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【第5話】夏休み、初バイト

 あれからというもの、優奈と話す機会はぐっと減った。

 お互い、どこか気を使ってしまっている。無理に笑うわけでもなく、かといって避けているわけでもない、そんな微妙な距離感。

 無論──あの件について、誰にも話していない。

 優奈と交わした約束は今も胸の奥にしまったままだ。軽はずみな言葉や冗談でも、絶対に触れないよう気を張っていた。

 けれど、あの日以来、俺は優奈に話しかけるのが──少し、怖くなった。

 それは、彼女が何かを怒っているからでも、傷ついたからでもない。

 ──意識してしまうから、だ。


 今まで、恋愛というものに特別な関心はなかった。

 彼女がいたこともないし、異性との距離にはいつも慎重だったからこそ、変な誤解も起こさず、うまくやってこれた。

 でも、優奈は──違った。

 距離を取ろうとすればするほど、なぜか彼女の表情や声が頭に浮かんでしまう。

 真剣な眼差しも、あの日見せた頬の赤みも。

 彼女を、「同級生」「普通の人間」として見れなくなりそうで。

 それが怖かった。

 そして──俺が軽音部に入った理由。

 それすらも、もし優奈に「最初から自分目当てだったのかも」と誤解されたら……そう思うだけで、また一歩が遠のく。


(……はぁ、しんどいな)

 この感情の整理が、なかなか追いつかない。

 気づけば季節は夏に突入し、一学期も今日で終わりだ。

 外ではセミが耳鳴りのように鳴き、教室は冷房でひんやりしている。

 最近は軽音部の練習にも、少し腰が重かった。

 けれど、下手なままではいられないと自分を奮い立たせ、少しずつベースの感覚を掴んでいった。

 勉学の面では、努力の成果で期末では中間に続いて堂々の学年一位。平均点は95点超だった。

 それを知った黒板係が、みんなの前で名前を読み上げてざわついたっけ。


 だけど、そういう「数字」の結果と違って、心の問題は簡単に処理できない。

 あれ以来──白雪優奈と、ろくに会話を交わせていない。

 目が合うとお互い逸らしてしまう。距離感を測りあうような、あの沈黙がこわい。


「おい、優希!今日もう帰るんか?」

 ホームルーム終了のチャイムが鳴ると同時に、明るい声が飛んでくる。

 目の前にはテンションが上がった黒川蓮の姿。最近は名前呼びも自然になった。


「蓮……俺は、夏課題を少し片付けてから帰るつもり」

「はぁ?またそれ?真面目かよ~」

「真面目で何が悪い。そもそも、学校は勉強する場所だろ」

「出た、学年一位の余裕。……でもさぁ、夏ってもっとこう、自由であるべきだと思わん?」

「具体的には?」

「つまり海だ!水着だ!女子を海に誘う!これこそ、夏の醍醐味じゃね?」

「……はぁ、賛同はしかねるな。お前だけでどうぞ」

「おい!お前も白雪さんの水着見たいだろ?協力しろって」


 思わず心臓が跳ねた。

 優奈の名前が出た瞬間、ギクリと肩が強張る。

 まるで、内心を見透かされたような気分だった。

 幸い、蓮の主張が意味不明だったので、適当に流すことができたけれど。

 最近、優奈の話題はなにかと絶えない。

 この前も、運動部のエースの先輩が彼女に告白して、即答で玉砕したという噂が流れていた。

 ……そういう話を聞くたび、自分がどこかに期待を抱いてしまっていたことに気づいて、少し恥ずかしくなる。

 だから、こうして距離を取っていればいい。冷静を保っていれば、変に揺れなくて済む。


「協力も何も。夏は勉強とバイトで忙しいんだ」

「おい……お前、そんな味気ない青春でいいのかよ」

「別に。今までもそうしてきたし、慣れてる」

「でもさ、誰かと付き合うって、ある意味モチベになるだろ?」

「それは……分かるけど、それとこれとは別だ」


 俺が断固とした口調で返したからか、蓮は肩をすくめて話題を切り替えた。


「あ、そういや。お前、バイトするんだっけ?」

「まぁな。ちょっと小遣いも欲しいし、社会経験も兼ねて。色んなバイトを早めに経験しておきたくてさ」

「へぇ〜、で?どんなバイト?」

「料理とか部屋の掃除とか……家事手伝いみたいなやつ。知り合いのツテで紹介してもらって、家庭のサポートをして報酬をもらう。どうやらメインは料理らしい」

「なるほどな。確かにお前、手作り弁当とかよく持ってきてたし。俺んちにも家事代行しに来てくれていいぞ?」

「遠慮しとく。バイト代、五万くらい請求するぞ」

「高っ!ドライにもほどがあるだろ!」

「……そっちこそ、知り合いが家に家事手伝いしに来たら気まずいだろ。俺なら嫌だね」


 ──まさか、その“気まずさ”が自分に降りかかるとは、この時の俺はまだ知らない。

 というわけで、俺の夏休みは、バイトと課題で埋まることがほぼ確定した。

 翌日には、さっそくバイトがある。

 そのため今日は、スーパーで特売の夏野菜――ピーマンを買って帰る予定だ。


 30分夏課題を進めたら、蓮と並んで廊下を歩く。すると、案の定また言い出した。

「俺だったら白雪さん、海に誘いたいんだよなぁ」

「またそれかよ」

 来るかもと思っていたぶん、今回は落ち着いて返せる。

「いや、でも楽しそうだろ?だってビキニとか、絶対やばいって!」

「お前がそもそも気持ち悪いんだよ」

「ナチュラル悪口やめて?」

「悪口じゃなくて、ただの事実だ」

「いいや!今どきの思春期男子が、女子の胸とか太ももに惹かれるのは当然の本能なんだよ!」

「だから、主語がでかいって」

 こういう話題には、もう聞き飽きてきた。

 こいつは本当に、自分の欲望に忠実すぎる。

 俺の母さんが言ってた。「やりたいことばっかりしてると、あとで後悔するよ」って。そういう教えを聞いて育ってきた身としては、余計に理解できない。


「家の手伝いかぁ〜。なんかさ、エッチな美人お姉さんの家とかに呼ばれたりしたら、絶対報告しろよな!」

「……だから、お前は何を期待してんだよ。ほんとに」

「いいだろ?もし可愛い女の子とかいたら、俺にも教えろよな!」

「はぁ……。それはお客様の肖像権の侵害にあたる。絶対にしない」

 というわけで、そんな話をしながら俺たちは学校を出た。

 明日のバイトの開始時刻は、当日に連絡が来るらしい。

 予約が入っている家庭の中から、順当に割り振られるとのこと。つまり、どんな家に派遣されるかは完全に運任せというわけだ。

 けれど、人と関わることの多い仕事だからこそ、コミュニケーション能力を磨けるというのも事実。

 今まで母さんの特訓で身につけた家事スキルを活かすなら、料理に限らず家事代行も経験しておくのは悪くない。

 知識を活かすなら、いずれ家庭教師のバイトもありかもしれない――そんなことをぼんやり考えていた。

 蓮と別れたあとは、夏の猛暑に汗を拭いつつ、特売のスーパーへ。

 目的のピーマンを手に入れ、満足しながら家路についたのだった。


**


「おいおい……嘘だろ……」

 バイト初日、俺は圧倒的に想定外の事態に直面していた。もはや軽いトラブルレベルだ。

 どんな家庭に派遣されるのか、内心ワクワクしていたものの、たどり着いたのは見覚えのある豪邸。そして──ここに一度来たことがある。ゴールデンウィークの時、まさかの形で。

 まさか、俺が来ることを狙った?

 いや、そんなはずはない。

 たしか、依頼側がバイトする人間を指名することはできなかったはずだ。

 せいぜい、性別くらいが指定できる程度。

 これは……偶然?本当に?


「これ……やばいな。……でも、逃げるわけにもいかないか」

 俺は深く息を吐く。

 面接後に渡された接客マニュアルはすでに頭に入っているし、敬語も普段からそれなりに使える。

 落ち着け、優希。これはただの仕事だ。

 ピンポーン──

 門の脇にあるインターホンを押す。しばらくして、スピーカー越しに声が返ってきた。


『はい、どちら様でしょうか?』

 ……間違いない、優奈の声だ。

 ほんの一言なのに、俺の鼓動が跳ね上がる。落ち着け、いつも通りでいい。


「予約を頂いた家庭サポートの件でまいりました」

『あ、はい!すぐ行きます!』

 インターホンが切れ、門の向こうから小走りの足音が近づいてくる。そして──

 ガチャリ、と門が開いた。現れたのは白雪優奈。

 淡い水色のフレンチスリーブのトップスに、白のロングスカート。夏の陽射しに映える涼しげな装いで、麦わら帽子を片手に持っていた。

 柔らかな風がスカートの裾を揺らし、まるで一枚の風景画のように目を引く。でも、目が合った瞬間、その空気が一気に止まった。


「今日はお願いしま──って……あれ……?優希……くん……?」

 優奈の目が大きく見開かれる。声も少し上ずっていた。

 その戸惑いは、当然俺も同じだ。


「……コホン。こんな形になってしまいましたが。担当の篠宮優希です」

「えっ……えっ、ちょっ……そんなことあるんだ……」

 優奈は視線を泳がせながら、俺の顔と腕のサポートバンドを交互に見つめる。

 気まずい沈黙が数秒流れた。まるで時間が止まったようだ。

 これは──気を遣わせてしまうかもしれない。


「あの……もし、担当を変えたほうがいいようでしたら、すぐに手配します。マニュアル上でも対応できるようになっていますので」

 俺はできるだけ穏やかな声でそう伝える。ここは丁寧に。仕事として。


「えっ?……あ、ううん。だ、大丈夫。あのさ……聞いていい?約束、守ってる?」

「……はい」

「ん……分かった。入って」

 まだ驚きは完全に消えていないものの、優奈は少しだけ笑って、門の脇に身を引いた。

 俺は一礼して足を踏み入れる。


「失礼します」

 ……さて、思いがけず気まずい再会になったけど、これはもう引き受けた以上、きっちりやるしかない。

 仕事である以上、どれだけ気まずくても、彼女は「お客さん」だ。


「えっと……依頼内容は、キッチンの掃除と夕食の手配ですね」

「う、うん……そうなの。実はこれ、見てほしくて……」

 優奈が申し訳なさそうに案内した先──キッチンは、軽く騒動のあとだった。

 IHコンロには、黒く焦げついた何かがフライパンにこびりつき、流しには使った形跡のあるボウルやスプーン、粉のついたゴムベラ。床には卵の殻やら、なぜか粉砂糖らしきものまで落ちている。


「うわ……これはまた、見事にやりましたね……」

「弟の悠真がね……サプライズでパンケーキ作ろうとしたみたいで。私に見つからないようにって、朝のうちにこっそり作業してたらしくて……」

「パンケーキ?」

「そう。私が前に“甘いの食べたい”ってつぶやいたのを覚えてたみたいで……。でも途中で卵を落としたり、粉の分量がわからなくなったりして……最終的にはフライパンごと放置して逃げた、って感じ……」

 なんとも言えない光景だが、事情を聞くと少し笑みがこぼれてくる。

 確かにこれは、手をつけにくい惨状だ。でも、挑戦した気持ちはちょっとだけ胸を打つ。

「なるほど……でも、気持ちはすごく可愛らしいですね。やろうとした動機が」

「うん……もう怒る気にもならなくて。むしろキッチン見て絶望して、笑うしかなかった」

 優奈は苦笑まじりにそう言いながら、前髪をかき上げる。

 その表情にどこか柔らかさが混じっていて、少しだけいつものクールな彼女とは違って見えた。

「じゃあ、俺がきっちり掃除しておきます。夕食の準備までにはピカピカにしますよ」

「うん……ありがとう。すごく助かる……」

「多分、一時間と少しあれば終わるかと思うので」

「えっと……私は……なにかした方がいい?」

「えっ?いえ、白雪さんはゆっくりしてくれて大丈夫ですよ。これは俺の仕事の一貫ですから」

「……そう。わ、分かった」

 そう言って優奈は、少し遠慮がちな様子でリビングを出る。その足取りがどこか落ち着かなくて、振り返るたびにチラチラとこっちを見てくるのが可愛らしかった。ドアの前でふと立ち止まり、


「私、自室にいるね。なにかあったら声かけて」

 小さく手を振って、部屋の奥へと消えていった。

 ──ようやく一息つける。

 いや、気まずいけど……それ以上に可愛すぎだろ……っ!

 正直ここまで正気を保てた自分に驚いてる。

 あの私服──白地のノースリーブに、淡いブルーのスカート。髪をゆるく結んだラフなスタイルなのに、清涼感と色気が同居してて、堂々と俺の理性を削りにかかってきてた。

 やばいな、今日このバイト、精神的にも過酷かもしれない。

 けど、手を抜くわけにはいかない。


「さてと……やりますかぁ」

 そう気合を入れて、持参していた掃除道具を入れたケースを床に広げる。

 ゴム手袋にマイクロファイバークロス、重曹スプレーにクエン酸パウダー、排水溝用のブラシ、ガスコンロ専用のスクレーパー……そして秘密兵器、ステンレス磨き用の研磨シートまである。母さん直伝の最終兵器だ。


 まず、焦げついたフライパンには、1度お湯でふやかした後に重曹とクエン酸水の合わせ技。しばらく置いて発泡させると、汚れが浮き出る。それを使い古しの歯ブラシで丁寧に削ぎ落としていく。

 その間にIHコンロの表面を重曹でゆっくり湿らせ、ラップでパックして汚れを浮かせていく。

 五分後、スクレーパーで優しく削ぎ落とすと──驚くほどすんなり落ちる。仕上げは研磨シートで、艶が戻るまで磨き上げる。


「うん……いい感じ」

 次に流し。こびりついた粉や油をすべて洗い流したあと、クエン酸水を吹きかけてスポンジで丁寧に磨く。蛇口の水垢も拭き取り、ステンレスの反射がくっきりと見えるほどに。

 床の汚れもマイクロファイバークロスで拭き上げて、目地に入り込んだ粉砂糖の粒まで見逃さない。

 最後にシンク内の排水溝を取り外して中まで洗浄。市販の洗剤では落ちにくいぬめりも、ブラシと重曹の併用でしっかり除去。消臭もバッチリだ。


 そうして一通り終えたときには、元の惨状が嘘のように、キッチン全体が明るくなっていた。

 いや、正確には「元よりピカピカ」。もともと清潔感のあるキッチンだったのが、さらにプロの手が加わったような状態に。

 完璧だ──

「よし、呼ぶか」

 俺は手袋を外し、手を拭きながら廊下へ向かう。

 そして、優奈の部屋の扉の前で声をかけた。


「白雪さん。キッチン、全部終わりましたよ。よかったら確認してもらえますか」

「えっ、早いね。ちょっと待ってて、今行くね」

 かかった時間は約五十分ほど。母直伝の掃除グッズをきっちり取り揃えておいた甲斐があった。

 優奈が階段を下りてくる足音が聞こえる。俺はそれに合わせて玄関側へと歩み寄り、軽く会釈してからキッチンへ先導した。

 汚れひとつない状態を目指して全力を尽くした自信作。あとは見てもらうだけだ。


「……えっ、すっご……」

 彼女の第一声は、短く漏れた驚きの声だった。

「えっ!?真っ黒焦げだったフライパンが復活してる! てか……どこもかしこも、前より綺麗なんだけど……」

「お褒めに預かり光栄です」


 少し得意げに返すと、優奈は目を丸くしながらキッチンを見回した。

 ゆっくりと一歩、また一歩と足を踏み入れ、シンクの中を覗き、コンロの表面にそっと手をかざす。その動作ひとつひとつが、じわじわと実感を深めていっているようだった。


「すごい……え、フライパンの焦げって、どうやって取ったの?」

「これですか? まずお湯でふやかしてから、重曹とクエン酸水で発泡させたんです。発泡した泡が焦げを浮き上がらせてくれるんですよ。それをこすって落としました」

「へぇ〜……そんな知識、よく知ってるね……私、初耳だった」

 小さく感嘆の息を漏らしてから、優奈はふと視線をこちらへ戻す。その目が、ほんの少しだけ柔らかくなっていた気がする。


「いえ、母がそういうの得意で。家でもよく手伝わされてたので、自然と覚えただけですよ」

「……そっか」

 そのひと言の間に、ほんの少しの沈黙があった。

 優奈は再びキッチンを見回し、まるで信じられないものでも見るようにゆっくりと首を振る。


「本当に……ありがとう。こんなに綺麗になるなんて思ってなかった。びっくりした……」

 そう言いながら、優奈の声はわずかにトーンが落ち、どこか照れくさそうだった。

 そのまなざしには確かに、「ただの仕事」と割り切れない何かが混じっていて──けれど優希自身は、まだそれに気づいていない。

 すると、リビングにもうひとり、明るく元気な声色の男の子が駆け込んできた。


「あれ? あ! お兄ちゃん、また来たの!?」

「あ、君は……悠真くんだね。今日はね、お仕事で来てるんだよ」

「悠真、優希くんがキッチンを掃除してくれたの。ちゃんとお礼言おうね?」

「うん! お兄ちゃん、ありがとう!」

「ふふ、どういたしまして。けどね、今度料理する時は、お姉さんと一緒にするんだよ? 一人でやるのはちょっと危ないからさ」

「うんっ!」

 にこにこ笑って元気よくうなずく悠真を見て、ふと以前の記憶が蘇った。たしか前に優奈に呼ばれてこの家を訪れたとき──玄関先でこの子に思いっきり泥棒扱いされて大騒ぎになったんだっけ。

 でもそのあと、ちゃんと姉の言葉を聞いて、自分の非を認めて素直に謝ってくれた。その姿勢に驚かされたのを覚えている。

 そして今回も、自分からしっかり「ありがとう」と言ってくれた。

 この年頃──たぶん小学校の低学年くらいだろう──の子にしては、驚くほど礼儀正しい。

「弟さん、ちゃんと『ありがとう』が言えて偉いですね。素直ですごく良い子だと思います」

「そう? 私やママが、小さい頃から教えてるから。当たり前だよ、そんなの」

 優奈はそう言いながらも、弟の頭をそっと撫でている。その仕草には自然な優しさと、姉としての誇らしさがにじんでいた。


「いえ、悠真くんの前だと、優奈さんがいつも以上にしっかり者のお姉さんに見えますよ」

「……っ。あ、ありがと……」

 ふと、優奈がわずかに目を逸らす。頬にほんのり赤みが差したのを見逃さなかった。


「ん〜? お姉ちゃん、顔赤いよ? どーしたの?」

「……っ!? あ、暑いだけだからっ!!」

 妙に食い気味な反応に、思わず笑いそうになるのをこらえた。リビングの温度はむしろ快適なはずだけど──そこには触れないでおこう。たぶん今の優奈は、自分でもどうして顔が熱いのか、うまく言語化できてない。


「じゃあ……そろそろ、夕飯の話でもしますか?」

「えっ……あ、うん。そうだった。夕食の手配もお願いしてたんだったよね」

 少し動揺を残したまま、優奈は気を取り直すように頷いた。


「今日は特に決めてなかったんだけど……何か作れそうなものある? 材料ならある程度はあると思うんだけど」

「了解です。冷蔵庫、少し見させてもらってもいいですか?」

「もちろん。こっち」

 そう言って、優奈はキッチンへと向き直る。その背中を追いながら、俺は気を引き締め直す。

 プロのバイトとして、そして──それ以上に、彼女に少しでも「頼れる」と思ってもらえるように。

 そして、ゴールデンウィークの時の罪滅ぼしのためにも、この機会、真剣に取り組むとしよう。


「……結構、野菜は揃ってますね。あ、これは……合挽き肉もありますか。これなら、ハンバーグも作れますよ」

「はんばーぐ! ぼく、ハンバーグ大好き!」

「こら、悠真。優希くんはお仕事中なんだから」

 優奈が弟をたしなめつつも、口元にはうっすら笑みが浮かんでいた。


「そうですね……この辺りの野菜を使ってポトフを作りましょう。ヘルシーに仕上げた生野菜サラダも添えて。メインはハンバーグ。これでバランスもバッチリかと。いかがですか?」

「……うん、それでお願いできる?」

「はい。じゃあ早速取りかかります」

「やったー! ハンバーグ!!」

 悠真が嬉しそうに飛び跳ねるのを見て、優奈も自然とほほ笑んだ。

「ちなみに……夕食は何人前ご用意しますか? もしよければ、保存用に“焼くだけハンバーグ”も作っておけますよ。冷凍保存もできますし、美味しく焼くコツも伝授できます」

「あ、そっか……。そうだね……。えっと、優希くんは確か、18時までだったよね?」

「はい、そうです」

「じゃあ、今日の夕食は私と悠真の分だけお願いしてもいい? ママとパパの分は、後で焼けるようにストックしてもらえると助かるかも」

「了解です。それじゃあ、その方針で進めますね」


 こうして夕食作りがスタートした。

 まな板に置かれた野菜が次々と均等な大きさに切り分けられ、ボウルの中でひき肉と炒め玉ねぎが静かに混ざり合っていく。包丁の動きに無駄はなく、その音すら心地よく感じるほどだった。

 にんじん、じゃがいも、キャベツ、玉ねぎ──すべてがまるで計算されたかのように、最短ルートで準備されていく。


「えっ……すご……」

 優奈がぽつりと呟いた。気づけばリビングのソファから立ち上がり、キッチンの方へと近づいてきていた。

 肉をこねる手の動きはリズミカルで、余分な空気だけを丁寧に抜く。ハンバーグをふっくら仕上げる秘訣は、ここにある。

 そのあと、ポトフ用の鍋ではコンソメの香りが立ち上がり、サラダには手作りのドレッシングが仕込まれ始めていた。

 それなのに、キッチン周辺は不思議なくらいに散らからない。使い終えた器具はすぐに洗い、調味料は元の位置に戻す。作業と同時に片付けが進行しているのだ。


「ほんとに……プロみたい……」

 優奈はぽつりと呟き、手元ではなく優希の横顔をじっと見つめていた。

 そして──不意に、目が合う。

「……っ」

 さっと視線を逸らす彼女。けれど、その頬はうっすらと赤くなっていた。

 料理の香りと、沈黙に入り混じる妙な空気。

 彼女の気持ちをあえて言葉にする必要はなかった。

 焼き上がりの時間を待つ間に、特性のハンバーグ用ソースを鍋で作る。

 冷蔵庫を開けると、そこには高級レストランでも見かけるようなブランドの赤ワインが並んでいた。まさか家庭用とは思えないほどの代物に少し戸惑いつつも、一本を選んでグラスに注ぐ。

 その赤ワインをベースに、ケチャップや中濃ソース、醤油、バターといった調味料を重ねて煮詰め、仕上げにバターを落とすと、洋食屋風の特製ソースが出来上がった。肉汁のうまみを吸ったこのソースは、仕上げの一滴まで計算され尽くしたプロの味だ。


 調理を始めてから、すでに1時間が経とうとしていた。時計を見ると、時刻は17時を少し過ぎた頃だった。

「どうしますか? このまま出せば、出来たての状態で召し上がれますよ」

「じゃあ……もらってもいい?」

「かしこまりました。どうぞ、テーブルへ。順番にお皿をお持ちしますね」

 言われるまま、優奈と悠真が席に着く。俺は手早く料理を並べ始めた。


「まずは、キャベツを中心に根菜をたっぷり使ったポトフです。じっくり煮込んだので、野菜の甘みが引き立ってるはずです」

「おぉ〜……いい香り」

「それから、生野菜サラダを。ドレッシングは、自家製のものを作ってみました」

「こ、これが……自家製?」

「えぇ、我が家では定番のレシピなんです。母が料理研究家みたいなものでして」

「すご……私、お店のやつかと思った……」

 驚きの声を聞きながら、メインディッシュの皿を最後に並べる。


「そしてこちらが、ハンバーグステーキです。熱々のソースを、今かけますね」

 ジュッ、と音を立てながら、芳醇な香りのソースがハンバーグに注がれていく。その瞬間、空気が一気に洋食店の厨房のような雰囲気に変わった。

「香りめっちゃいい……すごく美味しそう……」

「早く食べたいっ!ねぇ、もういい?」

「悠真、少しだけ我慢しなさい」

「はーい……」

「それから……時間があったので、フルーツと炭酸でフルーツポンチも用意しました」

「え、えぇっ!?ちょっと……それはもう、デザートじゃん……」

「はい。お口直しになるかと思いまして。冷蔵庫にあった果物だけで、簡単にですが」

 優奈の目が、まるで夢でも見ているかのように見開かれている。そんな彼女の前に、最後にご飯を盛った皿を置く。


「これで、すべて揃いました。是非召し上がってください」

「じゃあ、悠真、食べよっか」

「うん!いっただきまーす!」

 悠真が元気よく手を合わせたのに続いて、優奈も少し恥ずかしそうに、けれどきちんと声に出して手を合わせた。


「……いただきます」

 まずは、優奈がスプーンを手に取り、ポトフをひとくち。

 スープを口に含んだ瞬間、その瞳がふっと見開かれた。

「……え、なにこれ……やさし……」

 ゆっくりと口元が緩み、もう一度スプーンを運ぶ。野菜の出汁の染みたキャベツが舌の上でとろけ、ホクホクのジャガイモがほどけていく。


「野菜、甘っ……すご……こんなに美味しくなるの……?」

「じっくり煮込んで、最後に少しだけ塩を加えると、甘みが引き立つんですよ」

 悠真も「おいしい〜!」と声をあげて、パンのようにふわふわに煮込まれたウインナーに夢中になっている。

 次に手を伸ばしたのはサラダ。優奈が自家製ドレッシングを恐る恐るかけて、ひと口。


「……んっ!?なにこれ……爽やか、なのにコクもあって……え、ドレッシングでこんな感動することある……?」

「オリーブオイルとレモン果汁に、少しだけ蜂蜜を足してるんです。塩気は岩塩で」

「……すごい……優希くん、ほんとに高校生?」

「一応」

 その言葉に思わず笑みを漏らした優奈だったが、次の瞬間、真剣な面持ちでハンバーグにフォークを入れた。

 ナイフを入れると、ふわっと立ちのぼる湯気。断面から溢れる肉汁。その肉汁はまさに飯テロレベル。

 そして、赤ワインソースの香りが追いかけるように鼻をくすぐる。


「……いただきます」

 口に入れたその瞬間、時間が止まったかのようだった。

 外はカリッと香ばしく焼かれていながら、中はふんわりジューシー。

 そのまろやかさと奥深い味わいが、重なり合うように舌の上を滑っていく。

 ソースの芳醇な香りとコクが、肉の旨味を最大限に引き立てていた。


「……なにこれ……おいしすぎる……」

 思わず漏れた声が、彼女のすべてを物語っていた。そして、隠しきれないほど口角が上がっていた。


「ハンバーグ……お店のよりおいしい……!お兄ちゃん、これ毎日食べたい……!」

「気に入ってもらえてよかったです」

 優奈は、ひと口、またひと口と夢中でフォークを運ぶ。そのたびに顔が綻び、目がうるんでいるようにも見えた。

 食べ終える頃には、悠真は満足そうに椅子にもたれかかって「しあわせ〜」と呟いていたし、優奈も何度目か分からない「すごい……」を小声で繰り返していた。


「……これが、プロの味……いや、優希くんの味なんだ……」


 その言葉に、俺は少しだけ照れながらも微笑みで返した。

「プロだなんて、とんでもないですよ。まだまだ、これでも見習いですから」

「……いや、ほんとに……凄かった。美味しかったよ」

「ありがとうございます。あ、ハンバーグの作り置きは冷蔵庫にあります。焼き方もまとめておきました」

 そう言って、優奈へ手書きのメモを手渡す。加熱時間、火加減、ソースの温め方まで、抜けのないように丁寧に書いた。

「……ありがとう。こんなに丁寧にしてくれて」

「いえ。顧客満足度は、高いに越したことはありませんからね。これも仕事のうちです」

「……仕事、ね……」

 ふと、優奈が少しだけ寂しげに呟いた気がした。

 時計を見ると、バイト終了時間まで残り10分を切っていた。

「そろそろ時間ですね」

「あ、本当だ……」

「今日はありがとうございました」

「……ううん。それはこっちのセリフだよ。本当にありがとう、優希くん」

「あ、そうでした。これをぜひ」

「ん?これは……?」

 俺はポケットからチラシを取り出し、いつも通りに手渡す。


「今回のサービスを気に入っていただけた場合、こちらの“専属サポート”として、担当者の指定が可能です。定期契約のご案内ですね。もしよければ、ご検討ください」

「専属サポート……? たとえば、私が専属を優希くんにお願いしたら……次からも毎回、優希くんが来るってこと?」

「ええ、そうなりますね」

「……そっか。ありがとう、考えてみる」

「また機会があれば、よろしくお願いします」

「うん……」

 もちろん、個人的感情としては、またここに来ることになったらそれなりに覚悟が必要な気もするが。マニュアル通りの案内は、きっちり果たすのがルールである。


「では、本日はこれで失礼します」

「……うん。気をつけて帰ってね」

「お気遣い、ありがとうございます」

 玄関を出て、振り返らずに一礼すると、ゆっくりと歩き出す。

 ふと、最後に見えた優奈の表情が、ほんの少しだけ、寂しげに揺れていた気がした。

 でも──今回の仕事は、やりがいがあった。間違いなく、そう言える。

 まぁ正直なところ、あれだけ距離が近くなるとは想定外で、かなり緊張もしたけれど。

 とりあえず、家に帰ったら夕飯を済ませて、課題に手をつけよう。

 夏休み初日、初めてのバイトとしては、上出来だった。

 夏課題はすでに七割終えてる。今日の勢いのまま一気に片付けてしまいたいところだ。

 そんなことをぼんやりと考えながら、まだ明るさの残る帰り道を、俺はまっすぐ家へと歩いていった。

 

**


「美味しかった……あのハンバーグ」

 私は自室のベッドに座りながら、ぽつりと呟いた。

 ふわふわで、肉の旨味がぎゅっと詰まっていて、香ばしく焼かれた表面に、赤ワインソースがとろりと絡む。あれは、もう……完璧だった。


 ───ここ最近、私の生活は散らかりっぱなしだった。

 ママは新たな案件で連日の出張で家にいないし、パパも多忙らしくて帰宅がどんどん遅い日が増え始めた。私に家事の負担がのしかかってきたのは、そのせいだった。

 夏休みなのに、朝は弟の世話、昼は掃除と洗濯、夕方には買い出しと夕食の準備。

 自分の時間なんてどこにもなかった。

 課題も全然進まないし、なんだか毎日いっぱいいっぱいで。

 それでも、なんとかやりくりしていた───つもりだった。


 でも、限界は突然くる。

 昨日の夜。私は疲れ果ててベッドに倒れこみ、何も食べずに寝てしまった。冷蔵庫の材料をチェックする気力どころか、そもそもキッチンに立つ気力もなかったから。

 そして今朝。私がぐったりしている間に、悠真が「パンケーキ作る!」と張り切ってキッチンに立ち───結果、大惨事。コンロ周辺は焦げの臭いと黒い粉だらけ、フライパンは真っ黒に焼け焦げて、キッチン全体が軽く崩壊していた。

 私は、その光景を見た瞬間、思わず膝から崩れ落ちた。

 ああ、もう無理かも。私ひとりじゃ回らない。

 ───そんなとき、机の上に目に入ったのが、一枚のチラシだった。

 以前、ママが「どうしても手が回らないときは、これを使っていいからね」と言って渡してきた、家事手伝いサービスの案内。半信半疑だったけれど、もう背に腹は代えられない。

 予約フォームを開き、最短日時で依頼を出した。

 けど……まさか、まさか。

 まさかあの優希くんが来るなんて――


「……本当に、想定外だったよ」

 最近、優希くんとはほとんど話していなかった。あの日、私が転びそうになったのを彼に抱きとめられたときから───私は、怖くなって。変に意識してしまって、避けていた。

 だけど、今日の彼は違った。

 仕事モードで、敬語で、丁寧で、まるで別人みたいに落ち着いてて。

 でも、それが逆に安心できた。

 そして、彼がちゃんと「約束を守ってくれてる」って、信じられた。


「……それにしても、あんなに完璧な料理、できるなんて……」

 改めて思い返すと、あの夕食の完成度は、本当に高級レストランのレベルだった。

 ハンバーグだけじゃない。ポトフも、ドレッシングも、全部が丁寧で、優しくて、体にすっと染み込んできた。度重なる偏った栄養バランスの食事で限界だった私からしたら、食べた瞬間、涙が出そうになるくらい、温かかった。

 ───あんなの、忘れられるわけがない。

 しかも、家事全般が完璧で、段取りも無駄がなくて、気配りまでできる男子って……ちょっと女子力高すぎない? 私なんて、完敗なんだけど……。


 ふと、机の上に置かれた小さな紙に目が止まる。

 優希くんが最後に渡してくれた「専属サポート」のチラシだ。

 いつでも契約できる。担当者を指名できる。───つまり、次も、優希くんが来てくれるということ。

 もちろん、それはあくまで「仕事」であって、「プライベート」じゃない。

 けど、次も来てくれたら、またあの味を食べられるかもしれないし、また今日みたいに心を休ませてもらえるかもしれない。


「……ずるいよ、もう」

 少し悩んで、それでも私は───チラシのQRコードを読み取った。

 登録ページに進み、担当者名の欄に「篠宮優希」と入力する。

 これは、私のワガママ。

 だけど、正直に言えば……楽になりたかった。

 そして、それ以上に───もう一度、会いたかった。部活だけで会う仲だと思っていたけど、この出会いが印象的で。


「……送信」

 定期契約成立の通知が画面に表示された。

 その瞬間、少しだけ胸が痛んで、同時に、ほんの少しだけ、心が軽くなった気がした。


**


「ふぅ……数学の夏課題も終わった…。よし、これであとは──」

 俺は机に広げたプリントを手早く束ねて、ふと肩を回した。

 夕飯を終えた後、一気に片づけてしまおうと取りかかった数学の課題。正直、量はそれなりにあったけど、内容はそれほど難しくはなかった。まずは一通り解いて、苦手なところはもう一周。高校の勉強にも今のところ大きな壁は感じていない。

 ……とはいえ、シャーペンを握っていた指が、若干しびれている。


「今日はこの辺にしておくか」

 伸びをしながら、今日の出来事を自然と思い返す。

 初めての家事サポートのバイト。緊張もあったが、総じていい経験だった。

 ──ただ、ひとつだけ。

 まさか、白雪優奈の家に派遣されるとは。

 自分でフラグを立てておいて、それをしっかり回収するという見事な展開。あのときの俺に教えてやりたい。クラスメイトの家に行く確率なんて低い? 甘い、甘すぎる。

 でもまあ、今日限りだろ。

 あれはどう考えても、弟くんが起こしたキッチンの大惨事に対処するための一時的な利用だったはずだ。

 実際、家事サポートの利用者はほとんどが単発案件。

 継続契約、ましてや「専属」なんて、全体のごく一部だと説明を受けている。


「うん、あれは……偶然。きっと、偶然」

 そう思おうとするけれど、脳裏には夕方の彼女の姿がちらついた。

 いつもより少し疲れた顔。

 それでも、ちゃんと礼儀を忘れずに接してくれた優奈。

 何より、最後に渡したチラシに、彼女が一瞬見せた、あの迷っているような表情。


「……いやいや、ないって」

 思わず小声で否定する。

 専属サポートって、普通に高い。割高設定なのは当然だし、そう簡単に決めるようなもんじゃない。普通の家庭なら、間違いなくコスパの問題で見送る。


 ──ただ。

 白雪家って、普通じゃないんだよな。

 なんたって、あの広すぎる豪邸。やたら品のいい家具と調度品。経済的には間違いなく余裕がある。セレブっていうとちょっと大げさだけど……あのくらいの金銭感覚なら、「専属」もあり得なくは、ない。


「……まさか、な」

 自分に言い聞かせるように、呟いた。

 いや、それでもやっぱりないだろ。俺のこと、最近は避けてたし。たまたま、偶然……それだけだ。


「……ま、どっちでもいいけどな」

 気を取り直して、ベッドにごろんと寝転がった。

 すると、廊下から足音が近づいてきて──


「お兄ちゃーん、明日の朝ごはん、オムライスがいい!」

 ドアを開けもせず、元気な声だけが飛び込んできた。


「朝からオムライスって……そんなリクエスト通ると思ってんのか」

「思ってるー!ねぇねぇ、あの包丁でパッカーンってやるやつやってー!」

 ノールックで即答してくるあたり、さすが我が妹・美春。疲れた体に追い打ちをかけてきやがる。


「だったら自分で作れよ。卵割るところからスタートな」

「えー、お兄ちゃんのほうが絶対おいしいじゃーん」

 わかってて甘えてくるやつ。返す言葉に困るけど、嫌じゃないのが悔しいところだ。


「……卵、冷蔵庫に何個あったっけな」

「え、期待していい? マジで作ってくれる感じ?」

「気分次第だ」

「うわー、そういうときってたいてい作ってくれるじゃん。ありがとー!」

 嬉々として階段を駆け下りていく足音。まったく、元気だけが取り柄なやつだ。

 俺はため息をつきつつ、再び天井を見上げる。

 優奈が専属契約を結ぶとは思ってない。……けど、もしそうなったら。

 また、会うことになるんだろうか。

 ──仕事として。

 でも、それだけじゃ済まない気が、少しだけしていた。


**


「ひより、もしもし」

『おつー、どしたー?』

 夜の静けさに溶けるような、親友の気の抜けた声。それが、少しだけ落ち着かせてくれた。


「ううん、ちょっと話したくなって……私からかけるの、珍しいでしょ?」

『うん、何かあったなって察してる。さては悠真くんが何かやらかした?』

「……ビンゴ。今日は盛大にやってくれたよ。キッチン、油と小麦粉で地獄絵図。パンケーキ作るって言って、最後の一枚をフライパンごと炭にしてた」

『わあ……想像するだけで胃が痛くなるねそれ。で、後片付けどうしたの?』

「あー……その、ね。家事サポート、予約した」

『へぇー。え、でもさ、あれって予約から来るまで結構早いよね? すぐ来てくれたの?』

「来たよ。……あの、優希くんが」

『……』


 電話の向こうで、変な間があった。

『…………ッゴホッゴホッ! ちょっ、ちょ、待って待って! 今コーヒー飲んでたんだけど! それ口に含んでるときに爆弾投下しないで!?』

「ごめん……まさかむせると思わなくて……」

『いやいや、私のコーヒー返して!? ていうか、何? 家事サポートって、あの家事サポート? 優希くんって篠宮優希くんのこと? 軽音部の?』

「うん……」

『えっ、マジで!? うわ、なにそのドラマみたいな展開……いや、嘘じゃないよね?』

「嘘だったら、どれだけよかったかって思ったくらい」

 私は、ベッドに背中を預けたまま、スマホを持つ手に力を込める。


『で? 優希くん、どんな感じだったの?』

「……いつもと、違った。丁寧で、落ち着いてて、すごく“大人”っていうか……私が避けてたことも、たぶん気づいてたと思う。でも、何も言わなかった」

『ふーん……』

 ひよりが少し間をあける。たぶん、考えてる。あの子はそういうとき、すぐには口を開かない。

「で、さ。問題は、そのあと……」

『うん』

「専属、契約しちゃった」

『…………』

 息を飲んだ気配が、通話越しにも伝わってきた。

『──それってさ、あれだよね? いつでも来てもらえるやつ』

「うん。条件も確認したし、ちゃんと考えたつもりだった。……でも、今になって迷ってる」

『……優奈が?』

「うん。私、そんなに簡単に人を信用しないって、自分で思ってたから……ちょっと、怖い。これって私、彼のこと……信じてもいいって、思い始めてる?」

『それは───』

 ひよりの声が、そっと、やさしくなった。


『優奈が信じてみたいって思ってるんなら、それはもう、半分信じてるんだよ。たぶんね』

「……ひより」

『でさ、私、思うんだけど──』

 一度、言葉を止めるひより。いつもの彼女なら勢いで押してくるところだけど、今は違った。


『──このままいったらさ、優奈と優希、けっこうお似合いなんじゃないかなって、ちょっと思ってる』

「……それって」

 私は、ほんの少しだけ、声が小さくなった。


「ねぇ、ひよりは……優希くんのこと、好きだったり、する?」

『え?』

 不意に聞いた自分の質問に、自分で驚いた。

 でも、ずっと胸のどこかで引っかかってた。ひよりは時より優希くんと話している時があった。今までもそうだ。


『……違うよ』

 でもひよりは、はっきり答えた。

『確かにね、あの人はカッコいいし、ちゃんと相手を見てくれるし、たぶんモテるし──でも、私が優希くんのこと好きだったら、もうとっくに動いてる』

「……そっか」

『それに、私は優奈の味方だし。優奈が悩んでるときに、変に揺さぶるようなこと、しないよ』

 その言葉が、胸にじんわりと染みていく。


『……でもね、好きになってもいい人だとは思う。優希くんって。ちゃんと、信頼ってものを、重く受け止めてくれるタイプに見えるから』

「……うん」

 私の返事は、さっきよりも少しだけ素直だった。

『だから、焦らなくていいけど、無理して距離取らないほうがいいんじゃないかな。信じたいって思う気持ちは、大事にしてもいいんじゃない?』

 そう言ってくれるひよりが、親友で本当によかった。

「ひより……ありがと」

『うん。ちなみにさ、専属ってことは……次も、優希くん来るんでしょ?』

「……たぶん、ね」

『──なら、今度はエプロン姿の写メ送ってよ。あんたの好みかどうか、私が見極める』

「やだよっ!」

 二人して笑いあったその瞬間、胸のつかえがほんの少し、軽くなった気がした。

 彼の印象がより鮮明に良くなったのは事実。

 だって、家事まで完璧な人って───この世の中で、ここまでしっかりした人を見た事がない。

 契約によると、サポートに来てくれるのは週に2回になった。平日の月曜と火曜の13時から18時まで。

 次の彼の顔を見るのが楽しみになっている自分が恥ずかしくなって、私は枕に顔を埋めて悶え続けていた。 あれからというもの、優奈と話す機会はぐっと減った。

 お互い、どこか気を使ってしまっている。無理に笑うわけでもなく、かといって避けているわけでもない、そんな微妙な距離感。

 無論──あの件について、誰にも話していない。

 優奈と交わした約束は今も胸の奥にしまったままだ。軽はずみな言葉や冗談でも、絶対に触れないよう気を張っていた。

 けれど、あの日以来、俺は優奈に話しかけるのが──少し、怖くなった。

 それは、彼女が何かを怒っているからでも、傷ついたからでもない。

 ──意識してしまうから、だ。


 今まで、恋愛というものに特別な関心はなかった。

 彼女がいたこともないし、異性との距離にはいつも慎重だったからこそ、変な誤解も起こさず、うまくやってこれた。

 でも、優奈は──違った。

 距離を取ろうとすればするほど、なぜか彼女の表情や声が頭に浮かんでしまう。

 真剣な眼差しも、あの日見せた頬の赤みも。

 彼女を、「同級生」「普通の人間」として見れなくなりそうで。

 それが怖かった。

 そして──俺が軽音部に入った理由。

 それすらも、もし優奈に「最初から自分目当てだったのかも」と誤解されたら……そう思うだけで、また一歩が遠のく。


(……はぁ、しんどいな)

 この感情の整理が、なかなか追いつかない。

 気づけば季節は夏に突入し、一学期も今日で終わりだ。

 外ではセミが耳鳴りのように鳴き、教室は冷房でひんやりしている。

 最近は軽音部の練習にも、少し腰が重かった。

 けれど、下手なままではいられないと自分を奮い立たせ、少しずつベースの感覚を掴んでいった。

 勉学の面では、努力の成果で期末では中間に続いて堂々の学年一位。平均点は95点超だった。

 それを知った黒板係が、みんなの前で名前を読み上げてざわついたっけ。


 だけど、そういう「数字」の結果と違って、心の問題は簡単に処理できない。

 あれ以来──白雪優奈と、ろくに会話を交わせていない。

 目が合うとお互い逸らしてしまう。距離感を測りあうような、あの沈黙がこわい。


「おい、優希!今日もう帰るんか?」

 ホームルーム終了のチャイムが鳴ると同時に、明るい声が飛んでくる。

 目の前にはテンションが上がった黒川蓮の姿。最近は名前呼びも自然になった。


「蓮……俺は、夏課題を少し片付けてから帰るつもり」

「はぁ?またそれ?真面目かよ~」

「真面目で何が悪い。そもそも、学校は勉強する場所だろ」

「出た、学年一位の余裕。……でもさぁ、夏ってもっとこう、自由であるべきだと思わん?」

「具体的には?」

「つまり海だ!水着だ!女子を海に誘う!これこそ、夏の醍醐味じゃね?」

「……はぁ、賛同はしかねるな。お前だけでどうぞ」

「おい!お前も白雪さんの水着見たいだろ?協力しろって」


 思わず心臓が跳ねた。

 優奈の名前が出た瞬間、ギクリと肩が強張る。

 まるで、内心を見透かされたような気分だった。

 幸い、蓮の主張が意味不明だったので、適当に流すことができたけれど。

 最近、優奈の話題はなにかと絶えない。

 この前も、運動部のエースの先輩が彼女に告白して、即答で玉砕したという噂が流れていた。

 ……そういう話を聞くたび、自分がどこかに期待を抱いてしまっていたことに気づいて、少し恥ずかしくなる。

 だから、こうして距離を取っていればいい。冷静を保っていれば、変に揺れなくて済む。


「協力も何も。夏は勉強とバイトで忙しいんだ」

「おい……お前、そんな味気ない青春でいいのかよ」

「別に。今までもそうしてきたし、慣れてる」

「でもさ、誰かと付き合うって、ある意味モチベになるだろ?」

「それは……分かるけど、それとこれとは別だ」


 俺が断固とした口調で返したからか、蓮は肩をすくめて話題を切り替えた。


「あ、そういや。お前、バイトするんだっけ?」

「まぁな。ちょっと小遣いも欲しいし、社会経験も兼ねて。色んなバイトを早めに経験しておきたくてさ」

「へぇ〜、で?どんなバイト?」

「料理とか部屋の掃除とか……家事手伝いみたいなやつ。知り合いのツテで紹介してもらって、家庭のサポートをして報酬をもらう。どうやらメインは料理らしい」

「なるほどな。確かにお前、手作り弁当とかよく持ってきてたし。俺んちにも家事代行しに来てくれていいぞ?」

「遠慮しとく。バイト代、五万くらい請求するぞ」

「高っ!ドライにもほどがあるだろ!」

「……そっちこそ、知り合いが家に家事手伝いしに来たら気まずいだろ。俺なら嫌だね」


 ──まさか、その“気まずさ”が自分に降りかかるとは、この時の俺はまだ知らない。

 というわけで、俺の夏休みは、バイトと課題で埋まることがほぼ確定した。

 翌日には、さっそくバイトがある。

 そのため今日は、スーパーで特売の夏野菜――ピーマンを買って帰る予定だ。


 30分夏課題を進めたら、蓮と並んで廊下を歩く。すると、案の定また言い出した。

「俺だったら白雪さん、海に誘いたいんだよなぁ」

「またそれかよ」

 来るかもと思っていたぶん、今回は落ち着いて返せる。

「いや、でも楽しそうだろ?だってビキニとか、絶対やばいって!」

「お前がそもそも気持ち悪いんだよ」

「ナチュラル悪口やめて?」

「悪口じゃなくて、ただの事実だ」

「いいや!今どきの思春期男子が、女子の胸とか太ももに惹かれるのは当然の本能なんだよ!」

「だから、主語がでかいって」

 こういう話題には、もう聞き飽きてきた。

 こいつは本当に、自分の欲望に忠実すぎる。

 俺の母さんが言ってた。「やりたいことばっかりしてると、あとで後悔するよ」って。そういう教えを聞いて育ってきた身としては、余計に理解できない。


「家の手伝いかぁ〜。なんかさ、エッチな美人お姉さんの家とかに呼ばれたりしたら、絶対報告しろよな!」

「……だから、お前は何を期待してんだよ。ほんとに」

「いいだろ?もし可愛い女の子とかいたら、俺にも教えろよな!」

「はぁ……。それはお客様の肖像権の侵害にあたる。絶対にしない」

 というわけで、そんな話をしながら俺たちは学校を出た。

 明日のバイトの開始時刻は、当日に連絡が来るらしい。

 予約が入っている家庭の中から、順当に割り振られるとのこと。つまり、どんな家に派遣されるかは完全に運任せというわけだ。

 けれど、人と関わることの多い仕事だからこそ、コミュニケーション能力を磨けるというのも事実。

 今まで母さんの特訓で身につけた家事スキルを活かすなら、料理に限らず家事代行も経験しておくのは悪くない。

 知識を活かすなら、いずれ家庭教師のバイトもありかもしれない――そんなことをぼんやり考えていた。

 蓮と別れたあとは、夏の猛暑に汗を拭いつつ、特売のスーパーへ。

 目的のピーマンを手に入れ、満足しながら家路についたのだった。


**


「おいおい……嘘だろ……」

 バイト初日、俺は圧倒的に想定外の事態に直面していた。もはや軽いトラブルレベルだ。

 どんな家庭に派遣されるのか、内心ワクワクしていたものの、たどり着いたのは見覚えのある豪邸。そして──ここに一度来たことがある。ゴールデンウィークの時、まさかの形で。

 まさか、俺が来ることを狙った?

 いや、そんなはずはない。

 たしか、依頼側がバイトする人間を指名することはできなかったはずだ。

 せいぜい、性別くらいが指定できる程度。

 これは……偶然?本当に?


「これ……やばいな。……でも、逃げるわけにもいかないか」

 俺は深く息を吐く。

 面接後に渡された接客マニュアルはすでに頭に入っているし、敬語も普段からそれなりに使える。

 落ち着け、優希。これはただの仕事だ。

 ピンポーン──

 門の脇にあるインターホンを押す。しばらくして、スピーカー越しに声が返ってきた。


『はい、どちら様でしょうか?』

 ……間違いない、優奈の声だ。

 ほんの一言なのに、俺の鼓動が跳ね上がる。落ち着け、いつも通りでいい。


「予約を頂いた家庭サポートの件でまいりました」

『あ、はい!すぐ行きます!』

 インターホンが切れ、門の向こうから小走りの足音が近づいてくる。そして──

 ガチャリ、と門が開いた。現れたのは白雪優奈。

 淡い水色のフレンチスリーブのトップスに、白のロングスカート。夏の陽射しに映える涼しげな装いで、麦わら帽子を片手に持っていた。

 柔らかな風がスカートの裾を揺らし、まるで一枚の風景画のように目を引く。でも、目が合った瞬間、その空気が一気に止まった。


「今日はお願いしま──って……あれ……?優希……くん……?」

 優奈の目が大きく見開かれる。声も少し上ずっていた。

 その戸惑いは、当然俺も同じだ。


「……コホン。こんな形になってしまいましたが。担当の篠宮優希です」

「えっ……えっ、ちょっ……そんなことあるんだ……」

 優奈は視線を泳がせながら、俺の顔と腕のサポートバンドを交互に見つめる。

 気まずい沈黙が数秒流れた。まるで時間が止まったようだ。

 これは──気を遣わせてしまうかもしれない。


「あの……もし、担当を変えたほうがいいようでしたら、すぐに手配します。マニュアル上でも対応できるようになっていますので」

 俺はできるだけ穏やかな声でそう伝える。ここは丁寧に。仕事として。


「えっ?……あ、ううん。だ、大丈夫。あのさ……聞いていい?約束、守ってる?」

「……はい」

「ん……分かった。入って」

 まだ驚きは完全に消えていないものの、優奈は少しだけ笑って、門の脇に身を引いた。

 俺は一礼して足を踏み入れる。


「失礼します」

 ……さて、思いがけず気まずい再会になったけど、これはもう引き受けた以上、きっちりやるしかない。

 仕事である以上、どれだけ気まずくても、彼女は「お客さん」だ。


「えっと……依頼内容は、キッチンの掃除と夕食の手配ですね」

「う、うん……そうなの。実はこれ、見てほしくて……」

 優奈が申し訳なさそうに案内した先──キッチンは、軽く騒動のあとだった。

 IHコンロには、黒く焦げついた何かがフライパンにこびりつき、流しには使った形跡のあるボウルやスプーン、粉のついたゴムベラ。床には卵の殻やら、なぜか粉砂糖らしきものまで落ちている。


「うわ……これはまた、見事にやりましたね……」

「弟の悠真がね……サプライズでパンケーキ作ろうとしたみたいで。私に見つからないようにって、朝のうちにこっそり作業してたらしくて……」

「パンケーキ?」

「そう。私が前に“甘いの食べたい”ってつぶやいたのを覚えてたみたいで……。でも途中で卵を落としたり、粉の分量がわからなくなったりして……最終的にはフライパンごと放置して逃げた、って感じ……」

 なんとも言えない光景だが、事情を聞くと少し笑みがこぼれてくる。

 確かにこれは、手をつけにくい惨状だ。でも、挑戦した気持ちはちょっとだけ胸を打つ。

「なるほど……でも、気持ちはすごく可愛らしいですね。やろうとした動機が」

「うん……もう怒る気にもならなくて。むしろキッチン見て絶望して、笑うしかなかった」

 優奈は苦笑まじりにそう言いながら、前髪をかき上げる。

 その表情にどこか柔らかさが混じっていて、少しだけいつものクールな彼女とは違って見えた。

「じゃあ、俺がきっちり掃除しておきます。夕食の準備までにはピカピカにしますよ」

「うん……ありがとう。すごく助かる……」

「多分、一時間と少しあれば終わるかと思うので」

「えっと……私は……なにかした方がいい?」

「えっ?いえ、白雪さんはゆっくりしてくれて大丈夫ですよ。これは俺の仕事の一貫ですから」

「……そう。わ、分かった」

 そう言って優奈は、少し遠慮がちな様子でリビングを出る。その足取りがどこか落ち着かなくて、振り返るたびにチラチラとこっちを見てくるのが可愛らしかった。ドアの前でふと立ち止まり、


「私、自室にいるね。なにかあったら声かけて」

 小さく手を振って、部屋の奥へと消えていった。

 ──ようやく一息つける。

 いや、気まずいけど……それ以上に可愛すぎだろ……っ!

 正直ここまで正気を保てた自分に驚いてる。

 あの私服──白地のノースリーブに、淡いブルーのスカート。髪をゆるく結んだラフなスタイルなのに、清涼感と色気が同居してて、堂々と俺の理性を削りにかかってきてた。

 やばいな、今日このバイト、精神的にも過酷かもしれない。

 けど、手を抜くわけにはいかない。


「さてと……やりますかぁ」

 そう気合を入れて、持参していた掃除道具を入れたケースを床に広げる。

 ゴム手袋にマイクロファイバークロス、重曹スプレーにクエン酸パウダー、排水溝用のブラシ、ガスコンロ専用のスクレーパー……そして秘密兵器、ステンレス磨き用の研磨シートまである。母さん直伝の最終兵器だ。


 まず、焦げついたフライパンには、1度お湯でふやかした後に重曹とクエン酸水の合わせ技。しばらく置いて発泡させると、汚れが浮き出る。それを使い古しの歯ブラシで丁寧に削ぎ落としていく。

 その間にIHコンロの表面を重曹でゆっくり湿らせ、ラップでパックして汚れを浮かせていく。

 五分後、スクレーパーで優しく削ぎ落とすと──驚くほどすんなり落ちる。仕上げは研磨シートで、艶が戻るまで磨き上げる。


「うん……いい感じ」

 次に流し。こびりついた粉や油をすべて洗い流したあと、クエン酸水を吹きかけてスポンジで丁寧に磨く。蛇口の水垢も拭き取り、ステンレスの反射がくっきりと見えるほどに。

 床の汚れもマイクロファイバークロスで拭き上げて、目地に入り込んだ粉砂糖の粒まで見逃さない。

 最後にシンク内の排水溝を取り外して中まで洗浄。市販の洗剤では落ちにくいぬめりも、ブラシと重曹の併用でしっかり除去。消臭もバッチリだ。


 そうして一通り終えたときには、元の惨状が嘘のように、キッチン全体が明るくなっていた。

 いや、正確には「元よりピカピカ」。もともと清潔感のあるキッチンだったのが、さらにプロの手が加わったような状態に。

 完璧だ──

「よし、呼ぶか」

 俺は手袋を外し、手を拭きながら廊下へ向かう。

 そして、優奈の部屋の扉の前で声をかけた。


「白雪さん。キッチン、全部終わりましたよ。よかったら確認してもらえますか」

「えっ、早いね。ちょっと待ってて、今行くね」

 かかった時間は約五十分ほど。母直伝の掃除グッズをきっちり取り揃えておいた甲斐があった。

 優奈が階段を下りてくる足音が聞こえる。俺はそれに合わせて玄関側へと歩み寄り、軽く会釈してからキッチンへ先導した。

 汚れひとつない状態を目指して全力を尽くした自信作。あとは見てもらうだけだ。


「……えっ、すっご……」

 彼女の第一声は、短く漏れた驚きの声だった。

「えっ!?真っ黒焦げだったフライパンが復活してる! てか……どこもかしこも、前より綺麗なんだけど……」

「お褒めに預かり光栄です」


 少し得意げに返すと、優奈は目を丸くしながらキッチンを見回した。

 ゆっくりと一歩、また一歩と足を踏み入れ、シンクの中を覗き、コンロの表面にそっと手をかざす。その動作ひとつひとつが、じわじわと実感を深めていっているようだった。


「すごい……え、フライパンの焦げって、どうやって取ったの?」

「これですか? まずお湯でふやかしてから、重曹とクエン酸水で発泡させたんです。発泡した泡が焦げを浮き上がらせてくれるんですよ。それをこすって落としました」

「へぇ〜……そんな知識、よく知ってるね……私、初耳だった」

 小さく感嘆の息を漏らしてから、優奈はふと視線をこちらへ戻す。その目が、ほんの少しだけ柔らかくなっていた気がする。


「いえ、母がそういうの得意で。家でもよく手伝わされてたので、自然と覚えただけですよ」

「……そっか」

 そのひと言の間に、ほんの少しの沈黙があった。

 優奈は再びキッチンを見回し、まるで信じられないものでも見るようにゆっくりと首を振る。


「本当に……ありがとう。こんなに綺麗になるなんて思ってなかった。びっくりした……」

 そう言いながら、優奈の声はわずかにトーンが落ち、どこか照れくさそうだった。

 そのまなざしには確かに、「ただの仕事」と割り切れない何かが混じっていて──けれど優希自身は、まだそれに気づいていない。

 すると、リビングにもうひとり、明るく元気な声色の男の子が駆け込んできた。


「あれ? あ! お兄ちゃん、また来たの!?」

「あ、君は……悠真くんだね。今日はね、お仕事で来てるんだよ」

「悠真、優希くんがキッチンを掃除してくれたの。ちゃんとお礼言おうね?」

「うん! お兄ちゃん、ありがとう!」

「ふふ、どういたしまして。けどね、今度料理する時は、お姉さんと一緒にするんだよ? 一人でやるのはちょっと危ないからさ」

「うんっ!」

 にこにこ笑って元気よくうなずく悠真を見て、ふと以前の記憶が蘇った。たしか前に優奈に呼ばれてこの家を訪れたとき──玄関先でこの子に思いっきり泥棒扱いされて大騒ぎになったんだっけ。

 でもそのあと、ちゃんと姉の言葉を聞いて、自分の非を認めて素直に謝ってくれた。その姿勢に驚かされたのを覚えている。

 そして今回も、自分からしっかり「ありがとう」と言ってくれた。

 この年頃──たぶん小学校の低学年くらいだろう──の子にしては、驚くほど礼儀正しい。

「弟さん、ちゃんと『ありがとう』が言えて偉いですね。素直ですごく良い子だと思います」

「そう? 私やママが、小さい頃から教えてるから。当たり前だよ、そんなの」

 優奈はそう言いながらも、弟の頭をそっと撫でている。その仕草には自然な優しさと、姉としての誇らしさがにじんでいた。


「いえ、悠真くんの前だと、優奈さんがいつも以上にしっかり者のお姉さんに見えますよ」

「……っ。あ、ありがと……」

 ふと、優奈がわずかに目を逸らす。頬にほんのり赤みが差したのを見逃さなかった。


「ん〜? お姉ちゃん、顔赤いよ? どーしたの?」

「……っ!? あ、暑いだけだからっ!!」

 妙に食い気味な反応に、思わず笑いそうになるのをこらえた。リビングの温度はむしろ快適なはずだけど──そこには触れないでおこう。たぶん今の優奈は、自分でもどうして顔が熱いのか、うまく言語化できてない。


「じゃあ……そろそろ、夕飯の話でもしますか?」

「えっ……あ、うん。そうだった。夕食の手配もお願いしてたんだったよね」

 少し動揺を残したまま、優奈は気を取り直すように頷いた。


「今日は特に決めてなかったんだけど……何か作れそうなものある? 材料ならある程度はあると思うんだけど」

「了解です。冷蔵庫、少し見させてもらってもいいですか?」

「もちろん。こっち」

 そう言って、優奈はキッチンへと向き直る。その背中を追いながら、俺は気を引き締め直す。

 プロのバイトとして、そして──それ以上に、彼女に少しでも「頼れる」と思ってもらえるように。

 そして、ゴールデンウィークの時の罪滅ぼしのためにも、この機会、真剣に取り組むとしよう。


「……結構、野菜は揃ってますね。あ、これは……合挽き肉もありますか。これなら、ハンバーグも作れますよ」

「はんばーぐ! ぼく、ハンバーグ大好き!」

「こら、悠真。優希くんはお仕事中なんだから」

 優奈が弟をたしなめつつも、口元にはうっすら笑みが浮かんでいた。


「そうですね……この辺りの野菜を使ってポトフを作りましょう。ヘルシーに仕上げた生野菜サラダも添えて。メインはハンバーグ。これでバランスもバッチリかと。いかがですか?」

「……うん、それでお願いできる?」

「はい。じゃあ早速取りかかります」

「やったー! ハンバーグ!!」

 悠真が嬉しそうに飛び跳ねるのを見て、優奈も自然とほほ笑んだ。

「ちなみに……夕食は何人前ご用意しますか? もしよければ、保存用に“焼くだけハンバーグ”も作っておけますよ。冷凍保存もできますし、美味しく焼くコツも伝授できます」

「あ、そっか……。そうだね……。えっと、優希くんは確か、18時までだったよね?」

「はい、そうです」

「じゃあ、今日の夕食は私と悠真の分だけお願いしてもいい? ママとパパの分は、後で焼けるようにストックしてもらえると助かるかも」

「了解です。それじゃあ、その方針で進めますね」


 こうして夕食作りがスタートした。

 まな板に置かれた野菜が次々と均等な大きさに切り分けられ、ボウルの中でひき肉と炒め玉ねぎが静かに混ざり合っていく。包丁の動きに無駄はなく、その音すら心地よく感じるほどだった。

 にんじん、じゃがいも、キャベツ、玉ねぎ──すべてがまるで計算されたかのように、最短ルートで準備されていく。


「えっ……すご……」

 優奈がぽつりと呟いた。気づけばリビングのソファから立ち上がり、キッチンの方へと近づいてきていた。

 肉をこねる手の動きはリズミカルで、余分な空気だけを丁寧に抜く。ハンバーグをふっくら仕上げる秘訣は、ここにある。

 そのあと、ポトフ用の鍋ではコンソメの香りが立ち上がり、サラダには手作りのドレッシングが仕込まれ始めていた。

 それなのに、キッチン周辺は不思議なくらいに散らからない。使い終えた器具はすぐに洗い、調味料は元の位置に戻す。作業と同時に片付けが進行しているのだ。


「ほんとに……プロみたい……」

 優奈はぽつりと呟き、手元ではなく優希の横顔をじっと見つめていた。

 そして──不意に、目が合う。

「……っ」

 さっと視線を逸らす彼女。けれど、その頬はうっすらと赤くなっていた。

 料理の香りと、沈黙に入り混じる妙な空気。

 彼女の気持ちをあえて言葉にする必要はなかった。

 焼き上がりの時間を待つ間に、特性のハンバーグ用ソースを鍋で作る。

 冷蔵庫を開けると、そこには高級レストランでも見かけるようなブランドの赤ワインが並んでいた。まさか家庭用とは思えないほどの代物に少し戸惑いつつも、一本を選んでグラスに注ぐ。

 その赤ワインをベースに、ケチャップや中濃ソース、醤油、バターといった調味料を重ねて煮詰め、仕上げにバターを落とすと、洋食屋風の特製ソースが出来上がった。肉汁のうまみを吸ったこのソースは、仕上げの一滴まで計算され尽くしたプロの味だ。


 調理を始めてから、すでに1時間が経とうとしていた。時計を見ると、時刻は17時を少し過ぎた頃だった。

「どうしますか? このまま出せば、出来たての状態で召し上がれますよ」

「じゃあ……もらってもいい?」

「かしこまりました。どうぞ、テーブルへ。順番にお皿をお持ちしますね」

 言われるまま、優奈と悠真が席に着く。俺は手早く料理を並べ始めた。


「まずは、キャベツを中心に根菜をたっぷり使ったポトフです。じっくり煮込んだので、野菜の甘みが引き立ってるはずです」

「おぉ〜……いい香り」

「それから、生野菜サラダを。ドレッシングは、自家製のものを作ってみました」

「こ、これが……自家製?」

「えぇ、我が家では定番のレシピなんです。母が料理研究家みたいなものでして」

「すご……私、お店のやつかと思った……」

 驚きの声を聞きながら、メインディッシュの皿を最後に並べる。


「そしてこちらが、ハンバーグステーキです。熱々のソースを、今かけますね」

 ジュッ、と音を立てながら、芳醇な香りのソースがハンバーグに注がれていく。その瞬間、空気が一気に洋食店の厨房のような雰囲気に変わった。

「香りめっちゃいい……すごく美味しそう……」

「早く食べたいっ!ねぇ、もういい?」

「悠真、少しだけ我慢しなさい」

「はーい……」

「それから……時間があったので、フルーツと炭酸でフルーツポンチも用意しました」

「え、えぇっ!?ちょっと……それはもう、デザートじゃん……」

「はい。お口直しになるかと思いまして。冷蔵庫にあった果物だけで、簡単にですが」

 優奈の目が、まるで夢でも見ているかのように見開かれている。そんな彼女の前に、最後にご飯を盛った皿を置く。


「これで、すべて揃いました。是非召し上がってください」

「じゃあ、悠真、食べよっか」

「うん!いっただきまーす!」

 悠真が元気よく手を合わせたのに続いて、優奈も少し恥ずかしそうに、けれどきちんと声に出して手を合わせた。


「……いただきます」

 まずは、優奈がスプーンを手に取り、ポトフをひとくち。

 スープを口に含んだ瞬間、その瞳がふっと見開かれた。

「……え、なにこれ……やさし……」

 ゆっくりと口元が緩み、もう一度スプーンを運ぶ。野菜の出汁の染みたキャベツが舌の上でとろけ、ホクホクのジャガイモがほどけていく。


「野菜、甘っ……すご……こんなに美味しくなるの……?」

「じっくり煮込んで、最後に少しだけ塩を加えると、甘みが引き立つんですよ」

 悠真も「おいしい〜!」と声をあげて、パンのようにふわふわに煮込まれたウインナーに夢中になっている。

 次に手を伸ばしたのはサラダ。優奈が自家製ドレッシングを恐る恐るかけて、ひと口。


「……んっ!?なにこれ……爽やか、なのにコクもあって……え、ドレッシングでこんな感動することある……?」

「オリーブオイルとレモン果汁に、少しだけ蜂蜜を足してるんです。塩気は岩塩で」

「……すごい……優希くん、ほんとに高校生?」

「一応」

 その言葉に思わず笑みを漏らした優奈だったが、次の瞬間、真剣な面持ちでハンバーグにフォークを入れた。

 ナイフを入れると、ふわっと立ちのぼる湯気。断面から溢れる肉汁。その肉汁はまさに飯テロレベル。

 そして、赤ワインソースの香りが追いかけるように鼻をくすぐる。


「……いただきます」

 口に入れたその瞬間、時間が止まったかのようだった。

 外はカリッと香ばしく焼かれていながら、中はふんわりジューシー。

 そのまろやかさと奥深い味わいが、重なり合うように舌の上を滑っていく。

 ソースの芳醇な香りとコクが、肉の旨味を最大限に引き立てていた。


「……なにこれ……おいしすぎる……」

 思わず漏れた声が、彼女のすべてを物語っていた。そして、隠しきれないほど口角が上がっていた。


「ハンバーグ……お店のよりおいしい……!お兄ちゃん、これ毎日食べたい……!」

「気に入ってもらえてよかったです」

 優奈は、ひと口、またひと口と夢中でフォークを運ぶ。そのたびに顔が綻び、目がうるんでいるようにも見えた。

 食べ終える頃には、悠真は満足そうに椅子にもたれかかって「しあわせ〜」と呟いていたし、優奈も何度目か分からない「すごい……」を小声で繰り返していた。


「……これが、プロの味……いや、優希くんの味なんだ……」


 その言葉に、俺は少しだけ照れながらも微笑みで返した。

「プロだなんて、とんでもないですよ。まだまだ、これでも見習いですから」

「……いや、ほんとに……凄かった。美味しかったよ」

「ありがとうございます。あ、ハンバーグの作り置きは冷蔵庫にあります。焼き方もまとめておきました」

 そう言って、優奈へ手書きのメモを手渡す。加熱時間、火加減、ソースの温め方まで、抜けのないように丁寧に書いた。

「……ありがとう。こんなに丁寧にしてくれて」

「いえ。顧客満足度は、高いに越したことはありませんからね。これも仕事のうちです」

「……仕事、ね……」

 ふと、優奈が少しだけ寂しげに呟いた気がした。

 時計を見ると、バイト終了時間まで残り10分を切っていた。

「そろそろ時間ですね」

「あ、本当だ……」

「今日はありがとうございました」

「……ううん。それはこっちのセリフだよ。本当にありがとう、優希くん」

「あ、そうでした。これをぜひ」

「ん?これは……?」

 俺はポケットからチラシを取り出し、いつも通りに手渡す。


「今回のサービスを気に入っていただけた場合、こちらの“専属サポート”として、担当者の指定が可能です。定期契約のご案内ですね。もしよければ、ご検討ください」

「専属サポート……? たとえば、私が専属を優希くんにお願いしたら……次からも毎回、優希くんが来るってこと?」

「ええ、そうなりますね」

「……そっか。ありがとう、考えてみる」

「また機会があれば、よろしくお願いします」

「うん……」

 もちろん、個人的感情としては、またここに来ることになったらそれなりに覚悟が必要な気もするが。マニュアル通りの案内は、きっちり果たすのがルールである。


「では、本日はこれで失礼します」

「……うん。気をつけて帰ってね」

「お気遣い、ありがとうございます」

 玄関を出て、振り返らずに一礼すると、ゆっくりと歩き出す。

 ふと、最後に見えた優奈の表情が、ほんの少しだけ、寂しげに揺れていた気がした。

 でも──今回の仕事は、やりがいがあった。間違いなく、そう言える。

 まぁ正直なところ、あれだけ距離が近くなるとは想定外で、かなり緊張もしたけれど。

 とりあえず、家に帰ったら夕飯を済ませて、課題に手をつけよう。

 夏休み初日、初めてのバイトとしては、上出来だった。

 夏課題はすでに七割終えてる。今日の勢いのまま一気に片付けてしまいたいところだ。

 そんなことをぼんやりと考えながら、まだ明るさの残る帰り道を、俺はまっすぐ家へと歩いていった。

 

**


「美味しかった……あのハンバーグ」

 私は自室のベッドに座りながら、ぽつりと呟いた。

 ふわふわで、肉の旨味がぎゅっと詰まっていて、香ばしく焼かれた表面に、赤ワインソースがとろりと絡む。あれは、もう……完璧だった。


 ───ここ最近、私の生活は散らかりっぱなしだった。

 ママは新たな案件で連日の出張で家にいないし、パパも多忙らしくて帰宅がどんどん遅い日が増え始めた。私に家事の負担がのしかかってきたのは、そのせいだった。

 夏休みなのに、朝は弟の世話、昼は掃除と洗濯、夕方には買い出しと夕食の準備。

 自分の時間なんてどこにもなかった。

 課題も全然進まないし、なんだか毎日いっぱいいっぱいで。

 それでも、なんとかやりくりしていた───つもりだった。


 でも、限界は突然くる。

 昨日の夜。私は疲れ果ててベッドに倒れこみ、何も食べずに寝てしまった。冷蔵庫の材料をチェックする気力どころか、そもそもキッチンに立つ気力もなかったから。

 そして今朝。私がぐったりしている間に、悠真が「パンケーキ作る!」と張り切ってキッチンに立ち───結果、大惨事。コンロ周辺は焦げの臭いと黒い粉だらけ、フライパンは真っ黒に焼け焦げて、キッチン全体が軽く崩壊していた。

 私は、その光景を見た瞬間、思わず膝から崩れ落ちた。

 ああ、もう無理かも。私ひとりじゃ回らない。

 ───そんなとき、机の上に目に入ったのが、一枚のチラシだった。

 以前、ママが「どうしても手が回らないときは、これを使っていいからね」と言って渡してきた、家事手伝いサービスの案内。半信半疑だったけれど、もう背に腹は代えられない。

 予約フォームを開き、最短日時で依頼を出した。

 けど……まさか、まさか。

 まさかあの優希くんが来るなんて――


「……本当に、想定外だったよ」

 最近、優希くんとはほとんど話していなかった。あの日、私が転びそうになったのを彼に抱きとめられたときから───私は、怖くなって。変に意識してしまって、避けていた。

 だけど、今日の彼は違った。

 仕事モードで、敬語で、丁寧で、まるで別人みたいに落ち着いてて。

 でも、それが逆に安心できた。

 そして、彼がちゃんと「約束を守ってくれてる」って、信じられた。


「……それにしても、あんなに完璧な料理、できるなんて……」

 改めて思い返すと、あの夕食の完成度は、本当に高級レストランのレベルだった。

 ハンバーグだけじゃない。ポトフも、ドレッシングも、全部が丁寧で、優しくて、体にすっと染み込んできた。度重なる偏った栄養バランスの食事で限界だった私からしたら、食べた瞬間、涙が出そうになるくらい、温かかった。

 ───あんなの、忘れられるわけがない。

 しかも、家事全般が完璧で、段取りも無駄がなくて、気配りまでできる男子って……ちょっと女子力高すぎない? 私なんて、完敗なんだけど……。


 ふと、机の上に置かれた小さな紙に目が止まる。

 優希くんが最後に渡してくれた「専属サポート」のチラシだ。

 いつでも契約できる。担当者を指名できる。───つまり、次も、優希くんが来てくれるということ。

 もちろん、それはあくまで「仕事」であって、「プライベート」じゃない。

 けど、次も来てくれたら、またあの味を食べられるかもしれないし、また今日みたいに心を休ませてもらえるかもしれない。


「……ずるいよ、もう」

 少し悩んで、それでも私は───チラシのQRコードを読み取った。

 登録ページに進み、担当者名の欄に「篠宮優希」と入力する。

 これは、私のワガママ。

 だけど、正直に言えば……楽になりたかった。

 そして、それ以上に───もう一度、会いたかった。部活だけで会う仲だと思っていたけど、この出会いが印象的で。


「……送信」

 定期契約成立の通知が画面に表示された。

 その瞬間、少しだけ胸が痛んで、同時に、ほんの少しだけ、心が軽くなった気がした。


**


「ふぅ……数学の夏課題も終わった…。よし、これであとは──」

 俺は机に広げたプリントを手早く束ねて、ふと肩を回した。

 夕飯を終えた後、一気に片づけてしまおうと取りかかった数学の課題。正直、量はそれなりにあったけど、内容はそれほど難しくはなかった。まずは一通り解いて、苦手なところはもう一周。高校の勉強にも今のところ大きな壁は感じていない。

 ……とはいえ、シャーペンを握っていた指が、若干しびれている。


「今日はこの辺にしておくか」

 伸びをしながら、今日の出来事を自然と思い返す。

 初めての家事サポートのバイト。緊張もあったが、総じていい経験だった。

 ──ただ、ひとつだけ。

 まさか、白雪優奈の家に派遣されるとは。

 自分でフラグを立てておいて、それをしっかり回収するという見事な展開。あのときの俺に教えてやりたい。クラスメイトの家に行く確率なんて低い? 甘い、甘すぎる。

 でもまあ、今日限りだろ。

 あれはどう考えても、弟くんが起こしたキッチンの大惨事に対処するための一時的な利用だったはずだ。

 実際、家事サポートの利用者はほとんどが単発案件。

 継続契約、ましてや「専属」なんて、全体のごく一部だと説明を受けている。


「うん、あれは……偶然。きっと、偶然」

 そう思おうとするけれど、脳裏には夕方の彼女の姿がちらついた。

 いつもより少し疲れた顔。

 それでも、ちゃんと礼儀を忘れずに接してくれた優奈。

 何より、最後に渡したチラシに、彼女が一瞬見せた、あの迷っているような表情。


「……いやいや、ないって」

 思わず小声で否定する。

 専属サポートって、普通に高い。割高設定なのは当然だし、そう簡単に決めるようなもんじゃない。普通の家庭なら、間違いなくコスパの問題で見送る。


 ──ただ。

 白雪家って、普通じゃないんだよな。

 なんたって、あの広すぎる豪邸。やたら品のいい家具と調度品。経済的には間違いなく余裕がある。セレブっていうとちょっと大げさだけど……あのくらいの金銭感覚なら、「専属」もあり得なくは、ない。


「……まさか、な」

 自分に言い聞かせるように、呟いた。

 いや、それでもやっぱりないだろ。俺のこと、最近は避けてたし。たまたま、偶然……それだけだ。


「……ま、どっちでもいいけどな」

 気を取り直して、ベッドにごろんと寝転がった。

 すると、廊下から足音が近づいてきて──


「お兄ちゃーん、明日の朝ごはん、オムライスがいい!」

 ドアを開けもせず、元気な声だけが飛び込んできた。


「朝からオムライスって……そんなリクエスト通ると思ってんのか」

「思ってるー!ねぇねぇ、あの包丁でパッカーンってやるやつやってー!」

 ノールックで即答してくるあたり、さすが我が妹・美春。疲れた体に追い打ちをかけてきやがる。


「だったら自分で作れよ。卵割るところからスタートな」

「えー、お兄ちゃんのほうが絶対おいしいじゃーん」

 わかってて甘えてくるやつ。返す言葉に困るけど、嫌じゃないのが悔しいところだ。


「……卵、冷蔵庫に何個あったっけな」

「え、期待していい? マジで作ってくれる感じ?」

「気分次第だ」

「うわー、そういうときってたいてい作ってくれるじゃん。ありがとー!」

 嬉々として階段を駆け下りていく足音。まったく、元気だけが取り柄なやつだ。

 俺はため息をつきつつ、再び天井を見上げる。

 優奈が専属契約を結ぶとは思ってない。……けど、もしそうなったら。

 また、会うことになるんだろうか。

 ──仕事として。

 でも、それだけじゃ済まない気が、少しだけしていた。


**


「ひより、もしもし」

『おつー、どしたー?』

 夜の静けさに溶けるような、親友の気の抜けた声。それが、少しだけ落ち着かせてくれた。


「ううん、ちょっと話したくなって……私からかけるの、珍しいでしょ?」

『うん、何かあったなって察してる。さては悠真くんが何かやらかした?』

「……ビンゴ。今日は盛大にやってくれたよ。キッチン、油と小麦粉で地獄絵図。パンケーキ作るって言って、最後の一枚をフライパンごと炭にしてた」

『わあ……想像するだけで胃が痛くなるねそれ。で、後片付けどうしたの?』

「あー……その、ね。家事サポート、予約した」

『へぇー。え、でもさ、あれって予約から来るまで結構早いよね? すぐ来てくれたの?』

「来たよ。……あの、優希くんが」

『……』


 電話の向こうで、変な間があった。

『…………ッゴホッゴホッ! ちょっ、ちょ、待って待って! 今コーヒー飲んでたんだけど! それ口に含んでるときに爆弾投下しないで!?』

「ごめん……まさかむせると思わなくて……」

『いやいや、私のコーヒー返して!? ていうか、何? 家事サポートって、あの家事サポート? 優希くんって篠宮優希くんのこと? 軽音部の?』

「うん……」

『えっ、マジで!? うわ、なにそのドラマみたいな展開……いや、嘘じゃないよね?』

「嘘だったら、どれだけよかったかって思ったくらい」

 私は、ベッドに背中を預けたまま、スマホを持つ手に力を込める。


『で? 優希くん、どんな感じだったの?』

「……いつもと、違った。丁寧で、落ち着いてて、すごく“大人”っていうか……私が避けてたことも、たぶん気づいてたと思う。でも、何も言わなかった」

『ふーん……』

 ひよりが少し間をあける。たぶん、考えてる。あの子はそういうとき、すぐには口を開かない。

「で、さ。問題は、そのあと……」

『うん』

「専属、契約しちゃった」

『…………』

 息を飲んだ気配が、通話越しにも伝わってきた。

『──それってさ、あれだよね? いつでも来てもらえるやつ』

「うん。条件も確認したし、ちゃんと考えたつもりだった。……でも、今になって迷ってる」

『……優奈が?』

「うん。私、そんなに簡単に人を信用しないって、自分で思ってたから……ちょっと、怖い。これって私、彼のこと……信じてもいいって、思い始めてる?」

『それは───』

 ひよりの声が、そっと、やさしくなった。


『優奈が信じてみたいって思ってるんなら、それはもう、半分信じてるんだよ。たぶんね』

「……ひより」

『でさ、私、思うんだけど──』

 一度、言葉を止めるひより。いつもの彼女なら勢いで押してくるところだけど、今は違った。


『──このままいったらさ、優奈と優希、けっこうお似合いなんじゃないかなって、ちょっと思ってる』

「……それって」

 私は、ほんの少しだけ、声が小さくなった。


「ねぇ、ひよりは……優希くんのこと、好きだったり、する?」

『え?』

 不意に聞いた自分の質問に、自分で驚いた。

 でも、ずっと胸のどこかで引っかかってた。ひよりは時より優希くんと話している時があった。今までもそうだ。


『……違うよ』

 でもひよりは、はっきり答えた。

『確かにね、あの人はカッコいいし、ちゃんと相手を見てくれるし、たぶんモテるし──でも、私が優希くんのこと好きだったら、もうとっくに動いてる』

「……そっか」

『それに、私は優奈の味方だし。優奈が悩んでるときに、変に揺さぶるようなこと、しないよ』

 その言葉が、胸にじんわりと染みていく。


『……でもね、好きになってもいい人だとは思う。優希くんって。ちゃんと、信頼ってものを、重く受け止めてくれるタイプに見えるから』

「……うん」

 私の返事は、さっきよりも少しだけ素直だった。

『だから、焦らなくていいけど、無理して距離取らないほうがいいんじゃないかな。信じたいって思う気持ちは、大事にしてもいいんじゃない?』

 そう言ってくれるひよりが、親友で本当によかった。

「ひより……ありがと」

『うん。ちなみにさ、専属ってことは……次も、優希くん来るんでしょ?』

「……たぶん、ね」

『──なら、今度はエプロン姿の写メ送ってよ。あんたの好みかどうか、私が見極める』

「やだよっ!」

 二人して笑いあったその瞬間、胸のつかえがほんの少し、軽くなった気がした。

 彼の印象がより鮮明に良くなったのは事実。

 だって、家事まで完璧な人って───この世の中で、ここまでしっかりした人を見た事がない。

 契約によると、サポートに来てくれるのは週に2回になった。平日の月曜と火曜の13時から18時まで。

 次の彼の顔を見るのが楽しみになっている自分が恥ずかしくなって、私は枕に顔を埋めて悶え続けていた。

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