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【第3話】バンド結成

 最近は、この部活の雰囲気にもだいぶ慣れてきた。

 俺───篠宮優希は、軽音部で仲間たちと過ごすうちに、少しずつ楽器の知識を身につけている。

 もちろん、小テストの対策や課題をその日のうちに終わらせるルーティンは崩していない。けれど最近は、空き時間になると自然と楽器に関する動画や記事を探すようになっていた。

 軽音部員として、少しでも役に立てるようになりたい──そんな気持ちが芽生えていた。


 そんな中、今日の部活はちょっと特別だ。

 部室に集まった部員たちの前で、神谷部長がいつものように飄々とした口調で言った。

「ってことで〜、この人数ならバンドはけっこう組めそうだな。一学期の中庭ライブまでに形にするってのを考えると、経験者と初心者をいい感じに振り分けていきたいとこで〜」


 俺はまだ楽器初心者。正直、誰と組むかはかなり重要だった。

 辺りを見回しながら「誰と組めばいいんだろう」と考えていると──突然、肩を軽く叩かれた。


「ねね!優希くん、一緒にバンド組もう!!」

 明るい声に振り向くと、目の前には桐島琴音。軽音部の中でも一際にぎやかな存在で、典型的な陽キャ女子だ。

 しかも彼女は、隣にいた白雪優奈の手を無理やり引っ張るようにして俺の前に連れてきていた。


「ちょ、ちょっと!琴音ちゃんっ!」

「ほらほら、優奈も一緒に組もうよ!優奈がいるだけで、うちのバンドの魅力度100倍だから!」

 優奈はやや不服そうに唇を尖らせていたが、琴音の勢いには抗えない様子だった。


 ──俺と組む、か。

 もちろん嬉しくないわけじゃない。ただ、白雪優奈は部内でも指折りの実力者。ギターもボーカルもこなす、完全な経験者だ。

 俺なんかが一緒のバンドに入って、足を引っ張らないかと不安がよぎる。


「その……俺も頑張るけどさ。たぶん、いろいろ手間かけちゃうと思うし……無理して俺と組まなくてもいいよ?」

 一応、そう伝えたつもりだった。だが──返ってきた反応は予想と違っていた。


「なーに言ってんの! 教えるのも部活の醍醐味ってやつよ? ぜーんぜん気にしないで♪」

 琴音はにこやかに笑って即答し、優奈も少し視線を泳がせながら、ゆっくりと言葉を継ぐ。


「わ、私は別に……優希くんと組むのが嫌とかじゃないよ。ただ、琴音が勝手に引っ張ってきたのはちょっと納得いかないってだけで……。その、責任とか、感じる必要はないと思うし」

 ……もしかして、これって、俺と組むこと自体には反対してないってことか?


「いいのか? 女子は女子同士で組むとか、そういうの気にしたりしないのか?」

「別に〜? むしろ、絶好のチャンスだよ、優希くん!」

「えっ? な、なんの話?」

「え〜分かってるくせに〜」

「お、おい、近いって……!」

 琴音がにじり寄ってきて、俺の顔をのぞきこむようにしてくる。

 彼女の無邪気な笑顔にどう対処していいかわからず、俺は少し顔を背けた。


「ふふっ、やっぱり優希くんって、女の子に対して免疫ない感じ〜?」

「……どういうつもりでやってんだよ」

「うわぁ〜ん、怒った〜優奈ちゃん助けて〜!」

 茶番めいたやり取りをしながら、琴音は優奈に助けを求めるように身を寄せる。

 しかし優奈は目を逸らしながら、少しだけ口元を緩めて言った。


「えっ? いや、それは……その、自業自得ってやつじゃ……」

「え〜! 誰も味方いないの〜?」

 和気あいあいとした空気の中で、俺たちのバンドは、なんとなく──でも確実に、結成されようとしていた。


「なぁそこの3人!この3人はバンド組むの確定か?」

 部長──神谷先輩が声を張る。軽音部の空気が一瞬、ピンと張り詰めた。

 確かにこの俺らの3人で組む話はしていたが、まだ「決定」とまでは言っていない。


「えっと…まだ相談して───」

「決定ですっ!!!!」

「「えっ?」」

 俺と優奈、完全にハモった。

 ……いや、今のタイミングおかしいだろ。まだ何も言ってない。


「おお、決定か!了解了解〜。楽器的にはもう1人2人ほしいとこだな」

「琴音……!なんで私まで……!」

「しーっ!優奈ちゃんがギタボやるからバランス最高なの!で、ドラムがいないからさ〜……あ、部長!部長ドラムいけますよね!?」

「ん?俺?おー、やっていいのか?」

「ぜひっ!!」

「おいちょっと待て琴音さん、勝手に───」

「いいじゃーん!先輩のドラムで一気にバンド完成度アップだしっ!」

「よし、ドラム俺ってことで決定だな!」

「はいっ!これで決まり!」

 ──って、え、待って。今、何秒だった?

 流れるようにバンドが編成されていた。誰もブレーキを踏めないまま、言葉の波に押し流されるみたいに。

 俺、白雪優奈、桐島琴音、そして神谷部長。

 仮入部の時に見かけた顔ぶれが揃っている。

 けど……いや、冷静になれ篠宮優希。

 この中で楽器初心者──俺だけじゃね?

 部長、自分でさっき「初心者と経験者のバランスよく〜」とか言ってなかったっけ?

 ……発言、軽っ。いや、琴音の勢いがすごすぎて強制決定になってた感もあるけど。

 口を挟むタイミングすらなかった。というより、琴音の勢いに完全に飲まれていた。

 でも、不思議と嫌な感じはしなかった。むしろ、ワクワクしている自分がいるのが分かる。

 目の前には、才能と情熱のある仲間たち。

 俺も──その輪の中に、入ってみたいと思った。


「おっしゃ〜私たちのバンド決まったねー!よろしくね、君たち!」

「琴音……。えっと、よろしくね」

 バンドの雰囲気の一角は、琴音が仕切っているようだ。

 隣の白雪さんはと言えば、少し引き気味だ。

 部長は周りの部員達の様子を見るのに時間を割いている。


 バンド結成、という名の即決イベントが終わると、部長の「じゃ、今日はこのへんで解散な!」という掛け声とともに、その場は一旦お開きになった。

 軽音部の部室を出た俺たちバンドメンバー四人は、昇降口まで並んで歩く。


「──とはいえさ」

 口火を切ったのは、やっぱり琴音だった。

「いきなり『組んだね!じゃあ解散!』ってのもあれだしさ〜。どういう風に練習してくとか、ちょっと決めとこ?」


「それは……うん、私も思ってた」

 優奈が珍しくすんなり同意する。そして、

「せっかく組んだんだし、曲選びとか練習方針とか、やること多いと思うし」

 と続けた。

「そだねー!じゃあさ、近くのカフェ寄ってく?みんなで軽く作戦会議ってことで!」

「おっ、いいな。俺、ちょうど甘いもん食べたかったとこ」


 またまた即決してカフェに行くことになる。

 カフェに向かう途中、周りの人達から妙な視線が向いているかと思えば、その視線の全てが白雪優奈に対して向けられていた。

 衝撃的なのだろう。

 実際、ここまで顔立ちが整った人は居ないだろうし、かなりビビる。

 そんなことを思いつつ、カフェに到着すれば、丸テーブルを囲んで座り、メニューを頼み終えた頃には話題が本題に移っていた。


「で、まずは練習の頻度だよね。週に何回ぐらい練習入れる?部活日も含めて」

 琴音が早速話題を振る。

「うーん、俺はまだベース始めたばっかだから、個人練もしたいけど……誰かと一緒のほうが練習しやすいかな」

「私も同じかなー。キーボード、まだ慣れてないし。コード押さえる指、変な方向行く時あるし」

「はは、最初はみんなそうだよ。俺もドラム最初叩いたとき、スティックすっ飛んでったしな」

「……それフォローになってます?」

「なってるって、安心しろ!」

 神谷部長は、頼れるのかふざけてるのかよく分からない笑顔でウインクした。


「でも実際さ、練習場所ってどうする?学内は部活時間だけだし、あんまり音出せないよね」

「……それは、そうだね」

 優奈が珍しく、声を落として少し考え込む。

「スタジオみたいなやつなら、私の…家の近くにならあるけど。防音設備しっかりしてるし……てもね……」

 優奈が少し口ごもるのを見て、琴音がすかさずノッてくる。


「えーほんと!?それじゃあ決まりじゃん!じゃあ最初の練習、そこにしよ!何曜日がいい?」

「ちょ、ちょっと待って、まだ……」

「え〜?じゃあ今週末とかどう?土曜の午後とか空いてる人〜?」

「俺は大丈夫」

 琴音の提案に、部長も頷く。

 そのまま勢いで話が進みかけたとき、ふと気になった。

 ──あれ、白雪さんの顔、なんか引っかかる。

 さっきから、何度か視線を逸らしては戻すような、そんな挙動が続いていた。無理して笑ってるわけじゃないけど、どこか「合わせてる」ような感じがした。


「いやいや、待って2人とも。先輩もです」

 俺は思わず言葉を挟んでいた。

 ……たぶん、琴音の勢いに飲まれてみんな気づいてない。でも、あの反応はどう見ても、ノリノリってわけじゃなかった。

「えっと……白雪さんは……あまり乗り気じゃないみたいだけど」

 そう言った瞬間、場の空気がふっと静まった。

「……優希くん……」

 優奈が、驚いたように俺を見た。その瞳は、少し見開かれて──でも、どこか安堵のような、何かを受け取ったような、そんな色を帯びていた。

 


「えっ?そうなの?」

 琴音がキョトンとした声を出し、神谷先輩も優奈に視線を向ける。

 俺が勝手に勘ぐっただけかもしれない。でも、あの時の言い方には、どこか言い淀むような空気があった気がした。


「俺の勘違いならごめんだけど……なんか、白雪さん、ちょっと迷ってたように見えたというか」

 できるだけ角が立たないように、言葉を慎重に選んで告げる。

 すると──優奈がふっと小さく笑った。ほんの一瞬、安堵したように。


「ごめんね、私、ちょっとだけ嘘ついちゃってた。スタジオって……その、家の“近く”じゃなくて……」

 一拍置いてから、優奈はぽつりと続けた。

「私の“家に”あるの」

 ──ああ、やっぱり何かあったんだな。……って、え?

 ……家に!??


「「「ええぇぇぇっっ!?!?」」」

 カフェの中だというのに、俺たちは遠慮なく爆音リアクションをかましてしまった。

 ……そりゃあ、言い淀むのも無理ないわ。


「ご、ごめんなさい……変な言い方して……」

 優奈は頬を染めて俯いてしまった。

 しまった。これはもしかして、無理に言わせる流れになってしまったのか……?と、一瞬だけ罪悪感が胸を掠める。

 でも次の瞬間、琴音と神谷先輩は目を合わせ──あっという間に通常営業に戻っていた。


「えっ、まって!優奈ちゃんちって家にスタジオある系女子なの!?セレブ!?超セレブ!?どこのお城に住んでんの!?」

「すげぇ……まじか……俺、ドラムよりそっちが気になってきたわ……」

 いや、それは言い方を考えるべきだろう…。けど実際、スタジオ完備の家なんてそうそうあるわけがない。


「……っ」

 ふと、優奈の目が一瞬だけ鋭くなったのを俺は見逃さなかった。

 その一瞬の表情に、わずかな拒絶の色が混じっていた気がした。


「えっと……一応、ね」

 優奈は苦笑するように答える。


「そ、そんな……!私、まさか超絶セレブなお嬢様にあんな軽口叩いてたなんて……っ!申し訳ございませんでしたああああっ!」

 そう叫びながら、琴音は机におでこをゴチンと叩きつけた。まさかの土下座ポーズ。


「ち、違うよ琴音!そんなの全然気にしてないから!」

「いえ!優奈様の足元にも及ばぬ下賤の者が──ッ!」

「も、もう……やめて……っ」

 優奈は顔を赤くしながらも、ついに吹き出してしまった。

 琴音の謎テンションと土下座芸(?)がツボに入ったらしい。

 俺もなんとか平静を保とうとしたが、心のどこかで思ってしまう。

 ──やっぱり、住む世界が違うんじゃないか、って。


「白雪さん、それって……本当なの?」

 つい気になって、俺は聞いてしまった。今の話が現実感なさすぎて、脳が追いついてなかった。


「あ……うん。私、昔から音楽が好きで。そしたら、パパが“じゃあ作ろうか”って……家の一角に防音室を工事してくれて」

「工事って……それ、めっちゃ金かかるやつじゃん……」

「うん。でもパパ、“優奈のやりたいことなら全部叶えてやる”って、昔からそうだから……」

 ……いや、親の愛情ってすごいなとは思うけど、だからって即スタジオ作っちゃう親って、どんな魔法のカード持ってんだよ。


「まじか……パパ、チートキャラじゃん……」

 神谷先輩がボソッと呟いたのが聞こえた。

 俺は視線を優奈に戻す。

 笑ってるけど、少し照れてるようなその顔は、いつもよりずっと身近に見えた。

 ──ああ、遠く感じたのは、俺が勝手に距離を置こうとしただけだったのかもしれない。


「てか、それじゃあ優奈ちゃんは……もしかして楽器も……?」

「えっ?あ、うん……一式あるよ」

「……ちなみになんだけど、その、メーカーさんとかって……?」

「えっと……ギターとベースはFenberで、ドラムはYomahaかな。あと、キーボードはLolandで……アンプやミキサー、それにスピーカーとマイクもあるよ」

 ──うん、ちょっと何言ってるか分からない。

 楽器経験の浅い俺には、メーカー名なんて上の空だった。でも、琴音の顔がみるみる固まっていって、完全に口ポカーン状態になってるのを見る限り、たぶん相当ヤバいやつなんだろう。

 隣の神谷先輩も、目元が若干ピクついていた。笑顔を保ちながらの本気の引きつりって、あれだろうか。


「一式揃えんのに、どんだけ金かかるんだよ……」

 部長が呆然とした声でつぶやく。震えてた。あの神谷部長が。

 確か、家では趣味でギターをやってるって言ってたけど、それでも機材揃えるのにかなり苦労したらしい。

 

「も、もう私はよく分からないです……ギターは特に好きだから、自分でバイトして買ったんですけど……」

「うんうん、それは分かる」

「でも、他の楽器は……私が“ちょっと他のも触ってみたいな”って言ったら、いつの間にか揃ってて……」

「いやいやいやいや!なにその“いつの間にか”って魔法みたいな……!」

 さすがに神谷先輩がツッコミを入れる。俺もちょっと引き笑いが出た。いや笑うしかないだろ、これ。


「ほ、ホントなんです!おかしいですよね……親が私のことを、必要以上に贔屓するんで……」

 そう言った優奈は、どこか気まずそうに、けれど微かに笑っていた。その笑みは照れとも困惑ともつかず、どうにも読み取りづらいものだった。


「えーいいなぁ。ウチも親に、超高いギターが欲しいなぁ〜ってせびったら買ってくれる世界線にいたいわ〜」

 琴音が頬を膨らませながら言うと、優奈は苦笑いを浮かべる。それは「そういう話じゃないんだけどな」と言いたげな表情だった。


 ──贔屓、か。

 もし優奈が本当にそんな家に育ったとしたら、きっと周囲には豪邸があるって話くらい出回ってるはずだ。

 けど、「白雪」って名字は、俺の知る限り地元じゃ聞いたことがない。そもそもあんな設備、金銭感覚がおかしいとしか言いようがないし、それを「勝手に揃ってた」なんて、現実味がなさすぎる。

 一体どんな仕事をすれば、あんなセレブ生活が成り立つんだ。


 俺は目の前のダークモカチップフラペチーノを飲み干し、ふと優奈の方を見やった。

 彼女はまだ視線を落としたまま、ストローをくるくるといじっている。

 けれど──その仕草さえどこか洗練されていて、隙がない。言ってしまえば、完璧すぎる。


 ……正直、まぶしい。

 同い年で、同じクラスで、部活まで一緒のはずなのに。

 こうして向かい合っていても、まだ“別世界の人”って感覚が拭えなかった。


**


 それからもカフェの席では、神谷部長と琴音の怒涛のトークが止まらなかった。

 音楽の話はもちろん、最近の流行りの動画から、学園の七不思議の話まで。気づけば、辺りの空はすっかり橙色に染まっていた。


「やば、もうこんな時間!?」

 時計を見た琴音が跳ねるように声を上げた。

「親に連絡しないと……っていうか、帰りのバスギリギリじゃん!」

「そろそろ帰るか。さすがに遅いしな」

 神谷部長の一声で、俺たちはそれぞれ財布を取り出し、注文した分を代金を大雑把に収集した、部長が細かい金額の部分を多く支払ってくれたので、少しだけ得だった。

 外に出ると、夕暮れの風が頬を撫でた。春のはずなのに、夜はまだ冷える。上着が欲しくなるような寒さだった。


「私、このバス停の方だから!また明日ねー!」

 琴音が手を振って駆けていく。髪が揺れて、元気な笑顔が夜の灯にぼんやりと浮かんだ。


「俺はこの道を真っすぐ行った先だ。2人は電車だよな。じゃあ、また明日な」

 神谷部長も手をひらひらと振って、背を向ける。

 ──そして。

 気がつけば、残ったのは俺と白雪優奈、ふたりだけだった。

「……」

「……」

 言葉が出ない。

 さっきまで、あれだけ賑やかだったのに。周囲の音が急に遠くなったようで、沈黙だけがやけに重い。

「……駅、こっちだよね?」

 口火を切ったのは優奈だった。少し遠慮がちで、でも確かに俺に向けて話しかけてくれていた。

「あ、うん。一緒に、行こっか」

 並んで歩き始めた。

 距離は──微妙だ。肩が触れるほど近くはない。けれど、妙に気になってしまう距離。

 喋ろうにも、何を話せばいいか分からない。

 この沈黙が嫌ってわけじゃない。でも……どこか、落ち着かない。

「ね、ねぇ、優希くん」

 歩きながら、ふいに優奈が言った。

「白雪さん……。えっと、なにかな?」

「さっきは、ありがとう」

「えっ……?」

 優奈が俺に頭を下げている。

 まさかお礼を言われるとは思ってなくて、ちょっと反応が遅れた。

「ほら、あの時……。私が言い淀んだときに、琴音ちゃんと神谷先輩が乗り気になってたのを止めてくれたじゃない」

「あ、ああ……あれか」

 思い出した。優奈が少し話したくなさそうな空気を出していたあのとき。

「いや、全然。お礼なんて……その、当たり前のことしただけだから」

 照れ隠しのつもりで言ったけど、声がどこかうわずってた。

 優奈は、「そっか」と小さく笑った。

 ──ああ、まただ。

 笑うと、なんか安心する。きっと、さっきのカフェよりも、さっきの部活よりも、いちばん自然な笑顔をしていた気がする。

 

 無言のまま、二人で歩く。

 カフェを出てから、もう数十分は経っていた。 

 会話がないことに、気まずさはなかった。むしろ、こうして黙っていても自然でいられることが、少し不思議だった。

 でもそれは、俺にとっての話で──彼女の心の内までは、まだ読み取れない。

 やがて、ぽつりと──


「……ねぇ、優希くんってさ」

「ん?」

 その声には、少し躊躇が混じっていた。けれど、その問いは真っ直ぐだった。


「……無理に、聞いてこないよね。私のこと」

 足元の石を、つま先で軽く蹴りながら。彼女は前を向いたまま、目線を合わせない。


「……それは、うん。なんか……聞いちゃいけない気がするから」

 素直にそう答えた。誤魔化す気にもなれなかった。

 すると、優奈は少しだけ目を丸くして、驚いたような顔をした。

 ほんの数秒だけ、沈黙。

 それから、ぽつりと──


「……ありがと」

 囁くような声だった。

 夕暮れの風が吹いた。制服の袖を揺らし、微かに甘い香りが混ざった気がした。

「……私がさ、なんか……男子から、よく告白されてるの、優希くんも見てるよね?」

「えっ……?それは……まぁ。不可抗力で」

 反射的に返したその言葉に、どこか苦笑いが混ざる。

「私、自分でも変だなって思うの。別に何もしてないのに。……ただ話しかけられたくないから避けてるだけなのに、いつの間にか“冷たい”とか“高嶺の花”とかって言われてて」

「……」

「怖いんだと思う。関わった人が、また……」


 言いかけて、彼女は言葉を飲み込んだ。代わりに、息を吐くようにして話を逸らした。

「優希くんは、自分を飾らない感じがするなって思った。最初はもっと、元気ハツラツ系かと思ってたけど……意外と落ち着いてるんだなって」

「えっ?ま、まぁ、元気ハツラツではないかな……」

 苦笑しながらそう言うと、彼女もわずかに笑った。けれど、それは本当の意味での笑顔ではなかった。


「──聞きたいことがあるんだけど、いい?」

「うん」

「……どうして、軽音部に?」

 その言葉に、俺は少しだけ足を止めた。

 彼女も、立ち止まる。

 すれ違う人の波に、わずかに肩が触れる。

 彼女はまっすぐに俺の目を見ていた。瞳の奥には、疑念と──少しの希望が混じっていた。

 ──これは、試されている。そんな気がした。


「……新しいことに挑戦したいって気持ちがあって。いろんな部活を見て回ったんだけど──」

 一呼吸置いて、続ける。

「この場所なら、自分でも何か頑張れるかもしれないって、そう思ったんだ。……それだけだよ」

 優奈は、ゆっくりと視線を逸らした。

 その頬が、ほんの少しだけ赤くなっているように見えたのは、夕焼けのせいか、それとも。


「……そう、なんだ」

 どこか安心したような、けれどまだ全部は信じきれていないような、そんな曖昧な声。

 俺は歩き出しながら、ぽつりと続ける。


「どう読み取るかは、白雪さんの自由だけど──」

 その声に、彼女が目を向ける。

「白雪さんが軽音部に居てくれて、俺は……すごく頼りになるって思ってるよ」

 その一言に、彼女は完全に足を止めた。

 信号待ちの交差点。立ち止まったまま、優奈はわずかに息を呑んでいるように見えた。

「……私が、頼りに……?」

「うん。演奏すごく上手だし、それに、空気をちゃんと読める人だって思ったから」

「……そんなふうに、言ってもらえるとは思ってなかった」

 彼女は俯き、指先でスカートの裾をつまんだ。

 それは、優しさに触れて、うまく受け止められない少女の仕草のようだった。

 ほんの少しの沈黙が流れたあと──彼女がぽつりと呟く。


「……優希くんって、ズルいね」

「えっ? な、何が?」

「ううん。なんでもない」

 小さく首を振る。けれどその横顔は、どこかくすぐったそうに微笑んでいた。


 駅につき、在来線が一本来たかと思えば中はかなりの人が乗っていた。都内の満員電車のような、おしくらまんじゅう状態では無いものの、それなりに乗客がいた。

 優奈と俺は列車の吊革に捕まると、しばらくの間は無言が続いた。

 少しして駅の到着のアナウンスがなる。すると優奈は、「私ここだから」と言って降りる準備を始めた。彼女は、俺が降りる駅より2つ前の駅で降りるらしい。


「今日はありがとう。お疲れ様、優希くん」

「こちらこそ。気をつけてね」

「うん」

 短い会話を交わして彼女は電車の外へと出た。

 ふと窓から外を見ると、彼女と目が合ってしまいすっと逸らしてしまった。

 去り際の彼女が、どこか寂しげな顔をしていたように見えたのはきっと気のせいだろう。

 乗り過ごさないように、俺は電車の吊革を握りしめた。


**


「……」

 在来線がホームを離れていく。

 私──優奈の胸には、不思議な感情が残っていた。どうしてだろう。彼と話すときだけは、不思議と怖くなかった。

 正直、あの神谷部長ですら、私はまだ警戒している。あの人はノリが軽くて、距離も近くて、どこか踏み込んでくる感じがするから。だから私は、あえて好意を見せないようにしているし、好意と誤解されないように細心の注意を払っている。

 それは、たとえ部活の中であっても変わらない。平常心を保つために、私は無意識のうちに、無理をしているのだと思う。

 ……なのに、優希くんだけは、どこか違った。


「……帰らなきゃ」

 小さく呟きながら、私は改札にスマホをかざし、駅の外に出る。賑わう商店街を抜けて、住宅街の静けさの中へ。やがて、見慣れた白い門構えの家が見えてきた。

 ──彼の、軽音部に入った理由を、私は訊いた。

 嘘はついてないと思う。直感で、そう感じた。でも、それだけじゃ拭えない引っかかりもある。きっと、それは私の中に残る──あの過去の傷のせいだ。


「信じたいのに……信じきれないなんて」

 優希くんは、私に対して何かを押しつけてこない。変に取り繕わないし、距離も保ってくれる。彼は学年首席で、文武両道。なのに、それを鼻にかけるようなところは一つもなくて……むしろ、そういう部分を隠しているかのように、謙虚すぎるくらいだった。

 普通なら、そんな人には近づきがたさを感じてもおかしくないのに──私は、なぜか話していたいと思ってしまう。


「……あんな態度、取らなきゃよかったかな」

 私は、私の中に芽生えたちいさな後悔に気づく。彼に向けた、疑いのまなざし。きっと、悪気があったわけじゃない。ただ、私が過敏になりすぎているだけで。


「なんか……考えすぎちゃうな」

 頭に浮かぶのは、親友のひよりのこと。彼女が話してくれた恋の話。羨ましいと思う反面、自分にはまだその気持ちが分からない。

 ──本当は、私だって。

 信じられなくなった自分が、少しだけ嫌だった。

 玄関のドアを開けると、明かりが漏れていた。


「ただいま」

「おかえり、優奈」

「おかえりー!お姉ちゃん!おそいね!どこ行ってたの?」

「悠真……えっとね、友達とカフェで話してたの」

 白雪悠真(ゆうま)──私の弟。小学二年生で、私と同じ白い髪を持つ元気いっぱいの男の子。無邪気で自由奔放すぎて、ママも私もいつも振り回されてる。


「優奈、夕飯あるわよ。レンジで温めて、ちゃんと食べなさいね」

「うん、ありがと」

 私はリビングに入り、リュックをソファに放ってレンジへ直行した。だけど……。


「うぅ……カフェで頼みすぎたかも」

 温めながら、ママの張り切りメニューにちょっと苦笑いを浮かべる。

 大きなハンバーグにサラダ、スープ、ほうれん草のおひたし。すごく豪華で、ありがたいけど、ちょっと重い。

 頑張って箸を進めるけれど、全部は食べきれなかった。


「……もう無理かも」

「お姉ちゃん、残すのー?じゃあボクが食べてあげる!」

「えっ、いいの?ありがと、悠真」

 悠真は嬉しそうに残りのハンバーグを平らげてくれた。助かった。こういうとき、やっぱり弟がいてよかったって思う。

 食事が終わると、自室に戻る。

 今日あったことを、ゆっくりと頭の中で整理していく。優希くんの言葉や、表情。彼のまっすぐな目。

 ──まだ、信じきれるわけじゃない。でも。

 ほんの少しだけ、信じてみたいって思えた。


 部屋に戻って少しして、私はため息をついた。

「あれ……。あ、スマホ置きっぱなしかも…」

 少し気だるげな気持ちになるけど、スマホはないと色々困る。という事で、そのまま階段を下りた。

 夜の空気は静かで、リビングから漏れる照明の柔らかい光が、家の中に優しさを滲ませている。

 廊下を抜けてキッチンの扉をそっと開けると──


「ふふ、それでね、あなたが酔っぱらってソファで寝てたあのとき──」

「ちょ、それはもう時効ってことで……」

 控えめな笑い声と、グラスが軽くぶつかる音。

 驚いて目を向ければ、ママとパパが並んでキッチンカウンターに座っていた。二人の手元には、澄んだ琥珀色のワインが注がれていて、パパの顔はうっすらと赤い。こんな風に二人でお酒を飲む姿なんて、めったに見ない。


「……あら、優奈。どうしたの?」

 ママが優しく微笑みながら、振り返る。

「スマホ……置いてきちゃって。取りに来ただけだから、気にしないで」

 私はカウンターに置かれていたスマホを手に取る。けど、そのまま踵を返せなかった。

 どこか──この空気が、心地よかった。

「優奈も座って。ちょうどよかったわ、ね?」

 ママのその一言に、パパもこくりと頷いた。

「そうそう。たまには一緒に話そう。家族水入らず、だ」

 なんだか照れくさかったけれど、私はカウンターのスツールに腰を下ろした。目の前に置かれたグラスには、代わりにハーブティーが注がれていく。


「今日は学校どうだった?」

「……うん、まぁ。それなりに」

「『それなりに』っていう言葉を、優奈は便利に使いすぎよ?」

 ママが小さく笑う。その笑いに釣られて、私も少しだけ口元を緩めた。


「部活はどう?楽しめてる?」

「うん……。最近、ちょっとずつ慣れてきた」

「よかった」

 その一言に、ママの心底安堵したような微笑みが添えられる。

 私は──少しずつ、この家の中では警戒心を解けるようになってきてるのかもしれない。

 だけど、パパはというと、目を細めながら私をじっと見つめて、ゆっくりと切り出した。


「なぁ、優奈。将来のことって……考えたりしてるか?」

「将来?」

「ああ。進学でも、夢でも、仕事でも……なんでもいい。もちろん、まだ先の話だって分かってるけどな」

 私は少し考えた。

 将来。

 それは、あの“事件”があってから、どこか曖昧にしてきたものだった。目標を持っても、それが誰かと関わることである限り、また裏切られる気がして。


「……正直、まだよく分からない。でも、軽音部に入ってみて、やっぱり変わらず音楽は好きだなって思った」

「ふふ、それだけでも十分よ」

 ママが柔らかく頷く。

「好きなことに打ち込めるのって、それだけで価値のあることだから」

「うん……」

 私が小さく頷くと、パパが急に声のトーンを変えた。

「でもなぁ。将来って言うと、やっぱりパパとしては……」

 そう言って、グラスをくるくると回しながら照れくさそうに笑った。

「優奈も大きくなったら、素敵な夫を作って欲しいなって思ったもんだよ」

「パパ……」

 私は眉をひそめて目をそらす。ママは吹き出しそうになりながら、でもパパを止めなかった。

「優奈が結婚式を挙げる日が来たら、稼いだ財産をフルに使って最高の結婚式にしてあげるからな」

「気が早いよパパ。っていうか、パパがそう言うと重いの。恋愛の話、されるの……ちょっと、困る」

「うーん、そうかぁ。パパとしてはな、優奈みたいな子を大切にできる男が出来てくれれば凄く嬉しいんだよ。一度きりの人生、幸せなまま過ごしたいものだろう」

「……それ、ただの親バカ」

「あはは!親バカでも構わんよ!」

 パパが即答して、グラスを口に運ぶ。

 でも、その“親バカ”がどこか、あたたかくて──胸の奥が少しだけ、締めつけられる。

 ママはそんな空気を察して、ふと表情を和らげて言った。


「優奈。恋ってね、焦ってするものじゃないの。誰かに出会って、信じられるって感じた時が、その時なんだから」

 その言葉が、胸に静かに染みた。

 ママは知ってる。私が、過去に信じた人に裏切られて、人間不信になったことを。心を閉ざして、誰も信じられなくなったことを。


「……私は、信じたくても信じられないままなの。まだ、怖いよ」

「いいのよ、それで。無理して笑うことも、無理して好きになることもない」

 ママの声は、とても優しかった。まるで、心の傷を知っているからこそ出てくる、包むような温もりがあった。

 パパは黙って、ワイングラスを傾けていた。パパは人の話を遮らない人だから、ママが話してる時は必ず聞くモードになる。けれど、言葉にはしなくても、ちゃんと分かってくれてる。

 ああ、こうしていると、少しだけ楽になれる気がする。


「……ありがと。二人とも」

 ぽつりと漏れた私の言葉に、ママが優しく微笑み、パパは少しだけ目を細めて頷いた。


**


「ひより、今いい?」

 と、私はまたひよりへ電話をかける。

 これはいつの間にか日課みたいになっていたけど、それでも彼女は、まるでずっとこの瞬間を待っていたかのように、毎回明るく応えてくれる。


『もしもーし!お疲れー。どした?』

 いつも通りの、軽やかな声。

 それだけで、少しだけ胸の中のもやが薄まる。


「ひより……ちょっと相談事。前に話した件で」

『前に話したこと……?あ、えっと、篠宮優希くんだっけ?その子のこと?』

「……うん」

 自然と、頷いていた。

 電話越しだから見えてるわけないのに、なんとなく声も小さくなってしまう。

 今日の出来事は、言葉で表せない。自分でも変な感覚だった。本入部で感じたあの感覚とは、近いようで遠いような。

『へぇ~?珍しいじゃん、優奈が自分からそんなふうに言うなんて。なにか進展でもあった?』

 からかうようなひよりの声。

 でも、それがちょうどよかった。重くならなくて済むし、冗談めかして笑えば、心の中の不安も少し誤魔化せる。


「今日ね、バンド組むことになったの。優希くんと。あともう一人の子と部長の4人で、正式に」

『わお!すご!ついに本格始動じゃん!』

「うん、それで……その後にちょっとだけ優希くんと一緒に帰ったの。私が降りる駅までだけど」

『へえ~?へぇ~~?』

「からかわないで」

『ごめんごめん、でもちょっと驚いてる。優奈って、普通だったらそんなの断ってたでしょ?』

 そう。いつもなら断ってる。

 誰かと一緒に帰るなんて、怖くて無理だった。

 気を抜いた瞬間、傷つけられるような気がして、誰かと二人きりになるのが苦手だった。

 もし本当に警戒しているなら、あの時琴音と神谷部長がそれぞれの帰路に着いてからは、彼を置いて一人で帰っていたと思う。


「でもね……今日も、やっぱり怖くなかったの。警戒心とか、出てこなくて。優希くんと話してると、いつもすごく自然で……」

『うんうん』

「……なんでだろ。私、あんなふうに普通に笑ったの、久しぶりだった気がする。あと……いつもなら無意識に距離をとってるのに、今日は隣に立たれても嫌じゃなかった。なんなら……少し落ち着いたくらい」

 言葉にして気づく。私は今日、本当に彼に対して心を開きかけていたんだ。


『ふーん、なるほどね。それってつまり、優希くんのことを───』

「ち、ちがっ……!いや、違うっていうか、そういう意味じゃなくて……っ」

 慌てて否定する。でも、ひよりは笑って受け止めてくれる。

『わかってるって。でも、怖くなかったっていうのは、すごく大事なことだと思うよ。今までの優奈を見てきたから、よけいに』

「……うん」

『でさ?その優希くんって、今まで優奈にどんなことしてくれたの?』

 そう聞かれて、私は少し考えてから、ぽつりぽつりと思い出を紡ぐように語り出す。


「最初は仮入部の日だった。初めて会話して……それも、別に無理して話しかけてきたとかじゃなくて、自然に、って感じで。その後も、必要以上に距離詰めてこないし、でも避けるわけでもなくて。何ていうか、こっちのペースを見てくれる感じ」

『ふんふん』

「本入部の日は……私自身、警戒してるつもりなのに話しかけれた。それも自然にね」

『なるほどね〜』

「バンド結成した今日なんかは……カフェでバンドメンバーと話してて、私がちょっとテンパってるのに気づいて、さりげなくフォローしてくれて。」

『へぇ、さりげなくね』

「うん。しかも、押し付けがましくないの。ちゃんと、私のこと見てて、でも無理には関わってこなくて……しかも、彼は首席なのにすごく謙虚」

『それ、めちゃくちゃレアなタイプじゃん』

「そうかも……」


 私はスマホを見つめたまま、静かに息を吐いた。

 目を閉じると、今日の帰り道がふっと浮かぶ。

 笑い合った瞬間。コーヒーの匂い。春の風。

 あの人は、人付き合いを目的に軽音部に入ったわけじゃない──そう言っていた。その言葉に、嘘はなかったと思う。私には、ちゃんとそれがわかった。


「……私、まだ完全には信じられないけど」

『うん』

「でも……ちょっとだけなら、信じてみてもいいのかな、って思った」

 それが、今の私の精一杯だった。

 ずっと疑い続けてきた。けど、今の自分がそのままでいいのか、わからなくなってきた。


 全てを切り離してきた私。

 でも、過去はもう、過去の出来事でしかない。

 きっと今は、変わるための転機。


『うん。それでいいと思うよ。全部を信じる必要なんて、まだない。でも、“ちょっと信じてみたい”って気持ちは、すごく大事だから』

 ひよりの声が、心に沁みた。優しく、背中を押してくれる。


「……ひより、ありがと」

『どういたしまして。そうやってちゃんと悩んでる優奈のこと、私は誇りに思うよ。だからさ、もし篠宮優希くんが本当にいい人なら、少しずつでも前に進んでみなよ。……大丈夫。優奈なら、きっとできる』

 胸の奥が、少しあたたかくなった。

 不安も怖さもあるけど……その隙間に、小さな希望が芽生えている。


「……うん。やってみる」

『よし、がんばれ。あとでまた報告してね?』

「もちろん」

『私、人付き合いについては優奈の大先輩だもんね?』

「ほんとに。元カレと“ありがとう”って抱き合って別れたとか、何度思い返しても天才すぎ」

『あはは!やった〜優奈に褒められた〜!』

「ふふ、本当にリスペクトしてるんだよ」

 こうやって話していると、胸に引っかかっていた棘が少しずつ抜けていくような気がする。


「ひより、なにかアドバイスない?私はどうしたらいいと思う?」

『うーん?それならさ、もしまた優希くんと話す機会があったら、警戒せずに“普通の人”として話しかけたら?』

「普通に───か」

『そう。きっと彼なら、変に詮索とかしないと思うよ』

 その言葉には、妙な説得力があった。

 ───信じてみようかな。

 この人だけは、もしかしたら、違うかもしれないから。


「私……頑張ってみる」

『ふふ、無理はしないようにね。進展あるといいね、優奈にも素敵な彼氏ができて、幸せになってくれたらいいなぁ』

「ちょ、ちょっと、それって私が優希くんと付き合うって言いたいわけ!?」

『それはどうかな?ふふ、でも私は楽しみかも。次の報告、待ってるよ』

「も、もう……」

 ──付き合う、か。

 少しだけ、想像してしまった。

 もし私と優希くんが、そうなったとしたら……

 彼なら……私のトラウマを、拭ってくれるのかな……って、ちょっと待って、なに考えてるの、私っ!?


 ひよりとの通話を終えて、私は思わず枕に顔を押し付けた。

 中学のときに受けた裏切り。そのトラウマがずっと胸に刺さってた。

 でも、もしかしたら、それももう終わりに近づいてるのかもしれない。

 頑張って受験勉強して、ここに来てよかった。

 ───彼は、今のところ、私が“信じてもいいかも”って思えた、唯一の男子だから。

 この出会いがきっかけで、私が変われたらいいなって。

 心から、そう思う。


 そして───久しぶりに、私はぐっすり眠った。

 どこか優希くんの声が、夢の中に響いていた気がする。


 もし、またふたりきりになるようなことがあったなら──

 そのときは、私のほうからも話しかけてみよう。

 大きな進展なんていらない。

 でも、ちょっとずつでも前に進めたら、それでいい。

 次に部活で会うときは、もっと自然に笑えるように。

 ……って、進展なんて考えるのは、まだ早い、かな。

 まだ私は──彼のことを「好き」ってはっきり言えるわけじゃないから。

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