用のコンソメや牛乳をカゴに放り込み、買い物リストはおおよそ完了した。
「……あ、悠真くん。ちゃんといい子にしてたから、アイス見に行こうか」
「やったー!!」
結局、悠真は一番高いチョコ系アイスを握りしめてご満悦。
そして──赤くなった頬をなんとか冷ましながらも、時折視線を逸らす優奈のその横顔が、どこかいつもより柔らかく感じられたのは……たぶん、俺の気のせいじゃない。
**
レジを終え、私と優希くんは並んでスーパーを出た。
前にここで初めて出くわした時は、128円のめんつゆを前に本気で葛藤してた彼だけど──
隣に立って一緒に買い物をしてみると、ほんとに思う。
……何この人、色々と、ちゃんとしすぎじゃない?
無駄なく、でも急かすこともなく、必要なものを選んでくれて、しかもお得情報にまで強い。
そして今は、悠真が買ったアイスをぺろぺろ食べながらはしゃいでる様子を、優しく見守ってくれている。
「……優希くんって、なんでも出来るよね」
「そうですか?俺だって、完璧ってわけじゃないですよ」
───ほら、そういうところ。
なんでも出来るのに、すぐ謙遜する。自慢げなところなんて一つもない。
なんていうか、これが本物の“余裕”ってやつなのかな。
……どうしよう。なんか話したいのに、言葉が出てこない。
焦ってるわけじゃないけど、なんとなく、こういう時間がもっと続けばいいなって思ってしまう。
「なんなら、優奈さんの方が俺より音楽の知識は圧倒的ですし、弟くんの面倒見も……正直、俺より上だと思いますよ」
「そ……そう……?」
不意に褒められて、胸がちょっとだけ温かくなる。
でもその一方で、背中に感じる視線の数が、じわじわと私の自意識を刺激してくる。
……視線、痛いな。
これ、ほとんどが──男の人たちの視線。
たぶん、分かってる。私のせい。私が目立ってしまってる。
優希くんも、きっと気づいてるはずで──
「あのさ……ごめん、私のせいでちょっと堅苦しい空気になっちゃってるよね」
「はい?……なぜ謝るんですか?俺は……気にしてませんよ」
「ほんとに……?」
「ええ。でも……可愛すぎるっていうのも、時に足枷になるんですね」
「……っ!?」
……え?
え……今、なにって……言った?
か、か、可愛い……って……?
──うそ。
まさか、優希くんが私に……「可愛い」なんて……
そんなの……聞いてないよ……っ
顔に熱が一気にこみ上げてきて、思考がぐちゃぐちゃになる。
だって──私、今まで何度も「可愛い」って言われてきた。
でも、それってただの見た目だけで、中身なんて誰も見ようとしなかった。
皮肉で言われたこともある。勝手な幻想をぶつけられたこともあった。
でも──今の優希くんの「可愛い」は、なんか違ってて。
本当に、ちゃんと見てくれてる気がして。
冗談でも、気まぐれでもなくて……ただ、まっすぐ言われた気がして──
な、なにこれ、ダメ……ほんとにダメ……!
顔、熱い……鼓動、早い……息、ちゃんとできてる……?
どうしよう、無理、意識しすぎて……まともに隣に立てない……
そんな私のパニックをよそに──
「お姉ちゃん、顔赤くなってる!やっぱりお兄ちゃんのこと好きなんだ!」
「ふぇっ!?ち、違っ……ちがうわよ!暑いだけだからっ!!」
おバカっ!悠真のおバカっ!!
……けど、それでも私は、あの日とは全然違う表情で、彼の隣を歩いていた。
恥ずかしくて、どうにかなりそうだったけど。
でもきっと、これが──“特別”ってことなんだと思ってしまった。
その帰り道。私は優希くんの隣で歩くこの感覚が、何よりもどかしくてくすぐったかった。
**
優奈の家に戻ると、玄関先からすでにいい匂いがしていた──いや、それは気のせいか。たぶん、今から俺が立たされる“キッチンという名の戦場”を前にした、気のせい。
買ってきた食材を持ってリビングに入ると、そこには梨花さんだけじゃなく──
「お、優希くんか!家事手伝いサービス、本当に助かるものだねぇ!」
白雪家の父、雅貴さんの姿まであった。
「あ、雅貴さん。お邪魔しています」
「まったりしていってくれ〜。そうだそうだ、優希くんの作り置きのハンバーグ、食べたぞ。あれは絶品だったな!」
「ほんとですか?気に入ってもらえて良かったです」
思わず頬が緩んだ。
あのハンバーグは時間がない中で作ったやつだけど、梨花さんも絶賛してくれてたし、こうして父親の雅貴さんにも刺さったなら、俺としても報われる。
けど、まずは感想より段取りだ。持ってきた食材をキッチンへ運び、ひとまずテーブルの上に広げていく。
冷蔵庫に足りなかったカッペリーニ用のトマトとバジル、マリネに使うパプリカとスモークチキン、カプレーゼ用の桃とモッツァレラ。あとは、特売で買っておいた鶏むね肉や玉ねぎなんかも含めて、順番に整理する。
その横で、梨花さんがふと口を開いた。
「ねえ優奈。優希くんばかりにやらせてないで、あなたもお手伝いしたら?」
「えっ、わ、私が……?」
優奈が目をぱちくりとさせて、一瞬フリーズする。
そして、動揺を隠しきれない声で返してきた。
「べ、別に……やりたくないってわけじゃないけど……その、料理って、どこから手をつけていいのか……」
ちょっとだけ焦ってる声。さっきまでスーパーで堂々としてた姿とは、まるで別人みたいだ。
「優奈さん、無理にじゃなくて大丈夫ですよ。俺、一人でもやれますし」
「そ、それは……ううん、手伝うっ!……その、どこか……教えてくれるなら」
「あらまぁ〜」
なんだか変な意地が働いたらしい。頬をぷくっと膨らませながらも、目は真剣だった。そして、それを微笑ましくみまもる母・梨花。
「了解です。じゃあ、まずはパプリカを洗ってもらえますか?それ終わったらカットもお願いしていいですか?」
「わ、分かった……!やってみる……!」
優奈はぎこちないながらも手を動かし始めた。
たぶん、料理にそこまで慣れていない。包丁の持ち方もちょっと危なっかしい。
けど、ちゃんとこっちの言葉を聞いて、真面目に取り組もうとしている。
そんな姿を見ていると、つい微笑んでしまう。
──慣れてなくても、頑張ってるってだけで、十分すぎるくらい立派だ。この日の夕食は、きっと今までのどれよりも、美味しく仕上がる気がしていた。
カットを頼んだパプリカの前で、優奈が少しだけ難しそうに眉を寄せた。
慎重に、慎重にと包丁を握る手が、どこかぎこちない。
「えっと……こうかな……」
そう呟きながらパプリカを切り分けようとしたその時──ぐにゃっ。
「あっ……!」
少し力を入れすぎたのか、滑って切り口が歪んだ。断面はお世辞にも綺麗とは言えず、少し潰れたような形になってしまっている。
「……ああぁ……失敗した……」
肩を落とす優奈。
そのすぐ隣で、俺は苦笑しながら言葉を選んだ。
「大丈夫ですよ。それも味には影響しませんから」
「で、でも……見た目が……」
「初めから完璧にできる人なんていませんよ。俺だって最初は、ゆで卵すら上手くむけませんでしたし」
「……ほんと?」
「はい。失敗は経験値ですから」
そう言って微笑みかけると、優奈は少しだけ目を見開いて、ほんのり頬を赤らめた。
「……なんでそうやって、いちいち優しいの……」
小さく呟いたその声は、かろうじて聞こえるか聞こえないかというレベルだったが──そのタイミングで、背後から聞こえてきたのは、梨花さんのあまりに楽しげな声だった。
「──あらあら〜?なにこの感じ。ちょっと、まるで新婚さんみたいじゃない」
「……っなっ……!?!?」
優奈の顔が、みるみる真っ赤になっていく。
「し、新婚!?ち、ちがっ……ちがっ……なっ、なんでそんなこと言うのっ……!」
完全に挙動不審になってる。手は止まり、目は泳ぎ、耳の先まで真っ赤だ。
「いや〜、だって見てたらそう思うじゃない?ほら、息ぴったりっていうか、ああいうのを“お似合い”って言うのよね〜」
「ま、ママっ!!もういいからあっち行ってて!!」
半泣きみたいな声で叫んだ優奈に、梨花さんは「はいはい、ごゆっくり〜」と笑いながらキッチンを去っていった。
……なんだか、場の空気が一気に賑やかになった気がする。
「……ごめん、あの人……たまに、ほんと調子に乗るの……」
優奈は顔を伏せたまま、まだ赤い頬を隠そうともう片方の手で必死になっていた。
けれど。
「いえ、お気になさらず。……正直なところ、少し照れましたが」
俺は変わらず、敬語のまま淡々と──だけど、心からの本音を言葉に乗せて返す。
「……っ!……う、うそでしょ……なんで優希くんが平然としてるのよ……」
「いえ、全然平然ではないですよ。……けれど、優奈さんとこうして料理をしている時間は、とても楽しいですから」
「……っ……ばか……」
優奈はそれ以上、何も言えなくなった。
それでも、潤んだような瞳で俺を一度だけ見つめて、そっと視線を逸らす。
赤く染まった耳が、まだその感情を隠しきれていなかった。
優奈の動揺が少し落ち着いた頃、俺たちは料理の作業を再開した。
まずはカッペリーニ。冷製パスタの要はタイミングと温度管理。トマトベースのソースはすでに寝かせておいたので、ここからは麺を茹でて氷水でしめるだけだ。
「優奈さん、ここのパスタ、もう少しだけ混ぜてもらえますか?冷えてきたら、ざるに上げてください」
「う、うんっ!……えっと、こう、かな……?」
慣れない手つきながらも、真剣な表情でボウルを混ぜる彼女の横顔を見ていると、自然と口元が緩むのを自覚する。
続けて、カプレーゼ用の桃を薄くスライスし、モッツァレラと交互に並べる。仕上げにミントをあしらえば、見た目にも爽やかな夏の前菜の完成だ。
「この並べ方、すごく綺麗……!私じゃ絶対できない」
「いえ、少しコツを掴めば誰でもできますよ。今度、一緒に練習してみましょうか?」
「え……そ、そんな……!でも……うん、また今度、ね」
優奈さんは耳まで赤くしながらも、どこか嬉しそうに俯いた。
その後も手際よく進めていく。マリネ用の夏野菜は、優奈さんに頼んでオリーブオイルで軽く焼いてもらう。最初こそ火加減に戸惑っていたものの、数分もしないうちに感覚を掴み、きれいな焼き色をつけてくれた。
「焼けたよ……!どうかな……?」
「完璧ですね。これは見事です」
「……ふふ、ちょっとだけ、嬉しいかも」
照れながらも、どこか誇らしげな表情が印象的だった。
そうして全ての料理が揃った頃、時計はすでに夕方の六時を少し回っていた。
冷製カッペリーニの皿を中心に、ガラスの器に盛られたマリネサラダ、そして瑞々しい桃とモッツァレラのカプレーゼを彩りよく並べる。食卓には、まるでカフェのように涼やかで洒落た夏のごちそうが並んだ。
リビングへと呼ばれて戻ってきた白雪夫妻が、食卓を見て一瞬言葉を失う。
「おぉお……!これは……まるでレストランのディナーだな」
「ちょっと……素敵すぎて言葉が出ない……!ねぇ、写真撮っていいかしら?」
「もちろんです。味だけでなく、見た目も楽しんでもらえるよう心がけました」
「いや〜、これは参った……。優希くん、君、もし将来料理の道に進んでも絶対成功するぞ」
「光栄です。でも、今はまだ趣味の範囲ですよ」
笑って謙遜すると、梨花さんが手を叩いて感嘆の声を上げた。
「本当に素晴らしいわ……。優奈、ちゃんと感謝してる?」
「わ、わかってるってば……」
優奈さんは小さく呟きながらも、さりげなく俺の方を向き、小さく──けれどはっきりと、笑った。
「……ありがとう、優希くん。すっごく、美味しそう」
その言葉に、俺も自然と笑みを返す。
「どういたしまして。では、召し上がってください」
「優希くん!せっかくだ、君も一緒に夕食食べていきなさい」
「えっ?いえ、自分の役目は料理の提供ですから───」
「何を言うんだい、いいよ、遠慮しなくてもな。皆で囲った方が飯は美味いぞ」
「い、いいんですか……?」
「ふふ、いいわよ。ね、優奈?悠真?」
「えぇっ!?それは……いいけど……」
「うん!お兄ちゃんと一緒に食べたいよ!」
これは、断れないな……。
優奈はまだ遠慮気味だが、それでも頷いてるし、悠真くんと来たらノリノリだ。
そうして俺たちは、白雪家のダイニングテーブルを囲み、夏のごちそうを前に穏やかな夕食の時間を迎えることになった。
向こうの気遣いもあり、夕食をここで済ますことになった。これはありがたいことだし、遠慮なく甘えさせてもらうことにした。
「じゃあ、食べましょ!」
梨花さんの明るい掛け声に、みんなでそろって「いただきます!」と手を合わせる。
テーブルに並んだ皿の上には、涼やかな色合いのカッペリーニ。よく冷えたトマトとバジル、ガーリックオイルの香りがふわりと鼻をくすぐった。
最初に元気よく声を上げたのは、やはり悠真だった。
「ん!これおいしー!すっごくつめたい!」
元気いっぱいにフォークを動かす悠真に、梨花さんが思わず笑いながら注意する。
「ふふ、急いで食べなくても、悠真の分は誰も取らないから大丈夫。喉つまらせたら大変なんだから」
「はーい!」
悠真が返事をしたそのタイミングで、他の大人たちも一口目を運び始めた。
俺も少し遅れて、口に運ぶ。
「……うん、やっぱり悪くない」
トマトの酸味にほんのり効かせたガーリック。そこに追いオリーブオイルがまろやかさを足して、冷製ながらもちゃんと食べ応えがある。自分の舌で確認しながら、ほっと胸をなでおろす。
「んっ!サッパリしてて食べやすい……美味しいこれ……!」
優奈がそう言った瞬間、手に持ったフォークが一瞬止まり、次の瞬間にはもう二口目に向かっていた。
──なんというか、分かりやすい。
「おぉー!これは美味いなぁ……!優希くん、本当に美味しいご飯を作るんだな!これは凄い!」
雅貴さんが目を丸くして頷きながら、あっという間に皿の半分を消費していく。
「あなたも、もっとゆっくり食べなさいよ。ふふ、コクもあって麺のコシがたまらないわね……美味しいのに、さっぱりしていて夏のバテた体にも優しいわ」
梨花さんも微笑みながら頬に手を添えて、嬉しそうに味わってくれていた。
──よかった。みんなの反応を見るだけで、心の中がふわっとあたたかくなる。
過去に何度も誰かの食事を用意したことはあるけど、ここまでしっかり言葉で褒めてもらえるのは、やっぱり嬉しい。
「ふふっ……な、なんか、負けた気がする……」
ぽつりと聞こえた声に、顔を上げると──優奈が少しだけ唇を尖らせながら、まだフォークを動かしていた。
手は止まらないくせに、顔だけちょっと赤い。
「どうかしました?」
「……別にっ。なんでもない……。ただ、その……美味しすぎるのが……ずるいっていうか……」
「それは、褒め言葉として受け取っておきます」
「っ、ちょ……真面目に返すのやめて……もう……」
その様子が、なんとも言えず微笑ましくて。
気づけば俺は、彼女の手元の皿が着々と空になっていく様子を、ただ見ていた。
この食卓にある空気そのものが、少しずつ──彼女の心にも染み込んでくれていたら、嬉しい。そう思った。
**
「今日もありがとうね」
「いえいえ、むしろ、こちらとしてはサービスに満足いただけてるみたいで嬉しいですよ」
白雪家での今日の仕事がすべて終わり、俺は玄関先で優奈に見送られていた。
最後まで丁寧に対応してくれるこの家は、やっぱり居心地がいい。気が抜けてしまうくらいに。
「あのさ……次っていつになるかな?」
「えっと……契約内容だと週二回の土日なので、その時ですね。まあバンド練もありますし」
「……優希くんは、しばらくは敬語……使うんだよね?」
「えっ? ま、まぁ……この場では優奈さんは“お客様”ですからね」
「……そ、そうだよね。ううん、やっぱり今の忘れて」
その言い方が、どこか名残惜しそうで。
普段はクールな優奈の口調が少しだけほぐれていたのが、不思議と印象に残った。
最近は、彼女との距離が少しずつ縮まっている気がする。
仕事を通じて話す機会が増え、部活でも同じバンドメンバーとして時間を共有するようになった。
お姫様抱っこ事件というとんでもない出来事があったはずなのに、お互いその話題を避けるでもなく、どこか自然と受け入れてしまっているのも──妙な話だ。
……けれど、あの時の梨花さんの「新婚さんみたいね」という冗談は、なぜか胸に引っかかったまま、抜け落ちない。
「お疲れ様、優希くん。またよろしくね」
「はい、また来ますね」
そう言って手を振り、白雪邸を後にする。
門を出て、数歩歩いたところで、ふと足が止まった。
夕方の風が吹き抜ける。
少しだけ涼しくなった空気が、じわりと熱の残る肌を撫でていく。
周囲には人の気配もなく、静けさが心に入り込んできた。
「……白雪さんが彼女だったら──どんな生活になるんだろうな」
ぽつりと漏れたその言葉に、自分でも驚く。
慌ててあたりを見回す。誰にも聞かれていないことを確認して、息をついた。
……なにを言ってるんだ、俺は。
けど、今の言葉が“完全な冗談”だったかというと、自信がない。
最近の優奈とのやり取りが、なぜか胸に残ることが多くなってきた。
笑った顔、少し照れた顔、言いかけてやめた何か。
一つひとつの表情が、妙に記憶に焼きつく。
優奈は、俺のことをどう思っているんだろう。
ただの料理人か、部活の仲間か、それとも──
……いや、考えても仕方ない。
まだ何かが始まったわけじゃない。
それに、俺自身だって“恋愛”に興味なんてなかったはずなんだ。
でも。
心の奥底で、何かがそっと芽を出した気がした。
それが何なのかは、まだわからない。ただ──それを無視できない自分がいる。
きっとこれは、揺らぎだ。
けれどその小さな揺らぎが、やがて名前を持つ日が来るのかもしれない。そう思った。
**
もう……この気持ち、抑えきれない気がする。
誰かを信じること───そう簡単にできることじゃないと思ってた。
ずっとそう思ってたのに──なのに。
優希くんにだけは、自然に話せてしまう。
どこかで警戒しているはずなのに、無理に気を張ることがない。
その時間が心地よくて……それでいて、少しだけ緊張もして。
ふとした瞬間、胸を掴まれるような言葉をかけてくる。まるで偶然を装うように、さりげなく。
「……お客さん、か。まぁ……そうだよね……」
その言葉が、どうしようもなく引っかかる。
彼にとって、私は“お客様”──それが、現実。
だから、私のこの感情も、たぶん思い違い。
……そう思いたいのに、胸が痛い。
最近ずっと変。
何がきっかけだったのかなんて、自分でもよくわからない。
どうして私は、こんなにも彼のことでドキドキしてるの?
こんな感覚、初めて。
一目惚れなんて幻想、そう思っていたからこそ──余計に怖い。
きっと私は、無意識のうちに優希くんのペースに乗せられてる。
でも、それがイヤじゃない。むしろ、そこに安心してる自分がいる。
ただ、彼のことを私は「信じてみよう」と思っただけ。
なのに、私は今、別の感覚が心を揺さぶっている気がする。
彼には「お客様」としてじゃなくて──
クラスメイトとして、部活の仲間として、もっと自然に関わってほしいって思ってる。
……これって、どういう感情なの?
胸の奥が、ふわりと熱を持ってざわつく。
だけど、その正体に名前をつける勇気がない。
だから、私は──誰かに聞きたくなった。
「……ひよりに、相談しよう」
この気持ちの正体が、知りたい。
自分の中で渦巻くこの感情が、本当に“好き”なのか、まだわからない。
でも、わからないままにはしておけない。
私は、スマホを手に取った。
「もしもし、ひより」
『おつおつ〜。どーした?もしかして、恋の悩みとか?』
「……うん、そうかな」
『ふーん……。───えっ?いや、恋の悩みってガチなん!?』
ひよりの明るい冗談に、なぜか胸が跳ねた。
その言葉を聞いた瞬間、心の奥で小さな音がした気がする。
冗談で言ったのはわかってる。でも、私の返事が想定外だったのか、ひよりの声に本気の驚きが混ざる。
「今……すごく変な感覚が続いてて」
『ほ、ほう?待って待って、まさかガチな恋愛相談来るとは思わなかった』
「それ、バカにしてる?」
『えっ!?そんなことない!むしろ、優奈がそっち方面に乗り出しかけてるのが嬉しいよ!』
電話越しなのに、ひよりのテンションが一気に切り替わったのがわかった。
さっきまで軽口を叩いていたのに、今は完全に“相談モード”。
「あのさ───前に、優希くんが私の家に来てくれたことを話したでしょ?」
『そうだね、家事手伝いみたいなやつでしょ?』
「そうそう……。それで、今日また来てくれて。2回目なんだけど……なんかこう、彼と目を合わせられなくなっちゃって」
『ふーん……なるほどね〜』
ひよりの声が一瞬だけ低くなった。
興味本位ではない、本気の思考に入っている時のトーンだ。
「でさ……あの……私、なんか変なの。優希くんだけ、他の男子とは違って見えるし、距離感もつかめなくて……変に意識してる自分がいて」
『……とりあえず!言いたいことは分かった!ねぇ優奈、明日どこかで会わない?』
「えっ?なんで?」
『これはね、電話でどうこう言える内容じゃない気がするの。ちゃんと顔見て、向き合って話したい』
ちょっと拍子抜けした。
話す気満々だったのに、ここに来て“明日まで待て”と言われるとは思わなかった。
「でも……今、話したい。今すごく、ぐちゃぐちゃになってて……わかんないの。私、この感情が何なのか知りたいの」
『わかってる。でも、それでも明日』
「なんで……?」
『うん、言葉だけじゃ足りない気がして。私の目で優奈を見ないと、たぶんちゃんと伝えられない』
ひよりの声は優しくて、でもはっきりしていた。
どんなに問い詰めても、きっと彼女は譲らないとわかる。
「ねえ、お願い。ちょっとでいいから、何かヒントだけでも……」
『だーめ』
「なんでそこだけ強情なの……」
『だってね、今の優奈の気持ちって、きっとすごく大事な時期だから。私が中途半端なこと言って決めつけたら、優奈が自分で気づけなくなっちゃう気がするの』
「……気づく、って……なにに……?」
『それも含めて、明日話す。全部ちゃんと整理して、納得できる答えを持って行くから』
曖昧にぼかされるたび、ますます混乱する。
何かが目の前にあるのに、それに触れてはいけないみたいで、もどかしくて仕方がない。
「ずるい……ひより、ずるいよ……」
『いいの。私、明日ずっと付き合うつもりだから。優奈が納得するまでね』
「……ほんとに?」
『うん。だから、明日はちゃんと覚悟しててね』
それが何の“覚悟”なのか、まだ私にはわからない。
でも、知りたいと思ってしまった以上、もう後戻りはできない気がしていた。
「覚悟って……怖いこと言わないでよ」
『けどね、ある意味でこれは覚悟が欲しいかもね。だって、今までの優奈なら有り得ないことを、明日私が言うかもだしさ』
「明日まで待てないよ……」
『そこは待ちなさい! とにかく、明日カフェで集合ね』
「う、うん……」
胸の奥がずっとざわついている。
ひよりが「覚悟」なんて言葉を使うなんて、滅多にない。
あの子はいつも私を茶化すようでいて、本当に大事なときは、どこまでも真剣になる。だからこそ、怖い。
今度ばかりは、自分の心の奥にある“何か”を暴かれる気がしてならない。
──明日、何を言われるんだろう。
それを知るのが楽しみで、でも怖くて。
答えがわかれば楽になるのか、それとももっと苦しくなるのか──そのどちらかさえ想像できない。
「分かった、明日何時に行けばいい?」
『うーん……午前中がいい?午後がいい? 私明日はバイトないし、いつでもいいけど?』
「じゃあ……午前10時とかどう?」
『いいよ! けど、わざわざ朝早くに集合時間設定するとは───知りたくて仕方ないんだね?』
「そ、それは……そうよ……。それに、明日も午後には優希くんが来るから……」
『ふふ、気持ちは分かるから。分かった、明日の10時、いつものカフェで集まろっか』
「……分かった」
そうして、ひよりとの電話は終わった。
スマホの画面が暗くなると、まるで現実に引き戻されたみたいに、静かな夜の空気が重くのしかかってきた。
彼に出会ってからの私の感情は、どこかおかしい。
今までは、人を信じることも、近づくこともできなかったのに。
優希くんといると、気づけば笑ってて、気づけば胸が高鳴ってて──それが何なのか、自分でもわからない。
「変な感覚……本当に、それだけなんだよね……?」
呟いた言葉は、誰に届くでもなく宙に消える。
でも、自分の中に生まれたこのざわつきが、簡単には消えてくれないことだけはわかっていた。
布団に入って目を閉じてみても、頭の中には優希くんの顔がちらついて、さっきの会話の一言一言が何度も再生される。
──“明日、私が言うかもだしさ”
ひよりのあの台詞が、やけに引っかかる。
何を言おうとしてるの?
何が“今までの私なら有り得ない”の?
「……わかんないよ、もう」
両手で布団をぎゅっと握りしめて、顔まで隠した。
眠ろうとしても、心がざわざわして、まるで波の音が消えないみたいに落ち着かない。
でも、これ以上考えてもきっと、答えなんて出ない。
ひよりが“明日”と言ったのなら、信じるしかない──そう思って、私は深く息を吐いた。
そして──
「……おやすみ」
誰に言うでもなく、そう小さく呟いて、私はようやく目を閉じた。
不安と期待が入り混じるまま、少しだけ眠りの波に身を預ける。
明日、この胸のざわめきに名前がつけられるのかも──そんな予感だけを残して。




