【第4話】2人きりの空間で
「おーいー!味方トロールすぎだろ……!」
「お前なぁ。人の家に遊びに来てやることがゲームだけってどうなってんだよ」
「いいだろ別に〜それくらい許してくれって」
「いや……だったら自分の家でもできるだろうが」
───朝の10時。
高校生活初めての大型連休、ゴールデンウィーク。
俺の部屋は、いつにも増してうるさい。というのも、目の前でFPSに没頭している男──黒川蓮のせいだ。
「いやぁ〜やっぱこれ、家の回線の問題だな。ラグいし撃ち負けるし」
「俺のせいにすんな、WiーFi泥棒」
「いやマジで、ちょっとこっちのWi-Fiの設定変えてくれない?有線で繋がせてくれたらキルレ倍になる自信ある」
「お前それ自分の家でやれ」
椅子にふんぞり返ってコントローラーを放り出す黒川。
そういえば「レポート手伝って」って言ってたのに、ノートも教科書も鞄から出されることはなかった。目的はなんだったんだ。
「ったく、レポート作るの手伝ってって言ってたくせに結局口実かよ……」
「ごめんって!あ、負けたわ。はいクソゲー」
はいはい、と適当な相槌を打ちながら、俺は床に座ってお茶を啜る。
黒川がうちに来るようになったのはつい最近からだ。
妹の美春とも打ち明けたみたいで、美春とは顔見知りと言ったところ。でも、毎回ゲーム漬けになって終わるのは勘弁してほしい。
しばらくして、ようやくゲームを切った黒川が、伸びをしながらポツリと口を開いた。
「はぁ〜めんどいけどやるかぁ」
「で、結局どの科目のレポートなんだ?」
「これ、英語のやつ。なんだよこれ、自分の将来について三段構成で英文作ってこいとか。意味わからん」
「英語か……。まぁ、将来の話って未だに考える時期ではないのかもだけど、少しは気になるテーマではあるかもな」
「俺みたいなエリートにはこんな長文やらなくたって、テストでいい点取れるのになぁ」
「ったく、そういう奴ほどテストでサボるんだよ」
──俺は学年首席という称号を持っているけど、それをすごいと思ったことは一度もない。
自慢するのも違うし、そもそも俺なんかよりも頭の良い奴なんて、探せばいくらでもいる。
だからこそ、自分の能力を周囲にひけらかすような真似は、俺の性に合わない。
無論、課題はだいたい出されたその日に終わらせてしまうタイプだ。
英語の文法や単語の使い方を教えながら、黒川と並んで課題を進めていく。
やがて数十分が経ち、シャーペンの音が止まった。
「だりぃなぁ。こんなことするくらいなら、女の子と話してたいレベルだわ」
「またその話かよ」
「だって楽しく生きたいじゃん?俺、部活選びミスったかもな〜。女子多い部活にすりゃよかった」
「はぁ……」
「なんでため息つくんだよ!お前は女の子たくさんいる軽音部だろうが!」
「だから何だよ。何度も言ってるけど、俺は人付き合い目当てで部活選んでねぇからな」
「えー……なんかエロいイベントとか、なかったのかよ。ほら、楽器の扱い方とか教え合ってるうちに距離が近づいちゃって〜的な?」
「ねぇよ。そもそも白雪さんまで同じ部室にいる状態で、そんなことできるかアホ───あっ……」
「ん?白雪さん……?え、ちょ、待って。今、白雪って言ったか?」
しまった──完全に口を滑らせた。
よりによって黒川相手に白雪優奈の名前を出すなんて……!
しかも最近、こいつも白雪さんを目で追ってる節があるって、俺、気付いてたんだった。
それなのに、俺は──まずい、やっちまった。
「ち、ちげぇよ!それは言葉の綾というか、な、なんつーか──!」
「いやいやいや!確実に“白雪”って言ったよな!?お前……!まさかあの超絶美少女と一緒の部活だったのかよおおお!?」
「おい、落ち着け!声がデカいって──」
「なあなあ!白雪さんって、近くで見るとどんな感じ!?あの無口な感じで話しかけてきたりする!?もう最高じゃんそれ!」
「ちょ、うるさいって……くっ、もう分かったよ。話すから落ち着け、な?」
ここまで興奮されると、もう抵抗するだけムダだと察した。
こうなったら、少しだけ本当のことを話してしまったほうが楽かもしれない。
「別に……俺は必要最低限の会話しかしてないぞ。お前が想像してるようなほど甘い話はないんだけど」
「なんだよそれ!でも!話せてるだけ神やん!」
「いや、ちげぇから。部活の時間内だし、たまたまだし」
「“たまたま”が続く時点でもう運命だよそれ。マジで漫画かよ……!やっば!」
頭を抱えて悶絶する黒川。
ほんとに、なぜこいつは他人の恋バナだとこんなに盛り上がれるのか。
「しれっと口から出ちゃう名前とか、絶対意識してるだろ!」
「うっ……なんでそうなるし……」
「おいおい……認めちゃった?」
「うるせぇ」
「いや〜俺も白雪さんと同じ部活が良かったなぁ!くそ〜軽音部って楽器できなくても入れたのかよ」
「まぁ、入る前にちょっと勉強したし、ギターとかベースとかいろいろ覚えなきゃだからな。お前みたいにノリだけじゃ無理だろ」
「ぐぬぬ……」
しばらく黒川が「白雪さん……いいなぁ……」と床で転がっていたので、俺はそっと立ち上がって言った。
「お前、拒絶されてないの?」
「えっ?俺が?……まぁ、今のところは」
「え〜、やっぱイケメンでハイスペックは誰でも沼るってことか〜」
「何の話だよ」
よく分からない理論を展開して、俺をからかってくる黒川だが、そんな彼も白雪さんのことを気にしているのは知っている。
案の定、ニヤッと笑って、追い打ちをかけてきた。
「ご報告、待ってるぞ」
「だから、俺にそういうビジョンがある根拠なんて、どこにもないって」
「いやいや!あるに決まってんだろ!お前、あの美少女を手にしたら、一瞬で人生勝ち組だぞ!」
「ったく……」
確かに、彼女と俺じゃあ、いろんな意味で雲泥の差がある。
それに、コイツはあの白雪さんが「超」が100個つくレベルのセレブだってことをまだ知らないらしい。
彼女に対して失礼だから、その事実を言うつもりはないけれど───それでも、「手にしたら人生勝ち組」って言葉がどこか胸に引っかかって、俺まで最低なヤツに思えてくる。
人付き合いに、金の多い少ないなんて関係ないはずなのに。
「にぃにー! お母さんがお使い行ってきてってー!」
「美春? 今からか?」
ドアが勢いよく開いて、妹の美春が部屋に突撃してきた。手には、おつかい用の封筒。
どうやら母さんからの指令らしい。
「買い物か? 大変だなお前」
「こっちは家事だって手伝ってんだよ。せめて労いの言葉くらいくれ」
「俺わからんもん、親が全部やってくれるし!」
「家事は経験しとかないと、あとでしんどくなるぞ」
どうやら黒川は、俺が買い物に行こうが知ったこっちゃないらしい。
まあ、今日こいつがここに来た理由───英語のレポート完成というタスクは、もう終わってるしな。
「にぃに、私もついてっていい?」
「課題は終わってるのか?」
「えっ? お、おわってるもん!」
「はぁ……嘘ついてる顔だな」
視線が泳いで、耳元に手が伸びる。
美春のその仕草は、ほぼ100%の確率で“嘘ついてます”のサインだ。
「うぅ……にぃにのケチ」
「仕方ないだろ。課題は早めに片付けといた方が、後々楽なんだって」
「はーい……じゃあ答え見てやる」
「見るにしても、ちゃんと理解してからにしろよな?」
口を尖らせてふてくされる美春。だが、すぐに表情を変えて俺に詰め寄ってくる。
「ふーんだ! にぃにと買い物行けなくて私悲しいもん! 私、にぃにのことだいすきアピール、いっつもしてるのに〜! なんでずっとスルーするの!」
「……めんどくさいな」
隣でこのやり取りを見ていた黒川が、にやにやしながら口を挟む。
「お前、ブラコン妹持ちとか……最高じゃんか」
「いや、それ、最高じゃなくて最悪だからな」
「しんどいって言うなー! こんな可愛い女子中学生の妹が構ってあげてるんだよ!」
「それがしんどいっつってんの……。仮に俺が美春に好意を示したらどうなると思う? この家、崩壊するわ。世界が終わる」
茶化す黒川と、ふくれっ面の美春。
騒がしくも、まあ日常だ。
「……ほら、美春。俺が帰ってくるまでに、ワークの一章目終わらせとけ。そしたらアイス買ってくる」
「ほんと!?」
「ちゃんとやってたらな」
「が、がんばる〜!」
美春は「ミッション受領!」と言わんばかりの勢いで部屋を飛び出していった。
「んじゃ、そろそろ行くか」
「おう」
俺と黒川は玄関へ向かい、靴を履いて外へ出た。
春の陽射しがじわりと肌を撫でる。昼頃の商店街はそれなりに人通りがある。
「にしても、妹ちゃん可愛いな〜。あれは将来有望だぞ」
「やめろ、リアルに捉えると俺が泣く」
「泣くなよ、笑えよ。ブラコンの妹がいて、親友とふざけながら買い物行く男子高校生。平和すぎてドラマ化できそう」
こいつは本気で言ってるのか、冗談なのか分からないテンションで笑っていた。
数分後、黒川のスマホが鳴った。
彼はちらりと画面を確認して、少し眉をひそめたかと思うと、そのまま通話ボタンを押す。
「はいもしもし、うん。……あ、マジ? えっ、結構酷い感じか。……ああ、わかった、すぐ戻る」
通話を終えてスマホをしまうと、俺の方へ振り返る。
「悪い、ちょっと急用。弟が高熱出したらしくてさ」
「マジか、それ大丈夫か?」
「親が共働きで不在だから、代わりに看病頼むって言われたわ」
「そりゃすぐ帰った方がいいな。この時期の発熱は心配だし……」
「そういうこと。わりぃけど、ここで離脱させてもらうわ」
「いやいや、気にすんなって。家族優先だろ?」
そう言うと、黒川は少し安心したように笑った。
「助かるわ」
「黒川、俺の家に荷物置いてきちゃってるけど……俺も一回戻るか?」
「いや、家の場所は覚えたし、一人で平気。お前を往復させる方が鬼畜だからな」
「……黒川、お前ってやつは」
「泣くなよ?」
「泣かねぇよ」
冗談交じりのやり取りを最後に、黒川は手をひらひらと振って歩き出す。
俺は「車に気をつけろよ」と声をかけ、黒川の背中が角を曲がって見えなくなるまで見送った。
この時期の風邪は何かと厄介だ。季節の変わり目は寒暖差もあるし、体調を崩しやすい。
黒川には、しっかり弟の看病に専念してもらうとして───。
「さて……行くか」
ひとり取り残された俺は、気持ちを切り替えるように軽く首を回し、繁華街にあるスーパーへと向かって歩き出した。
俺は繁華街の駅まで足を伸ばすと、電車で一駅だけ移動する。
近所にもスーパーはいくつかあるにはある。だけど――安さと新鮮さの両立、そして商品ラインナップの豊富さという点で、やっぱりこの店には敵わない。
駅前の商店街を抜け、住宅街の中にぽつんと存在するそのスーパーは、主婦層と飲食店の人間からの信頼が厚い、いわば“知る人ぞ知る名店”だ。
少し面倒でも足を運ぶ価値はある。特に今日は、母さんが封筒に入れてくれた金額から察するに、けっこうな買い出しが必要なようだった。
「さて、と……」
カゴを手に取り、まずは野菜コーナーから物色。
新玉ねぎが1玉50円、キャベツも瑞々しくてでかいのに100円を切ってる。安定のもやし、白菜、役に立ちそうなものはカゴに入れていく。
この店、やっぱりおかしい。経営どうなってるんだ。
だが、今日一番俺の心を揺さぶったのは、調味料コーナーだった。
「えっとえっと……ん!?」
思わず声が漏れた。
目の前には、めんつゆ──ただのめんつゆじゃない。
その値段が、あまりにも衝撃だった。
「めんつゆ……128円だとっ!?」
もう一度見る。見間違いかと二度見する。三度見もする。
それでも値札には大きくこう書かれている。
《地域最低価格を目指します!》
おいおい、目指すどころか、もう一位独走じゃねえか。優勝じゃん。表彰台のてっぺんに立ってるじゃん。
めんつゆといえば、和食界のユーティリティープレイヤー。うどん、蕎麦、親子丼、煮物、ナスの揚げ浸し、果ては甘塩鮭の蒸し煮まで対応可能な万能液体。これ一本あれば、家庭の料理戦力が三割アップする神アイテムだ。
──買うしかない。今ここで、手に入れなければ一生後悔する。
だが──しかし、俺は、見てしまった。
《※おひとり様1点限り》
ぐはっ……!心に鈍く響くこの表示ッ……!
「なぜだ……なぜなんだ……この世界は、どうしていつも俺に試練を与えてくる……っ!!」
1点って……つまり俺のこの手に掴めるのはたった1本だけ。
こんな奇跡の価格、こんな奇跡の調味料を前にして、レジを通せるのは1回きり。
ふざけるな……!誰が妥協するかっ……!
「──否ッ!!」
俺は両拳を握りしめ、天を仰いだ。
そうだ……こういう時は、機転を利かせろ。考えるんだ、篠宮優希ッ!
誰か別の人間を呼び出して、もう1本買ってもらえばいいだけの話じゃないか。
ルールは守る。だが、賢く抜け道を見つける。それが庶民の知恵というやつだ!
まず、黒川を呼び戻す?……いや、アイツは今、弟の看病中。さすがにそれはできない。
じゃあ美春?……いや、あいつ今課題サボってカンニングモードに入ってるし、連れ出すのは地雷原に足を突っ込むようなもんだ。
……なら、最後の手だ。
神谷部長。頼れる軽音部の頼れる男。普段はふざけてるけど、意外とノリが良くて、こういう時は動いてくれそうなやつだ。
──即、電話発信。
「お、もしもし?神谷部長?今、めっちゃ大事な頼みがあるんですけど――」
『おお、どうした、声に切迫感があるな』
「スーパーでめんつゆが128円なんですよ。3倍濃縮のやつで……っ!」
『……は?』
「で、1人1本までなんです。もう俺、1本手に持ってるんですよ。もう1本買ってくれませんか!?近くにいたら、でいいんで!」
しばしの沈黙。
『…………ごめんよ……優希』
「ッ……!?」
『実は今、妹のピアノの発表会で親族一同集まっててさ…!スマホ見てるだけで母親から死の視線を向けられてるんだ!これ以上話したら、俺が蒸発する!』
「そ、そんな……!」
頼みの綱が、ちぎれ飛んだ。
『すまん…助けになれなくて…!よく分からんが、健闘を祈るぞっ!』
通話は切れた。
「くっ……神谷部長……!」
俺の肩は、知らず知らずに落ちていた。
現実は厳しい。希望は消えた。カゴにたった1本のめんつゆが、やけに遠く見える。
──しかしその時だった。
「……優希……くん?」
その声に、俺はピタリと動きを止めた。
耳が、心が、脳内神経のすべてが、その声に一斉に反応する。
ゆっくりと振り返る。
そこには──白雪優奈が立っていた。
ああ……!
今この瞬間、スーパーの調味料コーナーに天使が舞い降りた……!
1人1点までという絶望のルールに屈しかけた俺に、救済の光が射した……!
「……っ!白雪さんっ!!」
「ふぇっ!?な、なに?」
戸惑ったように目を丸くする優奈。そりゃそうだろう。
突然、めんつゆ1本を握りしめた男が勢いよく名前を呼んできたんだ。状況だけ見ればホラーに近い。
だが俺は止まらない。止まれない。
今ここで、このチャンスを逃せば、俺は永遠に後悔する。
「お願いがあるんだ……!落ち着いて聞いてくれ……!」
「え、えぇっ!?な、なに、なにごと……っ!」
優奈の目が泳ぐ。頬がほんのりと赤く染まる。
……ん? なんか反応がおかしい……? いや、今は気にしてる場合じゃない。
「めんつゆ買うのを手伝ってくれっ!!!」
「うぇぇっ!? ……は、はい……!? よ、よろしくお願いしますっ!?」
よっしゃあああああ!!!
天使は俺を見捨てていなかったッ!!!!
「あぁ……助かる……!これで俺は地の底から完全復活だ……!」
俺は力強くうなずきながら、めんつゆをカゴに投入。
そして満面の笑みで、優奈に新品のめんつゆを手渡した。
まさかだ。まさかこのスーパーで、絶望の果てに、こんなにも輝かしい希望を見つけるなんて。
ありがとう白雪優奈様。俺は一生、君にめんつゆの恩を忘れない……!
レジを終えてスーパーの出口を出ると、俺たちは並んで歩きながら自然と笑い合っていた。
「めんつゆ買うのにあんなに必死な人、初めて見たかも……」
優奈が口元に手を当てて小さく笑う。その横顔はどこか呆れつつも楽しげだった。
「俺もだよ。まさか人生でめんつゆを手に取った瞬間、あそこまで感情を揺さぶられるとは思ってなかった」
俺は手に持った袋を揺らして見せる。中には、勝ち取った栄光──128円のめんつゆが2本、並んでいた。
「いやでもさ、見た? あの値札。“地域最安値”って謳いながら、128円よ? 128円! これ下手すると仕入れ値割ってるってレベルだぞ?」
「う、うん……そうなんだ。正直、調味料の相場ってあんまり知らないから……」
言いながら、優奈は少し視線を逸らした。
「そっか、白雪さんちって……なんていうか、ほら、あんまり買い物とかしない感じ?」
「……うん。母がいつもやってるし、食材も日用品も全部、家に届くから。スーパーに来るのも……何年ぶりだろう」
「うおぉ……リアルセレブの世界……」
「べ、別にそんなことないよ。ただ、こういう“今日は何が安いかな”って選ぶの、ちょっと面白かったかも」
優奈は照れたように笑って言った。
その姿を見て、俺はふと思い立った。
「……よし、何かお礼させて?」
「え、えっ、いいよ。めんつゆ一本買っただけだし……」
「いやいや、違うんだよ。これは“ただの買い物”じゃない。勝利なんだ。絶望の中で手を差し伸べてくれた救世主に、感謝の気持ちを伝えないわけにはいかない!」
「しょ、勝利?めんつゆなのに?」
「めんつゆだからこそ!」
俺が真顔で言い切ると、優奈は肩を震わせながら笑った。
それからしばらく、少し迷ったような沈黙があって──俺は優奈からお願いをひとつ聞くという、そういう話になったわけだ。
そして彼女は口を開く。どんなお願いが来るのか想像できない。もしかしたら、気持ち悪いから関わるなと言われるかもしれない!それでも恩は返すべきとか、そんなことを考えていたら…。
「……じゃあ、その……うち、来る?今から家で……バンド練習とか、してみる?」
と、彼女は言った。
「えっ、白雪さんの家……?」
「別にいいっていうか……ほら、スタジオ使いたいって言ってたでしょ?ちょうどいいかなって……」
言いながら、優奈は少しだけ視線を落とした。
顔が赤くなってるのは、気のせいじゃない……よな?
いやはや、それは立派な彼女からの「お願い」である。断るのはお門違いだ。ましてやこの大勝利を導いた機転を作った張本人に対して、断るなど言語道断。
「えっと……それなら、是非……と言いますか……」
「う、うん。その、少し移動するけど、来てくれる?」
「えっ、いや、もちろん!これをお礼として受け取ってくれるのなら」
「あ、ありがと。じゃあ、行こっか?」
そうして俺は、優奈に連れられて、噂の大豪邸へと足を運ぶ流れになった。お母さんに「急用で帰るの遅くなる、買い物は済ませた」と送ったら、承諾してくれたみたいで一安心した。
**
「全くもう……魚釣ってきたからとか言って、わさび忘れたとか、わざわざ私になんで買い物を……」
私はママに頼まれて、珍しく一人で買い出しに来ていた。
とはいえ、スーパーなんて普段あまり行かない。というか、ちゃんと“お使い”を任されたのは、これが初めてかも。
お菓子とかジュースならたまに自分で買うけど……ごま油とか、調味料なんてどこの棚にあるかも分からない。
「えっと……ごま油、ごま油……あれ、どこ……?」
キョロキョロと店内を見渡すけど、広すぎてまるで迷宮。通路の札に“調味料”って書いてあるのを見つけて、ようやく辿り着いた──その時だった。
(……あれ? あの横顔……優希くん……?)
一瞬、目を疑った。けど間違いない。制服じゃない私服姿の彼──初めて見るけど、やっぱりちょっとかっこよくて……。
な、なにこの感じ……。
と、とりあえず……ちょっとだけ、近づいてもいいよね?
彼は棚の前で屈んで、なぜかめんつゆと真剣勝負していた。しかも、スマホ片手に誰かと電話してる。
(……な、何してるの……?)
その姿が、なんか……おかしくて。でも、ちょっとだけ、かわいくて……。
いやいやいや、ちょっと冷静になって! これは“ただのスーパーで偶然出会っただけ”!それ以上の意味は──
(……でも、挨拶くらいは、するべき……?)
この距離で素通りする方が変だし……ほら、社交辞令だし。うん、大丈夫、できる。私はできる子。
勇気を振り絞って、一歩踏み出して──
「……優希……くん?」
その瞬間、彼の肩がピクッと震えて、くるっとこちらを振り返った。
え、なにそのびっくり顔!? いや……めっちゃ真剣な顔でこっち見て──
え、もしかして……?
「……っ!白雪さんっ!」
「ふぇっ!?な、なに?」
「お願いがあるんだ!落ち着いて聞いてくれ……!」
「え、えぇっ!?な、なに、なにごと……っ!」
お、お願い……!?
──って、それ、ちょっと待って! そんな真剣な目で、お願いって、ま、まさか……!
(え!?うそ!?今から告白!?ここで!?スーパーマーケットで!?)
ちょっと、ちょっと待って! え、心の準備とか全然──っ!?
(だ、ダメだって!もし仮にこれが告白だったら……私、どうするの!?断れるの!?無理だよ!?あの目……本気すぎて……っ!)
パニック状態の中、息を呑んで次の言葉を待つ。すると──
「めんつゆ買うのを手伝ってくれっ!!!」
「うぇぇっ!? ……は、はい……!? よ、よろしくお願いしますっ!?」
……は?
え?
えっ……???
(───めんつゆ……!?)
頭が追いつかない。心がバグってる。
思考の中で、ずっと「お願い=告白」って前提で組み立ててたのに、なんで!?なんで「めんつゆ買って」になるの!?
(ちょ、ちょっと待って、私……OKしたよね!?反射で頷いたよね!?うそでしょ!?)
顔が一気に熱くなるのが分かる。もう、爆発しそう。
(バ、バカッ!!私のバカっ!!!何勘違いしてんのっ!!!もぉーっ!!!)
恥ずかしさで頭を抱えたい。
でも目の前の彼は、そんな私の大混乱なんて気づいてない顔で、めんつゆ2本をしっかり手に持って満足そう。
「ほんと助かったよ、ありがとう! めんつゆ探してくれる人が見つからなかったら、俺、今日詰んでた」
───あ、うん。
そうだよね。めんつゆだよね。
めんつゆ買ってくれる人……ね……。告白とか私ガチでバカじゃん……。
(……私、今めんつゆに告白された気分なんだけど……)
もう、地面にめり込みたい。赤面しすぎて、顔が湯気出そう。
(っていうか……もしこれ、ほんとに告白だったら……私、即答でOKしてたってこと……!?)
そう思った瞬間、さらに顔が熱くなった。
まさか、スーパーの調味料コーナーで心臓持ってかれるなんて──
……やばい。私、惹かれてるのかな。
いやいや!まさかっ!今まで私、ずっと過去のことを恐れて消極的になってたんだし……そんなわけ……っ!
スーパーの出口を出て、並んで歩く。気づけば自然と笑い合っていて、なんだか……少しだけ、くすぐったい。
「めんつゆ買うのにあんなに必死な人、初めて見たかも……」
笑いながら口元に手を添える。心から楽しいって思った瞬間に、そう言葉がこぼれた。横で歩く彼は、どこか誇らしげに袋を揺らしている。
「俺もだよ。まさか人生でめんつゆを手に取った瞬間、あそこまで感情を揺さぶられるとは思ってなかった」
買い物袋の中には、128円のめんつゆが2本。たかが調味料、されど勝ち取った“戦利品”。
「いやでもさ、見た? あの値札。“地域最安値”って謳いながら、128円よ? 128円! これ下手すると仕入れ値割ってるってレベルだぞ?」
勢いに任せて語るその横顔に、ちょっと圧倒されつつ、思わず言葉を返す。
「う、うん……そうなんだ。正直、調味料の相場ってあんまり知らないから……」
ごまかすように視線を逸らす。だって、ほんとに知らない。うちはいつも家に届くし、スーパーで買い物なんて……。
「そっか、白雪さんちって……なんていうか、ほら、あんまり買い物とかしない感じ?」
「……うん。母がいつもやってるし、食材も日用品も全部、家に届くから。スーパーに来るのも……何年ぶりだろう」
「うおぉ……リアルセレブの世界……」
「べ、別にそんなことないよ。ただ、こういう“今日は何が安いかな”って選ぶの、ちょっと面白かったかも」
本当は、楽しかった。彼と一緒だったから、きっとなおさら。って!だから何考えんの私ってば!!
そんな私に、彼がふと真剣な顔で言った。
「……よし、何かお礼させて?」
「え、えっ、いいよ。めんつゆ一本買っただけだし……」
「いやいや、違うんだよ。これは“ただの買い物”じゃない。勝利なんだ。絶望の中で手を差し伸べてくれた救世主に、感謝の気持ちを伝えないわけにはいかない!」
「しょ、勝利?めんつゆなのに?」
「めんつゆだからこそ!」
真顔でそんなこと言うから、つい笑ってしまった。肩が震えるくらいには、ほんとに。
……だけど、その後。笑いが落ち着いてきた頃、私はふと、口を開いていた。
「……じゃあ、その……うち、来る?今から家で……バンド練習とか、してみる?」
あ──言っちゃった。
どうしよう!?何言ってるの、私!?え、なに、“うち来る?”って何その軽率な誘い文句。やばい、ちょっと引かれたかも。いや絶対引かれたよねこれ、なんでそんな欲張るようなこと──!!
「えっ、白雪さんの家……?」
……って、聞き返してくれるってことは、拒否じゃない?ちょっと安心……したけど、それでも心臓の音がうるさくて、自分の声が震えて聞こえる。
「別にいいっていうか……ほら、スタジオ使いたいって言ってたでしょ?ちょうどいいかなって……」
視線が合わなくて、下を向いた。ああもう、顔が熱い。絶対赤くなってる。自覚あり。
「えっと……それなら、是非……と言いますか……」
「う、うん。その、少し移動するけど、来てくれる?」
「えっ、いや、もちろん!これをお礼として受け取ってくれるのなら」
いや…えっ!?ほんとに来るんだ……!?
自分で言っておいて、いざOKされると頭の中パニック。なにそれ、どうすんの私。落ち着け。いや落ち着けない。なに家呼んでんの!?お姉ちゃんとかじゃなくて、男子!!男子を家に!!?
私、正気?今の私、絶対バグってる……!
「あ、ありがと。じゃあ、行こっか?」
自分の声が、ちょっとだけ上擦っていた。だけど彼は、それを気にする様子もなく、隣でうなずいていた。
──こうして私は、自分の中の“なにか”を抑えきれないまま、優希を家に誘ってしまった。
これはもう、立派なフラグ。完全に、引き返せないところまで来ちゃってる気がする。そんな予感が頭をよぎった。
**
「ここが……白雪さんの家……?ほんとに……?」
俺は門の前で、完全に言葉を失っていた。
俺が住む実家がプレハブだとしたら、目の前にあるのは古代神殿。
スケールが違いすぎる。
いや、ほんとにこれ、家?
博物館とかじゃなくて?ドラマのセットじゃなくて?
白を基調とした外壁は、日差しを反射してほのかに輝いている。
玄関までは石畳のアプローチが一直線に伸び、両脇にはまるで手入れの行き届いた庭園。
噴水とかあるし。マジかよ、噴水て。
家の敷地、コンビニ二軒分くらいある。
っていうか、ちょっとしたテーマパークだこれ。周囲を高めの塀で囲まれてるけど、それでも隠しきれない「格」の違いってやつが滲み出てる。これはもう、生まれ育ちが別のカテゴリだ……。
ふと視線を横にやると、庭の奥に車庫が見えた。開けっ放しのシャッターから、車が2台。
1台は家族向けのセダン──まあ、普通……じゃないけどギリ理解の範囲内だ。けど、もう1台。
明らかに高級外車。それも、スポーツタイプ。艶のあるボディに、煌びやかなエンブレム。これ、テレビでしか見たことないやつ。てか、マニュアル?マジで?
さらに別方向──とんでもないものが目に入って、俺は言葉を飲んだ。
──プール。
家の中にプールあるじゃん。え、これ屋内プールってやつ?
しかも広い。どういう世界線で育てば、家の中に“泳げる施設”を作ろうって思えるんだ……?
まじで住んでんの?こんな場所に?
この家の人たち、税金どうなってんの?ていうか、固定資産税いくら?維持費どうしてるの?水道代は?電気代は?プール清掃の外注費とか──って俺、何考えてんだ……。
完全に庶民代表の俺、足踏み入れていい場所じゃないのでは?不法侵入で通報される未来すら見えた。
「えっと……入って。靴ここにしまってくれればいいよ」
優奈が、玄関の横にある立派な靴箱を指差す。収納棚というより、もはや“靴の部屋”だった。天井まで届いてるし、明らかに百足族でも困らないレベル。
「う、うん。えっと……お邪魔します……」
靴を脱ぎながらも、緊張で手足がギクシャクする。
玄関から続く廊下は──まさかの大理石。まるでホテルのロビー。白を基調とした床に、天井からはシャンデリアがぶら下がっている。マジで。シャンデリア。家に。
歩くだけで「カツ、カツ」と音が反響して、なんだか申し訳ない気分になる。
リビングらしき部屋に通されて、俺はさらに驚愕した。
広い。でかい。いや、俺の知ってるファミレスより広い。
床から天井までの大窓に、一面のカーテン。そして中央に鎮座するL字型のソファは、10人座っても余裕がありそう。大理石のテーブルに、優雅なグランドピアノまで置いてある。
あまりの非日常空間に、足が地に着かない感覚だった。
そして、キッチンにいた女性がこちらを振り向いた。白い髪に、優奈とどこか似た気品のある美しさ。年齢を感じさせないその立ち居振る舞いは、まさに“白雪優奈の母”という感じだった。
「あら?いらっしゃい。優奈、この子は?」
「ママ……!えっと……と、友達だよ!その……同じ部活の子!」
優奈が、目を泳がせながらしどろもどろに答える。耳が赤くなってるし、明らかに動揺してる。ここまで分かりやすくテンパる優奈、初めて見たかもしれない。
すると、キッチンにいた母親らしき人物は、くすっと小さく笑った。
「まあまあ、優奈が男の子を家に連れてくるなんて珍しいこと。いらっしゃい」
落ち着いたトーンで柔らかく言いながらも、その目はどこか愉しげ。優奈がますます顔を真っ赤にして、小さく「ママ……」と抗議するけど、それ以上は言葉になっていなかった。
「あ……えっと、篠宮優希といいます。優奈さんとは、軽音部で一緒に活動しています。今日は突然お邪魔して、すみません」
俺は慌てて頭を下げる。つい、部活でも使わないような名前に「さん」付けしてしまった。なんか距離感が遠くなった気がして少し後悔。
「あら、礼儀正しい子ね。私は白雪梨花。優奈の母です」
微笑みながら、優雅に一礼される。
その動きひとつ取っても、育ちの良さが滲み出ていた。どこか女優のような佇まいで、優奈の美しさのルーツが一瞬で理解できる。
「優奈が日頃お世話になってるみたいで……ありがとうね。こうしてお友達を連れてくるなんて、ちょっとした進歩かしら?」
「……ちがっ、そういうのじゃ……っ」
優奈はさらに顔を伏せ、小声でむにゃむにゃと何か言っていた。母親のからかいも、悪意はまったくなくて、むしろ優しさすら感じる。
俺自身も少し照れながら、どこか温かい空気を感じていた。
その空気の中で、優奈が小さく息を吐き、そっと俺の袖を引いた。
「こっち……練習する場所、案内する」
「あ、うん」
「あ!ママ、防音室使うからしばらくはそっち行けなくなる」
「うふふっ、はいはい。楽しんでらっしゃい」
「た、楽しむって……変なこと言わないでっ!」
「あら?楽器を楽しんでって意図だったんだけど?」
「だから……っ!もうっ!」
そう言って、彼女は不機嫌そうになりつつも頬を赤らめた。
「ご、ごめんね、ママ、いつもはこんな感じじゃないんだけど……」
そう言うと、俺をリビングの奥へと誘導する。
白くて大きな扉を抜け、廊下を進む。家の中なのにホテルの中を歩いてる気分になるのが、やっぱりすごい。
廊下の突き当たり、厚みのある扉の前で優奈が立ち止まる。
「ここ。スタジオっていうか、防音室。ピアノもあるし、音出しても大丈夫。バンドの楽器は一通り揃えてるし、好きに使っていいよ」
そう言って扉を開けると、中には驚くほど本格的な音楽空間が広がっていた───。
扉を開けた瞬間、空気が変わった。
床は厚手のカーペット。壁一面に吸音パネル。天井にはスポットライト。室内はしんと静かで、音を吸い込むような感覚があった。
正面にはグランドピアノ、横にはギターやベースが複数本。どれも手入れが行き届いている。ドラムは電子じゃなくて、ガチのアコースティック。ツインペダル付きで、シンバルも一式そろっている。PA卓やモニタースピーカー、ラック機材も並んでいた。
「……すご……これ、スタジオだよな……」
思わず口から漏れる。
優奈は、手早くギターケースのファスナーを開けながら「うん」とだけ返す。動きに迷いがなく、フレットの手入れも指板のチェックも慣れた手つき。弦の張りも確認している。
「全部、ちゃんと管理してるの?」
「うん。ここ、基本は私しか使わないから……ピアノも週一で調律師さん来るし、湿度も管理してる」
「マジか……」
俺は壁際のラックを見ていた。中に見慣れない機材がいくつもある。その中で、ふと目についたものを指差す。
「これ……イヤモニ、だよな? ライブでよく見るやつ。なんか、専用っぽい?」
「あ、それ。私の。オーダーメイドで、耳の形測って作ったやつ。市販のより遮音性が高くて、音もクリアに聴こえるの」
「へえ……なんか、プロの機材っぽい……」
「一応、スタジオレベルのものにはしてるよ。録音もできるし、ミキサー通してバランス調整も全部できる。バンドでの練習も、本番前とほぼ同じ環境でできるようにしてある」
「本番前……って、どんな本番想定してるんだよ……」
思わず笑ってしまったが、彼女は少し照れたように肩をすくめた。
「いつか、ほんとにやるかもしれないじゃん。だから、準備だけはちゃんと」
その言葉には、冗談だけじゃない熱があった。
「さっそく、個人練習する?優希くんは、ベースの基礎は身についてきた?」
優奈がギターを抱えながらこちらを見る。目に宿る光は、いつもより柔らかい。
俺は頷いた。
「まだまだな方かな。指の使い方とかはだいぶ慣れたかも」
「ほんと?じゃあ……あのベース使って。チューニングしてあるからそのまま使って大丈夫だよ」
彼女が視線を向けたのは、壁にかけられた一本のベース。ブラックボディにゴールドのパーツ、見るからに上位モデル。俺は少し緊張しながら、それを手に取った。
ピックアップを切り替え、ケーブルをアンプに繋ぐ。深呼吸して、軽く音を鳴らしていく。指先の感触は悪くない。音の立ち上がりも素直で弾きやすい。
「……うん、フォーム安定してきたね。右手の弦の切り替えも前よりスムーズになってる」
優奈が横にしゃがんで、指の動きをじっと見ている。距離が、ちょっと近い。けど、嫌じゃない。むしろ、ちゃんと見てくれてるのがわかって、嬉しかった。
「左手は……うん、そのまま。薬指が浮きやすいから、意識して寝かせ気味にするともっと音がきれいになるよ」
「あ、なるほど……ここをこう、か」
言われた通りに試すと、確かに雑味が減った。単純だけど、自分だけじゃ気づけないことだった。
「すごいな、白雪さん。ていうか……ベースまで分かるんだな」
思わずそう言うと、彼女は照れたように笑った。
「一応、全部触れるようにはしてるよ。ドラムもピアノも、歌も。それぞれの役割が分かってないと、バンドってまとまらないから」
「……ガチじゃん」
俺がぽつりと呟くと、彼女は肩をすくめて、でもちょっと嬉しそうだった。
「好きだからね、音楽。あと、人に教えるのも、結構楽しいかも」
「そっか……教えてくれるの、ありがたいよ」
「どういたしまして」
そのやり取りのあと、しばらく俺はベースの反復練習を続け、優奈はギターでコードを鳴らして、それに合わせてくれた。ふたりの音が、少しずつ重なっていく。ぎこちないけど、確かに合ってきている。
不思議だった。
この空間だけ、ちょっと特別なものみたいに思えた。
2人きりの空間で、俺は白雪さんと練習を繰り返していた。テンポ、フォーム、リズム……ただ楽器を鳴らしていただけなのに、時間の流れがいつもよりも柔らかく感じられた。
ギターを持つ彼女は、教えるというより、そっと手を添えてくれるような優しさを持っていた。言葉数は少ない。でも、丁寧に俺の動きを見て、必要なときにだけアドバイスをくれる。
そういうのが、心地よかった。
気づけば一時間以上が経っていたらしい。時計の針は、音もなく静かに進んでいた。
後半の十五分では、白雪さんがギターとキーボードの両方を演奏してくれて、その完成度の高さに俺はただただ驚いた。
「今日はこれくらいにする?」
ストラップを外しながら、彼女は小さく息をついた。
額に浮かぶ汗を指でぬぐっている姿が、なんだかいつもより無防備に見えた。
「うん……ありがとう、白雪さん。その……この一時間で、すごく上達できた気がする」
「そう?それなら……良かった」
彼女はふっと笑って、椅子から立ち上がる。その笑顔は、たぶん今日いちばん自然なものだった。
「そうだ、飲み物いる?」
「え?もらっていいの?」
「いいよ、冷蔵庫にジュースが一本あったから。取ってくるね」
言って、彼女はくるりと向きを変えて歩き出した。
その瞬間───
……なんだか、時間がスローモーションになるような感覚があった。
白雪さんの足元に、スピーカーやミキサーから伸びた数本のケーブルがだらりと横たわっているのが見えた。俺は思わず息を呑んだ。彼女の足が、絡む。
「ひゃっ!?」
不意に高く上がった声。彼女の体が前のめりに傾く。
長い髪がふわりと舞って、ギターのネックが空を切った。
危ない、と思った時には、もう体が勝手に動いていた。
「白雪さんっ!」
俺は駆け寄り、倒れかけた彼女を両腕で受け止めた。
その体は思ったよりも軽くて、温かかった。背中に手を回し、もう一方の腕で太ももの辺りを支えるようにして、彼女をそのまま抱きとめる形になった。
数秒の沈黙。
彼女の顔が俺の胸のすぐそばにあって、そのまま、ぱっと見上げられた。
「…………」
「…………」
すると、大きく目を開いて、彼女が俺を見た。
その瞳の奥で、なにかが揺れていた。
戸惑い、驚き、そして───ほんの少しの、熱。
「だ、大丈夫……か?」
「うぅ……あれ……?優希くんが……助けてくれたの……?ありが──って……えっ……?」
彼女の顔がみるみる赤く染まっていくのがわかった。
俺も我に返った。いまの体勢に気づいて、慌てて言葉を飲み込む。
「…………っっ!?」
「うわっ、ご、ごめんっ!すぐ降ろすっ!」
「ゆ、優希くん……?」
「ち、ちがう!その、故意じゃなくて……!」
俺は必死に言い訳をしながら、彼女をそっと床に下ろした。拒絶される。そう思った。最低だ、俺はなんてことを……。
でも──
「……えっと、助けてくれて……ありがと。っ……! ご、ごめん、ちょっとトイレっ!ジュースはあとで取ってくるっ!」
そう言って、白雪さんは顔を覆うようにして、小走りで防音室を出て行った。
呆然とする俺。
反省しかなかった。
たしかに助けようとした。
でも、あの体勢は……どう見ても、アウトだ。完全に漫画とかアニメで見るやつだ───。
俺は椅子に座りこみ、心の中で深く頭を下げた。
(……柔らかかったな……)
心の奥底で、最低な感想が漏れる。
瞬間、自分の口角がわずかに上がっていたのに気づいて、慌てて口元を押さえる。
(ちがう。そういうんじゃない。……ないけど……)
さっきの彼女の表情が、ふと頭に焼きついた。
驚いて、それから、少しだけ顔を赤らめて。
───あれは、どういう意味だったんだろう。
あの恥じらいを見せる優奈の表情が、俺の脳内にフラッシュバックして感情を揺さぶり続けていた。
**
「はぁ……はぁ……も、もう……心臓うるさい……」
私はトイレの個室に逃げ込んで、壁にもたれながら必死に呼吸を整えた。
なのに、鼓動は全然落ち着かない。むしろさっきより速い。どんどん、加速していく。
頭の中に、さっきの感覚が何度もフラッシュバックする。ふわっと浮いた体、温かい腕、支えられる感触。
あの姿勢は───
(お姫様抱っこ……だよね……!?)
彼は自然に、迷いもなく私を受け止めてくれた。あの瞬間、私が転びそうになるって分かったんだ。咄嗟に、迷いなく。
しかも、ちゃんと腕に力が入ってて……それに、私を見下ろしてたときの表情。練習後で、額には汗がにじんでて。ちょっと息が上がってて。だけど、落ち着いていて。
冷静で、優しくて、何より……
かっこよすぎて。
ていうか……さっきの買い物のとき、特売の情報まで把握してたってことは……もしかして、家のこともやってる?料理とかもできちゃう……?
勉強もできて学年トップだし、努力家で、センスあって、気遣いもできて……って、えっ?
優希くんって、ただの“頭がいい人”じゃなくない……?
なんか、もう……
魅力の塊……?
って!!ちょっと待って!?私なに考えて──!?
あぁもう、落ち着いてよ私!ほんと意味わかんない!!
早く戻らなきゃ……優希くん、待ってるかもしれないし……!
……ってなんで!? なんで“優希くんに心配かけちゃう”とか思ってるの!?
なんで、そんな風に気にしてるの!?私っ!!
わかんない、ほんと、わかんない!!
なんなの!? この感じ!?
胸の奥が、なんかこう、うるさくて、あったかくて、ムズムズして、爆発しそうで……!
私……私、今……なんでこんなにも───
「ドキドキしてるの……?」
つぶやいた瞬間、顔から火が出そうになった。
思い出す。私を支えた腕の力。
ぶつけられる前にかばってくれた、あの速さ。
元運動部で鍛えていたのであろう、しっかりとした腕の筋肉……。
そして最初に聞こえた声。「大丈夫か?」って、低くて優しい、あの声……。
あんなの……あんなの、ズルいに決まってるじゃん。
ほんとに、ほんとに……
かっこよすぎて……!!
ってだから!! 違う、ちがう、ちがーーーうっ!!
私は頭を抱えて、その場にしゃがみ込んだ。
やばい。完全にやばい。
なにこれ。なんなのこの感情。
まさか、まさか私──
優希くんのこと───!
……ちがう、そんなはずない。ないないない!そんなの!ラブコメのヒロインみたいじゃん!
そんな一目惚れとか……私が認めないのに……!
けど、鼓動は止まらない。
思い出すだけで、胸が熱くなってくる。
どうしよう。ほんとに……どうしよう。動けないかも……
そう思ってるとドアが空いた。
「……ひゃぁっ!?って……ママ……?」
「あら、優奈もいたのね。ん?どうしたの?顔濡れてるけど……」
「あっ……これは……。さっきの子と練習してて汗かいちゃって……顔洗ってたの……!」
「ふーん?ふふ、深くは聞かないでおくわね」
「……うぅ」
これ、ママには多分バレてる……。
ママってなんでそういう時に限って感がいいんだろ。
でも、救世主かも。少し気が動転したからか分からないけど、鼓動が少し落ち着いたっ!
今のうちにジュースを持って優希くんの所へ戻らないと!って!?大丈夫だよね……?戻れるよねっ!?
よし!今行こう!
そう思い私は女子トイレのドアを開けた。
そして小走りで私は台所に直行して、いくつかあるうちの飲み物の中で、優希くんが好きそうな飲み物を勘で選んで防音室に戻った。
防音室へ向かうと、何やら騒がしい声が聞こえてきた。
あ、やばいかも。これ……悠真の声じゃんっ!
と思った矢先、防音室から悠真が勢いよく飛び出してきて、私に駆け寄ってきた。
「うわぁぁぁっ!? お姉ちゃん! ドロボーいるっ! 楽器触ってた!!」
「ちょ、ちょっと……! 俺は別に……許可は得てるってばっ!」
防音室の中から、焦った様子の優希くんの声が聞こえてくる。
やばい、気を抜いたらまた感情が暴走しそう……。ここはしっかりしなきゃ……!
「ゆ、悠真……。この人はね、泥棒じゃないよ?」
「はぁ……はぁ……ほんと?」
「うん、私の……友達だよ」
「で、でも! 一人で勝手に楽器触ってた……」
「そ、それは私が許可したの!」
「きょか……?ほんとに?」
「そうよ。だから、この人は悪い人じゃないの。勝手に泥棒って言っちゃダメ。彼にごめんなさいして。ね?」
「うぅ……はーい……」
少し落ち着いたみたいで、防音室の扉が開き、優希くんがゆっくり姿を見せた。
うぅ……私たちも私たちで、なんか気まずい空気になってない……?
さっきの出来事が頭をよぎるたびに、心臓がドキドキして落ち着かない。
「ごめんなさい、お兄ちゃん……ドロボーって言って」
「あはは……いいよ。謝れる子はいい子だ」
あっ……悠真の頭を撫でてる……。
な、なんでそんな優しい笑顔で撫でてるの……!
わ、私の頭ももし良ければ──
って、バカバカっ!!
何考えてんの優奈! 落ち着け!! 気を引き締めるのよっ!
「えっと……この子は、弟さん?」
「あっ……そ、そうだね。悠真って言うの。幼くて、私もママも世話するの大変で……」
「……あぁ、なるほど。……白雪さんはちゃんと姉として面倒見てあげていて立派だね」
「……っ!? そ、そう? そんなこと……ないよ?」
くっ……なんで急にそんな褒め方するの……!
もしかして、優希くんって天然……?
この手のタイプ、いちばん警戒しなきゃいけないやつじゃん……!
でも、私の動揺なんてお構いなしに、彼の猛攻は止まらない。
ひより……助けて……! どうしたらこのドキドキ、止められるの……!?
「しっかり者の姉として面倒見られるのはすごいことだよ。俺にも妹がいるんだけど……絡みが面倒くさすぎて、よくお母さんに“世話が足りない”って怒られるんだ」
「えっ? そ、そうなんだ……」
「何でもかんでも付きまとってくるしさ。だから放任気味なんだ」
「妹……。少し意外」
「そう?」
「偏見だけど……てっきり一人っ子かと思ってた」
「そ、それは本当に偏見だね……」
彼は苦笑いしつつも強く言ってこない。
今までも、そして、まさか家に来てまでも、深く詮索されない。ここまで安心してる私が不思議。
少し落ち着いた頃、弟の悠真も彼に懐いたみたいで、少しくっついて歩いてる。冷蔵庫から取ってきた飲み物を渡して少しだけリビングで話していると、玄関の方から声が聞こえた。
「ただいまぁー!今日は大漁だったぞー!」
「あっ……」
その声の主は、私のパパ──白雪雅貴。
仕事がない日はたいてい釣りに出かけていて、大漁だとその日の食卓は魚づくしになる。
でも問題なのは、ママが魚を捌くのがちょっと苦手なこと。
この流れ、我が家ではもはや恒例行事だけど──今、リビングには篠宮優希くんがいる。パパがそれを知らずに入ってくるのが、何よりの問題。
「お、優奈か。ただいま。……おや?お客さんかな?」
「パパ……」
「あ、優奈さんのお父さんですか?」
彼は動じる気配もなく、むしろ穏やかに声を返した。その落ち着きっぷりに、逆に私がびっくりする。
さっきの出来事で、きっと彼も動転してると思うのに…。
「そうとも!俺は白雪雅貴──Shirayuki DYNAMICSの代表取締役社長だ。よろしく頼む」
満面の笑みで名刺を差し出すパパ。優希くんはそれを受け取りながらも、さすがにちょっと動揺してるみたいだった。
「あなたって……もしかして、あの大手ベンチャーの……!」
「おや、知ってるのかい?」
「はい、もちろんです……!」
「そうかそうか、それは光栄だな」
「俺は篠宮優希と申します。優奈さんと同じ軽音部に所属していて、今日は練習ついでにお邪魔させてもらっています」
「なるほど、軽音部か……いいな青春!それにしても優奈、お前いい友達ができたじゃないか。よし、今日は大漁だったし、お昼一緒にどうだ?」
「えっ……いえ、それはさすがに……」
突然の流れに、優希くんも戸惑っている。そりゃそうだよね、私だってびっくりしてる。
「いいっていいって、遠慮すんな。記念だ、記念。こんなに釣れたんだ、一緒に食べてくれないと減らんぞ!」
そう言って、パパはリビングにドンとクーラーボックスを置く。蓋が開けられると、ぎっしりと詰まった魚たちが現れた。……何匹か、まだ動いてる。
「パパ……もう、どれだけ釣ってきたの……」
「ジャーン!見ろ優希くん、これが淡水魚の王様・アカメだ!しかも、こいつは……でかいぞ!」
「こ、これは……!」
目を輝かせながら魚を見つめる優希くん。魚に興味あるタイプなんだろうか……なんか嬉しそう……。
そしてこのあと、ママが「えぇ……またこれ捌くの……?」とちょっとテンション低めにキッチンに向かっていく。
パパったら、いつも魚は持ってくるくせに料理音痴だから包丁使えないんだよね……。
ママは承諾してるみたいだけど、捌くのはあまり気乗りしてない。
──それにしても、まさか優希くんとパパが並んで食卓を囲む日がくるなんて……。
私はふと、隣で嬉しそうにしつつも遠慮しようとしていた優希くんを眺めていた。
**
俺は手の震えを悟られないよう、必死で平静を装っていた。
Shirayuki DYNAMICS。
IoT技術をはじめ、次世代の生活インフラを担う事業をいくつも展開している──誰もが一度は耳にしたことのある、大手ベンチャー企業。
その代表取締役社長が、今、目の前にいる。俺が名刺を両手で受け取ったときも、心の中では『現実かこれ!?』とパニックだった。
……そりゃ、セレブなわけだ。
屋敷みたいな家、プライベートスタジオ、上品な物腰。桁が違う……年商何十億とかの次元の話だろう。俺の知る「一般家庭」とは、あらゆる意味で世界が違いすぎる。
そんな人に、昼飯をご馳走になるなんて──俺、場違いすぎないか……?
いや、でも断ったら逆に失礼だったか?
うん、大丈夫。そう思うしかない。いや、思わせてくれ。
さっきの“あの件”もあったばかりだし──そう、“お姫様抱っこ”で助けたあれだ。
優奈がもし思い出したら、どんな顔されるか想像もつかない。怒られない保証なんて、どこにもない。
とにかく今は、周囲に悟られないように、慎重にふるまうしかない。
「アカメって……聞いたことない名前……。パパ、これが食卓に出たことあったっけ?」
優奈が、魚を見つめながら首をかしげた。
「いやはや、アカメは釣ったことなかったなぁ。ただ、聞いたことはあったんだ、絶品だってな」
「……ああ、アカメってあんまり市場に出回らないから、知ってる人は少ないけど、知る人ぞ知る“幻の魚”なんですよ。クセがなくて旨味が強いし、火を通しても身がふっくらしてて、脂のノリも抜群で。照り焼きとか、カルパッチョとかにもいけるんですよ」
口が勝手に動いていた。説明しながら、自分でも「落ち着け俺」と内心でツッコミを入れる。
「へ、へぇ〜……その……詳しいんだね?」
「ま、まぁね。普段から家でも料理してるし、親の手伝いで魚もよく捌いてるから、自然と覚えたっていうか……料理自体、得意なんだ」
それは嘘じゃない。
母さんが忙しいときは、よく俺が台所に立っていた。魚も肉も、基本的な下処理は一通りできる。母さん直伝、というか──半ば叩き込まれたレベルで。
でも、こうして口にしてみると──
「……ちょ、待って。料理“得意”って……魚も捌けるの……?」
ぱちくりと目を瞬かせる優奈の声が、ほんの少しだけ高くなる。
──あ、しまった。言い過ぎたかも。
「え、うん。まぁ、ちょっとしたもんだけど」
慌てて控えめに付け加えたけど、時すでに遅し。優奈はじっと俺の顔を見て、何かを計るようにしている。
……いや、だから、そんな目で見るなって。
さっき助けたときみたいな、変な誤解されるのが一番怖い。
「す、すごい……なんでもできるんだね」
「あ、あぁ……まぁ、ほんとに大したアレじゃないよ」
気まずい。
どうしろと……?さっきのあのお姫様抱っこのせいで、手に残った彼女の太ももを支えた時の感触が理性を邪魔する。
煩悩を追い払うように俺は咳払いをした。
やめてくれ───俺はそう言う変な意味を持って優奈を助けた訳では無いっ!!
結局俺はそのまま、優奈とあまり目を合わせられなくなってしまった。
気まずさゆえに、少しだけ躊躇ってしまう。
その流れのまま、白雪家の昼ごはんにご一緒することとなった。
**
「今日は、その……ごめん。俺、軽率だった」
昼ごはんをご馳走になったあと、優奈の家の門前まで見送られた俺は、やはり一言だけでも謝っておきたかった。
だけど──
「ううん……その、謝らなくていいんだよ?」
優奈は首を横に振った。
否定の意思というよりは──何かを押し殺したような、小さな赦しの仕草。
決して、俺を責める気はない。
でも、だからといって簡単に「許す」でもない。
その曖昧さが、逆に本心を滲ませていた。
「あれは……優希くんがいなかったら、私、きっと……結構ひどい怪我してたと思うし」
「で、でも……あの抱え方は……普通じゃなかったというか……」
言いかけて、口をつぐむ。
俺自身がそれをどう捉えているか分からないのに、彼女にどう説明すればいい?
──沈黙が落ちる。
重くはない、けど軽くもない。
互いに言葉を探している、その沈黙。
ふと、優奈が口を開いた。
「あ、あのさ……優希くん」
「……うん、何かな」
「今日の出来事は……絶対、秘密にして。誰にも言わないで。……それだけ守ってくれるなら、このことは、目を瞑るよ」
その声には、震えも怒気もない。
ただ、少しだけ強い意志と、どこかに「信じたい」という微かな願いが混じっていた。
「……もちろん、言わないよ」
その一言に、俺はすべてを込めた。
それが、彼女の中にある“信頼の扉”の、ほんの少しの隙間に届くように。
俺が誰かに優奈の名前を口にしたのは、一度だけ──あの黒川との会話でうっかり出してしまった。
だからこそ、今度こそ二度と裏切らない。
この約束は、彼女の“信用”に対する俺の答えなんだ。
「……信じるからね?」
その一言が、心に深く突き刺さった。
「ああ。……約束する」
俺は一歩引いて、小さく会釈した。
あとは言葉にするより、態度で示す方がいい気がして。
「じゃあ、その……今日はありがとう」
「うん。また、次の部活で」
「ああ」
再び沈黙──けれど、さっきよりは柔らかい静けさ。
優奈は少し目を伏せながらも、そっと頬を染めていた。
何か言いたげなまま、言葉にはせず、門の前に立ち尽くしている。
俺はその姿を目の端に映しながら、背を向けた。
──大きな屋敷を背にして歩き出す。
振り返りたくなる衝動をぐっと堪えて。
彼女の表情が、さっきとはどこか違っていた気がする。
けれど、それを確かめるのは──今じゃない。
これから、どうすべきだろう。
彼女との距離、信頼、秘密──それらを、どう築いていくべきか。
帰り道、ずっとそのことが、俺の胸の中で繰り返されていた。